その三
新選組の屯所の庭の片隅に、ひっそりと咲いた
もう、何年まえになるだろうか、まだいとけなさの残る少年だったころ、道場からの帰り道、又四郎と安井数馬と福山半助の三人で、川の土手に咲いていた鼓草を手折って草笛を作って、鳴らそうとしたことがあった。数馬が一番はやく鳴らすことができ、又四郎はちょっとてこずりながらもなんとか鳴らせたが、半助はいつまでたっても鳴らすことができなかった。
半助は頬をふくらませ、一生懸命に茎に息を吹き込むのだが、どれだけがんばっても、鳴らせない。数馬はそれを見て、どんくさい奴だと笑った。又四郎はそこまでがんばって鳴らさなくてもよかろうに、と思った。それでも、半助はがんばった。
――あの時、結局、半助は鳴らすことができたのだったか。
又四郎の記憶には、その部分の思い出が消失していた。
あのころは楽しかった、と又四郎は思う。世間のつらさもしらず、興味と好奇心のおもむくままに行動し、遊び、笑いあった。
隣町の茶屋の娘がかわいいと聞けばのぞきにゆき、余所の道場の誰それが強いと聞けば喧嘩をしかけにいった(結局は、喧嘩を売らずに退散してきたが……)。
あの頃のことを思い出すたびに、思慮分別に欠けていた自分にたいし羞恥がわいて赤面する思いがする。だが、思慮分別に欠けていたからこそ又四郎たちは無邪気に楽しんでいた。
「おい、なにをにやけている」
気がつくと、隊長の永倉新八が又四郎の顔をのぞきこんでいた。思い出にふけりすぎて、顔がゆるんでいたようだ。
又四郎は、さっと顔をひきしめると、
「は、何かご用でしょうか」
「うん、ちょっと来てくれ」
いつになく、深刻な顔つきで云う永倉に、又四郎もしぜん心が緊張する思いだった。
連れていかれた一室には、監察の篠原ともうひとり、又四郎が名前を知らない男がいた。
うながされて、ふたりの正面の座に又四郎がつくと、永倉は双方をながめるようにして間にすわった。見知らぬ男は、監察の寺沢です、と名乗った。
天井から重たい空気が又四郎の心身を圧迫してくるような、息苦しい雰囲気が部屋の中をみたしていた。
篠原が、ひとつ咳ばらいをすると、話をきりだした。
「最近、安井とは会ったかね」
いきなりなんの話だろう、と又四郎は答えあぐねて永倉をみると、永倉はこくりとうなずいた。つつみ隠さずに話せ、ということらしい。
「ええ、十日ほど前に」
「
「だと思います」
「なにか、云っていたかね」
「特になにも……」
と又四郎は言葉にしたが、「こうめ」でふたりで話した、半助切腹の理由に関して推測した内容は、ちょっとここでは云いづらいものがあった。
「とるにたらない世間話をしたくらいです」
なぜそんなことを、と又四郎が問いかえそうとした時、それを察したように、永倉が、
「篠原さん、あのことを話さないと、園田も戸惑っていますよ」
と云い、篠原は、なんだ話してなかったのか、といった顔をして、云った。
「じつはな、勘定方の者が斬られた。山本という男だがね」
「はあ……」
そう云われても、又四郎には、その山本という男と数馬との間にどんな因縁があるのか、まったく思いがおよばなかった。
篠原が話すには、斬られたのは、綾小路大宮から少し西の方に入った所というから、屯所からほど近い。夕暮れ時だったが、まだ暗くはなっておらず、充分に人の顔が判別できる明るさだった。斬られる瞬間を目撃した者の話からすると、どうも、
「やったのは、安井らしい」
と、篠原はたんたんと語った。
又四郎の背筋に、悪寒が走った。
あの時、「こうめ」で数馬は云った。半助は勘定方の同僚にはめられたのだと。そして、勘定方の隊士が斬られた。これは偶然なのだろうか。本当に数馬が斬ったのだろうか。「こうめ」での、数馬との会話をここで話せば、確実に数馬が下手人ということになってしまうだろう。しかし、数馬が下手人でなかったら、親友を冤罪に追い込んでしまう……。
又四郎は、考えた。考えても考えても、答えの出ない自問自答を、心のなかでくりかえした。
ふと、三人の目がこちらを、じっと見つめていることに気がついた。同時に、額から首筋、脇や背中に、大量の冷や汗をかいていることにも気がついた。
これは、もう隠せないな、と又四郎は思った。
数日たったが、数馬の行方は、まったくつかめなかった。「こうめ」にも、――数馬とさえの関係はすでに把握されていたらしい、――監察の隊士が見張りについているそうだが、姿をあらわさなかった。
そんなおり、また隊士が斬られた。
斬られたのは、監察の寺沢という隊士で、数日前に又四郎が尋問をうけた時に、篠原の隣にいた男だった。
この時も、目撃者がおり、これは、寺沢の同僚の田中という隊士で、ふたりが並んで歩いていたところを、ふいに横合いから呼びとめられ、ふたりが振り向いた瞬間に、寺沢が斬られた。袈裟懸けにばっさりやられた。田中が刀を抜くと、安井数馬は一目散に逃げていった、というのは田中の証言だが、事実は、田中はただ腰を抜かしてへたりこんでいたらしい。
――田中のやつ、士道不覚悟で切腹だな。
と誰かが冗談混じりに云っていたが、おそらく、冗談ではすまないだろうな、と又四郎は思った。
――数馬め、なにを考えている。
盃の酒を呑み干して、又四郎は思った。呑めない酒を無理矢理口に流しこんでいた。もう何杯呑んだか、記憶になくなっていた。盃を干すたび、数馬の顔が脳裏にちらついた。
「まあ、今日はずいぶん過ごされるのね」
新しい酒を膳の上に置きながら、さえがあきれたように云った。
もう「こうめ」は店を閉めてい、女将はすでに奥に引っ込んでしまっており、板前も帰宅したようだった。深夜の静寂があたりをつつんで、世界のなかでこの小さな座敷だけが存在しているような錯覚を、又四郎は感じた。その孤独なしじまの中で、さえの着物の衣擦れの音だけが、ひどく耳にさわった。
さえはむこうを向いて、空いた徳利をかたづけていて、又四郎はさえのうなじを、引き寄せられるように見ていた。
「お前ももう、寝たらいい」
又四郎は吐き捨てるように云った。
「そういうわけにもいきません」
「べつに、店のものを取ったりはしない。眠くなったら、勝手に寝る」
「新選組って、そいういうの、厳しいんじゃないですか」
「ひと晩無断外泊したくらいで、切腹させられやしないさ」
さえは聞き流すようにして、なまめかしく手を動かし、又四郎の盃に酒をついだ。いっそのこと、酔わせてしまって眠らせよう、という魂胆なのかもしれない。
「数馬は顔を出さないか」
「さきほどもお
「そうだったかな」
「ええ、もう何べんも」
又四郎は、さえの顔を、じっと見つめた。さえも見返してきて、そのまま視線をはずそうとはしなかった。
「なぜだ」
又四郎も視線を動かさずに、問うた。
「なぜ、あいつの女になった」
唐突な又四郎の問いかけに、さえは横をむき、少し考えるような、顔をした。
「数馬はもう、帰ってこないぞ。おまえは捨てられたんだ。いくら待っても無駄だ」
だから俺のものになれ、とは又四郎は云えなかった。友達を裏切るような、うしろめたさが、心のどこかにあった。
再び又四郎に顔を向けたとき、さえは感情をおさえるように、不自然に口辺に笑みを浮かべていた。
「酔っていらっしゃるのね」
「ああ、酔ってる。酔ってなきゃ、こんなことが云えるか」
「もう眠ったほうがいいわ」
「俺は」
云いかけて、又四郎は大きく息をすった。
「俺は、お前が好きだった」
さえは又四郎を見つめたままだった。又四郎の言葉に動ずるそぶりはなく、じっと見つめたまま、瞳が揺れることもなかった。
「なのに、数馬に」
又四郎は、云いようのない腹立たしさがこみあげてきて、それを抑えることができなかった。
「数馬の奴がっ」
叫び、盃を床に叩きつけた。
さえは、はねころがる盃をちらりと目で追ったが、すぐに又四郎を見つめなおした。
「あなたは、ずるい」
さえはしずかに、話した。
「安井さまより、早くにそれをおっしゃってくだされば、わたしはあなたのものでした」
「………」
「ええ、わたしもあなたのことを好いておりました」
「………」
「それを……、あなたは、こんなことになってから……、安井さまが出奔なされてから、それをおっしゃる」
さえの言葉に、だんだんと怒気が含まれてきた。
「こんな成り行きにならなければ、あなたは本心を吐き出せない。あなたは、小心でずるい人です」
云い終えて、さえはひとつ吐息をついた。
そうだ、おれはずるい。又四郎は思った。俺は卑怯だ。どうしていままで、この気持ちをうちあけることができなかったのだろう。小心者で、事態が切迫しなければ、なにも行動をおこそうとしない、気弱で卑怯な男だ。
――それでもいい。
かまうものか、という気持ちが心底にきざすのを、又四郎は感じた。さえの目を見つめていた視線を、唇に動かした。情動に押し流されてみたいという、甘美な誘惑が心を支配してきたのを感じた。
又四郎は、さえの手をとり、自分の身体に引き寄せると、抱きしめた。
さえは、又四郎の腕のなかで、もがいて云った。
「放して」
さえは又四郎を突き放そうとしたが、又四郎は力をゆるめなかった。
「放して……。人を呼びますよ」
「呼べばいい」
又四郎は、さえの顔に自分の顔を近づけて答えた。
「呼んでも、おれは放さない」
そのまま、唇をかさね合わせた。
さえは、もう、あらがわなかった。
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