邂逅

【仮題】6月某日、とある女性の日記

「ヒイラギ……先生?」


 わたしはとある喫茶店内で一人の男性に声を掛ける。茗荷谷駅で見掛けてから決心がつき切らないままここまで来てしまったが、声を掛けてしまったならもう後戻りはできない。


 しかし勢いに任せて声を掛けたものの、反対に彼から「どうしてわかったのか」と尋ね返されてしまった。少し考えればこうなることは当然だ。


 わたしは焦った。心臓の鼓動が速くなるのを感じる。自分から声を掛けておいて早速墓穴を掘ってしまった。こうなったら正直に全て話してしまおうか。至極あたりまえとしての良案は出任せで彼を欺いてしまうことだが、それは良案であれど得策とは言えない。


 わたしは嘘が吐けないのだ。


 いや、嘘が吐けないというとやや語弊がある。嘘が苦手と言った方が正しい。


 それは一般的に認知されている善悪の価値観とはもっと別のところからくる、言わばわたしの〝癖〟のようなものだ。


 まず前提として嘘はいけないことだと思う。だがわたしはそんな善良な良心の基、〝正直者〟を生きていく上での至上命題としてを掲げているわけではない。


 これは言わば癖。ただこれまで嘘を吐いてこなかったというだけだ。ただ結果的に嘘を吐いてこなかったわたしは、いつしか嘘を吐かないことが良いことだからというよりも、イレギュラーな行動である嘘に対し不快と感じるようになっていた。


 例えば階段を上がる時、常に右足から踏み出してきたとして、ある日突然あえて左足から踏み出そうと思わないのと同じように、わたしにとってそれは当然のことになってしまっていた。それが世間一般的にいけないことならばなおさらだ。


 わたしは考えあぐねながらも妹から聞いたヒイラギ先生との出来事を思い返し、恐る恐るテーブルに広げられた原稿用紙を指差す。


 妙案が浮かばなければこのまま妹のことを話してしまおう、そう頭に過りかけたが、何故か彼が納得してくれたのをその表情から窺い知ることができた。


 晴れてわたしが〝ヒイラギ〟のファンである〝ミフユ〟と誤認してくれた。


 これでは嘘と何ら変わらないのではないかと自責の念が芽生えながらも、「真実を口にしていない」だけでわたしは嘘を吐いていないと、認知的不協和にも似た身勝手な発想でわたしは罪悪感を押し殺す。


 そう、わたしにはやらなければならないことがあるのだから。


 それがもし彼から大切なものを奪う結果になろうとも。


 まずその為にはこの先継続して彼と会う必要がある。そこでわたしは小説について互いに教え合うということを提案した。行き当たりばったりにしてはこれは我ながら良い案だったと思う。何かを「教える」にはそれ相応の時間を要するのだから。


 彼は少し戸惑いながらも最終的には了承してくれた。ただ〝先生〟と呼ばれるのは嫌らしい。


 彼の見掛けは私服姿で髪型も整えていない所為もあるが、妹から見せて貰った入学案内に載っているスーツ姿よりもずっと幼い印象だ。こんなこと口が裂けても言えないが少し可愛らしい顔立ちをしていると思ってしまった。


 わたしが彼の顔を眺めていると、彼が怪訝そうにするのがわかった。しまった。気持ち悪がられただろうか。


 わたしが言葉を探していると、彼が自身のスマホを見つめたのでわたしも彼に合わせて視線を移す。そして1秒程スマホを見つめたかと思うとすぐにこちらに視線を戻したのでわたしも改めて彼を見つめた。


 わたしが彼を観察するような視線を不審に思っての確認だろう。彼の表情からそれがひしひしと伝わってくる。


 このままにはしておけないので、わたしは理由を彼に説明した。彼はやめて欲しそうだったが、わたしはハッキリ「やめません」と言い切った。


 そう、やめるわけにはいかない。


 わたしは彼についてより詳しく知る必要があるのだから。


 それからわたしは彼に私自身の小説について尋ねてみる。


 これは目的遂行の為には特に必要のないことだったが、こうして妹以外に面と向かってわたしの小説について感想を聞ける機会は珍しいので、少し興味があってのことだった。


 そしていざ彼から感想を聞いてみると、少し顔を熱くなるのを感じた。


 そこでふと思う。わたしは他人の観察ばかりでわたし自身がどんな表情をしているのか確かめたことがない。自分の表情なので確かめようもないことだが。だからわたしはついでに尋ねてみることにする。「わたし今、どんな表情してます?」と。


 彼の言葉が本当ならばわたしは照れているように見えるらしい。


 それを自覚すると、余計に恥ずかしくなった。


 わたしたちはそれから小説についての話をした。気が付けばかなり時間が経っていたので半ば強引に次の約束を取り付け、今日のところはお開きとなった。


 帰り際の会計で彼が奢ると言うので、内心「年下からごちそうになるわけにはいかない」とわたしはかなり食い下がったのだが、結局最終的に彼に押し切られてしまった。


 果たしてこんな調子で、わたしは目的を果たせるのだろうか。

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小説タイトルはあなたが 所為堂 篝火 @xiangtai47

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