3) kosmos
胡桃の近くの空気が動いたように感じて、彼女は右手を緊張させた。熱湯の入ったカップを持っているのだ。
と、思った途端に両手に痛み。
衝撃。
あ、火傷を。
なんて弱いセキュリティ。
自分の手なのに。
何が。
「KRM!」
胡桃は闇の中、カップを手探りで、床と平行な面に置いた。
「動かないで、ドクタ31、97。ここにいる。たぶん……」
死んだら宇宙塵としてスケルトン。
「扶桑だと思う。扶桑は私の近くにいる。きみたちは動かないで」
「安全を」
「大丈夫」
ダイジョウブ。
そのとき囁き声。胡桃の前で水中花が発光していた。胡桃は冷や汗を感じながらは問う。
今のはあなたが云ったの?
ダイジョウブ。
扶桑。何がしたいの?
突然輝く水中花が、薄く光る人間の顔を持った。
私に似ているな。
胡桃は自分の顔面について思い出した。遺伝子だからか。そうなのか。
ほの白く発光する指が伸びてきた。何本指のある生物なのだろう? その指先が胡桃の体に回された。直接触れることは無く、ただ包むように。
抱きしめにきたのです。
光る両腕は何故か触手を連想させて、それが恐ろしいものでもあり、懐かしいものでもあった。
ずっと抱きしめられたいと感じていたでしょう?
胡桃は大声を上げそうになった。恐怖/安心。恐怖/安心。恐怖/安心、恐怖、恐慌、混乱、不安、負の数、氷結せよ、お前.....tttttt から 或る、有る、また燃えろ、お前から,ttttt ここへ,,,,,ssss 燃える国家、国家とは肉体、統治せよ、それが自分の精神。
恐怖。
あまり苦しまないで。
それだけです。
さようなら。
不安要素。生きているうえでの揺らぎ。不安要素。
消えてゆく視界。
31の悲鳴が小さく聞こえた。
√
『扶桑はもう虚軸にしか存在しない。試験体としては破棄と考えていいよ』
胡桃は自室でメッセージを飛ばした。火傷した両手は簡単に冷やした。衝撃の割には酷い傷ではなかった。扶桑は自分に怪我をさせたくなど無かったのだろう。そういう配慮の出来る個体だったのは明らかだ。
返信が来る。
『扶桑が残したものは日本語に解析出来ます。添付します』
『日本語と云えばね、雑談なのだけど、スケルトンって分かるよね?」
31と97両名にメッセージを飛ばした。ヘッドフォンがまた痛快にラップを流し始める。
『昔さ、かつてのマッキントッシュ社がスケルトンのラップトップ型コンピュータを出したことがあって。綺麗な色の』
『スケルトン、スペルと意味分かるよね?」
『skeleton』『骨格』
両名から即座に返信。
『日本語で、透けてるグッズを全部スケルトンって呼ぶ馬鹿が、日本人には多かったっていう、そういう下らない話だよ』
爆笑している魔女っ子のスタンプが97から飛んできた。31からは一瞬で検索したのか、その古いコンピュータの画像が飛んできた。iMacか。
良い奴らじゃないか。
良いってなんだ?
扶桑は三次元にもそれ以上の高次元関数にも興味が無かったのだろう。ただ虚軸のみを上昇し、 実軸の座標には一瞬たりとも触れようとしない。コマンドを打った。せめて保存しておこうと思った。何がどう、「せめて」なのだろう。自分は歳を重ねてきているのだ。ここから何処まで行けるというだろう。
「孤独じゃないのかな?」
31が97に問う。胡桃は部屋に戻り、研究室の照明施設は元に戻った。扶桑がラボのプログラムに侵入したことは判明している。ドクタKRMは平静に部屋で解析をしているし、全ては元通りだった。試験体を元通りx・y・z座標内に放流し、動きと生体反応の数値を取る。
扶桑だけがもう居ない。
「孤独を感じるほど、他を必要としていないよ、扶桑は」
97は答えた。
「人間はこういう最終形態なのかも知れないね」
「理想の?」
「理想っていうのは個体の願望でしょ?」
「正しいね」
√
扶桑はいい子だった。胡桃の娘ではない。試験体として良い子だった。賢かった。自分たちの研究に登場するには早過ぎた。
胡桃が知りたかったことを、伝えにきたのだろう。31や97には悪かったと思う。胡桃と、十四歳だったときの胡桃と、扶桑のあいだの出来事だったのに、無関係に迷惑を掛けた。
日本語に解析の済んだメッセージ。
体は消えます。
生命は尽きます。
分子は崩壊します。
残るものは……
……残るものは、
「……こいつは夢想家な奴だなあ……」
胡桃は呟いた。
最後に残るものは、幻想だけです。
(了)
「夢想の法則」 泉由良 @yuraly
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