2.ビヨンド


 東月アリスは臆病者だった。

 傍から見れば余裕がなく、極力他人と関わりたがらない。

 他人の人生に干渉することを嫌うし、

 自分の人生が干渉されるのも嫌だった。

 誰かに名前を呼ばれた時は隠していたものを暴かれたような気がして、悪口が聞こえればいつも自分のことだと思わずにはいられなかった。

 わたしは異物に違いない———そんな根拠のない明確な自覚さえあった。


 でもひとつだけ、「大丈夫」だと思えるものがあった。

 それは鳴羽音マキの存在だった。


 隣のクラスの彼女は会えば必ずシャカシャカと手を振り、隙あらばおかしな話題を持ち込んで喋った。いわゆる悪友というやつだった。

 そのくせ思った事を直球で言ってしまう委員長タイプで、気楽なのに鋭かった。胸を張って誰にも負けないでいた。でもなぜか、わたしと同じく友人は少なかった。


 そんな彼女といつ面識を持ったのかは覚えていない。

 でもわたしの中で彼女が「大丈夫」になり始めたのは、確か———そう、ちょうど一年前だった。




 あれはマキと同じクラスだった二年生の頃の、校外学習のとき。

 気の遠くなるような長い間バスに乗って、人が住んでいるのかすら疑ってしまうほどの田舎で一晩泊まった。

 友人の少ないわたしとマキは当然のごとく仲良しグループからあぶれ、同じ班になった。


 コオロギが喚いて止まない夜。マキはわたしの布団に忍び込んで囁いた。


「ねえ、アリス。寝てるのつまんないからさ———外、出てみない?」


 どうせ誰も気付いていないだろうと思って、頷く。

 防寒着を羽織ったわたしは、マキに導かれるがまま窓を跨いで宿から抜け出した。


 屋外の空気は、冷たく澄んでいた。都会のものよりはるかにクリアだった。

 暗闇が怖いわたしはマキの服を掴みながら、ぴったりとくっついて歩いた。宿の裏にはちょっとした丘がある。マキの手にした懐中電灯を頼りに、小高い丘を登った。


 木々が風に擦れてざわめく。一寸先の闇を人工の光が照らす。

 道なき道、その傍らの景色を遮っていた林も徐々に薄くなっていく。

 やがて頂上まで登りきって、懐中電灯は用をなさなくなった。


「すごい———」


「わぁ、綺麗……」


 思わず声をあげていた。生まれて初めて目にした神秘に、感嘆せずにはいられなかった。


 ———銀河が、どこまでも広がっていた。

 暗闇の空に輝く無数の星々が、眩しく天球を彩った。

 幾千億もの時と距離とを越えて、その光は小さな惑星に辿り着いた。

 それをマキと一緒に見届けた。わたしたちは丘の草原に寝転がりながら、ただ星の天井を見上げていた。

 それ以外のことなんてどうでも良くなるくらいに、美しい星空をずっと眺めていた。


 すると、マキはこれまで聞いたことのないような優しい声で唐突に呟いた。


「———ねえ、アリス」


「うん、なにかな」


「あたしね、夢があるんだ」


「へぇ、どんな?」


「ピアノが好きだったの、子供の頃から」


 マキは少し照れくさそうに笑う。

 わたしはすぐ隣にあるその顔をじっと見据えた。


「全然うまくないんだけどね。でも好きなんだ。それでね、ピアニストになりたいんだ。有名じゃなくていいから、誰かの心を動かせるようなピアニストに」


 その目は、星が反射したように輝いていた。

 数えきれない可能性を秘めた瞳だった。


「そうなんだ、意外かも」


「でしょ? クラスの誰も知らないんだから」


 にっ、とめいっぱいの笑顔を見せるマキはどこか誇らしげだった。

 それを見て、なぜだかわたしまで嬉しくなった。


「———アリスはさ、夢とかないの?」


「わたし? わたしは……」


 しばらく考え込んで、空を仰ぐ。

 その後わたしが何を言ったのかは、よく覚えていない。




 だけど———今でもその答えを探していることを、頭痛と共に思い出した。






      *   *   *






『あなたは108回死にました。あなたの煩悩つみの数です』


 目覚めるなり、少年とも少女とも老人とも幼児ともつかない声が頭の奥に響いた。


「はふへ!?」


 見れば、天井には30センチ級の照る照る坊主———不思議な精霊メイロちゃんがぷかぷか浮かんでいた。

 わたしは仰向けに倒れていた。

 線も色もはっきりとした廊下、ただ誰もいないだけの“メイズ”の中にわたしはいたままだった。


『罪状は、“劣等感”に“無関心”に“自己愛”に“嫉妬”に“偽善”に“拒絶”に“矛盾”に“思い込み”に“裏切り”に、“人を信じない”“人に優しくできない”“他人の気持ちが解らない”“壁を作りたがる”“優れた人が嫌い”“人間が怖い”……など数多』


 つぶらな瞳のメイロちゃんはくるりと回っていたずらっぽく笑う。

 かわいらしいツラとはアンバランスな、よこしまな笑い声だ。


『どうされますか?

 職員室に突っ込んでPCコードに首を絡ませて死にますか?』


「……死にたくは、ない」


『罪状に“死ぬ勇気もない”を追加……っと。

 しかしあなたは罪人です。死なないのなら他に方法は一つしかありません。

 ———罪を償いますか?』


 わたしは起き上がって、こくりと頷く。

 なんだかよくわからないけれど、窓から差し込む真昼の日差しを逆光に立ち塞がるメイロちゃんは、逆らうとひどい事をしてくるような気がした。


『いいでしょう。あなたは償いを選択しました。

 さあ早く、校庭108周の贖罪へレッツゴー、ですよ!』


 途端、宙に浮いたままメイロちゃんはするりと階段の方まで飛んだ。ひゅるるるる、とマンガみないな音が廊下に残る。


「ちょっと、待ってよっ!」


 遅れずにメイロちゃんを追いかける。

 階段を一段飛ばしで乱暴に下りる。

 辿り着けなかった1階を通って、大きなガラス扉の向こうにある校庭へ走った。




 校庭へ出ると、妙に明るかった。

 白い校舎がてらてらと光を反射し、目が痛くなるほど眩しい。

 砂塵の舞う校庭から視線を移す。

 上を見上げると、そこには———太陽が二つあった。

 わたしは、はっと気付いて校庭とは逆方向を向いた。


 そこにも、校庭があった。

 その手前に、“わたし”は立っていた。

 “メイズ”は———鏡の世界と化していた。


「鏡の、世界……わたしじゃない、わたしの世界」


 鏡に映ったわたしがわたしを見ていた。

 わたしは向こうにいるわたしを見返した。


「これが、『わたし』———」


 わたしはようやく思い出す。

 つまり、わたしがこの学校に通う高校生だったことを。

 誰も知らないわたしを、わたしが知っていたことを。




 ———気が付けば、校庭を駆けていた。


 前方には不思議な精霊メイロちゃんが導くように宙に浮いている。同じスピードで、不思議な力で空中移動に勤しんでいる。

 そして遠くには、同じように走っているわたしの姿。

 校庭の向こうの校庭にわたしがいる。

 わたしがわたしを見ている。


 ———一周、二周、三周……


 スニーカーがジャリジャリと土を踏みしめ、向かい風にスカートが舞った。

 全力疾走でもこの世界では疲れないらしい。束ねられていない髪が長く尾を引いて乱れる。


「は……っ、うっ……」


 訂正、疲れないわけじゃない。


 一周走るごとに、

 足を踏み出すごとに、

 その罪が内臓を切り裂くようにわたしを苛む。

 お前がその罪を作ったのかと責めてくる。


 ———四週、五周、六周……


 内側から湧き上がってくる不快感。

 それはわたし自身への嫌悪に他ならない。


「ごめんなさい———許してください———わたしは悪人です、わたしは罪人です———」


 その苦しみに耐えられず叫ぶ。

 人間に耐えられるものではない。

 足が引きつるよりも先に、喉から懺悔が断末魔のように溢れていく。


 ———七周、八週、九周……


「もう、限界っ……」


『贖罪を辞めますか? では処刑します』


「やだ……死にたく、ない———」


『困りますね。最後まで償っていただかないと困ります』


「じゃあ、どうしたらいいの!」


『ひとつ生まれ変わる機会を与えましょう。

 生まれ変わったら何になりたいですか?』


「生まれ変わったら……」


 走りながら、空っぽの頭で考える。

 でもあいにくわたしの脳は肉体を制御するのに精一杯らしい。考えてもいないことが無鉄砲に口から出た。


「生まれ変わったら、人気者になりたい! 何もしていないのに大勢の人に好かれて、ただ笑っているだけでみんなと幸せでいられて、流行りに乗ったものを理解したように語れて、可愛い持ち物とか女子っぽい言葉遣いで人気を取れて、本当は打算だらけなのに弱音ひとつで不幸者を装えて———って、あれ?」


『それがあなたの理想の女子高生ですね。わかりました』


 十周目に差し掛かるあたり。

 一メートル先を飛ぶ不思議な精霊メイロちゃんは、キラキラした不思議な粉を振りかけてくる。

 そして、制服にこびりついた粉は光を拡散し、やがてそれは全身を包んで———



 キラーン、JKモーーーーーーーード!!



「わ、わわわわわ———!?」


 妄想の力が光り輝いて突風が舞う。

 走るというよりは飛んでいる。昔テレビでよく見た変身シーンが、あろう事か生身のままで行われている。


 そして、掌による華麗なる受け身・半円を描いて着地。

 目元にピースでポーズを決め、妄想の歓声が鳴り響いた。


『これであなたの力は6000倍! 滞りなく罪を滅ぼしちゃってください!』


 言われるがまま長距離走を再開する。

 確かにぜんぜん違う———頭も身体も軽くなって、飛ぶように超速力で校庭を廻る。


 ———十三周、十七周、二十一周……


 溢れる脳内麻薬、痺れるような全能感。

 わたしは白鳥になった気分だ。視界の隅にデジタル表示された妄想パワーゲージは臨界突破し、一本の矢となって校庭をひたすら走る。


 ———三十周、三十六周、四十二周……


 精神バリアーのおかげで罪悪感も無きに等しい。

 わたしは生まれ変わった。

 わたしはわたしを殺してやった。

 罪なんて、わたしに追いつけるはずがなかった!


 ———五十六周、七十八周、九十九周……


 ギアを上げて音速を超える。弾丸のように衝撃波を撒き散らし、木の葉を巻き込んで風となる。


 ……そんな中で。

 ふと、を見る。

 鏡の中で走るもうひとりのわたし。

 そのわたしは———皺だらけの制服のまま、何も変わっていなかった。


「嘘……わたしは、生まれ変わったはずなのに———」


 わたしはわたしを超越した。

 苦しみを超越して、力を超越した。

 だからもう何も怖くない。既に完成された存在なのだから何も怖くない。怖くない。怖くない。その、はずなのに———


/だけどどうしようもなく暗くて

/人と関わるのが嫌いで

/誰にも褒められないし

/特別でも何でもない

/わたしには、何もない


 ゲージが削られていく。

 煌びやかなドレスも燃えて霧散して、風に掻き消されていく。

 減速しながら、これまで無視していた罪が数万キロの重圧となって四肢の感覚を破壊する。


「が、はっ———」


 急速に冷えていく血液。

 走る気力も、生きる気力も失った。

 千切れた腕と足首と頭がバラバラに校庭に砕かれる。


「ぁ…………」


 かろうじて三秒だけ意識を保ったが、それも一瞬で終わる。

 ヤケになったが最後の因果応報。

 他力本願の力は完膚なきまでに崩れ去る。

 血溜まりの中で原型を留められなかった肉塊には、まもなく死が訪れた。






      *   *   *






 わたしの身体はプールの底に沈んでいた。

 沈んでいるのは肉体だけで、信号は入力されず意思と脳は繋がっていない。

 身体を動かせないのはそのせいだった。わたしの意思はプールの中を飛び回るけれど、決して水面からは出られない。意思は肺を持たず、エラ呼吸しかできないからだ。


 だから、さんざん意味もなく水の中を泳いだ後、意思は再びわたしの暗闇に戻った。

 その暗闇は実体を持たないが、わたしの過去と現在と未来につながっている。

 わたしはその亀裂から覗き込んだ。




 最初に過去を見た。


 子供は無条件に自分が他者に好かれていると信じる。子供は純粋で無垢だ。

 しかしそれは残酷さでもあった。

 なぜなら事実ではないから。大人の言うことを信じるが、それが嘘だとわかると絶望した。そしてそれを受け入れて、妥協していく過程を人は成長と言った。


 東月アリス……つまりわたしの場合は、現実への逃避から妄想に執着した。治ることはなかった。

 それは同時に、大人を信じられなかったことを意味する。だから学校が嫌いだった。彼らの語る希望と、彼らに託される期待が窮屈な束縛だった。


 勉強や、社会への適応。それらを教えられ、生きていく術だと知りながらも、信じることはできなかった。

 そりゃ、役には立つんだろう。でも幸福になれる保証なんてどこにもなかった。それらは大事だけれど、本質ゴールではない。もっと大事なものがあるような気がしてならなかった。




 そして未来を見た。


 それは可能性だった。

 現状では予想ができない未来も、可能性ならいくらでもあった。

 パン屋になるかもしれないし、クリーニング屋かもしれない。忙しない日々を送る会社員かもしれない。職業という意味でなら多くの人が将来的にそれを手にするだろう。


 だが別の意味ではどうか。

 未来は、まだどこにもない。未来とは選択と創造の結果だ。現実を受け入れて妥協するなど、未来ではなく可能性の死にすぎない。生きていく糧となる理想、その見えない終着が未来である筈だ。


 わたしの未来は……もちろん見えない。

 見えるのは妄想、つまり想像だけ。それもわたし自身ではない。かつて誰かの語った理想を、代わりに夢想するだけだ。




 最後は現在を見た。


 それは、今視ている暗闇だ。

 高校三年生。息苦しさ。孤独感。

 恥の多い生涯を送ってきましたとはよく言ったものだが、振り返ってみれば失敗続きだった。

 それが罪なのだろう。それが過ちなのだろう。

 償えないほどの、巨大な重さが生の指標をくり抜いて空白にさせた。

 許す者などいない。誰よりわたしがそれを許していなかった。


「———神様なんて、どこにもいないんだ」


 このまま、何にも意味を見出さないまま暗闇に食われる。きっとそれがわたしの本当の死なんだろう。

 だからこのまま、妄想だけじゃなく現実ごと死んでしまえばいい。そうすれば、罪の苦しみからも逃れられる。


 ……どうせ校庭を走っただけじゃ、罪を償えなかったんだ。

 この“メイズ”が絶望と希望の狭間なら、わたしは敗北した脱落者だ。価値のある人生なんて送れない。なら、ここで消滅するのは道理だろうに。




 ……でも、なぜか。

 わたしには声が聞こえた。


 ———あたしね、夢があるんだ———


 暗闇の中で目を見開く。

 そこには点々と、あの日の空が蘇った。


 ———アリスはさ、夢とかないの?———


 わたしはずっとその答えを探していた。

 ずっと探しているふりをして、その意味を忘れていた。


 ———わたし? わたしは———


 でも……今なら。

 あの夜、わたしが何と言ったのか思い出せる。


「そう。わたしの、夢は……」




 暗闇は、揺らめく水面へと変わった。






      *   *   *






「ぷはっ」


 わたしはプールの中にいた。

 水は引いて、濡れた身体を屋上の風が撫でる。


『やっと分かったようですね』


 すぐ傍には、何事もなかったかのように不思議な精霊メイロちゃんがいた。

 25mプールのど真ん中、裸足のままわたしは立ち上がる。


「うん、やっとわかった。わたしの夢を。わたしが何なのかを。そして———わたしはおまえを倒さないといけない事を」


 しばらくの沈黙。

 睨みつけた先のメイロちゃんはその場で720度回転する。

 そして、歪な笑い声が鳴り響いた。


『きゃは、きゃははハはハハハハ!!

 ……愚かですねぇ、あなたはボクに勝てませんよ。ボクはあなたの罪……その往く道を阻むモノなのですからねぇ……!』


 瞬間———バンッ、と。

 白熱の光弾が射出され、プールのタイルが抉れる。

 わたしとっさにプールサイドに跳び退き、乱雑に放置されていた箒を手に取る。


『———外しましたか。ですが、そんな軽い棒切れでどうするのです? きゃはハッ』


 言って、プールの中央を陣取ったソレは連続で光弾を撃つ。

 ライトやスピーカー、テントのあちこちが破壊されていく。

 わたしはバタバタとプールサイドを走り回り、摂氏180度を優に超える光弾を躱す。


(あれはもうメイロちゃんじゃない。わたしの過ち、間違いそのもの……っ!)


 やがて、ソレの姿が変わる。

 指が生え、四肢が生え、頭が生え———

 人間のカタチとなったソレは、わたしに酷似した『何か』に変身した。


『いけない子……こちらの方が、少しはハンデになるでしょうねぇ』


「ふん、ハンデなんていらないよ。わたしはおまえには負けない。たとえおまえがわたしになろうと、わたしは負けない」


 そう。

 わたしには分かっていた。

 ここで負けたら、あんなバケモノが現実のわたしに置き換わってしまう。

 わたしの存在は本当の世界から消去され、この妄想の世界で死と蘇生を永劫に繰り返す事になる。

 でも———


「わたしは、マキの夢を見守らないといけないんだぁぁぁ———!」


 形勢逆転。

 わたしは天高く箒を振り上げて偽物に突進し、プールサイドから跳び上がる。


「わたしの、最大の罪は———迷って、目を背けて、立ち止まったこと———!」


 急速落下するエネルギーを補助に、箒を槍のように敵に突き刺す間合いに入る。


「わたしは恐れていた!

 他人と同じでいることが怖かった!

 他人と違っていることが怖かった!

 でも、そんなの———どうでもいい!」


 ———バコーーーーン、と。

 強烈な衝撃が辺り一帯を襲う。

 わたしの箒が、偽物を貫いた感触。


「いっ……けぇぇぇええぇぇええええ!!」


 しかし———それはいとも簡単に、片手で押さえられていた。


『……こんなものですか。少し失望しましたね。

 まあ、いいでしょう。これで終わりです』


「———!?」


 鈍い痛み。

 見ると、箒は真ん中から二つに折れ———敵の拳がわたしの脇腹に食い込んでいた。


「ぁ……ぁ゛あ゛あ゛ぁあ゛———っ!」


 野球ボールのように身体が吹っ飛ぶ。

 ゴキン、と肋骨の折れたような音を立ててプールの壁に背中から衝突する。


『あーあー……惨めな姿になってしまいましたねぇ』


 ごはっ、と胃のものを吐き出す。

 全身が痙攣している。痛みのあまり神経が焼き切れたような感覚だ。


 制服は所々穴があき、ボロボロになっている。

 露出した皮膚の傷口から温かい血液が流れ出る。


(くそっ……いくらなんでも強すぎる……こんなのに勝てるわけ……)


 身体が、もう止めろと叫んでいる。

 このまま苦しむよりも、ここで楽になった方がいいと本能が悲鳴をあげる。

 でも———



 ———アリスはさ、夢とかないの?———


 ———わたしの夢は、マキの夢が叶うことだな———



 あの夜に語り合った言葉を、脳裏で繰り返す。


 そう。わたしにも、夢がある。


 だってわたしは一人じゃない。

 マキが語ってくれた夢を、わたしは覚えている。

 誰にも言えなかっただろう苦しみを、誰も信じてくれなかっただろう理想を……わたしは知っている。

 彼女の胸の内を聞いた時———わたしは、嬉しかったのだから。


『さあ、楽になってください。これでとどめです』


 震えている。

 震えている。

 からだの奥から、震えている。


『……何がおかしい?』


 数十もの光弾が同時に迫る。

 しかしそれは、“何か”によって弾かれた。


「ふふっ、」


 内側から笑いがこみ上げる。

 その対象は敵ではなく。

 酷似した姿の偽物には目もくれず。


 わたしは、己の“武器”を振るっていた。




「校庭を走っただけじゃ、罪は償えない」


 ボロボロになったまま立ち上がる。

 手にしたを垂直に立てる。


「———でもさ。罪を背負ったままでも、弱いままのわたしでも、わたしは進んでいいんだ。それがわたしだから」


『貴様……一体何を———』


 偽物が戸惑いを見せる。

 その光のない瞳がこちらを睨んでいる。


「失敗しても次を目指せばいい。挫けたのなら、また立ち上がればいい。

 背中を押してくれるものを期待するなんて、それこそみっともない。間違えたことはやり直せないけれど、それでも進まないと意味がない。だって———」


 そう。

 校庭を走っただけじゃ、罪は償えない。

 それはこれから一生かけて、少しずつ答えを出していくものだ。

 そして———


「———わたしは……誰かの夢が、その未来が……ちゃんと叶ってほしいから———!」


 その瞬間———虹色の光が全身を包んだ。


 それは傷口を瞬時に修復し、ボロボロに破れていた制服は一瞬で新品のようにピカピカに変わった。

 そして手中にあったのは———一振りの刀だった。


「じぶんの理想ゆめは、じぶんでかなえなくちゃ」


 わたしはプールサイドから駆け出す。

 倒すべき『敵』、自らの業に向かって。


『おノれ……おのレぇぇエえエエ!!』


 化け物の皮が剥がれる。

 プールの中央にあったソレは既にわたしの姿ではなくなり、第三形態———黒い炎に包まれた獣と化していた。


 その獣が豪炎を吹く。

 わたしは刀でそれを薙ぎ払っていく。


 焼け焦げた臭いがプール中に充満する。

 獰猛な獣の炎を斬りながら、わたしはプールの中でソレに対峙する。


「わたしは、見たい物のために生きる。

 わたしは、夢を守るために突き進む。

 誰にも———邪魔なんか、させない」


 そうして、柄を両手で握る。

 目の前に在る怪物を討ち滅ぼさんと、その刃は虹色の光を纏う。


『——……———…………————ッ!!』


 音にならない叫びが獣から放たれる。

 ソレは背中から空気を焼く炎を噴射し、重い後ろ脚で空へ跳躍する。

 ……まるで、わたしの技を学習している。

 百トンの重量が、屋上の六十メートル上空から垂直落下する。


「そんなに共倒れがいいのは結構。でも……」


 さながら隕石のようだ。

 紫炎を纏った巨大な落下物は災害そのもの。

 最後の生命を以って、そのケダモノは一直線にわたしを砕こうと墜落して———



「わたしのぉ、邪魔をぉ———」


 虹色の刀は身長の何倍もの長さに伸びて、


「———するなぁああぁぁあぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 “メイズ”の世界ごと、怪物を両断した。



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