Ⅵ
ゴミや土埃で汚れきった部屋の中。一人の少年が横たわる子供の前で膝をついて両手を合わせている。傍から見ると異様な光景だ。息も弱りきっていて、苦しいという感覚すら無くした子供。それを前にして看病することなく、助けを呼ぶこともなく、ただただ少年は祈っていた。
神様候補となった少年、神 様一が祈ることは神の力をそのまま使用することと同義であると
本来であれば、見知らぬ人間の死に様など見たくない。関わりたくない。そう思うのが人情だ。しかし、それが眼の前で起こっていて、尚且つ助ける手段があると提示されたのであれば話は別だ。様一は祈ることで目の前の子供を救うことを決めた。
さて、ここで様一は何を祈れば良いのだろう。
ここで疑問に思うのは、何故幼い子供が深い森の中、煤汚れた部屋で放置されていること。親は何をしているのか。体調を崩してからここに来たのか、それとも少し留守番をさせるつもりでいたのか。どちらにしてもろくでなしなやつである事に代わりは無い。もしこの子供がこのまま体調を万全にして、元気に生きていけるようになったとして、その後はどうするのか。捨てるつもりで置いてきたのか、後で迎えにくるつもりでここに留守番させたのかすらわからない親に返さなければいけないのではないか。そうしてこの子供が幸せになれるのか。否、幸せを祈ることは今の様一のするべきことではない。最優先させることは子供を助けることだ。しかし、助けた後は……?
考えが堂々巡りして祈る内容が定まらない。手を会わせ、目を強く閉じて硬直いている様一。
今考えうる最高の結末は、子供が元気になって、最高にいい大人が出迎えること。しかし、
今の様一にできる事。それは目の前の事柄に少しだけ力を貸してあげることだけ。その上、様一はあくまで神様候補。正式な神として君臨いていない彼がそこまで望むのは過ぎたる願い単なるありがた迷惑なのではないのか。そう思えて仕方がない。
「様一様」
そんな考えで頭を混乱させる様一に一声あけようと
「あなたの不始末は神様が拭ってくれますよ」
「堂々と胸を張ってください。あなたは何がしたいですか」
救いたい。見知らぬ子供だけど。名前も、性格も、声も国籍も知らない幼い子供だけど。道端で転ぶばあさんを助ける彼には。迷子の子供の手を引いてあげるほどのお人よし。そんな様一の思うことはただその一言に尽きた。
見えないところで死ぬなら知らぬ存ぜぬを突き通す様一。でも目の前で死なれるのは一番儀分が悪いから助ける。それを偽善と呼ばずなんという。しかし、それでいい。なぜなら彼は神様候補だから。子供を救った後の話? それは全て神様に任せればそれでいいではないか。子供の不始末をどうにかするのが親の務めだ。神様がそれをしないで何が親か。
そう考える事で様一の考えはまとまった。
子供を救う。そのことだけを様一は考えて祈った。
====
その子供の人生といえば親から虐げられる日常でしかなかった。
自分を産んだ母親は出産に身体が耐えられずに衰弱死した。その後、父親に引き取られて育つこととなる。しかし、男手一つで子供を育てるのは容易ではない。仕事に明け暮れ、帰れば幼い子供を育てなければいけない。そこまで裕福な家庭ではなかったため、家事代行を雇う余裕もなかった。次第に父親は子供に手を上げるようになる。泣けば叩き、言う事を聞かなければタバコを押し付ける。そんな虐待を繰り返していた。
そして満足に食事を与えられなくなった子供は案の定病に侵されてしまう。単なる風邪であっても、十分な治療を施されなかったことで病状は悪化の一途を辿り、命の危険にさらしてしまう。父親はそんな子供を見て思った。こんな餓鬼の風邪を移されて溜まるかと。
父親は子供を車に乗せ、昔遊んでいた秘密基地に放置する事を決定する。
もしここで子供が生き残ったとしても、父親は迎えに来る事はないだろう。死んだとしても素知らぬ顔で日々を送る事になるのであろう。
それは子ども自身が理解していた。
子供は賢い頭を持っていた。虐待されている事実、理由を全て理解した上で、状況の改善を願って過酷な日常を耐えていた。しかし、それに父親が応えることはなかった。毎日仕事で大変な親の代わりにご飯を作ろうとチャレンジしたこともあったが、調理器具の使い方を知らない子供は床に包丁で穴を開けることとなる。コンロの火で火傷をしたこともある。それを父親はイタズラと判断して殴った。あるときは助けを求めようと家出したこともあった。しかし、父親が大好きだった子供は踏みとどまってしまう。家出を断念して家に帰って父親のご機嫌伺いを常に行う。
そんな子供が常に思っていたのはただ一つ。いつか自分たちにも幸せが訪れるのだということ。神様はいつか自分たちを救ってくれるのだということを信じて疑わなかった。
病に侵され、身体の自由が消えていくのを感じながらもその子供は信じていた。いつか神様が自分の前に現れて救ってくれるのだと。
だから今起こっているのは奇跡なのだ。横たわる自分の傍で膝を付いて手を合わせている神様のようなお兄さんがいることを。
白い様相に身を包んだ男の人が自分のために祈りを捧げていた。不思議と失われていた力が身体の中で蓄積していく。子供は閉じていたまぶたをゆっくりと開き、霞む視界で青年の姿を確認した。ゆっくりと口を開いて、弱々しく言葉を放った。
「神……様……?」
その言葉を聞いた青年は優しく笑みを浮かべて子供に向かって言う。
「頑張ったね、ゆっくり休んでいいんだよ」
神差のような青年は横たわる子供の頭を優しくなでた。暖かいものに包まれるのを感じた子供は意識が遠くなってしまう。眠るように穏やかに。病に身体が侵されていることすら忘れてしまうほどの温もり。
先ほどまで感じていた息苦しさは感じない。穏やかな気分で意識は遠のいていき、目を閉じた。
「ありがとう……神……様……」
子供は眠るように息を引き取った。しかし、苦しくはない。地獄のような重力に身体を引っ張られるようで動かなくなっていた腕が、足が、頭が自由に動き回れるようになった。そんな感覚。
文字通り天に昇る感覚で子供は舞うのだった。
====
「……只今をもちまして、件の少女は逝去致しました」
静寂が支配するその空間。動かなくなった少年、神様一は亡くなったばかりの子供を抱えていた。事実を告げた
しばらく動かずにいた様一は次第に身体を震わせることになる。
「……もう少し、何かできなかったのか」
亡骸を抱えながら言う様一の声は震えていた。どこか泣き声のように聞こえる。角度から前髪で顔が隠れているために表情が見えないが、泣いているように見える様一の姿を見た
「なんでオレなんだ……」
その言葉は
もし仮に。本当に仮の話、様一が神様候補であることが真実だとして。ここにいるのが本物の神様であれば目の前の子供を、腕の中で魂の抜けた少女を救けられたのではないのか。齢五つほどの軽い体重がとても重く感じてしまう。それほどまでに様一の心には大きな穴が空いていた。
何故神様はここにいない。何故神様はこの子供を救おうとはしない。何故この子はこんな不幸せでなければならなかったのか。何故この子を救ってあげることはできなかったのか。何故神様候補はこの子を救ってあげることができなかったのか。何故自分は神様ではないのか。
そんな気持ちが頭の中で迂回している。
あまりの無力さを感じていた様一の頬から一雫の涙が流れ出る。それを門出に止まらぬ涙が目頭から次々と零れ出てきた。その雫は少女の亡骸の頬を伝って地面に垂れていき、そして消えていく。
自分はここまでお人好しではないはずだ。見知らぬ誰かのためにこんなに泣く義理はないはずだ。しかし、眼の前で死にかけている子供を助けてあげられるかも。そう期待を持たされた様一。当てが外れ、結局子供が死ぬところを見守ることしかできなかった。祈ることしか出来なかった。
「様一様」
嗚咽が漏れ出した頃、背後で突っ立っている
「私は、あなたほど神様に相応しい方とお会いしたことがございません」
その言葉の真意は掴めない。その言葉は様一の耳をただ通り過ぎるだけに思えた。しかし、不思議とその言葉は様一の頭に残り、木霊するように響いていた。
これ以上
様一はしばらく黙り尽くしていたのだが、少しだけ嗚咽が落ち着いたのを感じると問いかけた。
「神様なら……この子供を救えたのか……?」
「それは文字通り、神のみぞ知るというものです」
「オレが神様だったら……、この子供を救えたのか……?」
その問いかけに
問いかけに
『私は救われましたよ』と。
====
時は過ぎ、日が傾く頃に様一たちは秘密基地を後にする。
少女の亡骸はその場で放置してある。本当なら供養して、しっかりとした場所で眠りについてほしいと思うところだ。だが、忘れてはならない。様一は神様候補で、
今日の出来事で、様一は二つ、自分の無力さを感じさせられた。一つは子供を救えなかったこと。もう一つが子供の亡骸をしっかりと供養してやれなかったこと。神様として君臨していればなんとでもなった事柄なのに、自分の力が足りないばかりにただ一人の子供を見捨てることとなってしまった。とてもではないが元気に家路を歩くことはできない。
道路で放置してある自転車の元に辿り着いた様一はクリップに手を添えて停止していた。付随するように後ろを歩いていた
「……お前の策にハマるのは癪だけど」
少しだけ機嫌が悪そうな声音で様一は告げる。
「オレは見知らぬ誰かのために。世界の裏側の人間のためになんてことは言えない」
一般の男子高校生は世界のためにドブに金を捨てるようなことはしない。数円、十数円を募金することはあるかもしれないが、自ら募金活動はしない。そんな彼が遠くの人間のために神となり、全ての人間を救うなどという大それたことはいわない。
だが、もし目の前で助けを求められたなら行動をせずにはいられないのも様一という人間だ。
「……やってやるよ、神様候補」
神としてのエネルギーが目の前の人間を助けられるきっかけになるのなら、様一はなってやろう。神様候補に。そこから神様になるかどうかはまた別の話。
「そうですか、なら帰って個人授業ですね」
「……あぁ」
様一はペダルを跨いで自転車を漕ぎ始める。
神様候補を受け入れるきっかけになった子供の死。それは将来の様一に大きく影響を与えるものとなるのだった。
神様候補 尾裂狐 @osakiyudai
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