人生の練習、しませんか
山田(真)
第1話 人生の練習、しませんか
「人生の練習、してみませんか」
印象的なフレーズのポスターに足が止まった。東京大学に通う篠勇太は、アルバイトに行くためにキャンパスを駅へと急いでいた。
「人生の練習かぁ」
篠は頭の中で独り言を言って、そのまま足早に通り過ぎる。今日も遅刻ギリギリ。電車に乗って車窓から差し込む太陽に背を向けると、今日のテキストを広げる。日に日に日が延びている。
「望月のあかさを十合せたるばかりにて、ある人の毛の穴さへ見ゆるほどなり。大空より、人雲に乗りておりきて、地より五尺ばかりあがりたる程に立ち連ねたり」
竹取物語の一節だ。個別指導塾でのバイトも、ある意味で人生の練習のようなものかもしれない。二年後には教育実習に行って、三年後には国語の先生として働いている。それが彼の目標だ。
「勇太! ギリギリじゃん」
塾の最寄で降りると、改札の辺りで後ろから肩を叩かれた。
「あぁ、田中か。誰かと思った」
田中は長めの茶髪を揺らして隣に並ぶ。目的地は同じだ。
「勇太はちゃんと授業出てるんだな」
「そう言う田中は出てないの?」
「家から直行」と言って田中は悪戯っぽく笑う。お金を貯めて留学する。その目標のために大学の授業にも出ずにバイトしてたら本末転倒じゃないか。と篠は何度か言ったことがあるが、田中は意に介さなかった。
夕方から三時間働くと、外は真っ暗になっている。今夜は満月。篠は、自分にも不思議な出来事が起きないかなぁと思いつつ月を見上げる。しかし、この月を十個合わせたくらい、そこにいる人の毛穴までも見えるくらいに明るくなって、空から雲に乗った人が降りてくる、なんていうことは現実には起こらない。起こるのは、口座に今日の分の給料六千円が振り込まれるということだけだ。
駅に着くと、田中の姿が見えた。女の子と親しげに話している。篠はその子に見覚えがあった。教え子だ。私大に受かって、今は一年生になっているはずの堂本コノハだ。気付かない振りをして、俯きがちに改札内へ急ぐ。
夜電車に乗ると、窓ガラスに自分の姿が映る。特にこれといってどうということもない冴えない青年。その顔を見つめていると、ふと不安がやってくる。自分は採用試験に合格できるだろうか。合格したとして、ちゃんと働けるだろうか。小さい頃から学校の勉強は得意だった。先生には「よくできる子」として認識されていたと思う。だから自分も学校の先生を目指しているのかもしれない。でも、これから必要なのはそういうことじゃない。
田中はきっとタフに生きていくんだろうな、と思う。あんまり勉強もしてないようだけど、成績は篠より上だ。生徒にも人気がある。悔しいけど、人間は公平じゃない。
◇
「人生の練習、してみませんか」
何日か経って、また同じポスターに目が留まった。大学生協の窓ガラスには他にも沢山の情報が並んでいるが、なぜかそれが際立って見えた。
「人生シミュレータって知ってる?」
昼休み、珍しく大学に来ていた田中に聞いてみる。
「何それ」
「人生の練習してみませんか、っていうポスター見たことない?」
「ははっ、なんだそれ。勇太にピッタリじゃん」
「どういうこと」
「勇太は慎重だからなぁ」と笑って、田中は「今日はコノハと約束があるから」とどこかへ行ってしまった。友人の教え子を彼女にするなんて。
その日の夕方、篠は生協の窓口にいた。
「最近はインターンシップも当たらないんで、申し込み増えてるっすよ」と店員はさらりと言う。
「ⅤRで職業体験ができるっていう感じですか」
「まぁそんな感じっすね」
「プランがいくつかあるみたいですけど、それぞれどう違うんですか」
篠は人生シミュレータのチラシを挟んで、若い店員と向かい合っている。
「あー、俺も参加したことないんすけど、基本は日程の違いっすね。どれもまんまその職業って感じっすけど、ちゃんとサポートされるんで。あとはオプションの違いっすかね。スペック上げるとか」
人生シミュレータは、完全没入型のⅤRで一日から数週間の職業疑似体験ができるサービスだった。現実の身体はベッドに寝たまま、神経回路をサービスに繋ぐことでその世界に入り込むことができる。ゲームやリハビリ医療の世界では導入が進んでいたが、インターンシップ代わりのサービスまで出ていたなんて知らなかった。
「あ、でも」と店員は電卓を叩く。「まだ結構高いんで、そこだけご了承お願いしまっす」
電卓にはゼロが五つ。十万円だ。
「これが三日間の値段ですか」
「そうっすね。でも今なら新規キャンペーンで一万円キャッシュバックあって、さらにそこから生協割引が十パー入るんで、八万と千円っすね」
「じゃあそれでお願いします」
一年生の時からアルバイトはしていた。でもそれは将来のための練習が主眼であって、別に稼ごうとしてきたわけではない。安くはないが、払えるくらいのお金は持っていた。一人暮らしで出て行くお金も多いが、篠は無駄遣いしない性格だった。
池袋駅東口の雑居ビル。狭くて暗い階段を上っていくと、妙に新しい「NEW LIFE」の看板。篠は大学生協で貰ったチケットを片手に、金属のドアを開けた。中は明るく清潔なラウンジといった感じで悪くない。
「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ」
細身のスーツに身を包んだ若い男が、柔らかな物腰で出迎えてくれた。篠は案内されるままに小さな丸椅子に座らされる。小さな丸テーブルを挟んで、男も「失礼いたします」と座った。
「さて、こちらのご利用は初めてでございますね。私は案内人の座間でございます。宜しくお願いいたします」
男は机に名刺を置いた。「NEW LIFE 池袋店 案内人 座間」とあり、後は住所と電話番号だけだ。篠はぎこちなく挨拶する。
「大学生協からのご紹介でございますね。チケットを頂戴いたします。あ、どうも。はい。ありがとう存じます。三日間のコースでございますね。ご希望の職業はお決まりですか」
男はすらすらと言葉を流していく。
「あの、国語の、教員で」
「まぁご立派でございますこと。中学校、高等学校、あ、高校でございますね。お客様なら新学校が宜しいかと存じます。他にオプションはご希望ですか」
篠は男のペースについていけなかった。他にも色々説明を聞いてグッズを受け取って、「何かご不明な点はございますか」と言われても、何も言葉が出てこない。
「ⅤRの中に私が出て参りましたら体験終了でございます。端末は直ちにご返送ください」
週末、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、篠はⅤR端末のヘッドセットを開けた。体験は三日間だが、現実の時間経過は六時間程度だと言う。電源を入れる時は少し緊張して手が震えた。このボタンを押すと、彼は高校の先生なのだ。
◇
一時間目のチャイムが鳴り、何人かの生徒が慌てて駆け込んでくる。号令がかかり、「よろしくお願いします」と少し元気のない挨拶。
「教科書とノート開けて!」
朝の重たい教室の空気を変えたくて、篠は声を張り上げる。
「先生、教科書ロッカーに取りに行っていいですか?」
「急いで」
「あ、俺も」
「じゃあ三秒で戻ってきて」
「えー、それは無理」
「いいから早く」
教室を見回す。ざっと四十人の生徒が教科書を開いている。
「まずは音読します」
篠は、今自分は先生をしてる! という感動に浸っていた。普段から高校生を教えてはいるが、個別指導とは違う。目の前に生徒が四十人もいるのだ。全員の様子を一度に見渡すことも出来ない。
「『かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれが許にしばしおはしつるなり。罪のかぎりはてぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き歎く、あたはぬことなり。はや返し奉れ。』といふ。翁答へて申す、『かぐや姫を養ひ奉ること二十年あまりになりぬ。片時とのたまふに怪しくなり侍りぬ。またことどころにかぐや姫と申す人ぞおはしますらん。』といふ。『ここにおはするかぐや姫は、重き病をし給へばえ出でおはしますまじ。』と申せば――」
何をすればいいかは分かっていた。その職業に必要な情報はあらかじめセッティングされているのだろう。まずは今日の目標を言う。
「今日は、敬語、特に、自尊敬語の勉強をします。それによって、登場人物の態度や立場を明らかにしていきましょう」
高校時代の篠は、真面目で大人しい生徒だった。敬語は確かに苦労したが、古文は得意だったし、『竹取物語』は普段から教えている。五十分の授業が終わる頃には、すっかり先生気分だった。
何の疑問も無く職員室に戻り、自分の席に座る。二時間目は空きだ。三時間目は三組で同じ部分を読む。
「かぐや姫が地上で暮らしていたのは、『罪をつくり給へりければ』、訳すと、罪をおつくりになった――尊敬語――ので、なんですね」
三組は一組と違ってたいそう静かなクラスで、篠の声だけが響き渡る。
「翁がかぐや姫を連れていかれまいと必死に人違いじゃないかとか、病気だからとか言っていますが、月の王――自尊敬語を使って不遜な態度ですね――はお構いなしといった様子です」
篠教諭は担任ではないらしく、放課後になると時間ができた。明日のために敬語の復習用プリントを作る。単語テストを作る。あっという間に終業時間になってしまった。
二日目、三日目も順調に過ぎ去り、現代文の授業はうまくできなくて生徒を寝かせてしまったけど、篠は現実に戻ってきた。
「あー」
身体が動かない。そう言えばさっき職員室に現れた座間が言っていた。
「人生シミュレータはお楽しみ頂けましたか。これにて体験は終了でございます。慣れていらっしゃらない方は目が覚めても身体が動かしづらいと思われるかもしれませんが、五分ほどで感覚は戻ってまいりますのでそのままお待ちくださいませ」
篠の頭の中では様々な記憶がぐるぐると回っていた。
「ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし悲しと思しつる事も失せぬ」
天人がかぐや姫に天の羽衣をかけると、姫は翁への感情を失って、さっさと月へ戻ってしまう。今の篠は羽衣を着せられたかぐや姫のようなものかもしれない。教えた生徒の顔がぼんやりとしか思い出せない。職員室で隣に座っていたのは誰だったっけ? まぁ所詮シミュレータだからそれはどうでもいいと篠は思った。現に充実した時間を過ごせたし、教育実習にでも行ったかのような達成感は本物だ。
◇
夏休み目前のある日、篠は大学食堂に見覚えのある顔を見つけた。コノハだ。
「こんにちは、お久しぶり」
トレイにカレーを載せたまま声をかける。堂本コノハは昨年度篠が担当していた生徒だが、大学は違うはずだ。
「あ、篠先生」
「どうしたの? こんな所で」
「あの……」と彼女は俯くと、消え入りそうな声で「待ち合わせで、待ってて――」と顔を赤らめた。
「田中と?」
田中のやつ、わざわざ自分の大学に呼び出したのか。
「はい、海君と」
「座って待ったら? ほら、これ食べていいよ」
篠は自分のトレイからプリンを彼女の前に置いた。そしてさりげなく隣に座る。
「すみません、先生」
「もう先生じゃないよ」
田中とは高校からの付き合いだが、彼がチャラくなったのは大学に入ってからだと思う。昔は、日本海・カスピ海・田中海とか言ってからかったものだ。もしくは、出羽海・御嶽海・田中海だ。
「他の男と浮気して、コノハちゃんは悪い子だなぁ~」
突然後ろから田中が現れ、篠は危うくスプーンを飲み込むところだった。コノハは「海君!」と立ち上がるともごもご言い訳を始める。
「田中が大学に来るなんて、珍しいじゃん」と皮肉を言ってから、篠は「でも自分が彼女を待たせるから悪いんだぞ」とコノハの肩を持つ。
「人生の練習がどうとか言ってたよな?」
田中は何も聞こえなかったかのように篠の向かいに座る。
「うん。それが?」
「今から行くんだよ、二人で」
「そうなんだ。でも何の体験?」
「デイトレーダー」
田中は一日体験チケットを二枚手に持って得意気にそう言った。篠は言葉そのままに聞き返す。「トレーダー?」
「要は金持ち体験だよ。せっかくお金払って体験するんだから、非日常を楽しまないとね! 勇太はもう行ったんだろ? 何やったの?」
「高校の国語教員」
「うわっ、渋いなぁ~。さすが勇太」
田中は大袈裟に笑いながら篠の肩を何度も叩いた。
「ほっとけ」
「じゃあ、俺たちはもう行かないと」と言うと、田中はコノハの手を取って行ってしまった。机には一口だけ残ったプリン。
「職業体験を何だと思ってるんだ」
篠はカレーを思いっ切りかき込んだ。
「なぁ頼むよ勇太。お前しかいないんだよ」
アリとキリギリスという童話がある。フランス語の授業で読んだのはアリとセミだったけど、中身は同じだ。篠がアリで、田中はセミ。試験の季節になると、セミは盛んに鳴く。
「授業さぼりすぎたんだから自己責任でしょ」
「そう冷たいこと言うなって~」
「最近田中さ、人生シミュレータ行き過ぎじゃない? コノハから聞いたよ?」
篠は田中に親切にしてやろうという気持ちは持ち合わせていなかった。つい何日か前、コノハに相談されていたからかもしれない。田中がのめり込んで困っていると。
「あ~。ったく、お前に喋ってんのかよ」と頭を掻いて、田中は開き直ったように座り直した。「勇太、あれ最高だよ。宇宙飛行士体験とか、ほんと無重力だぜ。他にも、王族とか遊び放題だったし、レーサーもよかったなぁ~」
「将来就かない職業の体験したってしょうがないじゃん」
「勇太は分かってないなぁ~。あ、今夜は軍人の予約してんの。一回戦場とか行ってみたかったんだよね~」
田中は銃を撃つジェスチャーをする。篠は肩をすくめて受け流す。
「じゃあデータ送っとくから、ちゃんと勉強しろよ」
フランス語のノートを田中のアドレスに送ると、篠は先に席を立った。そしてコノハに「今夜大丈夫?」とメッセージを送る。
友人の彼女に会う、と言えば聞こえが悪いが、コノハは元々自分の教え子だ。篠は自分でもよく分からない言い訳を思い浮かべながら、彼女の到着を待った。
駅前に現れたコノハは、涼しげな格好をしていた。
「ごめんね、急に」
「ううん」と彼女は首を振る。「コノハの方こそ、この間は変なこと言ってごめんなさい」
田中についての相談のことを指しているのだろう。
「ここじゃあなんだし、どこか入ろうか」
篠は、とあるカフェに目を付けてあった。甘いもの好きのコノハにパフェを勧め、自分はコーヒーを頼む。
「日、少し短くなったね」
「うん」
教えてた時は勉強の話しかしなかったから、その必要が無くなった今、篠は何を話していいのか分からなかった。
「あ、ほら、もう月が見えてる」
コノハも視線のやり場に困っていたのだろう。唐突に光のない月を指差す。
「そういえば竹取物語とかも読んだね」
「あ、あれでしょ? 不死の薬を燃やしちゃうやつ!」
どういう覚え方だよ、と篠は笑った。
「それでさ、田中は今日もシミュレータって感じ?」
篠の質問に、急にコノハの顔が曇った。
「うん」
「あいつさ、最近やりすぎだよね」
篠は努めて明るい声で言ったが、かえって薄っぺらく響いただけだった。田中は留学のために貯めていた貯金にまで手を付けているらしい。コノハは、最近は人が変わってしまったようだと嘆いた。
別れ際、コノハは「ごめんなさい、心配かけて」と気丈に振る舞った。篠は「いいよ、気にしないで」と笑って、「またいつでも言って」と付け加えた。
◇
篠はいつだって田中にはどこか敵わないと思っていた。だから今、田中を助けたいと思ってもいた。田中はちゃんとお金を貯めて、留学もして、きっとこれから社会で活躍するべき人間だ。
そんな篠の思いとは裏腹に、テスト期間中も彼を校内で見かけることはほとんどなかった。来ていてもどこか上の空といった様子で、話しかけることができないのだ。
その一方で、コノハと会う回数だけが増えていった。
八月が終わり、九月になっても夏休みは続く。
「今度さ、一緒に遊びに行こうよ」
篠は、思い切ってコノハを誘った。「海君に悪いよ……」と一度は難色を示したコノハだったが、最後は篠の熱意に折れた。
その直後だった。田中から連絡があったのは。
「久しぶりだね」
ガヤガヤとしたファミレスの店内で、篠は田中と向かい合った。目に隈ができ、着ている服も以前の田中からは考えられないくらいよれっていた。
「勇太」
「何?」
「勇太はどんな気分だ?」
「何が?」
「俺はよく分かんねぇよ。貯金もみんな使っちまったし、現実の自分ってやつが」
「そうか」としか言えなかった。篠は、この後何を言われても田中に金を貸すのは止めようと思った自分が少し嫌になった。
「コノハをよろしくな」
「どういうこと?」
田中は全て知っているぞと言うような目で篠を見た。
「知ってたのか」
「あいつは本当にいいやつだから。お前なら大丈夫」
「それを言いに来たの?」
「いや。何だろうな」
田中自身も何が言いたいのかよく分かっていないようだった。今の彼に必要なのは、友人ではなく病院かもしれないと篠は思った。
しばらくとりとめのない話をして、帰る時、篠は二人分の支払いを済ませた。田中は申し訳なさそうに「すまん」と言って街に消えていった。今夜は満月が一際明るい。
「人生シミュレータはお楽しみ頂けましたか。これにて体験は終了でございます」
改札を入ろうとすると、正面に見たことのある若い男が立っていた。
「あ、えーと」
篠はすぐには思い出せなかった。何秒か経って、案内人の座間だと気付く。名刺に確かそう書いてあった。
「お楽しみ頂けましたか」
男は同じセリフを繰り返す。
「まぁ、楽しかったですけど」
でも人生シミュレータで国語の先生をしたのは随分と前のことじゃないか。
「それではここで体験は終了でございます。ご利用ありがとうございました」
「ん?」
「覚えておいでではございませんか」
「何が、ですか」
なぜか鼓動が早くなってくる。
「職業は大学生。東京大学に在学し、優秀な友人に打ち勝ち、恋人も手に入れる。そうオプションをご注文でございました」
「僕は、え……」
頭が真っ白になって男の話していることが理解できない。
「僕は――」
時間が流れるのを止めてしまったような感覚に陥り、ふと周りを見ると本当に止まっている。改札を駆け抜けるサラリーマン、犬の散歩をするおばさん、コンビニの袋を下げたお姉さん。全てがその動作の途中でピタッと止まってしまっていた。
「これは、シミュレーション?」
「お楽しみ頂けましたか」
「コノハ――」
まだまだこれからだっていうのに。なのに――。そもそも彼女は現実の人間ではないっていうのか。
篠は恐る恐る男に聞いた。
「現実の僕は何者ですか」
「お客様は大学生でございますよ。都内の私立大学に通っていらっしゃいます」
そこは、コノハが通っているはずの学校だった。
じわじわと記憶が蘇ってくる。東大を目指していたけど受からなかった自分。滑り止めの私大に行くのに、無理やり自分を納得させた春。そうだ、田中は現実でも友達だ。あいつは現実でも東大生のはずだ。卒業してから一度も会ってないけど。
それでも、コノハの面影は、これまでの人生のどこを探しても見つからなかった。シミュレータのオリジナルキャラクターなのだろう。
「あぁあ」
篠の口から呻き声が漏れた。
「もし現実にお戻りになるのに不安がございましたら、お客様の本当の人生を、体験してみませんか。中堅私立大学に在籍する大学生。学校にはあまり頻繁に行かないものの、成績は優良。留学する計画があり、アルバイトをしてお金を貯めていらっしゃる」
座間は篠のプロフィールを読み上げる。篠は、何秒かしてから呟いた。
「せっかくお金払って体験するんだから、非日常を楽しまないと――」
それはいつか田中が言っていた言葉だった。でも、たぶん元々は篠の台詞だ。もしもあの春受験に成功していたら――。そんな、叶えるつもりも失くした夢を、非日常を、体験してみたくなったのだ。
篠はこれまでの人生を振り返っていた。どこで間違えたつもりもなかったが、もしあるとしたら、それは高校の時だ。
座間は篠の顔を覗き込み、提案する。
「高校生活の練習にいたしますか」
いつもの何倍も明るい満月が、座間の背中を照らしていた。
人生の練習、しませんか 山田(真) @yamadie
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