2.【ろ】ろくでなしの活躍
『この泥棒猫!』
『汚い。おまえなんかあっち行け』
『見ちゃだめよ、構ってもらえると思われるから』
この世に生を受けてからずっと、ぼくはこういったことばかりを言われながら生きてきた。だけど悲しくなんかはない。そう言われるようなことを、確かにぼくはしているし、そうせざるを得ないような生き方をしている。だから仕方がないのだ。こう見えて、ぼくはぼくを、いちばんよくわかっている。
とはいえ、そういう意地悪は言われて気持ちのいいものではない。ぼくだって、できるなら言われたくないし、言われなくてもいい生き方をしたい。ろくでなしで生きていくのも案外苦労があるのだ。
だからぼくは、今日から少し変わろうと思う。こんなぼくでも誰かを幸せにできるのであればそうしたい。
さて、どうしようか。
ぼくは小さい脳みそであれこれと考え始めた。瞬間、タイミングよく腹の虫が鳴いた。そういえば、おとといの晩からなにも食べていない。誰かを幸せにするために、まずはこの空腹をどうにかしなければ。
商店街へ入り、あたりを見回す。食べ物のいい匂いが鼻をくすぐる。肉屋の前で足を止めた。店の奥で店主が揚げ物をしている。彼はぼくがじっと見ているのに気づき、嫌な顔をした。しっしっと手を払う。はいはい、どこか違うところへ行きますよ。また歩き出すと、次は魚屋の前に来た。肉もいいけど魚はもっといい。とくに刺身なんかは最高だ。ぼくがこの世でいちばん好きな食べ物である。
ああ、見ているだけでもよだれが出る。
そうだ。今日のごはんはこれにしよう。
様子をうかがうと、店主はちょうど魚をさばいているところだ。見た感じ、カツオだろう。脂が乗っていてうまそうだ。できるなら、あの下ろしたての新鮮なカツオをちょうだいしたい。
ぼくは小さい脳みそで考える。どうすれば食事にありつけるだろうか。ひとしきり考えてからそっと歩き出す。音を立てないよう忍び足で近づいていく。ああ、生臭い魚の匂いがたまらない。あっという間に店主の足もとまでやってきた。全然気づかれない。魚を下ろすのに集中しているようだ。しめしめ、とぼくはその背後に回り込み、地面を思いきり蹴り上げた。その勢いで店主の肩を押し、奴がよろめいたところですかさずカツオを口に咥え、そのまま走り去る。
「ちくしょう、またやられた。この泥棒猫!」
また言われた。でも仕方ない。確かにぼくはそう言われるようなことを今、した。でもぼくみたいな奴は、こうでもしなければ生きていけない。悩ましいことだ。
路地裏に隠れ、盗んだカツオをじっくり味わう。うん、うまい。二日ぶりの食事は格別だ。
刺身一切れでは腹こそ膨れないけど、ぼくからしてみれば大満足だ。これで誰かを幸せにする方法を考えることができる。
さあ、なにをどうすれば人を喜ばせることができるのだろう。ぼくは小さい脳みそで一生懸命考える。
ああでもないこうでもないと悩んでいると、商店街へ買い物に来ていた一組の親子が路地裏で休んでいるぼくを見つけた。かわいい服を着た女の子がぼくを指差す。
「あの子、ひとりぼっちなのかな」
「そうね」
「お母さん、いないのかな」
「そうね」
女の子は心配そうな顔をする。対して彼女のお母さんは汚いものを見るような目でぼくを見る。
「かわいそう。おうちへ連れていってあげようよ」
こりゃなんと。そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。
嬉しくなり、思わず立ち上がる。するとお母さんは嫌悪を一切隠さない顔をして、
「無理に決まっているでしょう。あんな汚いの、放っておきなさい」
と毒づいた。そして女の子の小さな手を引っ張って足早にどこかへ去っていった。
ちぇっ。期待をさせておいて、ひどいなあ。
ぼくはむっとした。だけどすぐに「でも仕方ないよな」と思い直す。ぼくだって、ぼくみたいな奴が後をついてこようとしたら嫌だ。「汚い、あっち行け」と言ってしまうかもしれない。だから仕方ない。
しばらく路地裏で考えていたけど、いいアイデアは思いつかなかった。気晴らしに散歩でもしようと歩き出す。
青い空に、白い雲。暖かな日差しに、心地よい風。こんな気持ちのいい日には、きっといいことがありそうだ。
例えば、そう、こんなぼくでも
「ママーっ、どこなのーっ」
声が聞こえた。後ろを振り返ると、そこにはさっきの女の子がいた。涙目で必死に声を上げている。どうやら迷子になってしまったらしい。しかしどんなに大声を上げたって、車やトラックの走る音で掻き消されてしまう。かわいそうに。ぼくと一緒でひとりぼっちだ。
そのとき、ぼくはひらめいた。そうだ、一緒に探してあげよう。そうすればぼくは、彼女にとっての
るんるんとした足取りで女の子に近づく。
「――あ、ママ!」
女の子が声を張り上げる。道路の向こう側に、確かに彼女のお母さんがいた。
なんだ、見つかったのか。残念だ。うん、でも、よかった。めでたしめでたし。
「ママー!」
突然女の子が走り出す。周りなど見もせずに。女の子のお母さんは目を大きく見開き、必死に腕を伸ばす。女の子を抱くためではなく、来てはだめだと伝えるために。それでも女の子は気づかずに小さな足で地面を蹴る。そのときの歩行者用の信号は赤だった。
ぼくは小さい脳みそで一生懸命考える。だけどそれじゃあ間に合わない。いや、間に合わせる。そうだ、このぼくの体で。
車が近づく。道路に飛び出す。ぼくに気づけば、あの運転手は急ブレーキをかけるだろう。そうすれば、おそらくギリギリ間に合うはずだ。そう、あの子のところまでには。
悲鳴のようなブレーキ音。次いで、鈍い衝撃音。
ぼくの体は宙に浮いた。
不思議と痛くはなかった。ほんの少し苦しいだけで。
落ちた地面は温かい。ぼくの体が冷たいだけか。視界はもう真っ暗だ。手も足も動かない。自分の体が自分のものじゃないみたいだ。ただ、耳だけはまだ使える。遠くのほうで女の子の笑い声が聞こえてくる。どうやらお母さんと会えたらしい。
ぼくは笑った。顔の筋肉はもう動かせないから、心の中で笑った。やっと願いが叶ったのだ。こんなぼくでも、誰かの役に立つことができた。ずっと憧れだった
いいことをしたあとは気持ちがいい。今夜はゆっくり眠れそうだ。本当なら、あの大好きな商店街のすみっこで眠りたかったけど、今や体は動かない。まぶたを閉じることすらできない。だからここでいい。せめていい夢が見たいなと、ぼくは思う。
おいしいカツオを食べる夢だとか、名前をつけてもらえる夢だとか、優しく人に撫でられる夢だとか、あとは、そう、誰かの飼い猫になる夢だとか。
ぼくは小さい脳みそでそんなことを考えたあと――ぷつりと意識の糸を切った。
<完>
いろは47題 彩芭つづり @irohanet67
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