自転車に乗って

秀田ごんぞう

自転車に乗って

 茶封筒を開ける。糊がぺりぺりと小気味よく剥がれる音がして、それは開いた。

 中には簡素な一通の手紙が入っている。

 慎重に紙を取り出して、机の上に広げる。そこに書いてあったのは、これまで何度も見たことがある文章だった。


「拝啓 時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。さて、先日は当社入社試験にご応募いただき誠にありがとうございました。厳正なる選考の結果、残念ながら採用を見送りましたことをご通知いたします。ご志望に添うことができませんでしたが、何卒ご理解の程よろしく願いたします」


 ……何も言葉が出てこなかった。

 これでとうとう二十三社目。もう、何が何だか分からない。

 同じ大学に通っている友達は、とっくの昔に内定を取って、暢気に卒業旅行の計画を立てたりなんてしている。

 だのに。僕は十三社連続で落ち続け、このままいけば就職浪人は必至という状態。面接まで漕ぎつけたのは、その中でもたった四社。後は全て、書類選考で落ちた。資格なんて一つも持ってない。けれど、人並みには勉強してきたつもりだ。大体にして、僕の友達もこんな感じで似たり寄ったりなのに、どうして僕だけが取り残されていくんだろう。一体どうして、僕だけが暗く底の見えない谷の中に一人でいるのだろう。僕が何をしたって言うんだ。

 もう訳が分からない。

 人生なんて……クソゲーだ!

 僕は封筒ごと不採用通知をびりびりに引き裂いて、部屋の隅に置いてあるくずかごに、力の限り思い切り投げつけた。丸まってぐしゃぐしゃになった不採用通知は壁に当たってくずかごに入った。

 一度湧いてしまった感情はすぐには消え去らない。僕は胸の内に湧き起こる怒りを必死に鎮めながら、部屋を飛び出す。その勢いのまま、階段を駆け下りる。

 階下に足がついた時、居間の方から母が顔を覗かせる。

 母は僕を見て、一瞬だが、僅かに顔をしかませた。少なくとも、僕にはそう見えた。

「……どうだったの……?」

 母の言葉に、僕は首を振って答える。

「ふぅ……。どうしてかしらねぇ……?」

 母はため息交じりにそうつぶやいた。

 そして、それが耳に入った途端、激しい情動が僕の心の中でのた打ち回る蛆のようにざわざわと蠢く。

「うるっせぇな! アンタには関係ねぇだろ! もう、放っといてくれよ!」

 靴を履いて、乱暴に玄関のドアを開け、鉄砲玉のごとく家を飛び出した。

 背中に浴びる母の視線が、痛く僕の心中を貫き、辛くて辛くてしょうがなかった。

 自分がどこへ行こうとしているのか分からない。それでも、僕は走った。筋肉が悲鳴をあげている。知ったことか。それでも僕は走った。爆発した感情が制御機構を破壊し、わき目も振らずただ一心にひた走る。どこまでも、どこまでも、走り続けた。

 そうして気づくと、僕は河原で仰向けになって倒れていた。

 全身に感じる疲労。荒い息遣いで、呼吸がひどく不安定だ。

 額にぽたりと、雫が一滴落ちる。ぽつぽつと、それは数を増していき、やがてザーザーと五月蠅い音になる。

 ……雨だ。

 雨は秒を追うごとに勢いを増して、どんどん激しくなってゆく。バケツをひっくり返したような雨が降りしきり、上空には大きな、それは大きな黒雲がどっしりと居座っている。

 僕は渾身の力で立ち上がって、雨を忍ぶために、橋のたもとに転がり込んだ。

 橋の下は上手いこと橋が屋根のようになって、人一人が雨宿りをするのには十分な広さだった。

 一息ついて、僕は橋を支えている石柱の一つに寄りかかる。

 他人から見れば、雨に濡れてずぶ濡れの服のまま、どうすることもできずに、こんな橋のたもとで雨宿りをしているような自分は、ひどく滑稽で哀れな人間として、その瞳に映るのであろうか。

 フッ……、という自嘲じみた笑みがこぼれる。

 自分はいつから、こんなどうしようもなく脆弱で矮小で無価値な人間になったのだろうか……。

ふと、辺りを見回す。

 ぼうぼうに茂った草むらの陰に、何かが転がっているのが見える。近づいて確認してみると、それは自転車だった。部品のほとんど全てが錆びついてしまった、ボロボロでもう動きそうにない自転車。

 草むらに転がっている自転車を見ていると、不思議と心の中に何かがこみあげて、幼き日のあれこれが思い出された。


 ――あの頃は、違った。今となっては遠い昔の、あの頃の〝ぼく〟は違った。うんざりするくらい卑屈で、現実に打ちひしがれているような弱い僕とは違う。あの頃の〝ぼく〟は無敵だったんだ――。



 ぼくは自転車に乗って坂道を上っていた。

 知らない人。知らない道路。知らないお店。

 ここはぼくの知らない街。ぼくは自転車に乗ってここまでやって来たんだ。

 辺りをぐるっと見回しても、知らないものばかり。

 でも、ちっとも怖くなんかない。だって、知らないところに飛び込む。それが冒険っていうものだから。

 ぼくは冒険が好きだ。そこにはいつもドキドキが待っていて、言いようもないくらい楽しいのだ。たまにケガをして、おかあさんに怒られるけれど、そんなのへっちゃらだ。そんな気持ちを吹っ飛ばしてしまうくらい、僕は冒険が、自転車が好きだから。

 だから、今もこうして汗だくになりながらも、ペダルを漕いでいるんだ。

 やがて、坂を上りきると一筋の爽やかな風が、ふわっと、ぼくの髪を撫でた。



 いつからだろう……僕はしばらく自転車に乗っていない。

 中学受験に失敗してからだろうか、自然と机にしがみつくようになった。結局は空回りに終わったけれど。大学に入ると、バスや電車ばかりを利用するから、自転車なんかめったに乗らない。

 目の前には錆びついた自転車が横たわっている。

 僕はそっと自転車を起こした。起こした拍子に、タイヤがカラカラと回る。

 ……倒れたっていいじゃないか。また、立ち上がればいいじゃないか。それが冒険ってものだ。

 僕は泥がこびりついた汚いサドルにまたがった。

 一筋の風が吹く。

 いつしか雨は止んでいたらしい。

 僕はゆっくりとぺダルを漕ぎだした。がちゃがちゃとチェーンが軋みながらも、自転車は動き出す。

 夕立のあとで、水たまりが所々に残っている道をゆっくり、ゆっくりと進んでいく。

 自転車に乗って、どこかへ旅立つために。

 橋の向こうには虹が煌めいていた。

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自転車に乗って 秀田ごんぞう @syuta_gonzo

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