最終章「うろんな街(1)」

…卒業式が終わった。


僕はどこか空虚な気持ちで会場を後にし、

大学近くの通い慣れた道を歩く。


『その街の境目は薄皮一枚程度しかないんだよ。』


…それは、誰の言葉だっただろうか。


スマホには大学のゼミ仲間で

最後の打ち上げをする旨のメールが来ていたが、

僕はそれには応えず自宅のマンションへと向かう。


…卒業後の進路は決まっていない。


周りの人間は就職だとか大学院に行くとか言っていたが、

僕はなぜかそういうことをする気が起きず、

だらだらと卒業まで日を過ごしていた。


本来なら何かするべきなのだろうに。

どこかに進路を定めるべきなのだろうに。


なぜか、気持ちが動かない。

なぜか、する気になれない。


…そういえば、バイト先の雑貨屋は

今も経営しているのだろうか?


僕は、まだ肌寒い風が吹きすさぶ橋の先。

駅の近くにあった雑貨屋のことを思い浮かべる。


バイト先の山口さんから、

連絡が途絶えて2週間以上が経つ。


あれからバイトのシフトが来なくなった。

…多分、もう僕を必要としないのだろう。


最後の配達の日、店を半日で閉めた山口さんの横顔を見て、

僕はなんとなくそれを悟っていた。


ふらふらと、式でもらった卒業証書を抱えて

エレベーターへと乗り込む。


なぜ、ここまで空虚なのか。

なぜ、こんなに冷たい風が心の中を吹き抜けていくのか…


そうして、エレベーターのドアが開いたとき、

僕は目の前に人が立っていることに気がついた。


土気色になった裸足。痩せた体。

ところどころが擦り切れた合わせ目が逆になった白い着物。


顔の大部分が薄汚れた布に覆われた

枯れ木のような老人がそこには立っていた。


…でも、僕は知っている。


この老人は去年の春先に亡くなっていることを。

それでもこのマンション内を徘徊し続けているということを。

一年近くも、この場所をさまよい続けていることを。


老人は何を言うわけでもなく

ただ、開かれたエレベーターの出口を

塞ぐようにして佇んでいる。


…僕は疲れていた。

何がとは言うまでもなく、疲れきっていた。


そして、僕は老人の布へと手を伸ばし…



気がつけば、僕は車の助手席で揺られていた。


大型の車。

名前もわからない高級車。


その隣には遊園地で見るようなウサギの着ぐるみが座っていて、

ガムテープで全てのガラスが塞がれている車内で器用にハンドルを操っている。


『マズハ一言。卒業、オメデトウダネ!』


そこから出るのは甲高い声。


大人の出すものよりも

ハイトーンで子供の声に近い。


僕はその着ぐるみの首の隙間…

その下にある人間の顎が一切動いていないのを確認し、

運転席の後ろ側を見る。


後部座席の足元。


そこに大きなバスケットがあった。

ひと抱えはありそうなバスケット。


その中にいる真っ黒な赤ん坊が動いた時、

着ぐるみから声がした。


『コラコラ見チャダメダヨ、企業秘密ナンダカラ。

 大人シク座ッテイナイト適当ナ車ニブツケチャウヨ。

 …最モ、ソッチガ大怪我スルダケ何ダケドネ。』


車には医療関係の大手企業

『生体化学応用研究所』のロゴが付いている。


それを見て、僕はため息をつく。


…そうだ、どうせ大事故が発生しようが

着ぐるみの中身は無傷なのだ。


僕は以前、この着ぐるみにコンビニ裏に追い詰められた時、

自身の首を掻っ切っても平然と再生する姿を見たことがあった。


『本当ダッタラ卒業祝イデ、ケーキ屋ニ寄ッテ御茶シテアゲモイイケド、

 先ニシテモラウ事ガアルシ、仕方ナイネ。』

 

そう言いながら、着ぐるみはハンドルを左に切る。

と言ってもガラスの全面が塞がれているので

どこに行くのか見当もつかない。


『…後ロニ乗ッテイル、棺ノ中ノ人ダッテ

 キットソウ思ッテイルンダカラ。』


…そう、僕は先ほど後部座席を見た時に気付いていた。


そこに一台の棺があること。

中身は見えないが、人がひとり入っていること。


それと同時に、僕は思い出す。


そういえば、あのエレベーター前で

立っていた死体はどこへ行ったのだろう。


そのあたりの記憶は曖昧になっており、

覚えているのは死体の顔の布を

引っ張ったところまでだった。


…昨年まであのマンションにいた友人は

布を剥ぎ取り下の顔を見た途端に自殺してしまった。

「疲れた」という書き置きだけを残して…


僕はそれを思い出し憂鬱になりかけたが、

同時に車が建物の中に入ったらしく、

わずかな揺れの後に車が停まり助手席のドアが開いた。


…そこはどこかの地下駐車場のようだった。


目の前には大型のエレベーターがあり、

クマとパンダの着ぐるみがドアの前で待ち構えていて、

車から降りた僕は左右から挟まれる結果となった。


『ジャア、マタネ!』


明るい声を上げながら車ごと去っていくウサギを見送り、

クマは肩にかけた大きなカバンからカードキーを取り出すと

エレベーター横の機械にスライドさせる。


『下ニ参リマス。』


その言葉を言ったのは目の前の機械か、

それともクマの着ぐるみか。


僕らを乗せたエレベーターは急速に下降する。


…裏口から入ったのでピンとこなかったが、

そこが街の中でも一番大きなビルであると気づいたのは

壁に書かれた階数表示が44階だったことにある。


そこは、最近できた図書館や美術館が入った

複合ビルであり僕も何度か利用したことはあったが、

駐車場以外の地階の存在はそもそもないと思っていた。


見れば、目の前の階数表示にも駐車場より下の地階の表記はなく、

その原因はおそらく先ほどのクマの着ぐるみが使った

カードキーにあるように思われた。


『…着キマシタ。暫クココデ、オ待チ下サイ。』


クマの着ぐるみはそう言うと、

ホテルの待合スペースのようなところで僕を降ろし、

パンダの着ぐるみとともにエレベーターで上がっていった。


僕は試しにエレベーターのボタンを押すも、

もはや反応は一切せず、周囲にドアを探してみるも

奥にある両開きの扉以外はないように思えた。


ポケットのスマホを取り出し

警察に連絡しようとするも表示は圏外になっており

外部との連絡ができないようになっている。


僕は途方にくれて一番手近にあった

四角い背もたれの付いた椅子に座った。


シャンデリアは煌煌と光を放っており、

端にはお酒の飲めるバーカウンターまである。


僕は丸いテーブルの上のガラスの灰皿を見つめながら

どうしてこれから無職になるであろう展望も未来もない人間が

こんな場所に拉致られなければいけないのか全くわからず、

ため息をついてうなだれた。


…思えば、あのマンションに入ってから

おかしなことばかりあった気がする。


そもそも、あのマンションだって

大学に一番近いから狙って入ったものだったが

家賃だってバカにならないもので…


と、そこまで考えたところで僕は気づく。


…あれ、何かがおかしくないか?


そう、僕は確かにバイトはしていた。

してはいたが、それは生活費を少し底上げする程度の

ものであり中心的な収入ではなかった。


入っていたのは、年に何回かの振込。


家賃や光熱費などは口座からの引き落としであり、

それとは別に生活費がそこには入れられていた。


それは、もちろん自分で稼いだものではない。

当然別の人間が入れているはずのもので…


その時ふと、僕の頭の中に別の光景が浮かんだ。


…今日の大学の卒業式。

そこにはゼミの生徒や教授も含め多くの人たちが来ていた。


卒業証書を受け取る生徒。拍手をする人たち。

その中には当然彼らの両親もいて…


その瞬間、僕の意識がぐらつく。


そうだ、おかしい。

おかしいはずだ。


僕は必死に自分を落ち着かせるため、

バーカウンターに行くと手近なグラスを取り、

ウイスキーをそこに注ぐ。


手は震え、中身がうまく注げない。


それでも必死に一口飲むと、

熱い液体が喉を焼くのが感じられた。


落ち着け、落ち着け。

だって、だって自分は…


…その時だった。

奥の両開きの扉が開く音がした。


『コチラデス、奥ノ方ヘ』


そんな声が聞こえたかもしれない。

だが、そう言われる前に僕はすでに歩き出していた。


黒いカーペットの敷かれた廊下はどこまでも続くようで、

両側にはまったガラスの向こうには外の景色の代わりに

海の中に沈むクジラのオブジェが並んでいた。


その中を僕は進んで行く。

廊下の奥の灰色の扉へと進んで行く。


そして、開けられた扉の先に僕は見た。


広い円筒形の部屋の中央。

中心部に台に乗せられた棺桶。


…その中に、遺体があった。


生前と同じグレーのスーツが着せられた遺体。

両手が組まれ顔に布が被せられた遺体。


かけられた布は、エレベーターで見たような

年月を経たボロ切れではなかった。


着ている服も擦り切れた

合わせ目が逆の白装束ではなかった。


しかし、分かった。

僕は分かってしまっていた。


1歩、2歩と近づき、

遺体の顔にかかっていた布を剥ぎ取る。


そして、僕は棺の前で崩れ落ちた。

涙が頬を伝い、僕は慟哭した。


それは、僕の見知った顔。

忘れてはならない顔。


そう、その人は…


「…ごめん、爺ちゃん。

 気づいてあげられなくて、ごめん。」


棺に入れられた愛用の丸メガネ。

上品なフェルト帽。


…それは僕の祖父の遺体で間違いなかった。

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