明日の黒板
一視信乃
明日の黒板
「俺、春子が好きだっ」
卒業式のあと、人気のない3Bの教室に呼び出され、これはもしや、とか冗談半分に思ってたら、まさかホントに告られるなんて、すごく驚いた。
黒板を背に立っているのは、濃紺のブレザーの胸元に卒業おめでとうの赤い花を付けた、同じクラスの夏男くん。
夏って字がよく似合う、爽やかな陸上男子だ。
互いに名前呼びなのは、幼稚園からの付き合いだからで、特に深いイミなんてない。
みんなにひやかされるたび、そういい続けてきたけど、彼の中では違ってたのかな。
なんて、ホントは薄々気付いてたし、そうならいいと思ってたこともあった。
「ガキの頃からずっと、春子のことが好きだった。違う大学だし、寮に入んねーといけねーから、あんま会えなくなっかもしんねーけど、それでも良かったら、俺と付き合って欲しい」
スタートラインに立ったときと同じ真剣な目で見つめられ、
その表情は、ちょっとズルい。
「ありがとう。そういってくれて、すごく嬉しい」
正直にいうと、彼の顔がパッと輝く。
「それじゃあ──」
「でも、ゴメン。ムリだわ」
「ムリ?」
「わたし、夏男くんとは付き合えない」
きっぱりそういってやったら、彼は一瞬かたまったあと、すぐに食い下がってきた。
「なんでだよっ? 他に好きなヤツでもいんのかっ?」
「いないけど」
「だったら──」
「ブラジルっ。ブラジル行くの」
「はぁっ? ブラジルぅ?」
「父さんの仕事の関係で、しばらく向こうで暮らすんだ」
今度のフリーズは、さっきより長い。
でもまたすぐに立ち直って、「そんな話、初めて聞いたぞ」と、持ち前の粘り強さを発揮してくる。
「あとからビックリさせようと思って、ナイショにしてたから」
「遠距離とか気にしてんなら、そんなんどってことねーぞ。元々寮に入ったら、
「ムリよ。ラインはともかく、電話は時差もあるし、気軽にかけらんないわ」
時差が12時間もあるってこと、今回初めて知ったけど、それって昼と夜が完全に逆ってことよね、多分。
「それに、走ってるときの夏男くんはカッコいいけど、普段はまったくときめかないし、好きな人とはいつも一緒にいたいから、だからわたし、夏男くんとは、お付き合い出来ませんっ」
も一度きっぱり拒否ってやったら、さすがの彼も撃沈したのか、軽く
こんなに落ち込んだ彼を見んのは、いつ以来だろう?
中学最後の大会?
胸が痛くて視線を
──絶対ハコネを走る!!
この “ハコネ” は温泉地じゃなく、東京箱根間往復大学駅伝競争──箱根駅伝のこと。
意外とキレイな字で、真ん中へんにデカデカと書かれたそれを見てるだけで、自然と口元が
走ってる彼が好きだから、彼の負担にはなりたくない。
色恋にうつつを抜かす暇があるなら、もっと練習に集中して、必ず夢を叶えて欲しい。
それは黒板に書けなかった、わたしのホントの夢でもあるから。
「陸上、頑張ってね。正月にテレビで観んの、楽しみにしてる。それじゃ」
早口にそれだけいうと、振り返らずに教室を出る。
泣き顔だけは絶対に、見せたくなかった。
*
その日の夜、家族で卒業祝いの外食をしてきた帰り、車で高校の前を通ると、どこか見覚えのあるジャージ姿の人が、校門へ入っていくのがチラッと見えた。
いや、でももう9時になるし、そんなわけないよね?
気にかけつつ家に戻ると、お隣の門のところに、豆柴のコタロウを連れた夏男くんのおばさんがいる。
「あら、春ちゃん。卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
お礼をいうわたしの横から、「夏男くんにもお祝い、いいたいんだけど」と、母が口を挟んできた。
「それが、あの子、帰ってきてからずっと、ゴハンも食べずに部屋にこもってたかと思ったら、いきなり高校行ってくるとかいって、こんな時間に飛び出してったのよ」
「何? 忘れ物?」
「さあ? あんな調子で、寮でうまくやってけんのかしら」
「夏男くんなら大丈夫よ。でも、スゴいわねぇ、あんな有名大学に……」
話が長くなりそうな二人と一匹を残し、父と一緒に家へ入る。
ああでも、さっき見かけたのはやっぱ、夏男くんだったのかな?
何の用だろう? 忘れ物?
ソファーにもたれ、そんなことを考えてたら、自分も下駄箱にサンダルを置き忘れてきたことに気が付いた。
夏男くんのことで動揺してたから、いつも通りに履き替えて、そのまま帰ってきちゃったんだ。
どうしよう。
別にもういらないけど、名前も書いてあるし、明日の朝、取りに行こうか。
とりあえずそう決めて、これ以上余計なことは考えないよう、ブラジル行きの荷物をチェックすることにした。
*
次の日、ちょっと緊張しながら、私服で高校の門をくぐる。
一応三月中は高校生のハズだし、学校へ行くのは問題ないだろうけど、制服を着んのはさすがにどうか、と悩んだ末のことだ。
誰にも見咎められることなく、無事下駄箱にたどり着いたわたしは、回収しにきたサンダルをつっかけ、校内へ潜入した。
最後にもう一度、教室が見たくって、人気のない廊下をひたひたと歩く。
三年生は一階で、
戸口から様子を
せっかくだし写真でも撮ろうかと、中に入ってスマホを取り出す。
黒板全体を捉え、ピントを合わせようと画面中央をタップしたとき、ふとそこに違和感を覚えた。
夏男くんのメッセージが違う。
昨日は、『絶対ハコネを走る!!』だったのに、今は、
──ハコネもハルコも絶対あきらめない!!!!
そう書いてある。
「夏男くんのバカ」
思わずポツリと言葉が
ホントにバカだ、夏男くんは。
こんなの、誰に見られっかわかんないのに。
ウソまで吐いて断ったのに。
ブラジルの件は、
行くのは本当だけど、父の出張に便乗した入学祝いの家族旅行で、ずっとそこで暮らすわけじゃない。
いずれバレるだろうけど、すぐ寮に入るみたいだし、向こうで撮った写真でも送れば、しばらくイケると考えたんだ。
最悪、バレて嫌われたって構わないとまで思ったのに。
あの時の決意はなんだったの。
兎に角消さなきゃと、黒板消しに手を伸ばしかけたわたしは、そこでちょっと考えて、代わりにチョークを手に取った。
──箱根走れたら付き合ってあげる
ハルコの下に、そう小さく書き足す。
どうせ彼には届かないけど、せめて黒板の上でくらい、その想いに応えたい。
そんな自己満足に浸ってたら、廊下からパタパタと、
驚きのあまり気が動転したわたしは、教卓の下へ身を隠す。
そこでじっと息を殺し、行き過ぎるのを待ってたら、あろうことかその音は、この教室にやって来た。
しかもなぜかまっすぐに、こちらへと近付いてくる。
誰だか知んないけど、もしかしてヤバい?
ドキドキするわたしの前で、ジャージにスリッパの足が止まった。
だが、その注意は教卓ではなく、黒板に向いているようだ。
一体何をしてるのか、しばらくそこでじっとしていた男性と
わたしも声を上げそうになって、慌てて口を抑える。
心臓が大きく跳ねたのは、突飛な行動のせいだけじゃない。
その声に覚えがあったから。
もしかして、夏男くん?
こっから顔は見えないけど、夏男くん (仮) は、多分スマホで黒板を写し、それからガラリと窓を開けた。
「待ってろ、春子ーっ! 俺、ぜってー箱根走るからーっ!」
なんで外に叫ぶのか、さっぱりイミがわからない。
わたし、ここにいるんだけどな。
そう思ったらこのシチュが、妙に可笑しくなってきて、わたしは必死に笑いを
やっぱバカだ、夏男くんは。
そして、わたしも大バカだ。
彼がいなくなり教卓から這い出たわたしも、窓を大きく開け放ち、そこから身を乗り出した。
見上げた空にはうっすらと、飛行機雲が延びている。
まっすぐにどこまでも、遥か未来へ続くように。
明日の黒板 一視信乃 @prunelle
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