「うろんな街(2)」
…思い出の中の祖父は
いつも忙しそうな人だった。
グレーのスーツに丸メガネ。
愛用のフェルト帽をかぶって、
いつもどこかに出かけていた。
僕は小学校に上がる前に両親を事故で亡くしており、
必然的に祖父の元へと預けられていた。
祖母はすでに亡くなっていて、
いつもアパートで一人遊んでいたことを覚えている。
…だが不思議と、寂しいとは思わなかった。
冷蔵庫には毎日、祖父の作り置きの手料理があったし、
夜遅くに帰ってくると決まって珍しい玩具や本を買ってきてくれていて、
時間があるときには読み書きや算数も教えてくれるような
優しい人だったことを覚えている。
…ただ何となく、変わった人だということは感じていた。
仕事で何をしているのか聞いても、
大抵笑って首を振るばかりで
答えてくれることは一度としてなかった。
書類を書くときも職業欄はいつも空白だったが、
なぜか書類の差し戻しがあったことは一度としてなかった。
僕はそれを、普通のこととして受けとめていた。
「…『資産家』ってやつなんじゃねえの、爺さんの職業。
だって、運転手つきの黒塗りの車に乗ってどこかに行くのを見たぜ。
あんなのよっぽどの金持ちじゃねえとできねえよ。」
小学校の高学年、
友人にそう言われたことがあった。
僕はそれを素直に祖父に話してみたが、
祖父は笑って首を振った。
「…いやいや、私は資産家じゃあないねえ。
お金持ちってほどにお金はないし、それに考えても見なよ。
この部屋がそんなに大きいように見えるかい?」
僕は1LDKのアパートの部屋を見渡し、
祖父を真似して首を振った。
「…だろ?それに私は毎日行かなきゃいけない場所があってね。
そこに行くのがお仕事なんだよ。」
「それは、どこなの?」
僕は素直に祖父に聞いた。
すると祖父は窓の向こう、
電車が走っていく方を向いて
遠くを見る目でこう言った。
「街だよ。大きな街さ…ただ、そこには危ないことも多い。
妙なことや常識じゃあ考えられないことも毎日起こる。
結局…その街の境目は薄皮一枚程度しかないんだよ。」
「境目?」
すると、祖父は僕の頭にフェルト帽子をかぶせた。
「そうだ、境目だ…その先に行くことは
生きていく上でなるべく避けなければならない、でないと…」
…でないと、二度と戻れなくなってしまうのだから。
その言葉を思い出すと、
僕は涙を拭いて棺から離れた。
目が閉じられた祖父は綺麗な死に顔で
とても一年のあいだ彷徨っていた
死体のようには見えなかった。
…では、今の僕はどうなのだろう。
すでにその境目を超えつつあるのだろうか…
だが、その答えを知るものは、
今のところ、この部屋にはいないような気がした。
そうして立ち尽くしている間にも
僕の記憶は失われた時間を巻き戻すように甦ってくる。
…僕は小学校を卒業すると
中学から高校へと順調に進学した。
ただ、大学の志望校となると
自分の希望に沿うところはなかなかなく、
必然的に隣街にある大学へと進むことになった。
…合格が決まった時の
祖父の表情が今も忘れられない。
「…そうか、でも街には住まないでくれよ。」
当時の僕は、それを聞いて笑った。
何しろ、今まで住んでいたアパートと
大学のある街とは一駅程度の距離しかない。
車を使えばそれほど時間はかからないし、
電車だって日に何本も通っている。
…そうして僕が大学三年になった時だ。
祖父は突然、僕をアパートに残して引っ越すと言いだした。
それは隣街にある大学近くのマンションだと祖父は言った。
「…なあに、仕事の内容が少し変わってね。
単身赴任みたいなものだ。すぐに帰ってくる。
そんなことより一人暮らしの練習だと思って
自分の生活を頑張るんだよ。」
そう言うと、祖父は僕の車に荷物を載せ、
「しばらく車も借りるよ」と言ってアパートを後にした。
…それが、生きている祖父を見た最後となった。
それからしばらくして、
僕の元に小包が届いた。
裏には祖父の名前。
中には一冊の本が入っていた。
それは、当時の僕が欲しがっていた本で、新品ではなかったけれど、
僕は祖父の気持ちが嬉しくて夢中になって読み進めたことを覚えている。
それ以来、本は毎月送られてきた。
僕はそれを祖父の手紙だと思って大切に本棚に並べていた。
大学で時間ができた時、
僕は祖父のいるマンションに
何度か遊びに行ったこともあった。
でも部屋はいつも留守であり、車もなかったことから、
僕は祖父が仕事に行っているのだろうと考えていた。
…そして、一年前の今頃。
僕の元に突然一本の電話がかかってきた。
相手はマンションの管理人であり。
内容は祖父の危篤を知らせるものだった。
僕は取るものもとりあえず、
急いで祖父のいる隣街へと向かった。
そうして、病院行きのバスに乗り込んだところで
僕の意識はぷつりと途切れた…
…
『あんたの祖父さんは、私の仕事を手伝ってくれたのさ。
この街で何十年ものあいだ十分すぎる仕事をね。』
僕は声のする方を見た。
広い円筒形の部屋。
祖父の棺桶が中央に置かれた部屋。
…その部屋の端に
いつの間にか一台のベッドが置かれていた。
周囲には女性が数人立っており、
黒いドレスにベール姿で顔が見えないようになっている。
『…亡くなった後も一年の間はあんたのことを見守りたいと言った。
私はそれに手を貸した…まあ、あんたの祖父さんの死体が彷徨ったり、
あんたの友人が死んじまったりしたのは、私の力不足のせいもあるがね…』
ベッドの中には
大量の計器と管に繋がれた老婆がいた。
顔には酸素マスクがはめられ、
目を閉じたその様子は
とても話せる状態ではないことを物語っていた。
だが僕はその老婆を知っていた。
以前、病室の扉の隙間から覗き見たことがあった。
病院でゼミ仲間の友人を見舞いに行った時、
老婆は個室のベッドに横たわり、
今と同じように計器と管に繋がれていた。
その老婆から声がした。
『…ほう、さすがはあいつの孫だよ。
いい記憶力をしている。』
老婆は一切話していない。
口も動いていなければ、機械を通しているわけでもない。
ただ、声が聞こえる。
周りに響くように声が聞こえる。
『…代を替えるには問題なさそうだ。』
その時、祖父の棺が突如として燃えた。
いや、燃え上がった。
火柱は天井まで上がり、熱気に押され
僕は部屋の隅にまで追いやられる。
『…燃やしちまうのは惜しいがね、
どうせ火は必要だ…再生と変化を行うためにはね。』
…気がつけば、部屋の大きさが変わっていた。
広い部屋は今や何十倍もの縦長の広間へと変わり、
轟々と燃え盛る炎は底も見えないような
螺旋階段の中心部から立ち上っていた。
その階段を降りていく人間がいた。
それは、先ほど見たベールを被った女性たちで
頭の上に乗せた籠から何かを炎の中に投げ込んでいる。
『…変化は大切なことだ。あんたも街の地盤沈下を見ただろう?
陥没する穴、隆起する大地。あれは変化への兆し、
私が死へと近づき大地の力が弱った証拠…
無論、五十年前にはそれを知ろうとして失敗した男もいたがね…』
籠の中身を見た瞬間、僕は立ちすくんだ。
『生体化学応用研究所』の着ぐるみたちが
後生大事に抱えていたカバンの中身。
真っ黒なグネグネと動く赤ん坊。
それらは何かを叫び、大声で泣いていたが、
女性たちは躊躇なく炎の中へとくべていく。
『…あれは私の端末さ。動けぬ私の手足として働く存在。
女の精神を糧とし生きる存在。女たちに不死を私に情報を。
そして最後には私の元へと還っていく存在だ…』
老婆の声が耳に響く。
それはどこから来るものか。
僕は炎の先を見た。
…螺旋階段の一番上。
その対岸に老婆がいた。
老婆は大量の管に繋がれ、
周囲の女性たちの手を借りながら
ベッドごとその身体を起こしていた。
『…世の中には周期というものがある、
私が死ぬのも周期、あんたの祖父が死んだのもまた周期。
大地が動き没することも、予知するものが出ることもまた周期ということ。』
老婆は口を動かしていない。
しかし、その目は薄っすらとやがて大きく見開かれる。
『すべては次へと向かうためなのだから…』
そこにあるのは赤い瞳。
下から湧き上がる炎と同じ色をした瞳。
その色を垣間見た瞬間、
老婆はベッドごと螺旋階段から
吹き上がる炎の中へと身を投げた。
燃え盛る炎は天井へと吹き上がり、
瞬く間に老婆の体をベッドごと焼き尽くす。
黒服の女性たちは動かず、
ただ、この光景を見守っている。
上がる火の粉、大量の熱波。
炎は一層燃え盛るように見えたが、
次の瞬間、急速に収束し…
『…私はね海の向こうから来たんだよ。千年以上も前に船に乗ってね。
そして、この街を見つけ発展させ、長い時間をかけてここまで育てた。
糸をより合わせ、大きな布を作り上げるように街を作った。
それも一枚布ではない。今や街はあらゆる方向へと広がった。
大地のように何重にも層となった重ねられた布として…』
老婆の声だけが、耳に響く。
炎は消えたが、
まだ火が残っているのか
周囲はぼんやりと明るい。
螺旋階段に立つ女性たちは全く動かず、
まるでネジの切れた人形を思わせた。
僕はこれからどうすればいいのかわからず、
迷った挙句、螺旋階段を降りていくことにした。
…なぜかはわからない。
ともかく、あの老婆の落ちた先を
見に行かねばならない気がしたのだ。
僕は、螺旋階段を降りていく。
なぜか、あれほどいた
黒服の女性たちとすれ違うことはなかった。
彼女らはどこかへと消えていた。
一人残らず消えていた。
しかし、僕はそのことを気にしている余裕はなかった。
ともかく下へ、螺旋階段の下へ。
落ちていった老婆の後を追うように階段を駆け下りる。
底にはチリチリとくすぶる
青い炎がいくつか見えた。
足元は暗いが、なんとか降りることができた。
…そうして、最後の段を降りた時に僕は気づいた。
一人の青年が螺旋階段の下にいることに。
その腕の中に焼け焦げてはいるが
ひとりの女の赤ん坊がいることに。
彼は…どこか、ゼミ仲間であった
天城さんを思わせる顔立ちをしていた。
『…こいつも一応候補だよ。
もっとも、こいつにはまた別の未来がある。
今の所、まだ泳がせていた方が面白そうだからね…』
老婆の声が、また聞こえる。
その時、彼は…おずおずと、
僕のほうへと赤ん坊を差し出した。
僕は半ば躊躇しながらも
素直に赤ん坊を受け取る。
すると、赤ん坊はむずかりもせずに
僕のほうへと薄っすらと目を開けると、
口も動かさずにこう言った。
『…あんたは、この一年を生き延びた。私の用意した一年をだ。
力が弱り混沌とした街の中で…あんたは一年、生き延びた。』
いつの間にか青年は消えていた。
この場所には、今、僕一人だけがいる。
『…だが、それはほんの一部、
街のほんの一枚下を覗き見ただけだ。』
煤で汚れた赤ん坊はその下に白磁の肌を見せ、
炎のような瞳は今も赤々と燃えている。
『この街を知ることは、街の動かし方を知ること。
布を動かし、めくるように本質を見抜いていく時間が必要だ。
私が成長するまで、それをあんたに教えていこう。』
…その時、僕はなぜか、
ある女性の姿を思い浮かべていた。
それは、赤い瞳に白磁の肌を持つ
炎のように赤い蓮に乗った女性の姿。
以前、街の寺で配られた魔除け札にその姿があった。
麒麟の像に座り水晶と蓮を持った姿もそうだった。
その面影が、赤ん坊にはあり…
『…私のもとで生きてみるかい?
この街で、あんたの祖父さんのように。』
赤い瞳を向け、僕に問う。
「…その街の境目は薄皮一枚程度しかない。」
「その先に行くことは、生きていく上でなるべく避けなければならない。」
「…でないと、二度と戻れなくなってしまうのだから。」
祖父の言葉が想い出される。
でも、その祖父はもういない。
ここにいるのは僕一人だ。
僕は考える。
この一年…身の回りで起こった出来事を。
ただ見ていることしかできなかった一年を。
死んでいく人を見送ることしかできなかった一年を。
…その時、僕はこのしばらくの間の
自分の中にあった空虚さがなんであるかを知った。
それを知った上で、
僕は老婆である赤ん坊に言った。
「生きてみます、祖父のように。」
その言葉に赤い瞳をした赤ん坊は笑った。
螺旋階段の底で
産声とも皮肉ともつかぬ声で笑った。
…そして僕は、正体の見えぬ
このうろんな街で生きていくことを決めた。
うろんな街 化野生姜 @kano-syouga
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