フォールダウン

暁烏雫月

第1話

 新生活を始めて独立するはずだった。内定が決まって、就職して、お金を稼ぐはずだった。こんなはずじゃ、なかったんだ。



 給与から社会保険料が引かれているが、保険証は未だに手元に来ない。嫌な予感がして仕事の合間にこっそりと役所で尋ねてみれば、ゴールデンウィークが明けた頃になっても手続きがされていなかった。


 入社してすぐに行った健康診断の結果が届いた。食後すぐに健康診断を行ったのもあり、予想通りの高血糖だ。食後1時間で血糖値がすぐに下がる健常者がいるのなら、逆に見てみたい。


 本来であれば病院に行かなければならないが、そんな時間も金もない。保険証が手元にない状態で「詳しく検査してください」などと言われても不可能だ。新卒にそんな金はない。


 保険費用を引かれた上でさらに年金を払うとなると、かなりの出費になる。加えて借り上げ社宅の家賃や光熱費、管理費も払わなければならない。


 4月に貰った給与は日割り計算できっちり半分払われた。そこから家賃や社会保険費が引かれ、生活費や諸費用として使える額は3万円。その殆どは交通費やコインランドリー代等に消え、5月の給料日までは昼1食で乗り切っていた。


 私の家に家電はない。そんなものを買うお金はなく、社宅に備え付けられてもいない。カーテンすら買えず、泣く泣くトイレに篭もって着替えている。その着替えすら、洗うことが出来ず衣類スプレーで臭いを誤魔化さなければならなかった。


「なんで、こんなふうになったんだろ」


 視線の先にはベランダが見えた。マンションの最上階――9階に位置する私の部屋。窓から外を見る度に思う。ここから飛び下りたら、少しは楽になれるだろうか、と。





 お金を稼いで、初任給で親に恩返ししようと思っていた。だが現実はどうだ。そんな余裕はない。携帯代すら自分で払うと生活できず、仕方なく親に頼む始末。


 強制参加の飲み会は自腹。営業車のガソリン代も自腹。当然、営業先に渡す菓子折りの類も自腹。仕事のための宿泊費用も自分持ち。申請したからと言って手元に返ってくることはない。


 人間が到底達成出来ないようなノルマを、深夜まで残って達成しようとした。私が無能なせいで残っているのだからと、残業代の申請は認められなかった。この会社に疑念を抱いている裏切り者は、私しかいないらしい。


 お昼におにぎり一個を食べ、飲み会では料理ではなく酒ばかりを回され、いつしかスーツはぶかぶかになっていた。スーツを直す金も買う金もない。体に合わなくなったスーツは、最近では営業活動における笑いのネタだ。



 久々の終日オフ日。私がしたことと言えば、溜まっていた家事をいかに安くこなすかと四苦八苦すること。食事が減ってからは体重が一気に落ちた。もう、食事しないことに慣れ始めてしまっている。


「お母さんの声が、聞きたい」


 寝る前にこれまでのことを振り返ると、ポツリと声が零れた。枕元に置きっぱなしのスマホに目をやれば、母からのメッセージが届いているのがわかる。もはや読む気力すらないけれど。


 必死に気力を振り絞り、スマホを手元に引き寄せた。メッセージを流し見てから、母に電話をかけてみる。1コールも待たないうちに「もしもし」と懐かしい母の声がした。


「お母さん」

「あんた、大丈夫? ご飯食べてる? 保険証は届いたの?」


 実家で暮らしていた頃は気付かなかった、母が私を思う声。質問に答えるより先に、言葉に詰まった。熱い何かが喉元にこみ上げる。


「そっちに、帰りたいな」

「帰ってきなさいよ」

「引っ越せない、時間がない、交通費もない」

「給料、入ってないの?」

「貰ってるよ。ただ、予想以上に自腹が多かったってだけ」

「それで食べられてるの?」

「なんとか、ね。ただ声が聞きたかっただけだから、切るよ?」


 これ以上話せばボロが出そうで、必死に呼び止める母の声を無視して通話を終了した。言えないよ、今の生活のことなんて。


 この生活を選んだのは私。この会社を選んだのは私。同期はみんな、この環境に馴染んでる。私がおかしいだけなんだ。



 社員研修の時、毎日のように泣いて電話をした。嫌な予感が胸を離れてくれなくて。私の中の何かが必死に警鐘を鳴らしたんだ。「ここは危険だ」って。


 今思えば、正しかったんだと思う。社会保険完備のはずが、現実では手続きすらされてない。必要経費は返ってくるはずが、ガソリン代やホテル代は返ってこない。出費ばかりがかさんでいく。


 頑張れば、若くして営業部長になれると聞いた。現に、私の部署のトップはまだ20代だ。その年齢の若さに違和感を覚えたけれど、それすらもが今では遠い昔のことに思える。


 実家かその近くに帰れる日は来るのかな。もしかしたら死ぬまで帰れないのかもしれない。いっそベランダから飛び下りたら、棺桶に入ってでも帰れるかな。骨だけになってもいい。父と母に会いたい。


 帰れるのなら帰りたい。この会社を辞めて別の就職先を探したい。下手に病院にもかかれないから、風邪を引いても耐えるしかない。いつ保険証が貰えるかも、いつ社会保険の手続きがされるのかもわからない。


 でも、同期のみんなは頑張ってる。この環境に疑問を感じてるのは私だけ。ここで逃げたら、忍耐力のない人って言われるよね。もっとしっかり、我慢して、強くなって、働かなきゃ。



 さっき流し読みした母からのメッセージを読むことにした。社会人になってから、友達とは一気に疎遠になった。SNSを確認する気力も、読んで返事をする気力もない。私の精神力が足りないからなんだろうな。


「仕送りも何も出来なくてごめんね」

「家電でも買ってあげられたら違うのかもしれないね」

「ご飯、本当に食べられてる?」

「お父さんが、カップ麺を送ろうか迷ってるって。古いポットも見つかったから、一緒に送ろうか?」

「掃除機も余ってるのがあるから送るよ。コードレスとコード付き、どっちがいいか教えて?」

「社会保険が無いなら、やめた方がいいんじゃない? 説明もされてないんでしょ?」


 母からのメッセージはどれも、私を心配するものだった。社会人になってまで迷惑をかけてごめんなさい。何も出来なくてごめんなさい。


 社長の言葉を教祖の言葉のように受け止めるなんて、私には出来ない。歴代社長がどこかの偉人のように扱われ、そのありがたい教えを何度も唱える。それすらに違和感を覚える。


 不衛生な空間。数年前と違ってクーラーが付いているだけマシらしい。朝礼で聞かされる動物虐待と思われる話も、右から左に聞き流すことができるようになった。でも……。


「若いうちは我慢しろ」


 それは、社会保険費が引かれているのに未だに手続きされていなくてもですか。社保完備を謳っておきながら、雇用保険しか手続きされてないのにですか。これ、たしか違法なことですよね。


「報連相はしっかりしろと言ってるだろ!」


 雇用契約書や労働契約書の類も書かせないあなた達がそれ言いますか? 報連相をというのなら、社会保険の手続きについてや雇用形態について、報告してくださいよ。


「優秀な奴は若くても出世する」


 それ、離職者が多いからですよね。この前はどこかの部長が辞令を出して飛びましたね。30代後半より上の人なんて、数える程しかいませんよ。


「応援してた球団が負けただと! お前ら、今期の評価は最低ランクな」


 球団の勝ち負けが給与に直結するって当たり前なんですかね。上司の機嫌1つで評価が決まるというのは、研修で聞かされていたシステムとかなり異なるようですけど。


「お前達の代わりなんていくらでもいる!」


 なら、辞めさせてください。退職したい人を引き止めないでください。不当解雇と退職のしにくさ。この2つが社内の噂話として広まってること、ご存知ですか?


「うちの会社はコンプライアンスを守る!」


 勤怠時間、誤魔化してますよね。残業代が就業規則通りに払われたこと、ないですよね。社会保険、手続きすらしてませんよね。それでもまだ『コンプライアンス遵守』をうたいますか?



 いろんな言葉が頭を過ぎる。そんな時ふと、スマホのロック画面が視界に入った。もう午前0時。あと5時間後には身支度をして出発しなきゃいけない。


 電話した後、色々思い出した。これまでのことを思い出したらあっという間に真夜中になるなんて。深夜0時なのに不思議と眠くないのはきっと、私の精神状態が不安定だから、だと思う。


 部屋の窓越しに見える外の世界は、明かりがほとんどなかった。都会の方ではあるけれど、さすがにこの時間に起きている人は稀だよね。


 布団から這い出て立ち上がってみた。そのまま、カーテンのついてない窓に向かう。窓ガラスを開ければ、涼しい夜風が私に向かって吹いてくる。


「気持ちいい」


 猛暑続きだった今年の夏。真夜中なのに体感温度は高め。それでも日中より幾分かマシに思えるのは、風が心地いいからなのかもしれない。


 家に帰りたい。帰るお金も引っ越すお金もないし、そう簡単に辞めさせてなんて貰えないけれど。


 ……このベランダから飛び降りれば、死ななくても入院になる。そうすれば仕事に行かなくて済むし、お金もかからない。明日くらい休みたい。月に4日は休みたい。


「飛び降りて、明日の仕事休もうかな」


 心の中で思いついた言葉が口から飛び出した。両手で手すりを掴む。パジャマのまま、右足を手すりにかけた。そのまま両腕で体を持ち上げれば、これまでよりはっきりと階下を見ることが出来る。


 視界に入ったのは灰色に染まった足場。月明かりがうっすらと、足場を照らしてくれていた。今飛び降りなきゃ、次休めるのは一ヶ月後になっちゃう。


 左足を手すりの上に乗せた。少しずつ足に体重を預けていく。左手を手すりから離すと、手すりの上でグラりと体が傾いた。


「お父さん、お母さん、今会いに行くね」


 思いきって右手を離す。次の瞬間、支えを失った体が階下に向かって落ちていく。落下のこの浮遊感は、フリーウォールに乗った時に似ているな。ああ、ねずみ色の地面が近付いていく――。

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