メイキュウ・メイズ

屈折水晶

1.メイズ


 わたしは首の下から頭の上の癖毛まで氷水に浸かって脳細胞が鈍ったように憂鬱だった。

 体が震えているのは寒さからではなく、机をはさんで目の前に鎮座する担任の作り笑顔への恐怖からだった。


「東月さんならこのまま頑張れば、第一志望も目指せるよ」


 そんな言葉を聞いて頭が氷河のように真っ白にカチコチになるほど恐れおののいた。

 受からなければお前は全身の細胞膜から霧散して死ぬ、とでも言われているかのような圧力だった。

 ある意味で存在を否定されていると思った。



 大学受験を控えた秋———地球が終わるような速度で昼が夜に滅ぼされていく季節。わたしは何処にいようと、透明な壁で出来た迷路に支配されている気分だった。








 面談を終えて教室に戻るとまだ生徒がうじゃうじゃと大勢いた。

 わたしは即座に自席に座り、そして動くことなくモアイ像になりきっていた。


 東月アリスに話し相手はいない。それは判り切った事実で、決まりきった現実だ。

 近寄りがたいオーラを出しながら妄想するのが、唯一の寂しさを紛らす術であり日常だった。


 まったくつまらない世の中だなと脳内で呟きながら、出願教科だの勉強法だのつまらない話題に花を咲かせる放課後の喧騒と隔離された隅っこで、眠ったクジラのように瞑想する。

 二分も過ぎると片耳から傍受していた生徒たちの会話は遠のき、わたしはバイカル湖にダイブするのと同じ要領で木目の描かれた机に頭ごとダイブした。


 すると音は消え、世界は消えた。

 わたしは自分だけの妄想の世界に入っていった。

 外側の何もかもが溶けてなくなるように外界との接続が閉ざされる。

 誰かが話しかけても、チャイムが鳴っても、起き上がることはない。

 わたしはわたしの中にいて、世界はわたしの中にはない。

 そう念じ続ける。時間が砂嵐のように意識を攫っていく。

 きっと微睡みは、どこか遠い国へわたしを連れて行ってくれる。誰も知らない国へ。誰も邪魔できない場所へ。

 そんな、気がして———








 ふと、目を覚ました。


「痛い……」


 ぐにゃりと歪んだような頭痛。

 顔をあげて教室を見回す。———誰もいない。


 窓の外を覗くと、夕焼けでも昼間でも夜でもない空の色が広がっていた。

 カラスの鳴き声も車のクラクションも聞こえない。

 まるで学校が死んだみたいだ。

 わたしはしばらくぼうっとして、壁掛けの時計を確認する。短針と長針は面談を終えた時刻を指し、秒針は一ミリも動かず止まっていた。


「これって、もしかして……」


 ———奇妙な静けさが続く。校舎の中の気配が感じられない。

 夢にしては明晰すぎる風景。けれどいつもとは違う感覚が消えず、ぐるぐると空っぽの教室を彷徨う。


「わたしの世界……なの?」


 妄想が現実になったのかもしれない……そんな期待が芽生える。

 教科書やノートが入った通学バッグを肩にかけ、勢いよくスライドドアを引いて廊下へ出る。

 見渡すかぎり電気のついた部屋はない。他の場所も見てみようと思って、わたしは階段のある方へ進む。


 一段、一段と。

 壁伝いに階段を下りる。

 木で出来た手すりはひどく冷たく感じる。階段の下にあるものが、洞窟の先のように思える。


 そして、三年生のフロアである2階から一つ下のフロアに辿り着く。

 どの階も校舎の造りは似ている。わたしは壁についた階数の表示されているパネルを見ようと仰いで———目を疑った。


 パネルにあった数字は「5」だった。








 期待は確信へと変わった。

 バッグを放り投げ、好奇心と胸の高揚に任せて階段を駆ける。

 下から上へ、上から下へ。

 その構造を解明しようと、階段を上っては下りた。


 5階から戻ると4階につながっていた。

 そのまま上ると3階につながっていた。

 一つ上るとまた5階で、

 そして下りると2階に戻っていた。


 全ての階層はちぐはぐにつながっていた。




「なんて素晴らしいの! こんなに楽しいの、妄想にもなかった!」


 人前では決して出さない独り言が廊下で反響する。

 光も影も平坦なことを除けば、完璧だ。誰もいない、完璧な世界だ。


 しかし、放り投げたはずのバッグは何処にも見つかることはなかった。

 バッグはおろか、記憶すら不確かになっている。

 今まで何をしていたのか、

 今までどうやって生きたのか、

 今までわたしは一体何だったのか。

 抜け落ちたように忘れて、思い出せなくなっていた。


「あれ、おかしいな……」


 もしかしたら。

 この世界は、わたしを閉じ込めている……?


 瞼を閉じて視界を脳から追い出す。

 強烈な無の感触が神経を這いずりまわる。


 ———なにもわからない。

 ———なにも知りたくない。

 ———きっとなにも、信じられない。


 瞬間。

 鮮やかだった世界、わたしの妄想を具現化したはずの校舎は一変して重苦しく感じ、何かに吸い取られるように虚しさが胸に広がる。


 世界はわたしを拒むようだ。

 空白の檻。色のない無機質さで、消えるように亡失する自我。

 ……耐えきれず、緩慢に瞼を開く。

 廊下の窓から見た空はくすんだ灰に近づき、教室を象っていた影の線が細く途切れていた。


 色彩がすべて流されるように透明になろうとしている。

 わたしの存在が薄まるように透明になろうとしている。


 世界から何かが抜けていくのだと思った。

 触覚から視覚、聴覚に至るまで、いずれ塞がれるのだと予感できる。

 こうして壁に寄りかかって佇んでいる間に、わたしは世界とつながりを少しずつ失くしていった。

 そんなことを———ふやけた思考で反芻していた時。




 ———チリン、チリン。


 何かの音。どこからか水玉模様の音符が漏れている。

 それはだんだん近くなって、

 一瞬だけ薄生地のカーテンをはためかせて、

 ぬっと見上げながら、“そいつ”はわたしの目の前に現れた。


『ヌ?』


 そいつはつまり白色の物体だった。

 三倍サイズの照る照る坊主に、黒くつぶらな二つの瞳。

 首を傾げたそれは、まるで仲間を呼ぶようにくるりと回った。


「なんなの……ここは、わたしの世界じゃない。ここは、何処なの」


 返答はない。

 代わりに、そこかしこからぞろぞろ集まってきた白い妖精たち。

 どれも同じのようでちょっと違う。

 目や、鼻や、口……どれも何かが欠けて、完璧な個体が存在しない。ふわふわと漂いながら、密集して大群をなしていく。


 そんな“彼ら”が、カエルの合唱のように一斉に喋り出した。


『メイズ』

『メイズ!』

『メイズ?』

『メイズ!』

『メイズ♪』

『メイズ?』

『メイズ!』

『メイズ♪』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』

『メイズ!』


 ———狂気だった。

 すぐに身の危険を感じた。

 電撃のような音律に貫かれた錯覚。

 まるでぱっくりと食われるのではないかという恐怖が全身を駆けめぐり、わたしはバネに弾かれたように立ち上がった。


 すると———宙に浮いた白い物体の集団は形を変えて、


『ハロー! ココハ、“メイズ”ダヨ!』


 手と足がにょきりと生えて人型になる。

 そこにいるのは紛れもなく「わたし」の群体だった。

 同じ姿と同じ声。

 何人もの人形みたいな複製されたわたし。

 細胞分裂のように増殖したそれらが一目散に押し寄せて来て———その瞬間に、わたしは駆け出した。




 ———走る、走る!

 後ろにはゾンビのように元気な姿で追ってくる同じ顔と体をした謎の生命体。


「冗談じゃない! こんなの違う!」


 わたしは叫びながら階段のある方へ突進する。

 震える足を少しでも動かそうとして前屈みになる。

 この際、此処が何処かなんて関係ない。

 逃げられる所まで逃げないと、何をされるかわからない!


 ———そうして、上へ下へ。

 ちぐはぐにつながった階段を、でたらめに踏み越えていく。


 2階から5階へ。

 5階から3階へ。

 2階を飛ばして、

 繋がった4階へ。


「どうなってる、の……っ! なんでわたしを追ってくるの……!」


 追われる。追われる。

 わたしはわたしに、追われている。

 人形のわたし。

 たくさんいるわたし。

 わたしじゃないわたし。


 ———景色が、流れては後ろに去る。

 灰色だった空、

 透明だった壁。

 “メイズ”の校舎を力任せに駆けていく。


 ふと、流れる教室を横目で見る。

 音楽室や美術室、生物室に化学室、調理室とパソコン室、

 堅く扉の閉まった職員室、誰も入ったことのない校長室、

 始まりの一年生の教室、少しは慣れてきた二年生の教室、退屈な三年生の教室……


 迷路と化した廊下を急ぐ。

 バラバラになった記憶とカンを頼りにして、隠れられそうな部屋を探す。

 考えている暇はない。

 消されず残った、カギのついた入り口を手当り次第に確かめていく。


「———そこだ!」


 見つけたのは体育倉庫。

 金属の扉を急いで閉めて、ロックを掛ける。

 ……ここなら追っ手の心配は必要ない。

 わたしはひと息をつく。

 転がったボールの山にもたれかけて、臨界寸前の動悸と気息を整えた。








 仄暗い中でじっと膝を抱える。

 遠くから轟音。どどどどどん、と勢いよく接近する足音。

 見つからないよう息をひそめる。

 床と扉の隙間に差し込む微光から影が交錯するのがわかる。

 そしてまた、遠くへと消える。

 一分、二分…………十分と経っても、再び音が聞こえることはなかった。




 わたしに化けた恐ろしい群体はもう近くにいない。

 その隙に出口を見つけて逃げようとして、おそるおそる金属の扉を押し開ける。

 ———ぱっと眩しい光が体育倉庫になだれ込む。

 目を奪ったのは一面の白い世界。

 まるで核戦争の後みたいに、廊下は漂白されていた。


 耳を済ませても、目を凝らしても、気配ひとつ見つからない。

 誰もいない。誰もいない。

 誰も、いなくなった。

 わたし一人、取り残された。


 どこへ行っても真っ白な視界が続くだけ。

 さっきまであった体育倉庫の扉もいつの間にか、砂が風に飛ばされたようになくなっていた。


 そこでようやく、そのおかしさに気づく。


「わたしはこの世界にいちゃいけない……」


 触覚はない。

 視覚はない。

 聴覚はない。


 顔に触れようとして指が消えた。

 どこを見ても手と足が無かった。

 身体そのものがどこかへ行ってしまった。

 わたしは既に白色の空間に漂っている意思にすぎず、名前さえ曖昧で思い出せない。

 迷い込んだのか自分で入ったのかも、今となっては判断不能だ。


 ———そういえば。

 これは夢だったのか何だったのか。

 わたしの望む世界は何だったのか。

 わからない。

 わからない。

 あらゆる意味が、ここにいる前から考えていたことが、消失して白にとけていく。


 ———夢って、なに?

 ———わたしは、なに?


 ないはずの脳細胞がその質問を訴える。

 あと少しで答えられそうなのに口がどこにもない。

 ……いや。

 最後に残ったDNAが必死に糸口を探そうとする。

 あと少し。

 あともう少しで、“この世界”の真実が解るのに———




 ———でも、残念。


 おそらくは酸欠だろう。

 半分泡になったわたしの輪郭が、もうすぐぜんぶ溶けてしまう。

 無色の透明に同化して、魂ごと昇華する一秒前。

 眠りにつく寸前に、わたしはふと考えた。




 なんのために、生きていたの?




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