狂人志願

藻中こけ

狂人志願


 これは僕が中学三年生のころの話です。


 当時、僕が通っていた中学校では、どこの学校でもそうであるように、生徒たちがそれぞれグループを形成していました。


 たとえば、スポーツの得意な生徒はスポーツの得意な生徒同士で集まり、勉強の得意な生徒は勉強の得意な生徒同士で集まり……といった具合です。そして、それぞれのグループ同士はほとんど没交渉で、みんな何をするにも仲間同士でつるむばかりでした。昼食も、授業の班分けも、トイレに行くときでさえも。まるで、クラスの中にいくつもの小さな村が存在するかのように。


 ですが、そんな集団に入れないあぶれ者は必ず何人かいるものです。勉強が得意というわけでもない、スポーツが得意というわけでもない。音楽や絵が上手でもない。かといって、不良というほどはみ出し者でもない。どうにも分類に困る、中途半端な存在です。


 そして、そういった生徒たちは仕方なしに余り物同士で寄り集まります。ただ『取り立てて長所がない』『特徴が無い』というひどくおぼろげな共通点だけを頼りにして。


 僕もそんな余り物の一人でした。小学校の頃から部活にも委員会にも入ることはせず、かといって勉強にもさほど身を入れていない、どこにでもいるつまらない少年です。


 そんな有様でしたからどんなグループからもあぶれるのは、当然のことでした。


 そして、僕の他に、クラスには後二人ほど余り物の生徒がいました。


 一人は金森くんという生徒で、何をやっても卒なくこなす代わりに、何をやっても中途半端にしかできないという器用貧乏を人の形にしたような少年でした。


 彼は中学に上がってから、吹奏楽や、陸上や、美術や、さまざまな部活に入ったはいいものの、どれも途中で飽きて早々に辞めてしまうほど飽き症な性格でした。別に才能が無いというわけでもないのに、やる気が続かないためにすぐに物事を投げ出してしまうのです。そんな風でしたから、真面目に部活をしている生徒たちからは呆れられ、結果的に教室でも孤立していくのでした。


 もしも彼が何か一つでも部活や勉強に打ち込めば、余り物になどならずに済んだだろうに、と今でも思います。


 そして、もう一人はというと、こちらはどう頑張っても余り物になるしかないという生徒でした。


 名前は井之村くんといって、一言で彼を表すなら落ちこぼれというのが一番適当でしょう。本人は頑張っているつもりでも、勉強でも、運動でも、何をやったところで平均以下の結果しか出せないという哀れな生徒でした。それも、ずば抜けて成績が悪いわけではなく、仮にも努力しているだけあって学年の最下位だけは避けているので、かえってその凡庸さを強調するようでした。


 僕たち三人の余り物は自然と集まり、入学からすぐ行動を共にするようになりました。


 といっても、『他に入れてくれるグループがない』という消極的な理由でつるんでいる三人ですから、それほど仲が良いというわけでもなく、休み時間中の雑談も途切れがちです。それでも、他に行くところが無いので、三年生になってもずっと一緒でした。


 そんな三人でも、ある一つの娯楽を共有していました。むしろ、その娯楽があったからこそ、辛うじて僕たちは仲間意識を保つことができたといっても、過言ではないでしょう。


 その娯楽とは他愛のないもので、三人だけの秘密の場所に集まるというものでした。ちょうど、小さな子供が『秘密基地』を作って楽しむようなものです。


 僕たちはいつも放課後になると、よく学校近くにある神社を訪れました。それは深い森の中にある、もう何を祀っていたかもわからない神社で、ろくに参拝客が来ることもない廃墟でした。社殿は何年も手入れされておらず、苔が生えるがままにされていました。


 聞くところによると、戦時中にこの街が空襲に晒された時、社殿が焼失してしまうことに備えて、街の郊外にある広い敷地の大神社に、町中の神社の御神体を集め、保存したのだそうです。この廃神社も、そうした小神社の一つなのでしょう。


 結局、空襲でも焼け落ちることはありませんでしたが、建物の老朽化や交通の便の問題もあって御神体はそのまま別の神社に保存されて祀られ、森の奥の小さな神社は単なる空っぽの建物になったというわけです。実際、社殿の中に入ると、祭壇には何も置かれていませんでしたから、その噂は真実なのでしょう。


 僕と金森くん、井之村くんはその神社の社殿内に集まり、放課後の時間を無為な雑談に費やしていたものです。もっとも、話すのは主に僕と金森くんで、井之村くんは隅でじっとしているのが常でしたが。


 彼はどうやらこの神社が不気味らしく、いつも早く帰りたくて仕方なかったようでした。ですが、僕たちと一緒に行動していないと孤立してしまうので、しぶしぶ付き合っている様子でした。いつも社殿の木の床を這っているムカデだとかヤモリだとか、得体の知れない虫の類をびくびくと恐れていたのです。


 僕も金森くんも、井之村くんの恐怖心に気付いていました。ですが、あえて帰ることはしませんでした。彼を怖がらせるのは、部活にも所属していない僕と金森くんの数少ない楽しみの一つでしたから。


 そんな廃神社でのやり取りを思い出してみると、だいたい次のようなものでした。


「ほら、井之村。ムカデやぞ」


 そう言って、金森くんが二本の木の枝を箸のようにしてムカデを掴み、それを井之村くんの方に投げたものです。


 そうすると、井之村くんはいつも飛び上がるように怖がって、


「やめてくれ! ふざけんな、やめろや!」


 と喚いて、社殿を逃げ回るのでした。


 僕も金森くんも虫は平気だったので、そんな彼の滑稽な怯えぶりを見ながらゲラゲラと笑ったのです。


「やめたれや、金森くん。井之村くんビビっとるやろ」


 そんなとき、僕は決まってわざとおどけた声音で金森くんに話しかけました。


 そうすると、プライドの高い井之村くんを余計に怒らせるとわかっていたからです。


「ビビッとらんわ! 虫なんか怖ない!」


 と、井之村くんは逆上して反論します。


「そうか。そんなに言うなら、ほら。ムカデと仲良うしたれや」


 金森くんが井之村くんに向かって、ムカデを投げつけると、ちょうど制服のシャツにぴたりとへばりつき、ものすごいスピードで首まで登っていきます。それを見た井之村くんはさらに声にならない悲鳴を上げ、僕と金森くんは一層おかしくなって笑うのでした。


 端的に言って、僕たちは二人で井之村くんをいじめていました。同じ余り物同士でありながら、彼を笑いものにして、ストレスを発散していたのです。


 中学三年生の秋といえば、誰もが否応なしに高校受験のことを考え始める時期です。ですが、僕たち三人は揃って成績が平均以下で、高校に進学できるかどうかもわかりませんでした。全員、三者面談ではいつも親を落胆させ、家に帰れば成績表のことでぐちぐちと小言を言われたものです。受験勉強に励むクラスメイトたちも、内心で僕たちのことを見下していたのは明らかでした。


 だから、わざと友達をいじめるという悪辣な行為をして、自らを特別だと思い込もうとしたのです。そうすれば、自分たちの気が滅入るような凡庸さから、少しでも目を逸らせる気がして。


「よぉ、井之村。そのムカデ殺してみろや。できるやろ?」


 ひとしきり井之村くんをからかうと、決まって金森くんは煽り立てるように言います。


 それを聞くと井之村くんは息を飲み、床の上の虫を見つめるのでした。


 彼は言葉の上では反抗的ですが、実のところ虫一匹殺すこともできないほど小心なのです。ムカデを殺すことさえ、彼には不可能なことでした。


 井之村くんの反応をたっぷりと楽しむと、金森くんは前へと進み出て、靴の裏でムカデを潰し、木の床板へとぐりぐりと踏み躙ります。


 その光景を、井之村くんは血の気の引いた顔で見つめていました。


「何や、やっぱりビビりやな。こんな虫一匹殺すくらいできんようじゃ、男ちゃうぞ。なあ?」


 そんな風に金森くんは僕に同意を求め、僕もそれに返事代わりの忍び笑いをするのでした。


 井之村くんは僕たちからの嘲笑を受け、屈辱に震えながらも、床に残ったムカデの死骸を直視できずに目を逸らしていました。


 虫を平然と殺せる……それは、何も取り柄の無い僕や金森くんにとって、数少ない『他人と違う点』だったのです。あるいは、それは長所ではなく、人間的な欠陥かもしれませんが、とにかく特別感を抱ける唯一の要素だったのです。


 ですから、三人の中でただ一人虫を殺すことができない井之村くんに、わざと誇示するようにして、自己顕示欲を満たしていました。それはちょうど、音楽が得意な生徒が文化祭でギターを披露したり、スポーツが得意な生徒が体育の100メートル走で俊足を見せびらかすのと同じようなものでした。


 ただ、僕たちには彼らのような特技や長所がなかったから、そんな悪趣味でしか自尊心を満たせなかったのです。


 そして、そんな露悪趣味の遊びも日を追うにつれてエスカレートしていきました。小さな虫から、ヤモリやカエルへ……時には神社の周囲を囲む鎮守の森で、巣から落ちてきた野鳥の雛を木の枝で突き刺し、モズの早贄のようにして死骸を弄んだりしました。


 僕と金森くんが残虐な行為をするのを、井之村くんが蒼白な表情で眺めていたのも興を増してくれました。絶好の観客を得て、僕たち二人はますます過激なショーを求めるようになったのです。


 そして、ある日のこと。


 僕たちがいつも通りに廃神社に来ると、一匹の野良猫が境内に迷い込んでいました。どうやら病気のようで、その眼は白く濁り、体毛からは異臭を放っています。さらに、その毛の下には無数のダニが蠢いているようです。


 死にかけの猫は地面に横たわり、起き上がる気力も無く尻尾だけを揺り動かしていました。


 それを見て開口一番、金森くんはこう言いました。


「こりゃええわ。いいオモチャが向こうから来よった」


 彼はそう言うと鞄を下ろし、中からその日の美術の授業で使った彫刻刀を取り出します。


 彼が何をしようとしているのかは明らかです。今まで、虫やイモリや野鳥の雛にそうしていたように、その猫も殺すつもりなのでしょう。それを見て、僕はぞくりと背筋が震えるのを感じました。


「ちょ……待てや。猫はさすがにやばいんちゃうか……?」


 僕が言葉を発する前に、井之村くんがいつもの怯えた声で金森くんに言いました。


 実のところ、今回ばかりは僕も井之村くんに同意見でした。でも、見くびられるのが嫌で、かえって井之村くんを嘲るようにこう言いました。


「またビビっとるんか。井之村くんはしょうもないな」


 僕はその辺りに落ちていた手頃な木の枝を手に取り、金森くんと共に猫へと近付きます。


「ああ。臆病者はそこで見とけや。俺らはそこらのつまらん奴とちゃう。生き物を殺すことなんか何とも思わへん。イカれとるんや。正真正銘の気違いや。おまえみたいなクソつまらん凡人どもとは違うんや」


 そのことをむしろ誇るように言いながら、金森くんは彫刻刀のキャップを外します。


 動物虐待がエスカレートしていくうち、僕たちはいつの間にか、選民意識を抱くようになっていました。自分たちは余り物なんかじゃない。他の凡庸な連中と違うから、群れないだけ。


 そんな風に疎外感を優越感へと変換して、自分たちのちっぽけなプライドを守ろうとしていたのです。


 そのまま、僕たち二人は死にかけの猫を滅茶苦茶に切り刻みました。僕も、そしてきっと金森くんも恐怖を感じていたでしょうが、お互いに侮られたくないという思いから、わざと見せびらかすように凶器を振るったのです。


 彫刻刀を毛皮のあちこちに突き刺し、木の枝の先端で眼球を潰し、時々サッカーボールのように猫の身体を蹴飛ばして、わざとゲラゲラと笑い声を上げました。まるで、そうすることで自分の中にある罪悪感を覆い隠そうとするかのように。


 その様子を井之村くんはいつも以上に青ざめた表情で見つめるばかりです。


 ですが、普段と違うことが一つありました。僕も、金森くんも、どちらも獲物の命を奪うような一撃を加えるのをためらっていたのです。それは、猫の悲痛な鳴き声が人間の声に似ていたからでしょうか。あるいは、普段殺している虫や野鳥の何倍も大きな動物を前にして、怖気づいてしまったのでしょうか。


 確かな理由はわかりません。ですが、ともかく僕たちは猫にとどめを刺すことができないまま、数十分もの間、獲物を玩弄していました。


 恐るべきは猫の生命力です。弱っていてすぐに死ぬだろうと思っていた小動物は、意外にもいつまでも呼吸を続けていました。


 時間が経つにつれ、熱狂でごまかしていた罪悪感が鎌首をもたげます。僕も金森くんも、次第に攻撃する手を緩め、気まずい空気が流れ始めました。お互いに猫にとどめを刺すことがどうしてもできない、というのはわかっていましたが、それを口に出すこともできませんでした。日頃見下している井之村くんが見ている手前、そんなことを言うのはプライドが許さなかったのです。


 次に金森くんが発した言葉も、そんな浅はかな意地の裏返しだったのでしょう。


「よう、井之村! おまえも、たまには見とるだけやなくて殺してみろや」


 彫刻刀を持った手を休め、金森くんは数メートル離れたところで見ていた井之村くんに声を掛けました。


「え……いや、俺は……」


 井之村くんはうろたえ、後ずさりをしました。


「ほら! つべこべ言わんと持てや!」


 強引に金森くんに彫刻刀を握らされ、その上、背中を叩かれて井之村くんは猫の前へと押し出されます。


 彼は血まみれでズタズタのボロ雑巾のようになった猫を前にして、息を飲み、助けを求めるように僕と金森くんの顔を見回しました。


 ですが、僕も猫を殺したくなんてありませんでした。


「ほら、井之村くん。はよせえや。ぼやぼやしとったら、そいつ死ぬで」


 だから、僕もそうやって煽り立てるように声を掛けたのです。


 ですが、心の中では井之村くんに殺せるはずがないと考えていました。このまま時間が経って猫が出血で自然に死ねば、それで猫を殺せなかった臆病者というそしりは井之村くんに転嫁して、僕も金森くんも面目を保てるというものです。


 ですが、次の金森くんの言葉が、いたずらに井之村くんのプライドに油を注いだのでした。


「ほら、いつもビビりじゃないって言っとるのは口だけか? ちょっとは行動で示せや。この臆病者が」


 嘲り笑う彼の言葉に、井之村くんの顔から恐怖の色が消えました。そして、代わりに怒りが彼の表情を染めていきます。


「何やと……取り消せや! おまえらもどうせ殺したくないんやろ! だから俺に押し付けとるんやろが! 臆病者はおまえらやろ!」


 その言葉はまさに図星でした。だからこそ、僕たちの神経を逆撫でしたのです。


「適当こくなや。いっつも口だけやな、おまえは! そこまで言うんやったら殺せや!」


「そうや、殺せ! えらそうなこと言うなら、やってみろや!」


 僕たちが口々に怒鳴ると、井之村くんは眼を怒りに燃やし、汗ばんだ手で彫刻刀を握り直しました。


「じゃあ殺したるわ。その代わりおまえら、二度と俺にでかい口叩くんちゃうぞ!」


 そう怒鳴り、井之村くんは彫刻刀の切っ先を猫の喉に向けました。


 そして、僕たちがあっと声を上げる間も無く、それを猫の喉へと突き立てたのです。


 毛皮を突き破り、切っ先から溢れ出す赤々とした血。


 ですが、猫は絶命には至らず、喉から空気が漏れるようなか細い鳴き声を上げました。その反応に一瞬ためらったようですが、井之村くんは一気に彫刻刀を一文字に動かし、猫の喉を引き裂いたのです。


 夥しい量の血が溢れ、境内の土を赤く汚していきます。猫はしばらくの間尻尾をビクビクと痙攣させていました。


 重苦しい沈黙が辺りに立ち込めました。風で木々の梢が揺れる音だけが、夕暮れの神社に響きます。永遠にも思えるほど長い時間のあと、ついに猫の死骸は動かなくなりました。


 そして、沈黙を破ったのは井之村くんの声でした。


「……どうや。やったで。俺が殺したった。おまえらがビビってよう殺さんかった猫を、俺が殺したったんや! 俺の方が上や! つまらん凡人はてめえらじゃ! もう二度とバカにすんな!」


 彼は異様なほど目を輝かせ、自らの所業を誇示するように血まみれの彫刻刀を振りかざしました。


 そんな彼の興奮した様子に、僕は初めて恐怖を覚えました。今まで、何でもない奴と見下していた彼が、急に何かのタガが外れたような、危険な存在に思えたのです。


 恐らく、僕の隣で一部始終を見ていた金森くんも同じ気持ちだったでしょう。ですが、彼は恐怖を表に出すことはせず、逆に嘲笑を返しました。


「はっ。調子乗っとんちゃうぞ、井之村。そんなこと誰でもできるわ。猫殺すくらいで偉そうにすんなや」


「……何やと。おまえら、殺せんかったやろが。ビビっとったの、わかっとんのやぞ!」


「それはおまえが勝手に思っとるだけやろ。おまえに花持たしたろ思ってチャンスをやっただけやのに、何を勘違いしとるんや。なあ?」


 金森くんが僕に同意を求めたので、僕は我に返り、またいつもの嘲笑を浮かべて頷いたのでした。


「金森くんの言う通りや。井之村くん、調子乗り過ぎやで。僕らでも、猫くらい簡単に殺せるわ」


 僕たちは図星を突かれた屈辱をごまかすように、努めていつもより嘲りを強め、井之村くんを挑発しました。


「…………」


 僕たちの反応に、井之村くんは黙り込んでしまいました。


「まあ、今回は大目に見たるわ。でも、せめて俺らに偉そうにするんは、もっと大物を殺してからにするんやな」


 金森くんのその言葉は単なる虚勢から出たものでしょう。


 しかし、その軽口を井之村くんは聞き逃しませんでした。


「大物……人間とかか? 人間殺せば認めるんやな、おまえ」


「あ? おもろいこと言うな。できるもんならやってみいや。ま、おまえのことやから、所詮口だけやろけどな」


「………………」


 井之村くんがその言葉を本気で言っていたのかどうか、僕も金森くんも確かめることは叶いませんでした。


 何故なら井之村くんはすぐに僕たちを無視して、猫の死骸を掴み、社殿の裏へと持って無言で歩き去ってしまったからです。恐らく、猫の死骸を埋めでもするのでしょう。僕も金森くんも、彼の後ろ姿をただ見ていることしかできませんでした。


  ***


 それから、井之村くんの態度は変わりました。


 いつも神社へとやってきて、僕と金森くんが虫を殺すのを見ているのは同じです。しかし、以前のような怯えた様子は無く、ただじっと僕たちの凶行を眺めているのです。


 遊びの最中に僕がふと井之村くんの方を見ると、こちらを見つめる暗い瞳に視線がぶつかり、慌てて目を逸らすのが常でした。


 井之村くんが自尊心を傷つけられたことを恨んでいるのは明らかでした。そして、僕たちに自分が格上だと示す機会を求めていることも。


 今の彼なら、本当に人間を殺すかもしれない……僕はそんな危うさすら感じていました。


 僕は金森くんと一緒に虫や動物を殺して、狂人であるかのように自分を誇示してきましたが、本当は、この中で一番頭のネジが外れているのは、井之村くんかもしれません。そんな考えを、口には出さずとも心の中に抱いていたのです。


 そして、運命の日はあまりにも早く訪れました。


 それは、二学期の中間試験が近付いてきた十月末のことです。


 いつも通り僕たち三人が神社へと向かう道すがら、途中の寂れた公園をふと見ると、トイレから出て、足を引きずるようにして去っていく少女の姿がありました。


 さらに、公園を出てすぐの路上には古びた軽トラが一台停められており、運転席の窓に中年男の横顔が見えました。少女が軽トラの助手席に入ると、車はエンジン音を響かせて走り去っていきます。


 別に気に留めるほどの出来事ではないのかもしれません。ただ、少女の足取りがやけにおぼつかなかったのと、運転手の男がひどく血走った眼をしていたのが妙に気になりました。


「さっきの、もしかして里中ちゃうか?」


 その時、金森くんが怪訝そうに言いました。


「里中って……」


 里中加奈。それは僕たちの学校では有名な女子生徒でした。


 二年生の頃までは、いつも教室の隅で怯えるように身を縮こまらせている少女でした。そして、常にぶつぶつと不気味な独り言を呟いているので、誰も近付こうとはしない、そんな存在でした。


 その肌にはいつも生傷が絶えなかったのも、周囲からの孤立を深める原因でした。噂によると、実の父親が大酒飲みで、よく彼女を虐待しているのだそうです。そして、母親はそんな夫の暴力に耐えかねて出て行ってしまったので、今は里中が一身に虐待を受けているそうです。それも噂によれば、性的な虐待さえも。


 そんな事情ですから、彼女はクラスでも腫物のように扱われていました。


「でも、あいつ去年から学校来てないんじゃ……」


 僕が疑問に思ったのはそのことでした。里中は何故か去年の末から不登校を決め込んでおり、学校には一度も顔を出していませんでした。一応、出席日数は足りていたので進級していますが、三年になってからは一度も学校に来ていないので留年は確定しているようなものです。


 いったい彼女がどうして不登校になったのか、それは誰も知りません。病気に掛かったとか様々な噂が飛び交っていましたが、真相のほどはわかりませんでした。


 その時、ふと金森くんが奇妙なことを言い出しました。


「なあ、何か音聞こえへんか?」


「音?」


 彼に言われて、僕も耳を澄ましました。


 すると、寂れた公園の中、トイレの方から確かに音が聞こえて来ました。小動物の鳴き声のような、か細い音です。


 僕たち三人は誰が合図するともなく、公園のトイレの方へと近付いていきました。公園内はろくに整備されておらず、雑草は繁茂して遊具は錆びついています。そんな状態ですから、トイレの手入れもされているはずがありません。入った瞬間、アンモニア臭がつんと鼻を突きました。


 トイレに入ったことで甲高い鳴き声がはっきりと聞こえてきます。どうやら、女子トイレの一番奥の個室から発されているようです。


 しかも、それはどうも動物のものではないらしいのです。


 どう聞いても、おぎゃあおぎゃあという、赤ん坊が泣く声でした。


 僕は他の二人と目を合わせると、ごくりと唾を飲み込みながら、三人揃って中へと進んでいきました。僕も金森くんも怯えていましたが、ただ一人、井之村くんだけが何かを期待するように目を爛爛と輝かせていました。


 今思えば、そんな泣き声など放っておけばよかったのです。ですが、井之村くんの前で怯えた様子を見せるのは、つまらないプライドが許しませんでした。きっと金森くんも同じ気持ちだったのでしょう。


 だから、引き返すこともできないまま、僕たちは女子トイレの最奥へと踏み入ってしまいました。


「……開けるで」


 先頭に立った金森くんがそう宣言して、個室のドアを開けます。


 木の板が開け放たれた瞬間に広がる、強烈な血の匂い。


 それに顔をしかめながらも和式便器の中へと目を落としたとき、僕たちは一様に声を失いました。


 そこには本当に、本物の、人間の赤ん坊がいたのですから。


 便器の中は血まみれで、嬰児が一人、その肌を真っ赤に染めながら産声を上げていました。下腹部にはまだ赤黒い臍帯が繋がっています。そして、臍帯の先には血みどろの胎盤が無造作に捨てられていたのです。


 その赤子がほんのついさっき、このトイレの個室で出産されたのは明らかでした。


「うぶっ……嘘やろ?」


 僕はあまりのことに口を手で押さえました。乾いて便器の中にこびりついた糞に囲まれ、泣き叫ぶ赤子の姿はあまりにもおぞましい光景でしたから。


「これ……里中が産んだんか? 今さっき、ここで……?」


 金森くんも血の気が引いた様子で、便器の中の嬰児を見つめていました。


 状況からして、そうとしか考えられません。ついさっき、まさに彼女がこの女子トイレから出てきたのですから。それに、今思い返してみると、彼女のスカートは赤く汚れていたような気がします。遠目には単なる柄に見えましたが、もしかすると、あれは出産の際の血なのでは……


 さらに、少しずつ冷静さを取り戻す頭で考えれば、これが彼女の子だというのは納得が行くことでした。


「あの噂、マジやったんか……里中が不登校になっとるの、親父に犯されて、ガキ孕まされたからっていうの……」


 金森くんが呟いたその噂は、僕も聞いたことがありました。


 別に何か確たる証拠があったわけではないのでしょう。もしも証拠があったとすれば、大問題になっているはずですから。しかし、誰もが里中の家庭環境なら、あり得ないことではないとわかっていました。


 飲んだくれの父親に陵辱され、妊娠させられ、そして、それが露見することを恐れた父親に学校へ行くことを禁じられた。やがて、中絶も間に合わないまま、ついに陣痛が訪れる。病院に行くこともできず、やむなく公園のトイレで出産し、捨てるしかなかった……そう考えれば辻褄が合うのです。


 そういえば、彼女が学校に来なくなったのも去年末ですから、およそ十か月前。妊娠から出産までの期間としてはありえない話ではありません。


 ですが、そんな吐き気を催すような想像はできるのに、これからどうするべきか、という常識的な判断に関しては、僕の脳はすっかり麻痺してしまっていました。


「金森くん、これ……どうする?」


「どうするって……警察に言うしかないやろ。いや、まず救急車か。この赤ん坊、ほっといたら死んでしまうで」


 金森くんの言葉を聞いて、僕はようやくそんな順当な選択に思い至りました。


 このまま便器の中にいては、生まれたばかりの赤ん坊はほどなくして死んでしまうことでしょう。とにかく、通報する以外にできることはありません。


「いいや、ダメや」


 そう考えていましたが、その時、井之村くんが僕たちを押しのけて、トイレの個室へと入りました。


 そして、何を思ったか肩に提げていた体操着入れの袋を手に取り、その中から体操着を取って鞄に移し、中身を空にします。さらに、今度は血まみれの嬰児へと手を伸ばしたのです。


「おい、何しとるんや?」


「決まっとるやろ。持ってくんや。こんな絶好のチャンス逃すわけにはいかんからな」


「持ってくって、おまえ……」


 井之村くんの異常な行動を、僕たちは止めることができませんでした。


 彼はあまりにも迷いがない動作で、生きた赤ん坊を鷲掴みにすると、臍帯と胎盤ごと体操着入れに入れ、まっすぐにトイレの出口へと歩いて行きました。


「ぼやぼやすんな。ついてこいや」


 高圧的な彼の言葉には有無を言わせぬ調子が含まれていました。その上、僕も金森くんも混乱していて、思考力を失っています。だから、逆らうことができないまま、唯々諾々と従ってしまったのです。


 そして、井之村くんの後についていくと、その足はいつもの廃神社へと向かっているようでした。


 この辺りは寂れているので、人とすれ違うこともありませんでした。ただ、井之村くんは袋の中から発される泣き声を聞かれても構わないというような、悠然たる足取りで歩いていました。


 普段なら僕たちを率いるのは金森くんの役目なのに、今ではまるで井之村くんがリーダーであるかのようでした。


 そして、僕たちが神社の社殿へと入ると、井之村くんは腐った木の床の上へと赤ん坊入りの体操着入れを無造作に転がしました。袋の口から赤ん坊の顔が飛び出し、先ほどよりもずっと激しくおぎゃあおぎゃあと泣き喚き始めます。


 それを見て、僕はようやく取り返しの付かない事態になっているのではないか、という疑念に駆られました。あのまま金森くんの言う通り救急車を呼ぶか、さもなくばトイレの中に放置して逃げるなりすればよかったのです。こうして赤ん坊を連れ出してきてしまった以上、もう我関せずというわけにはいきません。


「……どうするつもりなんや、それ」


 ついに金森くんも重く閉ざしていた口を開きました。


 すると、井之村くんは唇の端を釣り上げて不気味に笑いながら、答えました。


「もちろん、殺すんや。当たり前やろ」


 その返答のあまりの平然とした調子に、背筋を怖気が昇っていきました。僕は心のどこかでは、その答えを半ば予想していたのかもしれません。ただ、想像したくなかっただけで。


「いつもやっとることやろ? 何今更ビビっとるんや?」


 井之村くんは視線にありったけの侮蔑を込めて、絶句する僕と金森くんの顔を見回しました。


「いつもやっとるって……井之村くん……わかっとるんか? 人間やぞ! 人間の赤ん坊や! 虫とか鳥とか、猫を殺すのとは訳が違うやろ!」


 僕は乾いて張り付く舌を必死に動かして、井之村くんに訴えます。


 ですが、彼はただ冷然とした一瞥を返すばかりでした。


「どう違うんや?」


「どうって……」


「殺せば死ぬんは、動物も人間も一緒や。むしろ猫より殺すの簡単やわ、こんな弱いもん」


 靴の爪先で乱暴に赤子の脇腹を蹴りながら、彼は酷薄な表情を浮かべました。


「馬鹿、やめろやおまえ……! バレたらどうなるか考えろや! 殺人やぞ!」


 金森くんが必死に説得するのを、井之村くんは鼻で笑います。


「バレへんわ。こいつ、便所に捨てられとったんやで? 名前も無い、戸籍も無い。生まれたことも、ここにいる俺らと里中以外知らん。野良猫とおんなじやろ? いや、野良猫以下のゴミや。殺しても、生まれたこと誰も知らんのやから、全員が黙っとったら事件にならん。こいつひり出した里中やって、おらんくなってほしいから捨てたんや。孕ました父親やってそうやろ? じゃあ、俺らで殺しても問題ないやろ。違うか?」


 熱病に浮かされたように、異様にぎらぎらと目を輝かせながら、井之村くんは言葉を紡ぎます。その様子に、僕たちはただ呆然とするばかりです。


 以前の、小心でただ僕たちの凶行を恐る恐る見ていたあの井之村くんの面影はそこにはありません。今度は僕たちが、彼の異常さに恐れ慄く番でした。


「井之村……おまえ、おかしいで。本気でやるつもりなんか?」


 普段なら率先して蛮行を楽しむ金森くんさえも唾を飲み込み、唇を真っ青にして井之村くんに問います。


 その言葉に、井之村くんはさらに狂気じみた笑みを深め、満足そうに金森くんを見つめました。


「ビビっとるんか? 毎日毎日偉そうなこと言っとる癖にほんまは臆病者なんやな。しょうもないわ、おまえ」


 彼は怖気付く僕たちを見回して、嘲笑を漏らします。


「凡人のくせになぁにが『イカれとる』や。何が『気違い』や。こん中で一番頭おかしいのは俺や。それを証明したる」


 鬼気迫る様子で宣言すると、井之村くんはポケットから何かを取り出しました。


 それは禍々しく銀色に光る、一本のバタフライナイフでした。いつの間に手に入れたのか、ずっとポケットに入れて持ち歩いていたであろうその凶器を前に、僕は後ずさりしました。そして、その切っ先が赤ん坊のまだ開いてもいない瞼の辺りに向かうのを、ただ息を飲んで見守ることしかできませんでした。


 刃先が瞼の狭間に埋められた瞬間、赤ん坊はさらに高く泣き声を上げました。


 それは呼吸の経路を確保するための産声ではありません。純然たる苦痛に対する悲鳴。バタフライナイフで切り裂かれた瞼からは血が溢れ、ただでさえ血まみれだった身体を赤く汚して行きます。


 そして、井之村くんは嬰児の頭部を押さえ、てこの原理でナイフを動かしました。すると、その瞼が強制的に開かれ、中から小さな眼球が視神経ごと抉り出されました。


「ほら、見ろ。人間の目やぞ。赤ん坊のはこんな小さいんやな?」


 刃先で突き刺した眼球を、彼はこれ見よがしに僕たちの方へと向けました。


 蒼白になった僕と金森くんの顔をたっぷりと鑑賞すると、彼はその視神経付きの目玉を指先で弄び始めました。そして、突然口の中に放り込んで、嫌な音を立てて咀嚼し始めたのです。


「う……っ」


 隣で金森くんが嗚咽を漏らすと、身体をくの字に曲げて社殿の床に吐瀉物を撒き散らしました。


 僕は嘔吐こそしませんでしたが、生まれたばかりの人間が残虐に破壊されるその光景を見て、気が遠くなるような思いに襲われました。視線をそらせればどんなによかったでしょう。僕の身体は恐怖で完全に硬直して、その惨劇に目を釘付けにされていたのでした。


「ほらな。どんだけ威張り散らしとっても、所詮てめえらは動物殺して粋がっとるだけや。でも、俺は違う。俺は殺せるんや、人やろうと、何だろうと。俺は凡人やない。気違いなんや。ほら、しっかり見とけや!」


 井之村くんはバタフライナイフの刃を握り直すと、赤ん坊の身体へと滅茶苦茶に突き刺し始めました。


 飛び散る赤い血、どこまでも高く響いていく赤子の悲鳴。


 僕たちの目の前で行われる酸鼻極まる拷問は永遠に続くかと思われました。


 やがて、嬰児の泣き声が止んだ時、井之村くんは血まみれのまま恍惚の表情を浮かべていました。


 口を大きく広げ、明らかに気の触れた、狂気の哄笑を響かせながら……


  ***


 それから……


 僕も金森くんも、我に返った時には、社殿から逃げ出していました。


 そして、どこをどう走ったかわからないまま、交番へと駆け込み、この一件を訴えました。


 今でもこの選択が正しかったのかどうかわかりません。


 赤ん坊は既に殺されていたのですから、今更知らせたところで手遅れです。それに井之村くんが言った通り、生まれたばかりでトイレに捨てられたあの嬰児の存在は、僕たちと母親である里中以外知らないのですから、黙っていれば隠し通せないこともなかったのです。


 そして、僕たちがこのことを警察に教えたばかりに里中加奈が実父に犯され、妊娠し、その子を捨てた事実が公になったことは確かです。その結果、彼女が首を吊って自殺したのも、僕たちのせいというほかありません。恐らくは、この事件を隠し通して闇に葬った方が、悲劇は少なくて済んだでしょう。


 ですが――それでも僕たちは恐ろしかったのです。


 この異常な秘密を抱えたまま、これからの人生を生きることが。


 非凡であることを求めた遊戯の極致に至って、ついに本当の狂気にまで辿り着いてしまった、井之村くんが。超えてはいけない一線を越え、殺人鬼と化した彼のことが。


 あれから十年以上経った今でも、井之村くんは精神病院に閉じ込められ、社会との関わりを断たれています。恐らくはもう一生、彼が日の光の下に出てくることはないでしょう。


 この一編の記録を書き終えるにあたって、最後に警察が見た、逮捕直前の井之村くんの姿について記しておくことにします。


 社殿に踏み込んだ警官たちは、薄暗がりの中で、赤子の骸を貪り喰らう井之村くんの姿を発見したそうです。とっさの証拠隠滅のためか、あるいは僕たち常人には理解できない、異常者の理屈がそこにあったのかどうかはわかりません。


 ただ、赤ん坊の屍肉を口の端からぶら下げながら、ニタニタと笑う井之村くんの表情は、まさに狂人のそれだったということです。




(了)

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狂人志願 藻中こけ @monakakoke

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