第48話「朝倉 義景」45(全192回)

『戦国時代の群像』「朝倉 義景」45(全192回)

「朝倉 義景」(1533~1573)戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。天文2年(1533)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。生母は広徳院(光徳院)といわれ、若狭武田氏の一族の娘で武田元信か武田元光の娘とされる。 このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる。 幼名は長夜叉と称した。義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。天文17年(1548)3月、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行なっている。当初は若年のため、弘治元年(1555)までは、一族の名将・朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。天文21年(1552)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。この頃、左衛門督に任官した[4]。将軍の「義」の字を与えられて一等官である左衛門督の官途を与えられた事(それまでの朝倉当主は左衛門尉などの3等官)は歴代朝倉家当主の中では異例のことで、これは義景の父・孝景の時代に室町幕府の供衆・相伴衆に列して地位を高め、また義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより幕府と大変親密な関係を構築し、また衰退する室町幕府にとっては朝倉家の守旧的大名の力をさらに必要として優遇したためという[5]。庭籠の巣鷹を義輝に献上して交流を深めていたことも知られている。弘治元年(1555年)に宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。この前後は特に記すような出来事も無く、朝倉家と越前は戦国時代において平穏を保っていたようである。永禄2年(1559)11月9日には、従四位下に叙位された。永禄6年(1563)8月、若狭国の粟屋勝久を攻めた。この頃の若狭守護である武田義統は守護として家臣を統率する力をすでに失っており、粟屋勝久や逸見昌経らは丹波国の松永長頼と通じて謀反を起こしていた。このため朝倉軍は永禄6年以降、主に秋に粟屋氏攻撃のために若狭出兵を繰り返している(これは永禄11年(1568年)8月まで続いた)[8]。永禄7年(1564)9月1日、朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が加賀に出兵。9月12日には義景も出陣して本折・小松を落としたのを皮切りとして、9月18日には御幸塚、9月19日には湊川に放火して大聖寺まで進出した後の9月25日に一乗谷に帰陣している。永禄8年(1565)5月19日、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺された。義景は義輝暗殺を5月20日に武田義統の書状で知っている。8月に朝倉軍は若狭に出兵している[11]。また、8月5日に義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状によれば、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が7月28日に幽閉先の奈良を脱出して近江国に移ることになった背景には朝倉義景の画策があったとしており、この段階で義景は義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政ら脱出に関わった人たちと連絡を取り合っていたとみられている。9月8日、松永久秀に矢島御所から追われ、若狭武田家を頼っていた覚慶改め義秋が越前敦賀に動座したため、義景は景鏡を使者として遣わし、その来訪を歓迎した。義秋は朝倉家の後援を期待して朝倉・加賀一向一揆の和睦を取り持とうとしたりした。しかし両者の長年の対立は深刻ですぐに和睦できるものではなかった。また、永禄10年(1567)3月、家臣の堀江景忠が加賀一向一揆と通じて謀反を企てた。加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、義景は山崎吉家・魚住景固に命じ堀江家に攻撃をしかける。景忠も必死に抗戦をするが、結局、和睦して景忠は加賀国を経て能登国へと没落した。これは朝倉景鏡の讒言による内乱であったと『朝倉始末記』は記している。 11月21日、義秋を一乗谷の安養寺に迎え、11月27日に義景は祝賀の挨拶を行なっている。義秋の仲介により12月には加賀一向一揆との和解も成立している。永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、さらに義景に対して義昭の命令として2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。これは朝倉家が織田家に従うことを嫌ったためと、上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否したとされ、また信長も越前は織田領である美濃と京都間に突き出された槍という位置から義景を服属させる必要があったためとされる。このため永禄13年(1570)4月20日、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。連合軍の攻勢の前に旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らは信長に降伏した。また支城である天筒山城と金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城した。義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した。だが浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた木下秀吉に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がした。このため、信長に再挙の機会を与えることになった。元亀元年(1570)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人だった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる。 ただし、後述のようにこの3ヵ月後に朝倉軍は再度出兵を行っており、巷でいわれたほどの大損害を受けたとは考えにくい。だがこの戦いで信長は浅井方の支城の多くを落とすことになり、戦略的に非常に不利な立場に陥ったのは事実である。8月25日、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して9月20日に織田領の近江坂本に侵攻する。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津で焼き働きし、9月21日には醍醐・山科に進駐した。しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自らに味方するよう求めたが無視された。また10月20日に織田・朝倉間で小競り合いがあり、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景は無視した。 11月25日、信長は義景の退路を断つために堅田に別軍を送った。11月26日に朝倉・織田間で合戦になり痛み分けとなる。11月28日、足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なった。さらに信長は朝廷工作を行なったため、12月に信長と義景は勅命講和することになる。元亀2年(1571)1月、信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害した。6月11日、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた。 7月に六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を送っている。8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備しはじめた。これを見た浅井氏は朝倉氏に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と虚報を伝え、義景はこれを信じて支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継や富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返った。9月には砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れてきたが、義景はまた無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。10月、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍は次々と城を奪われた。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている。 これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の羽柴隊に敗退。12月3日には部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる。元亀4年(1573)2月16日、信玄は顕如に対して義景の撤兵に対する恨み言を述べながらも再度の出兵を求め、顕如もまた義景の出兵を求めている。3月に義昭が正式に信長と絶縁すると、義景の上洛の噂もあったというが[30]、義景は動かなかった。4月12日、朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。天正元年(1573)8月8日、信長は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻する。これに対して義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」[として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗して砦から追われてしまう。8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になった。このため、義景は越前への撤兵を決断する。ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。この田部山の戦いで朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走した。信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。 義景自身は命からがら疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死した。義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。8月15日、義景は一乗谷に帰還した。ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外は出陣してさえ来なかった。このため義景は自害しようとしたが、近臣の鳥居・高橋に止められたという。 8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れた。8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請する。しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じるどころか、東雲寺を逆に襲う始末であり、義景は8月19日夕刻、景鏡の防備の不安ありとの勧めから賢松寺に逃れた。一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火した。この猛火は三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのである。従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃する。ここに至って義景は遂に自害を遂げた。享年41。


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戦国時代の名将・武将の群像 川村一彦 @hikoiti

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