その四

 屯所から桂川までは、小半刻ほどの距離だろうと考えていたが、それでも少し早めに又四郎は屯所を出た。まだ七ツ半にはなっていないはずだから、約束の刻限である明け六ツまでには充分たどりつけるだろう。

 夜明け前の、星明りもない真っ暗な道を、又四郎は重い足どりで歩いていった。


 昨日、巡邏じゅんらから帰った又四郎を屯所で待っていたのは、であった。

 他の隊士たちの好奇の視線を感じつつ、又四郎が客間へいくと、は、そっと頭をさげた。

 は、顔の半面を隠すように深々と頭巾をかぶっていた。又四郎は不振な目でそれをみたが、は頭巾を取ろうとしなかった。

 屯所にたずねてくるのは無作法とは思いましたが、とは話をきりだした。

 前日「こうめ」を閉めて、かたづけをしているのもとに、安井数馬があらわれた。見張りの目をくぐり抜けてきたうえに、又四郎との関係もすでに知っていたらしい。

 数馬はを奥の部屋まで引きずるように連れていくと、そこで、彼女を問い詰めた。問い詰めてが答えをためらったり、はぐらかそうとすると、容赦なく打擲ちょうちゃくにおよんだ。

 そして、からすべてを訊きだすと、最後に吐き捨てるように云った。

 ――明後日、明け六ツ、桂川で待つ、と又四郎に伝えろ。

 四条を西に、ずっとつっきったところだ、と云いおいて、数馬は出ていったという。

 話を聴きおわると、又四郎は、すばやく手を動かし、の頭巾を払いとった。化粧で隠してはいたが、目のまわりが紫に変色し、頬は赤く腫れあがっていた。


 黒い闇が包みこむ通りを、西にむかって歩きながら、又四郎はひとり考えた。

 なぜ数馬は呼び出してきたのか。まさか、幼友達あいてに、決闘などという仕儀にはおよぶまい。だが、鴨川ではなく、人目につきにくい桂川を指定したあたり、斬りあうつもりがないとは云いきれない。

 しかし、斬りあいにならなかったとしても、殴られるくらいのことは覚悟しなくてはいけないな、との顔を思い浮かべながら、思った。そう思うと、腹のあたりにどんよりと重たいものが湧き出てきた。そして、それとは別にもうひとつ、憂鬱な気持ちにさせることがあった。

 ――数馬を説得しなくてはならない。説得して、隊に連れていき、罰を受けさせねばならない。

 と又四郎は考えていた。それはきわめて困難なことだろう、互いにつらい思いもせねばならないだろう。しかし、隊規に反した以上、数馬も覚悟はしているはずだ。だが素直に数馬は俺の云うことに従うだろうか。それでもやらねばならない。これ以上、友達に罪を重ねさせてはならない。

 ふと、淡い光が背中からさしているのを感じ、振り向いてみると、遠い東山の稜線が、もうずいぶんくっきりと浮かびあがってみえた。顔をもどしてみると、桂川の堤が視界に入った。あたりはだんだんと、しらじらとした日の光につつまれはじめており、それに気づくと、ふいに、肌をさすような空気の冷たさが何層倍にもなって感じられた。

 明け六ツの鐘の音が風に乗ってどこからか聞こえてきた。

 ――これはいかん。

 又四郎は足をはやめた。考えごとをしていたせいか、気が重いせいか、足の運びが遅くなっていたらしい。刻限前には指定の場所に到着しているつもりだったが、いささか遅れてしまった。


 桂川の堤へ上がり、一、二丁北へ歩くと、河原に立っている男をみつけた。それが数馬だということは、遠目にもすぐにわかった。土手をおりる又四郎の、後背から昇ってくる朝日が川面に反射してきらめいて、数馬の姿を黒く際立たせていた。

 数馬は刀をたて、柄頭に両手をもたせかけて、川をながめながら物思いにふけっているふうだった。

 又四郎が近づくと、気配をさっした数馬がそのままの姿勢で云った。

「遅いな」

「すまん、思ったより遠かった」

 数馬は、ふんと鼻を鳴らすと、刀を左手にもちかえつつ振り向き、人を侮蔑するような笑みを浮かべた。

 数馬がなにかを云いだしかけた機先を制して、又四郎は話をきりだした。

のことなら、謝るつもりはないぞ、理由も告げず姿を消したお前が悪いんだからな」

 又四郎が云い終える前に、数馬がたまりかねたように吹き出し、

「貴様、おめでたい男だな」

「まあ、お前がさきにに手を出したんだから、俺に非がないとは云えん。二、三発くらいは殴られても文句は云わんぞ」

 数馬はさらに、声をだして笑って云った。

「貴様、それで済むと思っているのか」

 人が真面目に話しているのに笑うとは、不謹慎な男だと、又四郎は憮然とした面持ちになった。

「それが済んだら、いっしょに屯所へ行こう。そして、裁きを待つんだ」

「本気で云っているのか」

「そうだ。それが嫌なら、ここで腹を切るんだ。介錯はしてやる」

「ふざけているのか」

「ふざけてなどいない。お前の名誉のためを思って云っているんだ」

「なぜ俺が腹を切らねばならん」

「お前は、隊士を何人も斬った、脱走もした、腹を切って当然だ」

 云って又四郎は、肝心なことを訊き忘れていたことに気がついた。

「数馬、お前、なんで罪もない隊士を斬った」

 数馬は、嘲弄ちょうろうの笑みを口の端に残したまま、ふと視線をはずして、ちょっと何か考えるような顔をした。そして、目を又四郎にもどすと、

「あいつらに、罪がないだと。何を見て生きているんだ、貴様は」

「………」

「前に話したろう。半助をはめたのは、奴らだ。抜き身をつきつけて迫っただけで、ふたりとも、あっさり吐いたよ。勘定方の連中は何人かでつるんで使い込みをしていた。観察の何人かもぐるになっていた。そこに半助を誘い込んだ。そうしたら発覚しかけたんで、半助ひとりに罪をおっかぶせて、腹を切らせた、ってな」

「それならなぜ、上に報告しなかった。それが正当な手続きのはずだ」

「その上役たちのなかにも、結託していた奴がいたとしたら、どうだ。もみ消されて、それでしまいだ」嫌悪を顔に浮かびあがらせて、数馬はつづける。「他人をはめて腹を切らせ、自分たちはのうのうとすごしていやがる。そんな醜穢しゅうわいな連中をゆるせるか。ちょうど、長州の連中とも話がついていたしな、手土産に新選組の隊士を何人か斬れば、仲間に加えてくれるとも云うんでな、ちょうど良かったから斬った」

 なんだと、と又四郎は声を出そうとしたが、言葉にならなかった。今なんと言った。数馬は長州とつながっていたのか――。

「どうした又四郎。驚いて声もでないってつらだな。探索で長州の情報を隊にしらせていたが、そんなものは、たいして有益な情報じゃないのさ。本当のところは、新選組の内情を長州にわたしていたのさ」

「いつからだ、いつから俺をだましていた」

「最初っからだよ。俺ははなっから、新選組なんぞには興味がなかったんでな。こっちにきてすぐに長州にわたりをつけた」

 又四郎は、まったく頭が混乱してきた。この男は、俺も隊も、ずっとあざむいていたというのか。

 数馬の人をあざけるような笑みに、悪辣あくらつさが加わってきたように又四郎にはみえた。数馬はそのゆがんだ笑みを崩さずに、続けて云った。

「あともう何人か、半助をはめた奴らを斬るつもりだったが、まあいい、その前に貴様だ。剣を抜け、又四郎」

「待て、俺はお前とたたかう気はない」

「貴様の気持ちなどしったことか」

「やはりお前は腹を切るべきだ。それが順当な……」

「ふざけるなっ」

「ふざけてなどいないと、さっきから云っている」

「きたない男だ、貴様は。人の留守中に女を寝とっておきながら、云うにことかいて、昔なじみに向かって腹を切れだと。笑わせるな。半助が切腹するときもそうだ。貴様はただながめていただけで、弁護しようともしなかった。それでいて自分はつねに規律に従順で正しい人間だと思っている。いつも自分を正当化して、何もできない臆病な自分を覆い隠してはいるが、真実はただ傷つきたくないだけの卑劣な男だ。貴様は汚い、人として汚い」

 又四郎は、ごくりとつばを飲みこんだ。もう、引き返せない切迫した空気が重くのしかかってくるのを感じた。もう覚悟を決めるしかないのか、と又四郎は唇を噛んだ。

「抜け、又四郎。貴様が抜かなくたって、俺は貴様を斬るぜ」

 云い終えて数馬が羽織を脱ぐと、すでに、袖がたすきで縛ってあった。

 ――もはや、いたしかたもなし。

 又四郎は、震える手を抑えつつ、刀の下げ緒を解くと襷がけにし、袴の股立ももだちをとって、草履を後ろに脱ぎとばした。

 数馬も同様に仕度をすませると刀を抜き、又四郎も抜いた。

 構えは互いに正眼につけた。

 又四郎は息を整えつつ、数馬の動くのを待った。だが、数馬は、さっきまでの激昂ぶりとは違い、まったく落ち着き払っていて、こちらの出方をうかがっているようにみえた。

 ずいぶん修羅場をくぐりぬけてきたという自負が、又四郎にはあったが、数馬も同じなのだろう、白刃を前にしても、動揺などは微塵も感じられないし、余裕さえ見てとれる数馬のかまえだった。

 又四郎はつま先だけでにじり寄った。切っ先が触れ合ったかと思われた瞬間、数馬が軽く撃ちつけてきた。又四郎も撃ちつけ、刃先だけでの撃ちあいを数回繰り返した。すると、じれてきたのか、数馬が不意に強く撃ち込んできた。牽制の攻撃だったからだろう、体重が乗っていず、又四郎は軽くはじき返せた。だが数馬は休む間もなく、再び撃ちこんできた。そうして撃たれてははじく、撃たれてははじく、と同じ攻防を数回繰り返した。

 そういえば、と又四郎は思った。ふたりはずっと同じ剣術道場で学んでいながら、真剣で勝負するのは、今日が初めてだった。竹刀や木刀で立ち合うのとは違い、互いが互いの力量をはかりかねている状態だった。

 数馬のふるう剣圧は、しだいに重さを増してきて、ともすると又四郎の刀が跳ね飛ばされそうな勢いだった。

 数馬が一瞬動きをとめ、八双に構えたと思うとすぐに撃ちおろしてきた。充分に腰の入った峻烈な剣だった。

 かんに障るような、空気を斬り裂く音とともに襲いかかるその刃を、又四郎はたいを開いてかわした。数馬は、さらに続けざまに、数回撃ち込んできた。又四郎を休ませず、無理にでも隙を作ろうという意図が見える動きで、そのつど受け、払っていたが、だんだん押されてきているのを又四郎は感じはじめた。

 又四郎の心の焦りを見抜いたのか、数馬の刃はさらに激烈になってきて、又四郎をさらに焦らせた。

 これはいかん、と思った又四郎は、次に放たれた数馬の刃を鍔元で受けとめた。自然、鍔競り合いのかたちになった。数馬はそのまま押してきて、又四郎も押しかえそうとしたが、もとより膂力りょりょくは数馬のほうが断然うわまわっていた。たちまち数馬の剣が又四郎の喉もとまで迫ってきた。

 耐えきれなくなってきた又四郎は、体をずらしつつ刀をすべらせ、数馬を受け流すように、後ろへ送り、すぐに振り返った。だが、一連の動きを予期していたように、数馬はすでに体勢を立て直してい、剣を横なぎに払ってきた。又四郎は、それを躱しきれず、左腕を斬られた。背筋に悪寒がはしるような痛みを感じたが、傷は浅く、皮膚を斬られただけのようだった。血もあまり出てはいない。

 又四郎の息があえぎに変わってきた。数馬も肩で息をしてはいたが、しかし、まだ余裕があるようにみえる。

 数馬の刀が大上段に構えられた。又四郎にはその動作が、ひどく緩慢な動きに感じられたが、実際にはどうだったか――。

 これは負ける、と又四郎は思った。いままで一度も勝ったことがない、数馬の、あの大上段からの攻撃を想起し、又四郎は怯えた。

 その時、

 ――踏み込め。

 ふと、誰かが耳もとで云った気がした。

 ――お前は踏み込みがたりん。踏み込め。

 数馬の口がふとゆがんだように見えた、転瞬、壮絶な剣が凄まじい刃うなりとともに、又四郎の頭部にめがけて襲いかかってきた。同時に又四郎は、踏み込みざまに、刀を突きだした。これに虚を突かれた数馬は、一瞬驚愕の表情が浮かんだものの刀はとめなかった。が、間合いが狂い勢いがそがれた刀は、空を斬った。又四郎の剣は、わずかに数馬の左肩をかすった。

 ふたりの身体が交差し、もつれあうように入れかわる。

 数馬はすぐに体勢を立て直す。

 又四郎はよろめきながらも間合いを取りつつ、数馬に向きなおろうとする。

 数馬は、激昂した気魄を全身にみなぎらせ、刀を振り上げる。まだ体勢を整えきれていない又四郎に向け、その刀を撃ちおろした。

 刹那、数馬は大きめの石を踏んでしまい、足がすべって、体勢を崩した。それは、ちょっと体が揺れた、という程度ではあったが、又四郎はそれを見逃さなかった。

 天与の一瞬だと思った。

 刀を横なぎに振るった。

 数馬の踏み込みに同調するようにして、又四郎の刀はしぜんに動き、数馬の胴にずぶずぶと吸い込まれていった。

 数馬は自身の敗北に対する疑念と驚愕を表情を浮かべ、数歩よろけるように後ずさると、仰向けに倒れた。

 又四郎は、喘いだ息のまま、倒れた数馬を見おろしていた。数馬はまだ息があり、ぜえぜえと荒い息をはきながら、うつろになった目で又四郎をみつめていた。

 数馬の口が震えるように動いたが、声がでておらず、ただ、ぱくぱくと動いているだけだった。

 又四郎は片膝をつくと、数馬の口に耳を近づけた。

「やっぱり、貴様は汚い……」

 云って血を吐くと、数馬は絶命した。

 又四郎は、数馬の身体に覆いかぶさるように手をつくと、そのままの姿勢で泣いた。とめどもなく流れ落ちる涙が、数馬の顔を濡らしていった。


 又四郎は、屯所の縁側に腰かけ、ぼんやりと庭をながめていた。久しぶりにあたたかな日の光を浴びた心地よさを、身体全体で味わっていた。

 数馬との決闘は私闘ではないか、という意見も上役たちのなかにはあったが、永倉のとりなしもあって切腹はまぬがれた。だが無断で行動したのは看過できない、という理由で十日間の謹慎を命ぜられた。

 風通しが悪くて湿っぽい、三畳くらいの板の間に押し込められ、又四郎はただ苦悶し続けた。

 ――あの時、数馬は俺のことを汚い人間だと罵った。だが数馬自身はどうだった。友達顔をしながら、ずっと俺をだまし、隊をだましていたではないか。汚いのは数馬ではないのか。

 半助だって、自分の意思を強く持っていさえすれば、誘惑に惑わされることもなく、他人に騙されることもなく、あのような結果にはいたらなかったはずだ。

 そうだ、俺は正しいことをしてきただけだ。

 俺は隊の法度に忠実だっただけだ。局中法度にそむいたのはあいつらだ。俺は正しい。絶対に。その証拠に、懲罰はかるいものしか与えられなかった。皆が俺を正しいと認めてくれたのだ――。

 謹慎部屋の薄汚れた壁をみながら、どれだけ自問自答をかさねても、いきつく結論はいつも同じだった。

 そして、謹慎がとかれ、日の光を直接浴びると同時に、又四郎の心にかかっていた靄のようなものが、ふっと晴れていく気がした。

 誰かが呼ぶ声が聞こえる。

 又四郎は立ち上がり、歩き出した。

 庭の一隅に咲く小さな花は、もう、その目にうつらなかった。


 (終)

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壬生の花 優木悠 @kasugaikomachi

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