雨の滑り台 虹の坂

九里 睦

第1話

 

「どうして、あなたは雨の中、傘もささずに歩いているんですか?」


 声を、掛けてしまった。

 相手は、びくっとして顔を上げたけれど、すぐにほっとした顔になり、その後無表情になった。


「そんなの、僕じゃなくて自分に聞けばいいでしょ」

「あっ……」


 すぐに去ろうとした男性の肩を、無意識のうちに掴んでしまった。その時、私の前髪からポロリと雫が落ちる。


「なんです」

「あの……風邪、ひきますよ」


 振り向いた男性と、目が合った。雨色の瞳。あっ、という顔。その瞳に映る私も。


「……あなたも」



 行き場のない私たちは雨の中、小さな団地の側にある公園に入った。そこには屋根の付いた、向かい合わせのベンチがある。


「寒くないんですか?」


 男性が着ている灰色のスーツは、肩から胸元に掛けて黒くなっていた。


「あなたはどうですか?」

「私は……寒いです」

「なら僕が寒くないわけがないですよね?」

「……そうですね」


 会話が途切れる。

 屋根の向こうでは、雨が降り続いている。

 ベンチが冷たい。


 ほんの少しだけ、目の端で彼を窺ってみる。すると、ベンチの斜向かいにある、滑り台を見ているようだった。


「滑り台、好きだったんですか?」

「いいや。大嫌いでしたよ。だけど……いま僕、滑り台乗ってんなぁと思って」


 普段なら、支離滅裂な言葉。けれど、今の私には、その意味がわかった。わかってしまった。


「……どこまで続くんでしょうね、滑り台」

「さぁ。とにかく、底が見えなくて、真っ暗ですよ」

「暗いのは嫌いですか?」

「もちろんです。怖いんですよ……」


 ――それに、寂しいから。


 私には、彼がそう続けたように聞こえた。


「僕、小さい頃に、兄貴の悪戯で、分厚い毛布の中に閉じ込められたことがあるんですよ。そん時からずっと、怖いままなんです。トラウマ、引きずってるんですよ。アホみたいですよね、こんな歳になって」


 雨雲の中でも、分厚い雲がやってきたようで、辺りは一層暗くなった。滑り台の下に闇ができ、彼は目を逸らした。

 私はその視線を追う。……ブランコだ。


「私は、高所が苦手です。小学校の時、友達とブランコで遊んでいたら、中学生か高校生か、背の高い人たちに目をつけられてしまって、後ろから押されたんです。一番高いところで」

「……それで、どうなったんです?」

「勢いが強すぎて、手を離しちゃいました。……ココとココ、差し歯なんです」

「……それは、酷い話だ」


 彼はまだ学生らしさの抜けない顔に、ぐっと皺を寄せた。


「それで私、高所と……それに、年上の男性もダメになったんです。口を押さえていないと、身体が震えてきて……」

「それは……。採用の面接、どうなったんですか?」


 彼は私のリクルートスーツを見て言った。

 私は首を振る。


「短所を聞かれた時、正直に答えたんです。なのに、試そうとしてきて……。私、逃げてきました。情けない、ですよね……」


 暗い記憶が鎖で繋がれ、垂れ下がった遊具から、目を反らす。

 膝の上には、いくらでも降ってくる雨を、すべて落とした私の手。


「情けないなら、俺だって……」


 いつの間にか、少し砕けていた彼の口調。気づいた私は顔を上げた。俯向く彼とは目が合わない。無意識なのね。


「さっきの、トラウマの話、実は続きがあるんです。あの後、俺……ちびっちゃって。母の気に入ってた毛布を汚したんです。それで、俺が怒られて」

「どうして、あなたが?」


 普通、弟を苛めた兄が叱られるべきなのに。


「俺も唖然としましたよ。そんで、ポカンと見上げていたら、目の上を殴られました。その目、右目なんですけど、右目だけ視力が異様に落ちていって、片方だけコンタクト入れてます」


 目を見せるためか、彼は顔を上げた。確かに、右目にコンタクトの幕が見えた。


「そんで、これがまたトラウマで……俺の目の前で拳大の物が動くと、拒絶反応がでるんですよ」

「家族から、虐待されてたんですか……?」


 聞きにくいことだと思ったけれど、聞いてしまった。


「母と兄からは、されてたっすね。でも、父さんだけは俺の味方でした。……父さんのお陰なんですよ、俺がこっちで暮らせてるの。全寮制の学校に逃がしてくれたんです。

 だけど、父もいなくなってからは……田舎に帰るわけにはいかないし、かといって就職活動も……。俺、今日集団面接だったんすよ。発言したい学生は、手を挙げて発言してする感じの。それで、隣の奴が手を挙げた時、俺、ビビって椅子から落ちたんすよ……。次はないようにしようって我慢しても、身体が反応しちゃって……。こんな厳格な場で、落ち着きがないとはありえない! って落とされちゃいました……」

「お互い、幼少期の傷が、今も身を削り続けてるね……」

「そうっすね、お互い」


 溜息をつき、屋根の向こうに目を向けると、依然として雨が降り続いていた。


「私、今日、自分の上にだけ雨が降ってるんだって思ってました。下だけ見て歩いていると、そうだったんです。他の人は傘をさしていて、周りに雨を寄せ付けないから」

「俺もそうでした……」

「私たち、似た者同士、ですね」

「そうっす、ね」


 はは、ははは……と、湿った空気に、乾いた笑いが飲み込まれていった。



 いつの間にか、私と彼は同じベンチに座っていた。どちらからというわけでもなく、元からそうであったかのように。


 けれど、お互いを温め合うことはできない。二人共、雨に打たれて冷め切っているから。


「……あ」


 過去の傷に追い立てられ、二人で縮こまっていると、背中に微かな温もりを感じた。

 西日だった。

 雨は降り続いている。

 雲の下から私たちを覗き込むようにして、西日は現れた。


 不意に彼が席を立つ。

 そのまま、ふらふらと導かれるように屋根の向こうへ歩いていき、空を見上げながら手招きをした。


 西日の逆光になり、表情が見えない。

 雨を受けるスーツが西日で光った。

 顔は見えないけれど、なにやら嬉しそうなのがわかった。私も、外へ出る。


 すると――


「すごいな……こんなでかくて綺麗な虹、初めて見た……」

「本当、綺麗……」


 これは、天使の、輪?

 じゃない。七色の架け橋?

 それとも、希望の、虹?


 気がついた時、私は気の利いた言葉を探していた。気の利いた言葉を探すくらいには、私の気分は高揚していた。


 雨がパタパタと頬に散る。


「普通の人は気づかないだろうなー。

 傘で隠れるから」


 湿気に負けない強い笑みを、彼は浮かべた。私の笑みも、彼の右目に映っている。


「びしょ濡れだけの特権、ね」


 雨に濡れた土が楽しそうに音を鳴らす。

 私は、まだ名前も知らない彼の隣に立ち、雨を受けながら、虹を堪能した。


 虹を見たなんて何年ぶりだろう、自分のことをここまで話せたなんて貴女が初めて、知らない男の人に自分から話しかけたのなんて、私初めてよ……


 虹を見ながらする話は、自然と明るくなった。


 それは、夕日が沈み、虹が消えたことを、悲しいと思うほどに、追いかけたくなるほどに、大切な時間になった。


 虹を見られたのはこの人がいたから。

 今こんなにも、明るい気持ちになれたのも、この人がいたから。

 また明日も頑張ろうと思えたのも、この人がいたから!


 虹が沈んだ後、雨は止んだ。

 空から目を落とすと、当たり前のように視線が交差した。またお互い、笑ってる。


「なぁ、これから牛丼食べに行かない?」

「いいね、明日に向けてパワーつけなきゃ!」


 普通の女子なら引くような提案。彼の恋愛遍歴が垣間見えたきがする。

 けれど、今の私には、それでよかった。


 パワーも欲しい。それに、もっと時間も、欲しい。


「びしょ濡れだけど大丈夫かな?」

「大丈夫よ、きっと。笑顔でいれば!」



 私たちはこれから、下り坂の次は上り坂だということを、知ることになる。







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