いろは47題
彩芭つづり
1.【い】いくつかの嘘
「ごめん、やっぱり私、あなたとは結婚できない」
お洒落なカフェの、お洒落なテラス席で、お洒落なケーキを食べながら、洒落にならない言葉を吐く。
正面には、今の一言で思考と時間が同時に停止してしまったような状態の男の人がひとり。しわひとつないスーツを着て、ピカピカに磨かれた革靴を履き、左手の薬指には婚約指輪をはめている。私の婚約相手だ。
彼の口に運ばれるはずだった苺が、ころりとテーブルの上を転がる。
「結婚できない?」
「ええ」
「それってつまり婚約破棄ってこと?」
「ありていに言えば」
はっきりと頷く。
婚約破棄。たった四文字のくせに、被害者の人生をめちゃくちゃにしてしまう重たく罪深い言葉。冗談にしてはタチが悪く、冗談だとしてもちっとも笑えない。そもそもこれは冗談でもなんでもない。最初から本気だ。私は彼と結婚しない。
「……そう。聞きたいことはたくさんあるけど、とりあえず」
少しの間を置き、彼は言う。
「大丈夫? なにかあった?」
柔らかな声音だった。とんでもなく最低で最悪なことを言われているというのに、彼はいつもみたいに、まず私の心配をしてくれる。優しい人。彼は昔からそうだった。
「他に好きな人ができたの」
自分でもわかるくらい、氷みたいに冷たい声。
私は心の中でカウントする。ひとつめ。
「僕を想うより?」
「ええ、そうね」
これで、ふたつめ。
「その彼は、僕が君を想うよりずっと君を愛してくれる?」
「ええ、もちろん」
頷き、みっつめ。
「君は、その人で幸せになれる?」
「ええ、当然ね」
髪を揺らし、よっつめ。
「……そう。僕では敵わない相手なんだね」
彼が微笑む。悲しげに、儚げに。
だから私も同じように微笑んだ。
「あなたよりも素敵な人よ、もっとずっとね」
いつつめ。これ以上は片手では数えきれない。
彼は食べかけのケーキの皿にフォークを置いた。苺はまだテーブルの上に転がったまま。誰にも拾われない。見向きもされない。
「……わかった。負けたよ。君がそこまで言うなら、婚約は解消する」
「ありがとう」
「僕は二度と君の前に現れないほうがいいかな。連絡先も消して、思い出の写真も捨てる。この指輪は……海にでも、投げておこうかな」
「助かるわ」
彼はまた優しく笑う。「どういたしまして」と言いながら。
私はバッグを持ち、椅子から立ち上がる。食べかけのケーキが名残惜しそうにこっちを見ている。
「帰るの?」
「ええ」
「そう。僕はもう呼び止めないよ。大好きな君に嫌われたくないから」
それから、ひとつ間を置いて。
「……それじゃあ。幸せになって」
別れの言葉を聞き、彼に背を向ける。そのまま私は言った。
「さようなら。きっと世界でいちばん幸せになるわ」
これでむっつめ。もう話すことは二度とないから、これが最後。
歩き出す。速足で。できるだけ早く姿が見えなくなるように。うるさい鼓動をごまかすように。
この角を曲がればすべてが終わる。彼は今、どんな顔をしているだろう。どんな気持ちでいるだろう。気にならないと言えば嘘になる。だけど振り向くことはしない。振り返れば、きっと彼は手を振っている。いつもみたいに、優しい笑みを浮かべながら。
これでいい。これでよかった。
心の中で何度も繰り返す。
もう終わったのだ、なにもかも。
あの優しい瞳も、あたたかな指も、柔らかい髪も、私の名前を呼ぶ声も。すべてがなくなった。いや、すべてを
――それから二年後。残業を終え、疲れた体を揺れる電車に預けながらスマホを見る。とあるニュースの記事が目に飛び込んだ。
『―××財閥御曹司、ついに結婚。相手は社長令嬢。両親からの強い勧めをきっかけに愛を実らせ――』
画面を消し、細い息をゆっくり吐く。それからそっと目を瞑る。さっき目にした写真が、ぼんやり頭に浮かんでくる。
知らない女の人だった。若くて、細くて、なにより綺麗だった。でもその隣に立つ男の人は、私が知っているのとなにも変わらない。彼はずっと彼のまま。あの柔らかな笑みを浮かべる、優しい彼のまま。
私もそう。私だってあの日のままだ。あの日、彼についたむっつの嘘が、今もきつく強く縛りつけて離さないだけで。あれから二年も経つのに、今でも私は、未熟で、臆病で、意気地なし。
私には好きな人がいた。
ううん、違う。
今も好き。ずっと好き。きっと彼だけを一生想い続けながら死んでいくのだと思う。
でもそのほうがいい。代わりなんていらない。
――私は、彼だけを愛しているのだから。
<完>
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