河原町こいうた #2

 白砂利を敷きつめた庭には、不規則に飛び石が並んでいる。

 松の木陰にはししおどしが配され、しょろしょろと水が落ちている。

 飛び石にしたがってその庭を歩めば、ハンミョウが爪先を、ツツ、ツツと飛ぶ。


 「きれいね」

 と、あなたは言う。

 小指の爪ほどの甲虫は、緑とオレンジのまだら模様のなかに、白い斑点を持っている。小さな庭を案内するかのように、その虫は地面から10センチほどの空中を飛んでは降り、飛んでは降りする。まるでぼくの気持ちそのもののように。

 ししおどしが跳ね返り、静かな庭に甲高い音を立てた。



 ノースリーブのむらさき色のシャツを着たあなた。

 夏の日差しをまっすぐに受け、細くてちいさな肩が、まぶしいほど輝いている。長く白いスカート。黒いストレートな髪。木々のこずえを通り抜けた山風を受けて、つつ、とそよぐ。

 「こないの?」と、あなたは聞く。ぼくは首を振る。「どうして?」

 ここであなたを見ているほうが、いいから。

 その言葉は、口に出る前に蒸発して消えてしまった。



 ぼくはカメラを構える。

 一眼レフのファインダーの中に、あなたの上半身を捉える。アウトフォーカスだった世界に、ピントリングを回転させることで、焦点を送る。黒い縁取りのファインダーの四角形なか、背景は黒みどりに沈んだ夏の落葉樹の木々だ。その前の白い玉砂利の庭と、白い肌の人は、日差しを反射して、きらきらと光り輝くようだ。レリーズを押すと、シャッターの幕が下りる。

 あなたのスレンダーな上半身は、このお寺の庭と一緒に、永遠にデジタルデータのなかにストップモーションした。



 あなたは庭を一周すると、書院造りになっているこの寺の境内へ上がった。

 畳敷きの広間は、周囲を板張りの廊下に囲まれ、庭に面した壁のふすまをすべて取り払ってあるので、広間のどこからでも、庭が眺められる。

「こちらへ、おいで」

 あなたが手招きする場所へ、ぼくは歩いてゆく。

「すわって」

 あなたは右手で膝の前のスカートをたくし込んで、静かに正座する。

 庭に面した広間の中央。畳の端に毛氈もうせんが敷かれている。畳のベージュと、毛氈の深紅クリムゾン。庭に目を転じれば、砂利の白と植え込みの緑。見目鮮やかなハイコントラストの世界がそこに広がっている。

 「写真、撮ってみて」

 あなたに言われたとおり、ぼくはカメラを構え、ファインダーを覗き込む。

 「一番いいアングルを探してね」

 あなたが低い声で囁くから、ぼくは広間中をうろつく羽目になった。

 すこし高めから、畳と毛氈とあなたを入れ込んで、庭を。

 あるいは低めから。画面の半分近くを畳で占めて、奥行き間を強調しつつ、庭を配置。

 いやちがう。廊下の柱をアクセントにして、板張りの廊下を使って庭をトリミングする。

 どのアングルも、しっくり来ない。収まりが悪い。

 「ここへ、おいで」

 いつまでたっても改心の一枚の撮れないぼくに、あなたは手招きする。

 あなたの脇に腰を下したぼくに、「正座」とあなたは指示する。

 いわれたとおりに、ぼくは膝を正す。ちょうど良く、庭が見渡せる位置だった。

 「ファインダー、見てごらん」

 いわれたとおりにカメラを構え、正座の姿勢のまま、レンズを通して庭を見る。



 ぼくは、驚いた。

 とてもバランスよく、庭が見える。手前に少しだけ毛氈の赤と廊下の板張り。そして白い玉砂利。グリーンの背の低い植木と、その奥の濃緑色の木立。ちょうど画面の中心、木立の途切れたあいだから、青がすみに塗り込められた遠くの山々が見える。

 そのままの気持ちで、レリーズを押した。一千分の一秒のスピードでシャッターの幕が開いて、閉じた。

 あなたが、うなずく気配がした。

 「そうよ。それで、百点」

 合点のいかないぼくに、あなたは言う。

 「このお寺の、このお庭の、いちばんきれいに見える場所は、ここ。

 広間の中心から正座して眺めると、手前のお庭から奥の借景しゃっけいまでが整然と並んでいくのよ」

 建築士のあなたは、丁寧に説明してくれる。「一番のお客様をここにご案内して、お庭と、その向うの広がりまでを見渡せるように、この広間は設計されています。わかるでしょ?」

 うん、確かに。

 「あなたが見つけたベスト・ポジションは、そのまま千年前のこのお寺を建立こんりゅうしたひとの意思なのよ」



 ぼくは驚きも隠せずただ、あなたの言葉に目を丸くしていた。

 あなたはほほ笑んで、「かわいいのね」と。

 ぼくは顔を赤らめた。



 お寺を辞して、あなたのクルマに戻り、ぼくの投宿しているホテルへ送っていってくれた。

 ぼくはあなたを帰したくなかった。このままずっと、夜まで一緒に。そう、思った。

 仕事の都合で半月間、長逗留していたこの町で、初めて知り合ったおんなの人だった。ホテルの近くの居酒屋で、ひとりで飲んでいたあなたに声をかけたのは一週間前のことだった。それから一度食事をして、この週末にあなたは京都の観光案内をしてくれた。

 とてもリラックスして、まるで昔からの友だちのように心を開いて話ができた。こんな風に誰かと自然に仲良しになるのは、ほんとうに久しぶりのことだ。

 シフトレバーに置かれたあなたの左手に、ぼくは手を重ねた。一緒に、夕ご飯も、の言葉をぼくはそっと飲み込んだ。

 あなたの手に、金属の感触を感じたから。自分の手をどけてみると、あなたの左手には、シルバーのリングがはめられていた。

「ごめんね」あなたは言った。「今日はデートのつもりでいたから、つけてこなかったのだけど」

 そうだったのか、と思った。気の効いた言葉が継げなかった。

 しらなかった、とぼくは言った。土曜日に家を開けて大丈夫だったの?、と、ショックから一生懸命立ち直りたくて、なんでもない素振りをしてぼくは問うた。

 あなたはただ微笑して、それには答えなかった。



 ホテルの車寄せ。

 既に車外に降りていたぼくに、助手席の窓を開けてあなたが声をかける。

 「またね」

 すこし胸が切なくなるような気持ちが訪れる。なんていおう、と逡巡しゅんじゅんしている間に、声が勝手に話していた。

 「うん、また。

 とても楽しかった。

 また今度、誘わせてね」



 また今度を作れなかったのは、単に縁がなかったのか、それともぼくにその縁を引き寄せる力がなかったせいなのかは、あれから17年経った今でもわからない。

 あの町に行くたびに、あのひとのことを思い出す。夏の日のあの書院造りの座敷と、キメの細かい肌を。

 恋が泣かせるのは、弱い女ばかりではない。意気地のない男もやはり、人知れずそれに涙するものなのだから。

 遠い日は二度と帰らない。

 夕闇の桂川。






 あの人の姿 懐かしい

 たそがれの 河原町


 恋は 恋は 弱い女を

 どうして 泣かせるの


 苦しめないで ああ責めないで

   別れのつらさ 知りながら

    あの人の言葉 想い出す

     夕焼の高瀬川


 苦しめないで ああ責めないで

 別れのつらさ 知りながら


 遠い日は 二度と帰らない

  夕やみの桂川



(京都慕情 作詞: 林春生)

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河原町こいうた フカイ @fukai

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