月と太陽 Mond und Sonne

青瓢箪

月と太陽 Mond und Sonne

『満足したかい? あんたの人生に。アンドレアス先生』


 南ドイツの黒い森シュヴァルツヴァルトの中。

 私の肩を抱き、男が左耳に酒臭い息を吹きかける。私は直立してその言葉を聞いていた。

 かさかさ、と後ろで枯葉が動く音がするのは森に住むビーバーかハリネズミなどの小動物だろう。


 隣に立つ彼とは先ほど宿屋でハムとチーズとビールを交わした仲だ。その後、彼は私をこの山道まで連れ出した陽気な酔っ払い男である。


 彼の正体は。

 死神だ。


『マリエッタはあんたのことをずっと待っていたぜ。早く、行ってやんな』


 私は彼の言葉が指す眼前の谷を見下ろした。

 ねじくれた木の根の向こう側には、あの時と同じようにぼんやりとした細い三日月がかかり、星がひとつじんわりと灯っている。

 ありふれたドイツの夕暮れだ。

 だがあのときの空色とは違う。同じ空でも、今宵はなんと不気味な色をしているのか。

 私は十五年前のことを思い出した。


 * * *


「神様が赤ちゃんを授けてくださったの」


 薔薇のように上気した頰で、隣に立つ女は私に告げた。

 私はその言葉を直立して聞いていた。

 眼前には険しい谷が口を開け、荒涼としたドイツの大地が遥か先に横たわっている。傍らにある谷へと落ちんばかりに斜めに生えたねじくれた木の向こう側には、夕暮れ空に三日月と大きな星が二つ並んでいた。頬にあたる風の冷たさと乾いた感触を私は心地よく感じていた。


「月が満ちても月の物が来なかった。月が欠けてもよ。あの三日月のようにこれから赤ちゃんは私のお腹の中でどんどん大きくなるわ」


 反吐が出る。

 しかし女は生意気にも私の肩に手を乗せ、私に身体を預けてきた。


「私は弁護士の妻になり、この子はきっと貴方と同じ弁護士になるわ。素敵ね」


 うっとりとした女の声に私は心の中で冷笑した。

 女は未来が輝かしい幸福に包まれ続いていくと信じているようだった。


 ふざけるな。

 私の妻となる女はお前のような女ではない。

 誓いも交わしていない男相手に簡単に足を開くような女など。

 ゴツゴツした岩を思わせる体躯のゲルマン女。赤ら顔でざらついた肌の田舎娘。村唯一のレストランの看板娘として皆にちやほやされて勘違いしてるのではないか。ビールを何杯も運ぶお前の腕は私の腕よりもよほど太く逞しいではないか。


 私の妻となるのは、知的で洗練されたフランス女。もしくはヴィーナスシモネッタのような優美なフィレンツェ乙女だ。

 私がいるべき場所は土臭い野蛮なこの場所ではない。

 ハムとチーズを繰り返すだけの冷たく粗末な食事のドイツなど。

 温かな魚介スープ、見目麗しく盛りつけられた手の込んだ肉料理、美味なソースの絡んだパスタ。

 その世界が私が身を置くべき世界だ。


 ゲルマン女は目が合った私を見て微笑んだ。

 私は女の肩を掴み、そのまま谷底へと女の身体を突き落とした。



 * * *


『ティツィゼーで月を見ようぜ。なあに、ガキの頃から何回も歩いてんだ。目を瞑っても闇夜でも歩けらあな』


 酒場で男が持ちかけた話に乗ったのは私も酔っていたからだろう。

 男と共にヒンターツァルテンのレストランを出、私はティツィゼーへと男について行った。

 途中、あのゲルマン女が働いていた宿屋の前を通り過ぎ、あの女の身体に欲望を吐きだした小屋の前も通り過ぎた。よく覚えているものだとそんな自分に少し驚いたが、仕方ないことだと思い直す。ここは昔と少しも変わってはいないのだ。

 私たちは林を抜け、犬の糞のようなスプルース松笠を幾度も蹴飛ばし、何度も木の根に躓いた。その後、この谷底の前で男が立ち止まった。


『十五年前、ここでマリエッタという女が落ちて死んだのさ』


 夕暮れ空には細い月が浮かび、すぐそばに微かな星がかかっていた。


『落ちて死んだんじゃねえ。女は落ちたあとも生きていたんだ。狼の群れに喰われちまった』


 成る程。

 私は冷めた頭で思い出した。

 あのような丈夫な女ならその可能性はあるだろう。


『抵抗したあともあったよ。一匹の狼が近くで死んでいた。女が狼をやったのさ』


 確かにあの女ならそれもあり得るだろうと思った。


『さて』


 男が私の隣に来て肩を組んだ。


『あの後、あんたはここを去ってフランスに行っちまった。えらく出世するんじゃねぇかって皆と話してたんだが。結局、ここに戻ってきて教師するたあザマぁないわな』


 私はその後、絢爛たるフランスへと渡った。

 垢抜けた艶麗な女たち、芸術の都。おお、麗しきパリの日々!


 しかし、悪名高き緑のアブサンと阿片が私を駄目にした。

 回復したときには私は以前の私ではなかった。いくら勉学しても内容が頭に入ってこなかったのだ。


『満足したかい? あんたの人生に。アンドレアス先生』


 私は直立して男の言葉を聞きながら、男の正体について考えていた。

 あの時、あのゲルマン女には弟がいたような気がする。酒場であの女の足元に甘えるように抱きついては、こっちを見ていた幼い少年を私は思い出した。

 この死神はあの女の弟か。


『マリエッタはあんたのことを待っていたぜ。はやく行ってやんな』


 男が囁きかけ、発達したゲルマン人特有の顎で谷底を指した。

 そのときだった。


 細い弓のような月が膨らみ始めたのだ。孕んだ女の腹がだんだんと張るように。果実が大きく熟すように。


『アンドレアス』


 あの女の囁く声がしたように思った。


 次には傍の星が大きく輝き、瞬き出した。


『パパ、パパ、パパ……』


 赤ん坊の笑い声とともに、幼き声がそれを繰り返す。


 これは夢であろうか。それとも死神が見せた幻だろうか。

 あるいは私の中に潜む後悔や罪悪感といったものがこのような形で現れているのか。


 否。


 私は自身の人生を振り返ってみた。

 確かに私は思い描いた人生を歩むことは出来なかった。

 しかし悔いてはいない。

 この無骨なドイツを出て、華やかな異国の地を踏むことが出来た。片田舎に居たままならば一生知ることのなかった世界を知ることが出来た。

 パリでの淫らな悪徳の日々は私の財産である。美しい女たちと過ごした享楽的な生活は私の脳と身体に刻み込まれた甘美な思い出だ。

 後悔なぞしておらぬ。

 欠けたり満ちたり姿を変える女々しく不安定な月のように、私の心は揺らぎなぞしない。

 全てが私の意志の結果であり、全てが価値ある経験である。

 何よりもあの女とともに一生を過ごすなぞ、私には到底考えられなかったのだ。

 体臭のきつい、赤ら顔の骨太女などと。


 死神である男が私の肩を押す前に、私は持っていたステッキを振り上げた。


 冗談ではない。

 あんな女のために私が死ぬなど。


 男は女のようには谷底には落ちなかった。その代わり、私の身体を掴み道連れにした。バランスを崩した私の足が宙を蹴った。そして、奈落の底へと私たちは転がり落ちたのだ。


 * * *


 次に私が気付いたのは夜明け前であった。私は男の胸に顔を埋めていた。男は岩に頭を打ったのか血を流して死んでいた。私はそろそろと男から身体を離し、服の泥を落として立ち上がった。


 月と星は山の端に隠れ、もう直ぐ西に沈まんとしていた。

 私はそれらを背にして歩き出した。


 闇から目覚める黒い森シュヴァルツヴァルトには朝靄が揺らぎ、つゆに濡れた草花が太陽の恩恵を待ち構えていた。森の息遣いを肌に感じ、木々の放つ香りを吸い込みながら私は小さく声を出して笑っていた。

 姉を殺した男を殺そうとした弟。

 しかし、生き残ったのは私である。

 私は二人の姉弟を殺した男でありながらも、神に選ばれて生き延びたのだ。


 こんな不条理なことがあろうか。正しさとは何であろうか。

 どうして神は私を殺さずに弟を死なせたのか。あまりにも滑稽ではないか。


 唇を歪めて笑みを浮かべ、私は確信した。

 正しさとはこの光のことだろう。


 私は木々の間から私を照らし出す太陽を目を細めて見つめた。

 力強い温もりが私の全身に満ち、私の身体を得体の知れないものが駆け巡った。

 昨夜の迷いごとのような月夜はやはり悪魔が私に見せたものである。月は女々しく、卑しい。じくじくと腐敗した蛞蝓なめくじのような陰鬱の象徴。

 私は太陽だ。光の中、輝かしく生き、誇らしくその生を全うするのだ。


 木々が疎らになり、湖水ティツィゼーが見えた。

 朝日をきらきらと反射する湖面を眺めながら私はこれからの私の生涯を決めた。

 こののどかな片田舎で、私は教師として全うする。フランスやイタリアで見聞を広めて帰郷した風流人。村人に好かれ敬われ、好々爺としてその生涯を終えるのだ。


 ティツィゼーのほとりに漁師であろう一人の老人が私に気がつき、手を振って挨拶した。


 私は浴びる陽の光にふさわしく、またこれからの人生にふさわしい笑みを浮かべて、朗々と老人に声を返した。


「Guten Morgen」










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