3.レインボウ




          ◇




 青は、悲しみのいろ。

 赤は、痛みのいろ。


 ひらり、ひらりと。

 蝶のように舞う夢。


 無感動の永久輪廻、無重力の墜落飛行。

 ほどけた翼は、光の欠片となって散る。


 奈落への間際、目をひらけば。

 遠くの空には、手の届きそうな———




      *   *   *






 左谷レイカは絶望していた。


 その夜は眠れなかった。

 いつもなら、張り詰めた神経も詩を作れば和らぐ。

 ただ紙とペンのインクだけの世界に耽って、考えついたままの言葉を綴るだけで安らかになれる。

 だがそれはここ数週間で、無意味な行為へと変わった。


 白紙のルーズリーフをくしゃくしゃに丸めて、投げつけるように自室のゴミ箱へ放り込む。ゴミ箱の中には、同じような紙玉以外に———使い終わった錠剤のPTPシートと、赤く染まったティッシュ。


「……——ハ、ァ」


 ぐらん、と揺らぐ上体。体の内側から何かが暴発する前に、衣類箪笥の奥に隠した睡眠薬の箱を取り出す。

 それは両親も、担任の女性教師も、クラスメイトとされている生徒も、誰も知らない秘密だ。

 銀色のシートから白い錠剤をもぎ取り、喉の奥に突っ込む。

 だが———眠気はおろか、精神安定の効果すら何ひとつ現れなかった。




 半年前、不眠症になってからレイカには睡眠薬が欠かせなかった。

 少ない小遣いで手に入れた錠剤は、朝に飲むコーヒーと同じくらい重宝された。


 しかし毎晩飲み続けるにつれ、体に耐性がついたのか、それは効力を失っていった。それでもレイカは睡眠薬の摂取をやめなかった。


 ……眠れない時に気分を誤魔化した詩作も、今となっては無意味だ。だから———自分の体を傷付ける事でしか、心を落ち着かせることができない。




「…………ぁっ」


 微かな痛み。

 つう、と足の甲から赤色が滲み出る。

 それが筋となって皮膚を流れると、膨張した苛立ちは冷めていき、暗い室内に安穏が訪れた。


 ……本来は腕にやるらしいが、それでは目立ってしまう。親に見つかったらタダでは済まず、学校の人間にも余計な同情をかけられたくはない。だからレイカはいつも靴下で隠れる足にやっていた。


 流れた血液が床につく前に、小指でせき止める。さらに付着した血の粒を、舌の上に置いて舐める。

 ……鉄みたいな味。いのちの味。

 恍惚に浸ること数分。

 レイカは足とペーパーナイフについた血をティッシュで拭き取り、そっとゴミ箱に捨てた。






      *   *   *






「あたしさ、今度の秋のコンクール、応募してみようと思うんだよね」


 樹々の並ぶ道を色づいた落ち葉を踏みながら歩く。

 爽やかな秋の朝、今日は珍しく鳴羽音マキが通学路に合流していた。


「この時期にあるんだ。すごいね」


「まあ、気分転換みたいなもんよ」


 マキが夢を語って以来、アリスがその詳細を知ることはなかった。

 が、つい最近になってマキの口からその事をよく耳にする。

 鍵盤を新調したとか、薄い楽譜を一冊できるようになったとか。

 アリスはいつもマキの話を頷きながら聞いていた。


「わたしもマキのピアノ、聴いてみたいなぁ……。練習とか、手伝うよ」


「ホント? アリスさえ良ければ、放課後音楽室で聴かせられる」


「じゃあ放課後、突撃しちゃうね。覚悟しておいてよ」


「おうよ!」


 しばらく歩いていると、学校が見えた。

 てっぺんの大きな時計は既に八時二十五分を指している。正門を通り抜ける途端に、一時限目の予鈴が鳴り響いた。


「———やば、遅刻する!」


「あ、まってぇー!」


 マキの後ろについて、アリスは息を荒らげながら校舎へと走る。日頃の運動不足がこんな所で発揮されるとは夢にも思わなかっただろう。

 やがて2階へ続く階段をのぼって、学校の日常は始まった。








 レイカは重い体を引っ張って学校へ向かう。

 それがたとえ失血で頭痛に苛まれた日でも、学校に行くのが常だ。

 何事もなく、何もなく。

 親に怪しまれず、クラスメイトに怪しまれず平常を装う。

 毎日が異常な感覚と隣り合わせだが、それも教室に入ればスイッチが切り替わる。

 いつものように昇降口で靴を替え、制服を整えて階段を上ろうとした時、


 ———その声は聞こえた。


『…………君はもうすぐ死ぬ…………』


 突如、脳を割くように言葉が響く。

 意味の解らない言語。

 理解できない怪音声。

 激しい目眩が襲い、階段の手すりに掴まって立ち止まる。


(誰……———?)


 振り返るが、話しかけた相手はどこにもいない。

 数秒後、ようやく言葉の意味を理解する。


(私が死ぬ、って……)


 いたずらとも思えない。それが何なのか考えを巡らすが、当然答えは出ない。

 学校生活はうまくやり過ごしている方だ。恨みを買われた覚えはない。

 なら、これは一体……?


 俯いていると、近くを通ったクラスメイトに肩を叩かれた。


「レイカちゃんおはよー。どうかしたの?」


「ううん……何でもないよ、おはよう」


 ……きっと幻聴だろう。

 学校にいる間は、正常でいなければならない。

 次々とやってくる見知った生徒と挨拶を交わし、教室の自席に辿り着く。

 この日もレイカは、いつものように自らを演じた。








「今日の……が……でさー、それで……なんだよねー」


 休み時間。クラスメイトのつまらない話をレイカは聞き流していた。

 ……レイカはいつも、彼らとの間にある種の温度差を感じる。


 学校、受験……人と較べる事や、人より優れている事の何が面白いのか、何が楽しいのか、レイカにはまるっきり理解できなかった。

 まして、学校の提供するわかり易い価値に縋って、意識高く振る舞う人間が偉いなどとは毛頭思わない。


 やがて、クラスメイトとの会話をやり過ごしたのち、窓の外を見る。

 2階の窓辺には、青色の羽根の生えた蝶が停まっていた。

 ……よく見ると、そのつばさには傷が付いている。この蝶はどうやら、飛べないらしい。


(あなたも、私と同じなのね)


 蝶はコンクリートの壁を滑り、落下していった。




 ……すると、突然。


「っ———」


 再び強烈な頭痛。

 痛み———破裂するような痛覚は頭だけでなく心臓まで届き、一瞬のうちに脈が飛ぶ。


 レイカは胸を抑え、誰にも勘づかれないよう顔を伏せる。

 ……額に汗が浮かぶ。

 心筋に異状が走った反動で、嫌なものを追想した。




 レイカには2回、自殺未遂の経験がある。

 だがその2回きり、二度とやらなくなった。

 どちらも思い出すと発作フラッシュバックを起こすほど、こっぴどく叱られたからだ。


『馬鹿な事はやめなさい』

『誰が育てたと思ってんの』

『ちゃんと言うことを聞け』

『あなたは私たちの期待を背負ってるのよ』

『その期待に応えられないなら、お前に価値は無い』


 ————死ね。


 言われる度に呪い続けた。

 殴られる度に憎み続けた。

 両親に責められることは、2階のベランダから落ちた時よりも、制服のリボンで首を絞めた時よりも、痛くて苦しかった。


 ——————だから、殺した。


 現実ではない。

 頭の中で、心の中で、ずっと両親を殺し続けた。

 手と足をもぎ、皮を剥いで、顔を潰した。

 焼いた皮膚は腐るような臭いがして、ぶちまけられた黄色い脳みそは汚物とそう変わらなかった。

 この世で一番、苦しませて痛めつけて地獄に落とす殺し方をした。


 それは両親だけではない。

 小学校と中学のイジメっ子も、何も解決しようとしなかった教員も……レイカを否定し、見下すもの全てを。

 例外なく脳内殺戮の餌食とした。


 ———でも、結局。

 一番殺せなかったのは、己の現実だったことを。

 レイカは最後まで気が付かなかった。




「—————っ、は」


 休み時間の終了を告げるチャイムが鳴る。

 顔をあげ、焦点のぼやけた目で前を見ると———女子生徒が立っていた。


 東月アリスだった。


 彼女は一言も喋らず、手には文字の書かれたルーズリーフを持っていた。

 レイカが以前に作った詩だ。確か、カバンに入れっぱなしだったはずの。


「………………」


 何か言いたげな目で東月はレイカを見る。

 そこでレイカは、ファスナーの開いたカバンから床に落ちたそれを、彼女が拾ってくれた事に気付いた。


 しかし、東月は視線をルーズリーフに戻し、じっと見ていた。

 その途端、


 ————私を、見るな。


 自分でも恐ろしいと感じるほどの黒い感情が芽生える。

 それを、唾を飲んで抑えると、レイカは口を開いた。


「……その紙、返してくれる?」


 すると、東月ははっとしたようにルーズリーフをレイカに手渡す。


「……ぁ、」


 何か、物を言いたいように口をパクパクさせる東月だったが、授業の始まりを告げる教師の声で彼女はすたすたと戻っていった。






      *   *   *






 レイカはクラスメイトの東月アリスが苦手だった。

 いつも虚ろな目をして、一言も喋らない。

 国語の授業で席が隣になる時は、視界に映るのが邪魔だった。

 だがそんな東月は、つい先週から変化を見せた。


 普段はぼーっとしているか眠気で首をカクカクさせているかだった東月は、ノートに何かを書いていた。

 いや、正確には“描いていた”と言うのが正しいだろう。

 横をちらっと見ると、白いノートの上には黒板の文字ではなく———モンスターの絵があった。


 ゲームの中に出てくるような禍々しいフォルム。幻想で語られる獣に、似ても似つかない。

 レイカには……それが何であるのか分からなかった。








 放課後。貸し切りった音楽室のグランドピアノには、女子生徒が二人。

 鳴羽音マキと東月アリス。

 マキは鍵盤に指をかけ、その後ろでアリスは壁に寄りかかっていた。


「いくよ———」


 そう言ってマキは最初の音を鳴らす。

 音楽室の空気をわずかに震わせる響き。

 次いで、流れるように演奏が始まった。




 高音に続く低音、ゆったりとしたリズム。

 ぎこちなく踊る白鍵と黒鍵は、しかし確かな旋律を奏でている。

 その足は一定の拍子でペダルを踏む。

 決して達者とは言えない未熟な連携は、不思議と聴く者の琴線に触れる。

 表情ひとつ動かさず、全身を用いて表現する音楽。


 ———マキらしい力強い音だ、と。

 アリスは素直にそう思った。




 時間にして5分弱。

 最後の音階に余韻を残して、演奏が終わる。

 アンコールはなく、拍手もなく。

 音楽室に静寂が訪れる。

 やがてマキは丁寧にグランドピアノの蓋を閉じて、長椅子から立ち上がった。


「……期待してたほど、上手くなかったでしょ」


 カーテンの隙間から漏れだした夕焼けが、スポットライトのようにマキを照らす。

 アリスは何も言わず、マキの伏せた眼差しの先を追う。


「あたし、わかったんだ。“あの世界”に行ってから」


 光沢の眩しいピアノの表面を、マキは優しく撫でる。

 その声色には普段あらわさないような憂いが窺える。

 “あの世界”———

 一週間前。アリスの身に起こった不思議な体験は、今も記憶に新しい。


「マキ、もしかして……」


「……なんだ、アリスもそうだったのか。

 そう———あの、“メイズ”だよ」


 日が傾いて、スポットライトはわずかに遠ざかる。

 そのせいか……マキの顔は暗い。

 夕焼けで燃えるように赤い音楽室に、ただ一人冷たく佇んでいる。

 その指はピアノを離れ、床を見つめたままマキは拳を握った。


「“メイズ”で、あたしは思い知った。

 あたしなんか全然ダメで、他に頑張って成果を上げてる人なんてたくさんいる。あたしがピアノをやっても、やってなくても、世界にとっちゃ何も変わらない」


 ……そこで、はっとする。

 アリスが知っている中で、マキは誰よりも生真面目で不器用だ。

 そんな彼女はきっと、これまでも多くの努力を重ねただろうけれど———そのほとんどは、今も報われずにいた。


「さっきの演奏だって、あたしの最高だった。でも全然満足できない。この程度じゃ、理想の足元にも及ばない。そう考えたら、あたし……才能ないのかなって」


 マキは、必死で何かを堪える。

 一筋の雫。

 それが悔しさからくるものだと、アリスにも理解できる。


「———でも」


 なのに。

 マキは拳を払い、顔を上げた。

 その顔は……涙で潤った瞳で、笑っていた。


「次にピアノを触った時、そんな事とっくに忘れてた。ピアノがあるだけで、あたしは自由だった。だから———あたしの最高を、アリスに聴かせられたんだ」


 目元を拭って仄かに濡れた指で、マキはアリスの手を握る。

 力強い指。

 この指が、あの音楽を奏でたのだと。

 アリスは感心して、握り返した。


「あたしは諦めない。夢ってのはさ、自分の全てを差し出してでも叶えたいものなんだ。この指が、あたしの全て。だから絶対に———諦めたくない」


 その瞳は、すでに先程のような繊細さではなく。

 どんな闇をも切り開くような、強い意志が宿っていた。


「———マキなら、きっと大丈夫だよ。

 ……わたし、マキを応援する。マキが夢を諦めそうな時は、背中を叩いたげる。だから———また何度でも、聴くよ」


「うん……ありがと。アリスならそう言ってくれると思ってた」




 陽はもうすぐ沈み、下校の時刻が近づく。

 気がつけば指先の雫は乾き、掌の温かな感触だけが残った。


「……よし。あたしももうちょい、頑張りますかな!」


 マキがそう言うと、二人は通学バッグを肩にかけて、音楽室を出た。








 ———目眩が、する。


 放課後。全ての授業を終えて帰りの支度をする頃、酷い雑音が頭に浮かんだ。

 ……ザザザ、ザザザ。

 ツイていない日だ、と嘆く。

 おまけに、掌で額を触ると……大量の汗。

 身体は寒気を感じるのに、頭はぼうっとして熱かった。

 ———こんな時に、熱。

 凍える体を抱えて教室を出る。

 無自覚に足がよろめいて、わけのわからない方向へ進んでいく。

 ———帰ら、ないと。

 周りに生徒はいない。

 いつの間にか、下校時刻が近づいて校舎の中はほとんど空だ。

 ———帰らないと、怒られる。

 ……朦朧とした意識。

 ただ燃えるように赤く染まった校舎が、頭に引火しているように熱く感じる。

 ———怒られるのは、痛くて、いやなんだ。

 ここが何階なのか、判らない。

 ただ一つわかるのは、遠くから聞こえてくるピアノの音だけ。

 此処は何処。———帰らないと。

 此処は何処。———家に、帰らなくちゃ。


 何かにいざなわれるように。

 誰かに喚ばれるように。

 ピアノの音に混じって、


『…………君はもうすぐ死ぬ…………』


 声が聴こえた直後。

 バタン、と。

 冷たい廊下に、レイカは倒れた。








 …………混迷とした意識。

 くらい闇の中で、“誰か”が呼んでいる。


『君はもうすぐ死ぬ。それが君の望んだ事だ』


 合成音のような、肉声のような。

 平べったく、しかし深みのある声色。

 ……何も見えない中、声だけが頭に響く。

 不思議と意識はハッキリしていて、音がよく聞き取れる。


『忘れていたかい? ……忘れていたのなら、仕方ない。オレのことも、まだ“知らない”だろう。だが安心したまえ、オレは君の手助けをするだけだ』


 聞いて、それがぐるぐるさんだと判った。

 小さい頃、ヘンなカタチのお人形につけた名前。

 だけどその姿は、思い出せない。


『少々心苦しいが……君には見せなければならない。どうか耐えてほしい。それが君の、願いの根源なのだから』


 そう言って、音は消える。

 直後、視界は切り替わった。




          ◇




 ———普通の、街と学校の風景。


 それが昔なのか。

 それが今なのか。

 わからない、けれど私は学校にいる。


 教室の中は、猥雑としていて騒がしい。

 誰もが楽しそうだ。笑いながら、普通の日常を送っている。


/だけど私は笑えなかった


 続いて、静寂の中。

 みんながみんな、肩を寄せ合っている。

 キレイゴト。

 みんながみんな、同じコトを言っている。


/だけど私は泣けなかった


 私は、そこにいた。

 私は、どこにもいなかった。

 実感はない。穴が空いたように、自己と他者の生は交わらずに乖離していた。


 ……それはきっと、私が「普通」じゃないからだろう。

 社会は普通の者以外受け入れてくれない。

 輪の中の者同士でしか、共有も同調もできやしない。

 笑うことはできなかった。

 泣くことはできなかった。

 “家”が匣なら、

 “ここ”は檻だ。

 セカイに居場所なんて、どこにも有りはしない。

 だから———私を差し置いて幸福でいる世界が、私は許せなかった。


 私は———何処にも居ない事を望んだ。








 ……光のない、黒ずんだ色に満ちた世界。

 それが私の     だった。






      *   *   *






『君は死ぬ。それが君の望んだ事だ』


 ———はっと目を覚ます。

 だがその風景は異なっている。

 廊下は、荒れ果てた廃墟のようにひどく破壊されている。


『ここが何処か……だって? それはいずれ知るだろう。近いうちにね』


 声の主は……遠くにいる。

 廊下の奥。崩れた壁から黒色の空が見えたところに、ぼやけた輪郭が浮かんでいる。


『だが君は、自力で願いを叶えなければいけない。今のままでは、君は願いを持つことができない。他者を知らなければ、自分などわかるはずもないのだ』


 足は動かない。

 手を伸ばして、遠くにあるぐるぐるさんを掴もうとする。

 だけど無理だった。力尽きて、腕は鈍い音を立てて床に打ちつけられる。


『ここで一旦お別れだ。……なに、また会うさ。けどその前に———“別の世界”の者をよばなくてはね』


 エコーのようなその声が、途切れた瞬間。

 冷たく熱い身体の感覚が戻っていた。






      *   *   *






 マキとアリスが音楽室から出た後、廊下に女子生徒が倒れているのを発見した。


「…………さん、……左谷さん?」


 聞き覚えのない声。

 レイカは朧げに目を開ける。

 廃墟はどこにもなく、赤外線を乱反射したように夕陽に染まった廊下には———東月アリスと、もうひとり見知らぬ生徒がいた。


 壁を支えに立ち上がる。

 まだ少し不調が残っているが、なんの事はない。ふらつきそうな足を何とか直して、二人の女子生徒に向き直った。


「ありがとう。もう大丈夫。一人で歩けるよ」


 できる限り平静に言う。

 そして、床からバッグを拾い上げて、レイカは廊下の奥へ向かう。


「あ……待って、すぐ保健室に———」


「大したことないよ。全然、平気だから」


 駆け足で階段を下りる。

 後ろから同じような足音が聞こえるが、無視する。


 1階の昇降口。

 誰一人いないフロアを早足で通り抜ける。

 並ぶロッカーの一つに右手をかけ、靴を替えようとした時———片方の腕が掴まれた。


「ねえ、待ってよ。何かあったんじゃないの?」


 ———うるさい。


 レイカは限界だった。

 付きまとってくる女が鬱陶しくてたまらない。だいたい、なんで東月こいつは普段と違ってお喋りなんだ。……まるで見透かされているみたいだ。レイカは、いつもの演技を忘れて、言った。


「…………アンタ、何で喋れんのよ」


 レイカの素顔を見たアリスは、怪訝そうに目をぱちくりさせる。隣にいる別の女生徒も同じだ。やがて、何分も経ったような長い五秒間が過ぎて、


「マキと一緒にいる時は大丈夫なんだ。マキは友達だから」


 ———とも、だち?


 カチリと、頭の中の撃鉄が砕かれる。

 普段意識しないような些細な単語。それが、この女の口を通して耳に入ると神経に触る。

 ……いや。

 脳から何かが溢れる。負の感情。かつて封印し、忘れ去ったはずの記憶が流れ出す。———信頼、葛藤、裏切り、断絶。そうだ、そこからレイカはを始めた。その後に出来上がった友情など偽りに過ぎない。レイカは初めから、そんなモノは無かったのだと自分に言い聞かせ———


「ぁぁ……ぁぁあぁ…………」


 何も見たくない。

 何も聞こえない。

 どうして、どうして、どうして。

 なんだって、今更そんな忘却を引っ張り出して。


「さ、左谷さん……? きゃっ!」


 傍にいたマキがレイカに駆け寄るが、レイカはそれを突き飛ばす。

 ……レイカは耳を塞ぐ。塞いだ耳から、蓄積された昏い音声があふれ出す。


 ———もういいよお前

 ———アタシらについてくんな

 ———ウチらとは違うくせに

 ———出しゃばってんじゃないわよ


「アア……アアァアァアアア———っ!!」


 割くような金切り声。

 まるで人間ではないモノに支配されたその波長で、アリスとマキは怯んだ。

 そして。

 窓が、扉が、壁が、金具が、小刻みに震えるように鳴動する。

 直後。一瞬にして辺りは暗くなり———


 世界が、した。




「もしかして…………“メイズ”」


「左谷さんの“メイズ”に、あたしたちが取り込まれたっていうこと……!?」


 校舎の出入口の先、そこにはもう光はない。

 どこまでも深い黒。暗闇。

 その向こうは真実“何も”なく、

 ただ真空の奈落が広がるのみ。


 バリ。

 壁が剥がれる音。

 見れば、レイカの周囲には夥しい量の蔦が伸びてその身体を包む。わずか十秒にも満たない間、それは樹となり、床と天井を突き抜けていた。


「左谷さん!」


 アリスが叫ぶ。

 深緑の蔦を取り除こうとするが、びくともしない。あまりに固く巻き付いている。

 だが、そんな事よりも———


「アリス……足元!」


 マキへ振り返る。

 その瞬間、バキバキと音を立ててひび割れていく何か。

 とっさにマキのいる階段の方へ跳ぶ。

 直後。

 轟音と共に———1階の半分が、崩れた。


「ひ、っ——……」


 アリスはスレスレのところで床に留まる。

 視界の下。教室や広場、食堂が『奈落』へと落ちる。

 ———それは、どこまでも吸い込まれる黒。

 根が剥き出しに奈落へ続く樹を軸に、校舎はまるで巨大な宇宙船のように浮かんでいる。

 ……ブラックホール。そんな、次元すら存在しない虚無の海を連想した。


「……マキ、これって」


「……1階はもうダメだ。上の階に行こう。樹が下から生えてきたなら、左谷さんが上まで運ばれているかもしれない」


 そうして階段を上がる。

 校舎は1階をはじめに細かい破片へとなって、下部から上部へ向かって崩れていく。

 そのスピードはまだ階段を駆け上がる速度には及ばない。

 ……だが油断は禁物だ。隅々まで掃除されていたはずの校舎は、古びた廃墟のように所々腐り果てている。いつどこから崩れてもおかしくはない。

 現に———3階の廊下は、その何割かが削られ剥き出しになっている。外側は夜のような深い闇。一歩踏み外せば、二度と帰っては来れない。


 紙工作のような脆い廊下と階段を駆けていく。

 樹は同様に成長し、真っ直ぐ上へ突き抜けていく。

 ……それは、最上階まで伸びるつもりなのか。

 5階の階段を上った先、最後の階段。

 つまり、6階に当たる部分。屋上へと続く扉を前に、アリスとマキは立ち尽くした。


「やっぱりここだね。マキ……いい?」


「……もちろん。ここまで来たからには、片をつけなくっちゃ」


 二人は顔を見合わせ、同時に頷く。

 校舎の崩壊はすぐそこまで迫っている。

 一刻も早くこの世界の崩壊を止め、現実に戻らなければならない。……それもレイカと一緒に。


 そして、二人は阿吽の呼吸を開始する。

 ……いち、にい。

 心頭滅却。頭にあるのは、扉の先にあるもののみ。

 ……さん!

 突き出される脚。

 それは砕かんばかりの勢いで、固く閉ざされた扉の両サイドに激突し———


 雷のような音を鳴らして、鉄の扉を蹴り開けた。






          ◇






 立方体の中で醒める。

 壁も窓もない。

 一辺が2メートル程のキューブ。

 私は自分の輪郭がわからないまま、あらゆる光の届かないその空間に潜んでいた。

 無音が永遠に続くような停滞。

 呼吸をしているのか、体内循環は正常か、そもそも生きているのかすら感知できない。

 ……いや。

 とっくの昔から、私は生きてなんかいなかった。

 私は、私がモノだった事を思い出した。




 その存在は、ひとえに所有物だった。

 はじめから意義を、目的を、行動を定められた、プログラムとして使われる生体。

 不運だったのは、人間性が残ってしまった事だろう。


『集団の中で成績を上げろ』

『勉強してキャリアを積むの』

『苦しくても頑張りなさい』

『社会に出て役に立つためよ』


 それは弱肉強食の世界を良しとした。

 それは敗者の人生が無駄だと嗤った。

 他人と同じ物を修めて蹴落とす社会的価値。

 だが年齢を重ねるにつれ、その喜びを感じなくなっていた。


『お前にかけた金を忘れるな』

『あなたへの愛情を忘れないで』

『お前の将来を考えているんだ』

『全部あなたのためなのよ』


 従わなければ罵声を浴びた。

 反抗をすれば手が出された。

 誰も正しい意味を教えてなんてくれない。

 従順に、ただ人形のように操られて生きるのがその家での規則しつけだった。


『お前は恵まれている』

『あなたは幸福なのよ』

『良い大学に行って』

『良い会社に入って』

『エリートになれ』

『親孝行をしなさい』


 身勝手に編まれる未来計画。

 それは製造過程に他ならない。

 何も見えていないクセに。

 何も解っていないクセに。

 その歪な欲求へ感謝しろと、彼らは言った。


 ———本当は、違う事がしたいのに———


 そんな小さな願望にも甲斐はない。

 競争の存在しない、束縛の存在しない世界は睡夢にしか現れない。

 つまらない世界。

 つまらない全て。

 つまらない事を命じられ続けた十八年間。

 彼らの主張が社会にとって正しい時点で、既に生きていける未来が何処にもない。


 ……だから。

 心に、ナイフを突き立てる。


 掴めない痛み。

 傷口はどこにもないのに、滲んで溢れ出ていくような破滅と喪失。

 その痛みはやがて、存在意義の崩壊がもたらす空虚感に埋め尽くされる。


 それは。

 生涯で初めて犯し、成功しっぱいした自殺だった。




 ……黒塗りの立方体が歪む。

 渦巻くように、その空間は拡大と縮小、吸引と排出を繰り返す。


「…………ゃ……」


 私は限りなく液体に近しいものに変わった。

 ———べちゃり。

 どこからか、鮮やかな赤色が流れている。


「…………やだ……」


 黒の天蓋が取り払われる。

 露わになった世界の外側に色はなく光はなく。


「……いやだ……いやだ……いやだ……!」


 風の吹き乱れる荒野。

 際限なく広がる血の赤。

 それは手にしたナイフが滅多刺しにした足から流れて、


「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 べちゃ、ぐちゃり。

 刺したのは自分の足だけではない。

 家族、友人、先生———だったモノたち。

 数え切れぬ肉と内臓と白骨の水平線。

 顔も髪も全身も、その返り血を受けて生臭い薫りが染み付いている。


「私は……もう、殺したくない……殺したくないのにっ……!」


 涙なき慟哭が世界に響く。

 痛みも、悲しみも、ごちゃごちゃに混ぜ合わさって苛まれる。

 ———空想殺人。

 私はこの行為をそう呼んだ。

 絶望という死の病において、それが最後の気を紛らす手段。嫌いなものを、見たくないものを、血と肉と骨に変えることがせめてもの安息だった。

 ……いや。逃げ道なら、他にもあったかもしれない。

 だけど———


「……もう…………いいや」


 私は最後に、ナイフを握った手をその刃で貫く。

 手から流れる赤黒い血。手だけでなく、足からも依然として流れ出している。

 やがて……全身が染まる。

 切った箇所から流れた血が、大地と同化していく。

 肉も骨も溶けて、固定される。

 ……そうして。


 私は、樹になった。

 どこにも行けない、生きては朽ちていくだけの樹に。






      *   *   *






 屋上の扉を破った先に———破壊されたプールがあった。

 終わりかけの世界、闇黒の曇り空、バラバラに砕けた水色のタイル。瓦礫の山の中央には、突き抜けた大きな穴と……樹の先端。


「マキ……あれを見て」


 アリスが指さす先には、十字架に磔にされたような、蔦に縛られたレイカの姿。

 だが、その前には———


『よく来てくれた。“メイズ”を乗り越えてきた者たちよ』


 は、緑色の三角帽子を被った腹話術の人形だった。

 人形の名前……ぐるぐるさんと呼ばれるらしいその個体の情報が脳に流れ込む。

 数秒後。それが此処の“守り人”だということがわかった。


『……君たちに危害を加えるつもりはない。どこかの照る照る坊主とは違うさ。オレはこの娘の心から生み出された存在だ。この娘の願いを一つだけ叶えるためにここにいる』


 人形……ぐるぐるさんと呼ばれるそれが言うと、蔦はレイカを降ろした。


 先程とはまるで別人……いや別物とでも言うべきレイカの姿がそこにあった。

 生気がまったく感じられない、植物のようなレイカの形をしたモノ。

 その枝のような腕からは———処刑台ギロチンの刃が生えていた。




 ———ザン、と。

 腕から刃が離れる。

 かと思えば、それは既にアリスの髪の一部を切って後方の壁に突き刺さっていた。


 だがそれだけでは止まらない。

 続く連撃は一枚ごとに屋上の構造物を切断し、破壊していく。

 その鋭利な刃が腹部に刺さる直前———アリスは手にした刀で軌道を逸らす。


「左谷さん……どうして」


「………………」


 レイカのかおには色というものがない。まるで、何かに取り憑かれたみたいだ。

 何も見ていない目。およそ全ての希望を塗りつぶしたような、見るに堪えない目がこちらを向く。


 ……それは何かを訴えようとしているように見える。だがもっと別のものに邪魔され、その叫びがアリスたちに届くことはない。


 間髪入らず、ギロチンの重撃が飛ぶ。

 狂ったように空中を裂く薄片は、レイカの枝分かれた両手から際限なく

 ……本来最も軽い処刑に用いられるはずの道具。しかし受刑者は他の誰でもなく使用者レイカであり、その苦痛が和らげられることはない。

 刃は、痛みの具現だろう。一枚生成されるごとに、一枚放たれるごとに、消えることのない痛覚が残る。いかなる斬撃を以ってしても、レイカの悲痛を断つことは叶わない。


「く……っ!」


 何度、刀で受け止めただろうか。

 アリスはギロチンの刃を受け流すことで踏みとどまっているが、それも限度が近い。

 第一に重量が違う。長いリーチはあっても、細い刀などでは不利だ。そして刀を振るう速度と刃が射出される速度では、雲泥ほどの差がある。

 だが———


「あたしに任せろっての……!」


 マキの散弾銃ショットガンが火を噴く。

 ト音記号を象ったモノクロの『武器』は、実弾と似て非なる魔弾でギロチンの刃を一時的に拘束し、「破裂」させる。

 マズルフラッシュの閃光が崩れかけのプールを照らした後、アリスは銃弾の射程から外れた凶器を躱しながらレイカの元へ走る。


「左谷さん……もうこんな事やめてよ……わたしたちが戦うなんて……おかしいよ! わたしは、ただ……」


 独立して空を切る刃は弧を描き、斜め下方からアリスを襲う。———ザッ、と制服の袖が削がれる。


「……左谷さんとなら友達になれそうな気がしただけなのに……っ!」


 刀を回転させ、力技で薙ぎ払うアリス。その伸ばされた片腕が、無防備となったレイカに届く直前———それは真横から突き出た蔦によって防がれる。


「———そん、な」


 蔦はみるみるうちにレイカを覆っていく。

 さながら守っているように。縛っているように。

 次の一瞬……レイカの目に僅かな色が戻る。

 ———怯えきって、何もかも諦めた色。

 蔦は手に、足に、胴体に巻き付いて蠢く。


「……ア…………」


 小さな声がレイカから発せられる。

 だがすぐに視界は強固な植物に覆われ、アリスとマキが見えなくなる。

 ……そして、鈍くなっていく五感と生の感覚。


 レイカは、完全に『樹』に取り込まれた。






「どうしてなの、左谷さん……答えてよ」


 廃墟の中でアリスは立ち尽くす。

 微動だにしない樹の周囲を無音の静寂が包む。

 駆けつけたマキは歯を食いしばりながら樹を両手で押すが、やはり動く気配はない。


「中に左谷さんがいるってのに……くそ。あたしたちにコイツを動かすのは無理なの……! そもそも、この“メイズ”の仕組みは———」


『心の……具現だ』


 音を発さない樹の代わりに答えたのは———緑色の三角帽子を被った、腹話術の人形。

 ……ぐるぐるさん、と呼ばれる精霊だ。


『オレのような守り人は、この世界の根本を解決することはできない。“メイズ”から抜け出すには、どうしても当人の力が必要だ。……君たちにも分かる筈だろう。現在のこの娘は、その手前で止まっている』


 不思議な音声が、脳に直接響くように届く。

 レイカの心から生まれたらしいそれは、動物のようなカタチをした顔で淡々と語る。


『君たちも理解している筈だ。“メイズ”とは、心に迷いを持った者が魅入られる鬱屈した世界。それも大勢ではなく、少数である事に悩む人間に限定された、懺悔と試練の場所』


「それってつまり、左谷さんは……」


『……ああ。未だ自らの闇から抜け出せていない。抜け出せていない以上、同じく取り込まれた君たちもこの世界に囚われたままだ。それを打破するには、この娘を樹から「解放」しなければならない』


 人間のような、機械のような音声でぐるぐるさんは言う。

 その傍ら……しばらく俯いていたアリスが顔を上げ、再び刀を構える。

 天高く、十メートル程上まで伸びきった樹を見据えて、アリスは言った。


「なら……やってみるしかない。わたしの刀で、このデカいのを斬ってやる」


 そして———跳躍。

 空中で舞う一斬、鋭利な刃は無数の蔦によってできた硬い樹の表面で火花を散らす。


「この…………っ!」


 一閃、二閃、三閃———

 より速く、より力強く。

 斬るたびに少しずつ表面が削られ、しかしそれはすぐに新たな蔦に補われる。

 樹はアリスを拒み、弾き飛ばすように、その侵入を許さない。

 ……だが、その中で。

 アリスは気づく。刀身が樹にぶつかり、削いでいくその度に。

 まるで痛みを共有するかのように、がアリスへ流れ込む。


(これって———)


 アリスは斬撃を止めない。

 六秒間に十八回、目に留まらぬ速さで剣戟を叩き込む。

 ……感じる違和感。何が足りない?

 より力を込めて、ひたすら刀で再生し続ける樹を撃つ。

 何十回とてまだ足りない。叩いていくうち、意識を集中させ耳を澄ませる。


 そうして聞こえたのは……小さな悲鳴。


 現在ここにはない。それは刻みつけられたような、傷跡として残った幼い痛み。

 ……その痛覚を身に受ける。

 まだ無垢な断片が、徐々に閉じた視界に広がる。

 虐待という言葉を知らない誰かの、呪いのような記憶。暗く淀んだ室内と打たれた跡、そして同じ年齢の子供に投げつけられた醜い音声、それらの現像イメージ。それは、弁が開かれたように一気に流れ込んで———


「うっ————」


 黒。

 赤。

 灰。

 無。


 失われていった感情。

 閉ざされていった生の動機。

 その代償に産まれた死の衝動。


 ———惨殺映像。


 骨が砂となり、

 血が海となり、

 肉が土となった荒野。


 世界メイズの境界でアリスが見たのは、他ならぬレイカの心だった。


「こんなに———ひどい」


 ……そして。見た事を、知った事を後悔する。

 今にも胃から溢れ出そうで、必死に逆流を抑える。

 第二者が感じ取る痛覚など、この記憶に比べれば生易しい。

 殺人の感触など真っ当な人間なら知ってはいけないものだ。それを、あろう事かレイカは現実では手を汚さないまま知ってしまっている。


「わたしたちは似ている……今まで、そう思ってた」


 斬撃が止まる。

 アリスは刀を握ったまま、棒のように立ちすくむ。


「けど、左谷さんは隠していたんだね」


 隠すも何も。

 レイカには、それを訴える意志すら有り得なかった。

 そもそも、レイカにとって自分以外の人間が全て自分を苦しめる世界の一部だ。心を閉ざしたレイカに、内側の醜い本性を曝け出せる者は誰一人いない。生きていくにも、それは自分の人生を生きていないのと同義だ。


「でも———」


 でも……そんなレイカに対して掻き立てられる衝迫を、耐えて呑み込む。

 その憐憫だけは、何があっても持ってはならない。

 他人の人生に感傷を抱くなど決して許されない。それこそ、死に値する罪悪だ。

 そんな偽善で理解出来たとのたまうなど、思い上がりにも程がある……!


「わたしじゃ左谷さんを助けることはできない、でも……左谷さんにあるはずのねがいを、わたしはまだ……!」


 再起する刀。

 依然として硬く開かない樹を、斬り伏せようと腕を振る。


 ……アリスはレイカが詩を書いている事を知っていた。それが唯一、レイカが自身の夢を綴る手段である事も。


 だがアリスはレイカを人間のまま生かすことはできない。レイカの持つ闇を取り除く事など不可能だ。感覚を共有しようと、その現実は一糸たりとも背負えない。

 しかし。

 せめて———ただ一筋の希望があるなら。


 その夢を、見届けなければならない。


 それが己の夢を得たばかりの、東月アリスの責務だ。レイカの心象世界を覗いた以上、彼女の結末を看取る義務がある。

 目を背けるなんて———できる筈がない!


「……左谷さんがわたしを信じていないことは、わかってる……確かにわたしは話さないけれど、左谷さんの詩はわたしの夢でもあるんだ。だから……わたしは左谷さんの夢が、消えて欲しくない———!!」


 ———ザク、と。

 力ずくで通した刃が、樹の表面に亀裂を生む。

 剥離。

 最も表面にある層の一部が砕かれ、アリスの攻撃は樹の中心部へ近づく。


『…………ゥ……ァ……』


 その奥底から、微かに聞こえる呻き声。

 ……未だ囚われている。

 自己の呪縛から逃れられないレイカの、窒息するような呼吸。

 アリスは一歩引いて、マキに声を掛ける。


「マキ———その武器を貸して!

 合体させるんだ……わたしとマキの力で、あの大木をなぎ倒す……!」


「……本当にいいんだね。

 じゃあ———任せたよ!」


 旋回して投げつけられた散弾銃ショットガンを片手で受け取る。

 その銃口を開き、刀の柄を装着する。

 カチッ。

 白銀の刃に続くものは、白と黒の補助噴射装置。

 そのトリガーを引くと……メカニックな外見とは裏腹に、闇を照らすような虹色が眩しく光る。


「はぁぁぁぁ…………————っ!!!」


 組み合わさった銃刀を空に掲げる。

 ———エネルギーの集約。

 そして。

 昏い夜を裂くように、それは力強く振り落とされて。


 光線となった虹色は、輝きながら樹を包んだ。






          ◇






 ただ一度きりの幻を見ていた。

 詩を綴っている私の幻だった。

 風通しの良く、日差しの明るい場所で集まって、日々の喜びを詩に綴る。

 私たちは詩を通して繋がっていた。


 ……そんな、在り得たかもしれない私と東月アリスと鳴羽音マキとの日常。

 疑問など浮かばず、そうして私たちは芸術を交流し、放課後を、休日を、過ごすのだ。

 駅前のケーキバイキングとか、歴史ある博物館とか。たまには遊園地などの娯楽施設で騒ぐのもいい。

 歳らしくどこかへ出かけて、世界の多様さに触れながら談笑していられれば十分。

 とにかく、楽しければそれでいいのだ。楽しいことが、繋がって生きることの全て。

 晴れの日もあれば雨の日もあるが、どこまでも普通で、あくびの出るほど幸せたいくつな毎日を送る。

 ……その幻を、心の奥底で願った。


 接することを、共に生きることを、怖がらなくていい友達……それが、きっと安心できる居場所だ。

 胸につかえる歯痒さが消えて、障るものがなく心を通わすことができれば……どんなに幸福だろう。

 ……けど。

 それは———幻でしかない。






 幻が消える。

 現実にあったのは、暗い部屋と、偽りの日常だった。

 何にも関心を持たず。

 何にも心を躍らせず。

 人工の呼吸で演じ続けた、傀儡の日々。


 ……私が死んでも、両親は家の期待に応える私を失ったと嘆くだけだ。

 私を理解する人間などいないのだから、きっと意味はない。

 どのみち私は、孤独のまま不幸に死ぬ運命だろう。

 なら……誰の記憶にも残らずにいなくなる方がいい。


 暗闇の中。

 私は、私の人生が虚無であったと総括して、瞼を下ろす。

 走馬燈さえも見えない。死から挽回する幻影は、私の瞳には映らない。

 ……願ったものは、何だったっけ。

 もうとっくに忘れて、思い出せない。

 左谷レイカの願望は最後まで成就されず、醜いまま地獄に還るだけだ。


 ……さながら、何処かで見た青い蝶のように。

 つばさの欠けた生き物。

 私の結果を予言したようなその記憶は、次の一秒で失われる。

 それから血も、肉も、骨も……心すら無残にバラバラにされて、ぐちゃぐちゃの立方体となって廃棄されるんだ。

 最期に悟る。

 私のいた日陰には、とうとう光は差さなかった。



 ————なのに。



 割れるような音。

 壊れるような力。

 硬く閉ざしたはずの暗闇が、震えている。


 ……私は必死でそれを拒む。

 私を開くな。

 私を照らすな。

 だけどその光芒は否応なく隙間から入り込んで、暗闇が台無しになる。


「…………もう…………め……て……」


 何もかもが遅い。

 既に何もかもを失っている。

 全てが終わりゆくはずなのに亀裂からは声が、命が、真っ直ぐに差し込んでいる。


 ……いやだ。

 ……やめてくれ。

 ……私を連れ出すなんて。

 ……そんな事、無駄でしかない。


 どうして肯定できただろう。

 私の醜悪さを。意味のない人生を。

 生き続ける事が夢なら、私にはそれを得られない罰こそが相応しい。

 機械に心はない。それが願いを織ることはできまい。

 いくら光が私を呼ぼうと、そんな希望ゆめを掴めるはずがない。



 ああ、でも、その色は————






 虹色の先から手が伸ばされる。

 私はそれに触れて、震えた喉から叫んだ。






      *   *   *






 虹の光の中。

 厚い蔦に覆われた奥に、全身を縛られた左谷レイカがうずくまっている。

 アリスは光で動きを止められた数多の蔦を斬る。ふわりと、レイカの体が浮く。


「あともう少しで…………!」


 解き放たれたレイカは、それでもなお赤子のように佇んでいる。

 だがそこに届こうと、アリスは指先を伸ばす。

 もっと奥へ。暗闇の先へ。

 身体全体で乗り込んで、レイカのわずかに開いた指に触れる。

 刹那。

 『樹』が———瓦解した。


「…………私、は」


 樹の組織が塵へと変わっていく中。

 命が吹き込まれるように、レイカは目を開く。

 一瞬、呼吸を忘れる。

 目の前にいるアリスを見据えて、そのまなこの奥を注視しながら空気をいっぱいに吸う。

 そして……水を得た魚のように、勢いよく吐き出す。


「……私は、泣きたかった……笑いたかった! ……誰も解ってなんてくれなかった……ずっと、ずっと……辛いだなんて、言えなかった……!」


 叫べなかった悲鳴が叫ばれる。

 その叫びが暗闇を弾き飛ばしていく。

 溢れる感情の波が“メイズ”にとどろき、崩れた樹の欠片を奈落へ吸い込ませる。

 ……光に包まれた暗闇は浄化に激しく抗うが、レイカの叫び声がその消滅を早める。


「私のことなんて、どうだっていいんだ……私なんかいなくたって変わらないんだ……私は存在しちゃいけないんだ! でも———」


 泥に足掻くような声。

 蓄積されたあらゆる苦しみが這い出ていく。

 それを聞いてなお、レイカの吐き出した痛みをアリスはあるがままに受け入れている。

 アリスは樹の残骸から、最後の数センチだけ闇に踏み入ったままのレイカを引っ張り出す。その腕を離さず、しっかりと握っている。


「自由になりたかった……そうすれば、幸せになれると思った! 私は———自分の人生を生きたかった……!!!」


 そして———爆散。

 眩しい光が飛び散る。

 粉々になった樹だったものが全て、屋上だけ残った校舎の外へ散っていく。


 ゆっくりとした落下感覚。

 気が付けば。

 虹色の力の余波によって屋上に着地し、力の入らないレイカの体をアリスが抱えていた。



「————頑張って生きたんだね、左谷さん」



 ———その言葉を、レイカは誰かに言って欲しかった。

 生涯で一度も得られなかったその結論を。

 どんな人生でも許される、ただ一つの肯定を。

 レイカは、何よりも望んでいた。


「さっきは言えなかったけど……左谷さんの詩って、素敵だね」


 目を輝かせたアリスの言葉で、レイカは息を呑んだ。

 以前から東月アリスを苦手としていた理由……その虚ろは目は、現実ではない別世界を見ていた。

 それが、普段の自分が飾りだと指摘しているように感じていたのだ。


 そう。

 レイカにとって、詩こそが「別世界」だった。

 誰の目にも触れられず、ただ自己満足に創られる世界。

 でも、それは———美しい、世界だった。

 今のレイカには、それを否定する言い訳など何ひとつ持たない。在りのままの自分ことばを紙に写す行為が、ただ一つの正解に思えた。


「東月さん……どうして。あなたは、私の記憶を……」


 目頭から知らない感覚が、堰を切ったように溢れ出す。

 レイカは、その時初めて泣いた。


「アリスでいいよ。……わたしは、左谷さんが笑ってほしいから」


 そう言って、アリスはレイカの涙を指で拭こうとする。

 どこまでも温かい液体が、終わりを知らぬように延々と溢れる。

 レイカが人間の心を取り戻した瞬間だった。

 懐で泣き止まないその顔をアリスは慈しむように眺めて、しばらくそのままでいた。








 プールサイドの隅、レイカとアリスのいる方へマキが歩み寄った。


「……よかった。左谷さんも、アリスも無事で」


 微笑ましいのか、マキは困ったように笑いを見せる。

 だがすぐに直って、手を差し出す。

 レイカは力の戻った腕で、その手を取って立ち上がった。


「夢を見つける前は、誰だって悩む。それは夢を見つけてからも一緒で、苦しさはずっと続く。……この世界メイズのように。でも———」


 マキの凛々しい顔が向けられる。

 その真剣な面持ちに引きつけられて、レイカは言葉を失う。

 どこまでも強い、透き通った瞳には星空が描かれているようだった。


「夢は、虹色なんだ。

 それが楽しいって思えるなら。

 それがある人生を欲しいって思うなら。

 誰だって、夢に向かって走り出せるんだ。

 ……あたしも、アリスも。その事を左谷さんに伝えたかったんだと思う」


 それは、確かに答えだった。

 星空の先には、数え切れぬ可能性の宇宙。

 そこに輝いていたのは、他でもなく夢が叶う姿。

 マキはとっくに先を行っているのだと、レイカは感じ取った。




 ふと、斜め上を見上げる。

 ぴょこぴょこと音のするそこは、プールの更衣室として使われる部屋だ。

 その上に———ぐるぐるさんがいた。


『良いところに済まないが、時間がない』


 アリスとマキ、そしてレイカはその意味を読み取る。

 ぐるぐるさんが呼んでいる、と。

 そして。外を見れば、屋上から下は無くなっていた。

 ……“メイズ”の終わりが近い。

 緑色の三角帽子を目印に、三人は更衣室の上へ登った。








 半分排気管に占められたその空間からは、ほとんど何もなくなった世界を一望できた。

 厚い雲に覆われ、遠くで雷の音が響いている。

 レイカの“メイズ”が、間もなく終わる知らせだった。


 ぐるぐるさんに導かれ、三人は並んで手を繋ぐ。

 ……ゴロゴロと、雷鳴を聞く。

 近くまで迫った音は肌に触れるくらいに空気を振動させ、奈落をも震わせた。


 しばらくの沈黙。

 冷たい風が身体を撫でる。

 ぐるぐるさんのいる方向から、いよいよ雷がやってくる。かと思えば、

 ———ビリリリリ、と。

 一際大きな、空を裂く稲妻が視界を遮る。

 両手に握った手が、力強さを増す。

 空中には……ぐるぐるさん、いや———白い翼の生えた、天馬ペガサスが在った。



『———若者よ、夢を謳え。

 その実りは、きっと美しい』



 声が空間に響く。

 直後、天馬の角が太陽の如く輝く。

 校舎の白色が反射する。

 眩しい光に目を細めながら……右隣のマキが口を開いた。


「あたしは、ピアニストになりたい!」


 マキが叫ぶ。

 すると、次の瞬間には消えていた。

 掌には温もりが残った。

 ……そして、左手が強く握られる。


「わたしは、夢を応援したい!」


 アリスが叫んだ。

 同じように、次の瞬間には消えていた。

 掌にはやはり温もりが残った。

 ……最後に、残されたレイカが叫んだ。


「私は……私は、幸せな夢を見ていたい!」


 レイカの胸に、これまで感じなかった喜びが湧き上がる。

 ……気が付けば涙はもう乾いていた。

 睫毛を擦って、レイカは頭上の天馬を見上げる。


 空中に漂った天馬。

 そこに、光が集まる。

 充分に光の集まったその角からは、光の槍が打ち上げられ———


 黒ずんだ雲が、晴れていく。

 霧のように細かい粒子が、彼方へと消え去る。

 そうして現れたのは……空。

 青く透き通った空が、見えぬ果てまで広がった。


 そして……世界との、別れの時が来た。






          ◇






 私は校舎の辺縁に立つ。

 ふわっ、と透明な風が吹いた。


『君は夢を得た。おめでとう』


 天馬が私に語りかける。

 厳粛な声で、鋭い眼差しで。

 私は何も言わずにそれを聞く。


『だが君の結末は変わらない。君は必ず、ここで死ぬ。……これは、その確認だ』


 天命が告げられる。

 私の、現実の生に未来はないのだと、冷酷に伝えられる。

 今更変えられるはずもない。

 天馬の言う通り、ここが私の死に場所だろう。

 でも……私は幸せだ。


 私は最後に————夢を抱いて死ねるのだから。


『そうか』


 私が黙って肯いた後。天馬はそう短く呟いて、背中を向ける。

 たてがみが風になびく。

 ……そして。

 坂道を上るように。

 天国へ急ぐように。

 強壮な四本の脚で、天馬は空へ駆け上がっていった。




 最後に、本当に最後に残ったのは、青い世界に私ひとり。

 でも寂しくはない。

 手のひらには、まだ温度が残っている。

 アリスとマキの温度。

 その温もりが、私に勇気をくれる。


 辺縁から一歩、足を踏み出す。

 私は独りではないから、恐怖はなかった。

 数センチずつ靴をずらす。

 旅立ちのように。

 身を任せるように。

 残りがほんの少しになって、足が離れる直前……空を仰ぐ。


 ————ああ、知らなかった。空が、こんなに広かったなんて。


 軽い体は、翔んでいる蝶のようだ。

 私を縛っていたものが、剥がれていく。

 私を覆っていたものが、ほどけていく。

 それは白く、光る羽根のように舞い散って。

 空虚はない。

 苦しみもない。

 ただ終わった、という満足感。


 こうして。青の天井に掌をかざしながら、

 開かれた目で、ずっと広いソラを眺める。

 その向こうには。

 あれほど欲しがった、穏やかな夢がある気がして……



 落下していくなか———

 澄みきった青空に架かる、美しい虹を見た。











        … … …








 この日、左谷レイカの命は失われた。

 その十八年間は世界に残されることなく消え、彼方の夢へと旅立った。

 けれど、幸福な旅は、夢の中で続く。

 看取った友人に宛てた、最後の詩を残して。








 焼けるような夕焼けの教室で、アリスは目覚めた。


「ねえ、ちょっとマキ。これを見てよ」


 隣で眠るマキの肩を揺さぶって起こす。

 あくびをしながら背を伸ばすマキに、アリスは机にあるものを指差す。


「便箋……? 誰からのだろう」


 三つに折られた、小綺麗な便箋。

 その題名には『虹』とだけ書かれている。

 アリスはそれを広げて、横から顔を突き出してくるマキと同時に読む。

 便箋の中身は、詩だった。


「……きっと今でも、夢を見ているんだね」



 読み終えると。

 詩はいつの間にか、跡形もなく消えていた。







         メイキュウ・メイズ/了

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