奮闘する者に捧ぐ

@level1-2

第1話

 香辛料と砂の匂いが鼻をさす。雑踏のざわめき、暑すぎる陽射し、帰ってきたのだと目を細めた。

 空港の窓から見える景色に懐かしさは微塵もなかったが、行き交う人々の言葉や様子が記憶をくすぐる。

 戻ってきた。ふと頬が緩む。だれにともなく、心の中で囁いてスーツケースを引きづりながら、足を進めた。

 いい思い出などほとんどないのに。

 きれいな大きな目で見つめる彼らは真実を探していた。しかし、あの時、こちらには渡せるようなものはひとつもなかった。

 額を抑えると、記憶を振り払った。純粋な目、歪んだ目、残忍な目、同情する目、怒り狂った目、怒鳴り声、冷静な声、宥める声、懇願する声、殴り掛かる腕、銃口。

 振り払おうとしても、記憶は何度となくよみがえり、同じ場所と時間に引き戻した。どこにいても同じだった。温かいベッドで休もうとも、育った場所で家族と話していても、同じ場所に引き戻される。

 彼らは、俺たちを見ろと叫び続けていた。俺たちの意見を聞け。俺たちのことを忘れるな。

「柏木さん!」

 懐かしい顔が駆け寄ってくる。ドライバーをしてくれていたサムルは、人懐っこい笑みを浮かべて手を振っていた。

「久しぶりですね」

 片言の日本語をしゃべりながら、握手を交わす。

 空港から出てきた旅行者たち、帰国者たちがそれぞれに車に乗り込んでいく中を進む。サムルの車は、白のワゴンに新調されていた。

「日本の中古車だよ」

 誇らしげに言う彼の白い歯が陽射しに輝いた。前の車の悲惨な最後を知っているので、いいねとだけ声に出しただけに留めた。

「まだ痛いか」

 無意識に頬を撫でるのは癖になっていた。当時、殴られた頬は晴れ上がり、人相も分からないほどだったが、すっかり回復している。

「いいや、大丈夫だよ」

 人懐っこい笑みを浮かべたサムルに、同じように笑みを返した。しかし、彼の笑みの中に浮かぶ不安を柏木は嗅ぎ取っていた。

 どうして戻ってきたのか。メールと国際電話で何度もやり取りしていたが、彼は未だに納得はしていないようだった。

 あんなに酷い目にあったのに。彼の非難するような、心配するような目がふいにバックミラーに現れては消えた。

「懐かしいな」

 市街地に入り、荷物を取り出す。ホテルは前回と同じところにしていた。

 市場の活気も変わっておらず、ホテルの入り口から見回すと、時が遡ったような錯覚さえ覚えた。

 あの出来事の前、まだ使命感に燃えていた時に戻れたら。何度も願いながら、諦めた奇跡を思い浮かべ、頭を振る。そんなことができるはずがなかった。

 あれも含めて、今の自分ができている。なかったことにしたいわけではないのだ。

「変わってないな」

「そう見えるですか」

 荷物を取り出すのを手伝うサムルの横顔は曇っていた。あの後、戦況が悪化したことはテレビでも新聞でも知らされていた。だが、最近はいい情報も多い。

「違うのか」

 近況のことも情報を少しは得ているつもりではいた。しかし、日本で得られる情報など高が知れている。周りを気遣わしげに視線を逸らしたサムルは、黙ったままカバンを下ろした。

「ホテル、入りましょう」

 サムルからのメールでも状況が悪化していることは聞いていた。しかし、それが市街地の観光客も入るような場所にまで及んでいるとまでは想像していなかった。

 観光客がいなくなったホテルは閑散としていた。外国人の誘拐事件が多発するようになってからは、客足は遠のいているようだった。

「また、お会いできてうれしい」

 片言の英語で、ホテルの支配人と会話し、抱擁を交わす。

「ああ、無事で何よりです」

 サムルとともに、三人でどうということもない世間話をしながら部屋に上がる。荷物を持ってくれていたボーイの姿はなく、支配人が腰をかがめながら荷物を運ぶのを手伝ってくれる。

「繁盛はしていないみたいだね」

「見ての通りです」

 肩をすくめた支配人の頬には疲労の色が濃い。

「終戦したって聞いたよ。以前よりはずっと外国人の入国も楽になったって」

 一時期は、渡航しようとするだけでパスポートを取り上げられた。第三国に向かう手続きをしてからしか、入ることが叶わなくなった場所だったのだ。

 しかし、終戦宣言が出され、少なくとも表向きは平和が訪れたことになっている。

「まだまだです。でも、これからですから」

 以前のようにはいかないが未来はあるとため息まじりに支配人は言ってから、ホテルの廊下を見回した。使っていないのか、廊下の奥には照明も灯っていなかった。

 そちらを目を細めて見る支配人の目には、恐怖の色が濃い。

「だれかいるのか」

 声を低くして問う。

「いいえ、何も」

 鍵で扉を開けると、丁寧に磨かれた室内に案内する。荷物を運び入れてしまうと、窓から距離をとって、支配人はドアへ向かう。

「困ったことがあれば、なんでも言って下さい。では」

 慌てて下がっていこうとする支配人の額には、汗が滲んでいた。室内は日陰になり、汗をかくほどには暑くないはずだった。

 窓を見ながら、ベッドに近づく。腰掛けてから、痩せた自分の姿がうつる鏡を見つめた。懐かしい景色だった。涙を流しながら、懇願してまでもう一度見たいと願っていた姿だった。

 戻ってきた。戻ってきてしまった。やっと戻って来れた。複雑な感情が興奮と後悔と戸惑いを行き来する。

 まず、ドアの鍵が閉まっているかを確認するとクローゼットと浴室を見て回った。便器にヒビは入っているが問題はないようだった。

 貴重品をクロークに預け、サムルと昼食をとるためにもう一度ホテルの外に出た。

 待っていたサムルは時計を気にして、周りを見回す。

「そんな時計していたか」

 背後から話しかけると、サムルの肩が文字通り跳び上がった。

「驚かさないで」

 胸に手を当てたサムルとおどけたように間を回してみせた。

「すまない。時間がないのか」

「柏木の要望に答えるのは大変」

 そうか。そうだよな。サムルに頼んだ内容を思い出し、サムルが見ていた方角を見る。

「あっちか」

「そう」

 人が忙しなく行き来する往来の向こう、ひと際大きな建物が立ち並ぶ方角は、陽射しを受けてその荘厳な意匠を誇った。




 地元の名物料理屋は、変わらずそこにあった。ひっきりなしに人が入っては、食事を追えて出てくる。木のテーブルとプラスチックの椅子が軒先の下にまで出ている。

 入り口付近の椅子にどうにか確保して、腰掛けると目の前に牛の肉をスライスしてパンで挟んだものが差し出された。

「うまいな。本当おいしい」

 明るく話す目の端で、サムルは忙しなく通りの向こうへ視線を向ける。

「もう少し、声を小さく」

 難しい顔で、素早く同じものを食べるサムルは、口端に付いたパン屑にも気付かずに、急かす。

「今は微妙な時期だってメールでも書いたよ」

「すまない。嬉しくて」

 機嫌の悪い顔に、悪びれずに謝る。

 形ばかりとは言え、選挙が行われ、大統領が選ばれた。反政府派がまともな候補を立てられない間に、元々の政権が後ろ盾となっている大国の支援のもと、勝利を挙げている。

 文句も言えない状態だが、反旗を翻した者たちが納得するはずがないだろう。

 そして、近々裁判がおこなわれようとしている。拘束されたテロ行為を行った者たち、協力した者たちが壇上に上がる。いら立ちは増すばかりだ。

 茶番劇だと、全員が知っている。政権側の用意した国際社会に向けた体裁を整えるための裁判。証人として、当時の被害者たちに声がかかっているが、応じる者はいないようだった。

 国から要請は来たが、断っていた。裁判にかけられる彼らの行く末は、極刑と決まっている。茶番劇の裏付けに役立つつもりはなかった。

 誘拐されたことも、暴力をふるわれたことも許しているわけではない。毎夜うなされるほどに後遺症は残っている。彼らを懲らしめに戻ってきたわけではない。

 しかし、そんなことを彼らは知らない。外国人、しかも誘拐の被害者がこの時期に現れて、反政府側の人間がいい気分でいるわけがなかった。

 歓迎されるわけがなかった。

「裁判はあっちでやるんだったな」

 見上げた先に、先ほども眺めていた建物群が並ぶ。攻撃から逃れた街並はノスタルジックで美しい。

「はい、あっちにコート」

 証人として参加しないまでも、見物はしようと思っていた。どんな過程で、彼らが裁かれるのかは知っておきたかった。

「明日の昼からです」

「分かった。ありがとう」

 裁判を傍聴することもこの旅の目的だったが、一番の目的ではない。そのことはサムルにすら言っていなかった。

 見物に向かうことは、危険が伴うことは分かっているが、彼らがどんな過程で最後の運命をたどるかは見ておきたかった。




 食事を終え、二人で車へ戻るとサムルに行き先を伝えて向かってくれるように頼んだ。

「本当に行くんですか」

「ああ」

 サムルは、運転席からバックミラー越しに再度確認してくるが、もちろんと肩をすくめるしかなった。事前のメールでも何度も確認していることだった。

「分かっていると思いますが、何も残っていませんよ」

 誘拐された現場に行きたい。そして、監禁されていた場所が見たい。

 彼らのアジトであったそこは、攻撃を加えられ、見る影も無いというが、なくなったならば、なくなったで見ておきたかった。

「今も危ないです」

 いい顔をしないサムルを宥めるが、彼にしてみれば柏木の行動は正気とは思えないようだった。

「分かってる。すぐに戻ってくるから」

 彼が、腰の後ろに拳銃を差しているのを知っていた。額にも汗が滲んでいる。やはり、微妙な時期でもあり、楽観できるような状態ではないようだった。

 だが、どうしても、あの場所に戻りたかった。

 誘拐されたのは、一人だけではなかった。同じように誘拐された人間たちが、同じ場所に集められていた。

 過ぎる景色を見送りながら、思い出す。

 道路の向こうに見えたのは乗用車だった。横に止められた様子に、眉をひそめると、サムルが慌てて、Uターンを切ろうとした。

「大変です、柏木さん」

 あのときはまだ、律儀にさん付けをしていたのだ。

 車は回りきれずに、後ろから来た同じような乗用車に挟まれた。

 次々と降りてくる黒い覆面の男たちを見ながら、目を見開いていることしかできなかった。

 サムルが何かを話していたが、彼らの構える銃とぎらつく眼差ししか見えなかった。

 風が土を巻き起こして、視界の端を過ぎた。どうでもいいことばかりが、はっきりと記憶に残っている。

「降りてください」

 サムルの声に現実に戻ると、覆面の男たちが何事かを叫びながら銃口を振り回した。出ろと言っているようだった。

 恐怖で喉が張り付き、手足は言うことを聞かない。

 両手を上げると、敵意がないことを示した。

「今出ると伝えてくれ」

 サムルに囁くのが精一杯だった。どうにかドアを開け、外に出ると跪かされ、目隠しをされた。そこからは暗闇と力づくで歩かされた覚えしかなかった。すべてが一瞬のようで、ひどく鮮明だった。

 同じ道を走っていた。

 心臓が高鳴り、視界が狭まったように暗くなり、身体がふるえ始めた。

「柏木?」

「大丈夫だ」

 冷や汗の浮く額を拭って、サムルに微笑みかける。彼もまた思い出しているのだろう。今更ながらに、こんなことに付き合わせていることを申し訳なく思うが、引き返すつもりはなかった。

「この辺りですね」

 何の変哲もない道路が続いている場所だ。地平線の先まで続いているように見える。あの日見た車輛もない。風も穏やかに吹くばかりだ。まるで別の場所にいるようだった。広大な砂漠が広がるばかり。

 現地の言葉が口から出た。サムルが教えてくれた言葉のひとつだった。

「なんて言いました?」

 風の音に消えて、サムルの耳には届かなかったようだ。

「なにもないな」

 呟くと、気の抜けたような顔でサムルも頷く。ここがあの悪夢の場所だなんて、嘘みたいだ。用意しておいたカメラを構えると写真を撮る。薄いデジタルカメラは、懐に入れておくだけで、収まる。

「行こう」

 次はかつてのアジトに向かう。サムルの頬に痛みが走る。

「分かりました」

 ごめんな。心の中で謝りながら、車へ戻った。

「そういえば、サムルの家族はどうしてるんだ」

 幼い娘がいるという話は何度か聞いていた。

「もうすっかり、言うことを聞かないです」

 娘の話になると目尻が下がるのは、変わっていなかった。息子や妻の話はしたがらないが、娘なら話すことができるようだった。

「元気に育ってくれるのが一番だよ」

 まだ言いたいことはありそうだったが、サムルは黙った。日本とでは、教育、特に女子への教育について事情が違うのか、しばしば意見が合わなかった。しかし、互いに娘の行く末が明るいことを願うことは同じだった。

「幸せになってほしいだけです」

 そうだよな。話はいつもそこで終わる。願いは同じでも、幸せの意味がそれぞれ違うことを、サムルから教えてもらった。すべてを正しいと同意できるわけではなかったが。

 車内の無言に堪え兼ねたように、サムルが音楽を流し始める。緊張を和らげたかったのかもしれない。独特の抑揚が付いた音楽をサムルも一緒にくちずさむ。

 耳がその音を拾うと、目を閉じた。聞いたことがある曲だった。両目を塞がれ、連れて行かれたアジトには複数の人質がいた。

 目隠しをされ、狭い部屋の中に、座らされていた。最初は食事の時とトイレのときだけは目隠しを外されていたが、慣れると目隠しもされなくなった。

 しかし、人質同士の会話は禁止された。

 無言の中で聞こえるのは、兵士たちの笑い声とかすかな音楽。車に流れる曲と同じだった。

「この曲はなんて言うんだ」

 サムルが答えるのに、かすかに口角を上げてみせた。

「いい曲だな」

「曲じゃないですよ。お祈りです」

 コーランの一節を流しているのだと言う。お祈りの時間が日に幾度かあるのは知っている。その度に、歌声が流れていたが、それが今流れている祈りなのだと言う。

「そろそろ時間だっけ?」

「はい。車を止めていいですか」

「もちろん」

 カーペットを持って降りるとサムルは、方角を決めて、祈りを捧げる。

 彼らにとって、祈りは近い。生活の一部というよりも生活のリズム、支柱をなしている。

 これだけ厳しい戒律の中に生きて、どうして犯罪に手を出すのか、当時は全く理解できなかった。怖いばかりで、彼らのことを見ていなかったのかもしれない。

 どんな理由があるにせよ、犯罪は許されない。たとえ、生きるか死ぬかしかない場所であっても。平和な場所での理屈だとしても。

「終わりました」

 静かに砂漠の風が通り過ぎる中で、祈りの声が聞こえていた。サムルは、少しすっきりとした顔で、戻ってきた。

 祈りは、精神を支える支柱にもなっているのだろう。

 


 街が見えてくると、その廃墟同然の姿に、眉をひそめた。テレビでは何度も目にしていたが、空から攻撃された街並は、目の前にすると圧倒される。

 人の姿は見えないが、住んでいる人はあるらしい。煙がいくつか立ち上っている。

 無言のまま、サムルが車を街の中に乗り入れた。通り過ぎる街は、残骸しか残っておらず、解放された時にちらりとしか見なかった景色と比べても別の場所にしか思えなかった。

「一人では、絶対に歩かないで」

 バックイラーを睨みながら言うサムルは、建物の影を気にしているようだった。

「分かってるよ」

 視線を追うが、目に付くものは特にない。ただ廃墟ばかりが目に痛い。

 ここから何もかもを奪ったのは何だったのか。

 帰国して、空爆の知らせを受けたときも、子供が怪我をした映像を見たときも、眠るときも、目が覚めているときも、ずっと自問し続けたが、まだ答えは出せていなかった。

 この場所から、穏やかに暮らす人々さえも奪ったものの正体は。

 ある人は、宗教対立だという。ある人は、政権の横暴だと言う。ある人は、大国の代理戦争だと言う。ある人は、人の業だと言う。武器を売りたい連中の甘言だと言う人も、歴史が背景にあるのだと言う人もいる。

 抜けるような青空に目を向ける。数字でだけ、犠牲者の数を知ったが、その数も曖昧だった。その人となりも、名前すら、顔すら知らない。

 誘拐された自分たち、その救出のために殺された無辜の人々。彼らの命と自分たちの命は、どうしてこれほどまでに重さが違うのだろうか。

 いたたまれない。しかし、生きていたい。救出された時、火薬の匂いがする中で、確かに助かったことに感謝し、喜んだ自分がいた。

 影で、死んでいった他の人質や住民たちのことを知らなかったわけではない。考えられなかっただけだった。自分と救出に来た兵士たちしか目に入らなかった。

 少し街の中心地から外れた場所に車が進む。

「ここですね」

 丸焦げになった建物は、ほかの建物よりも損傷が激しいように見えた。ドアも階段も吹き飛ばされている。コンクリートの枠があるだけだった。それも焼け果てて、変色している。

「ここか」

 車は止まらずにゆっくりと進む。エンジンを切ることをサムルは恐れているようだった。

 救出時に兵士も死んだと聞いていた。一人の縁もゆかりもなかった兵士が死に、多数の住人が死に、人質が死に、自分は生かされた。

「ここなのか」

 再び呟く。

 寝転ばされた時に見た、隣の男の顔を覚えていた。人質の一人で、異国の出身者だとすぐに分かった。彼は早々に、外へ連れ去られて、帰ってこなかった。死んだのだろうと思う。現地の言葉で数少ない意味のわかる言葉は、死を意味するが、頻りに犯人たちが叫んでいた。

 残された人質は、ただ怯えて自分たちの番を待っていた。

 自然と手を合わせた。こんなことでは足りない。花を手向けて、せめて言葉をかけて、遺骨でも遺品でも拾って、遺族に届けたいが、サムルは下車することなど許してくれそうになかった。

「サムル」

 呼びかけると、視線が合う。油断なく町中を見回すサムルの目が寸の間、止まる。

「何?」

 ずっと聞きたいことがあった。ここで、この場所で彼に聞きたかった。それが今回の再訪の目的でもある。

 どうして。

「どうして、俺が」

 ふるえる声で問いながら、サムルの目を覗き込む。

 誘拐されてから目隠しをされながら、自分が殺される順番を待っていた。その間ずっと考えていた。

「生き延びているんだ」

 サムルの目が少し見開いた。

「それは神が」

 当たり前のように答えようとするのを遮る。

「そんなことを聞きたいんじゃない」

 人質たちは、連れてこられた順番に、DVDカメラを片手に持った覆面の男たちに引きずり出されていった。抵抗する彼らの叫び声は、今でも耳に残っている。英語の叫び声も、ほかの言語の叫び声も、現地の言語の叫び声も。

 その間に繰り返したのは、サムルに教えられた言葉を囁き続けることだけだった。

 建物があった空間に向けてカメラのシャッターを切った。

 サムルからの返事はない。

「サムル、君が助けてくれたんじゃないのか」

 苦しげに眉を寄せたサムルは、目を閉じた。そのまなじりから涙がこぼれる。

「許してください」

 それは、柏木に許しを乞うているというよりも、もっと大きな存在へ許しを乞うているように聞こえた。

 素早く現地の言葉で囁かれたその言葉の意味を、はっきり理解できたわけではない。しかし、サムルが詫びている気持ちは分かった。



 車はスピードを速め、廃墟となった街を通り過ぎていく。振り向くと、その姿を焼き付けようと、心に刻もうとする。しかし、強く願うほどに街は姿を崩し、芽吹いた草花に覆われ、子供たちが走り回り、粉々の建物は穏やかな街に戻っていった。

 そうなればいいと願いながら、前を向く。そこにいたのは、未だ絶望の中にいるサムルの背中だった。彼はあの日に立ち止まっているように見えた。

 呆然とした眼差しが、前方を見つめている。

「何があったのか、教えてくれないか、サムル」

 メールでやり取りしている時にも、無事を祝ってくれたが、サムルはどことなくぎこちなかった。

「私は、あなたのことを教えました」

 それは、誘拐犯たちにという意味だろう。サムルの後悔は、すでに車内に満ちていたし、何よりも神への謝罪が、悟らせていた。しかし、柏木は生きている。

「娘は親類に預けられましたが、妻と息子が街で人質に取られていました」

 サムルの声には、悔しさと悔恨が滲んで、聞いている柏木も喉が痛むほどに苦しげだった。

「私は、あなたを、差し出したんです」

 ハンドルを握る片手を胸に叩き付ける。

「だから、私から妻と息子を、奪った」

 神の意思について話しているだろう。亡くなっているのだろうことを予測していたが、まさかと柏木は街を指差した。

「あの街にいたのか」

「そうです」

 嘘だろ。声も出ない。あの攻撃の中、彼女たちは捨て置かれた。その中にサムルの家族がいたなんて。

「君が領事館に知らせたんだろ」

 案内人として、事件があれば知らせなければ、一味だと疑われる。だが、知らせれば、家族ともども窮地に立たされることも分かっていたはずだ。

「あなたが思うような理由じゃないです」

 沈んだサムルの声には、すでに悲壮さはなかった。何もかもを受け入れ、落ち着いたサムルに戻っていた。

「私は、身代金を用意してくれと伝えるように言われていたんです」

 身代金。そうか、それで殺されなかったのか。

「お金持ちの国の企業の人間だと、柏木のことを話していましたから」

 実際はただのボランティアに毛が生えたような活動の一部を担っているだけだったが、彼らは信じたようだった。

「それは、やはり君が助けようとしてくれたからだろ」

 答えはなかった。結果、家族は危険な状態になり、助からなかったのだ。

「ありがとう、サムル」

「止めてください、柏木。お礼を言われるようなことじゃない」

 必死になって止めるサムルは、厳しい顔で前を向いている。娘を大事にし、それを支えにして生きる彼の姿は、潔いが、危うくも感じる。

「それでも、俺は君に礼を言いたい。ありがとう、サムル」

 帰国後、呆然と過ごす日々の中で、ようやく顔を上げた時に、最初にしたことは、現地の言葉と歴史を勉強し直すことだった。彼らが何を言おうとしているのか。その熱すぎるほどの思いを知りたかった。どうして、彼らも彼女らも死ななければならなかったのか。

 現地の言葉で礼を言うと、サムルの顔が歪んだ。

「ありがとう」

 壊れたように繰り返し、頭を下げる。決して安易な考えで、一度目も来訪したわけではなかった。しかし、一方の立場から見た歴史しか知らずに、知ったつもりでいた事実を、帰国後に思い知らされた。

 俺が来なければ、こんなことにはならなかっただろう。しかし、彼らのことを知ることもなかった。空爆は結局は行われていただろうし、仮定の話をしても亡くなった人たちは生き返らない。

 サムルのように板挟みで苦しむ人々のことを知ることも、想像することすらしなかったかもしれない。

 外国の介入を嫌う彼らの気持ちも分かるが、彼らのことを応援したいと思っている人々が世界中にいることも知ってほしいと思う。

 それは純粋に、ここに暮らす人々の生活を豊かにするという意味で手助けがしたいという願いだ。そのためには、ここで臆してはいけないのだと、柏木は思っていた。

「俺たちにできることは微力かもしれない。だけど、きっと君たちのためにできることがあるはずだ。俺は懲りずに、君たちと一緒に歩んでいきたい」

 生まれた場所から見たら、ここは地球の裏側に近く、生活習慣も考え方もまるで違うけれど、そこに住む彼ら、彼女らの温かさやその熱い感情は、よく知っているものだった。

 また連れ去らわれれば、殺されるかもしれないし、たくさんの人たちに迷惑をかけるかもしれない。空爆という最悪の形で終わったことを思えば、足がすくむのも事実だ。それでも、ここで歩みを止めてはいけないのだと柏木は思った。

「柏木」

 掠れた声で呼ぶサムルは、涙も流さずに泣いていた。ずっとサムルは、再訪を止めるように助言してくれていた。彼の家族のことを考えれば、当然のことだ。柏木のせいで亡くなったようなものだ。

 だが、その強い意思が揺らいでいるように見えた。

「あなたは、この国の人々のことを本当に思ってくれるのですね」

「命がけだからね」

 現地の言葉で二人は会話していた。にやりと笑う柏木に、ようやくサムルも笑みを見せた。

「ありがとう」

 先ほど柏木が言った言葉よりも、滑らかにサムルが呟いた。本当にありがとう。

 

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