無題その3

 人間が本来日中に活動する生き物だということはわかっている。

 だが、すっかり常識的な生活スタイルから逸脱してしまって久しい俺には、急にそのリズムを正常に戻すことは困難だ。

 久々に歩く学校の廊下の生暖かい空気に息苦しさを感じる。

 自らの足が校舎内の廊下を踏む音と、次々と通り過ぎる傍らの教室内から聞こえてくるざわめきだけが耳に入っていた。

 出だしのコンディションとしては最悪だ。

 少なくとも起床予定時刻の5時間前にはベッドに入った筈なのに、眠れないまま気が付けばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。もう今から眠ってしまうと逆に起きるのが辛くなりそうだと諦め、俺はシャワーを浴びて適当に時間を潰してから家を出た。

 晴れて今日から学校へ戻ることを決心したものの、いざこうして教室に向かう足は寝不足も相まった怠さで重い。幸い学校までは徒歩で通える距離なので煩わしい満員電車に乗る必要はないが、学校までの道中からずっとこんな調子だ。

 重い足取りでそれでも着実に近づく目的地の教室。授業開始時刻が迫る。

 学校へは結局父の力を借りて戻ることになった。実に情けない限りだが、こればっかりは何の力も持たない俺にはどうすることもできない。

 でも、ここから先は俺が、俺自身が何とかする他ない。

 しかしまあ、コンディションこそ最悪だが、こうして肌に触れる学校の空気、良くも悪くも戻ってきたんだなぁと実感だけはできる。

 本当に、もう一人のミフユさん、海藤雪さんには酷いことをしてしまった。考えるだけで身悶えする程みっともなく、不甲斐ない。

 俺は上手くいかない自分自身に嫌気が差していたのだろう。理想とかけ離れたこの学校生活に。

 日記にも明かした通り、俺はキッカケが欲しかっただけなのだ。思い通りにいかない現状から逃げたくて、逃げる口実を探していた。そしてあろうことか、俺の小説を好きでいてくれた彼女に、あの時廊下助けてくれた彼女に全てを擦りつけ、深く傷付けた。

 そしてそのことすら知らないまま、のうのうと無意味な日々に沈んでいた。

 でも、もう逃げるわけにはいかない。

 彼女との約束を果たす為にも、俺の小説の数少ないファンの一人であるあの子にこれ以上心配を掛けない為にも、俺自身の言葉に責任を持つ為にも、そして何よりも、俺の選んだ、俺のやりたかったことの為にも…………。

 俺は目的の教室の前で一度立ち止まると、両の頬を叩いて気合を入れる。

「よし……」

 そして意を決すると一気に教室の扉を開けた。

 既に授業開始待つ生徒たちは全員席に着いている。俺が教室入った瞬間ざわめきが収まり、クラス中の視線が一斉に俺に集まった。静まり返った教室内、少し間があってまばらに小声の話し声が聞こえてきた。

 俺は多人数の視線に押し潰されそうになりながら、黒板前の教壇に立つ。そして教室全体を見据えた。

 もしかしたらしばらく学校を休んでいた俺のことを覚えていないかもしれない。だから俺は改めて自己紹介から始めることにする。

 一度咳払い、そして静かに深呼吸し、しっかりとクラスの皆一人ひとりと視線を合わせた。

「おはようございます。一身上の都合でしばらく休んでましたが、今日からまた復帰することになりました」

 相変わらずクラス中の視線は俺に向いている。

「現国を担当する佐倉冬樹さくらふゆきです。改めてよろしくお願いします」

 そこまで言い切ると、俺は教壇の上で教科書を開く。

「では、授業を始めます」



 何とか初日の仕事を終え、校舎を後にする。

 生徒たちのいる場から離れてより顕著に表れ始める身体の疲労感は、正直達成感とは言い難い。まあ、初日はこんなものだろう。

 校舎を背に数歩歩みを進めると、俺は何の意味もなく一度校舎に向かって振り返る。明日からまたこの学校に通うのだと、もう一度自分に言い聞かせて。

 俺は学生の頃から小説が好きだった。読むことは勿論、書くのも好きだ。

 できるならば将来は小説家になりたいと淡い夢を抱きつつも、「本を読むこと」の素晴らしさ、「物語を創作すること」の楽しさを、もっとたくさんの人に知って欲しいとも思った。一番の理想は俺が小説家として世に作品を出し、たくさんの人に影響を与えることなのだが、それは残念ながら将来の進路としてはかなり不安定だ。間違っても両親には言えなかった。

 だから俺は次の候補として国語の教師を目指し、そのまま成り行きでこの学校に就くことになった。まあ、教育機関に対して力のある父親のお世話になりっぱなしなのだが。

 俺が最近はまっているファンタジーのような物語は学校の教科書には載っていないが、それでも授業を通して少しでも読書の魅力に気付かせてあげられると、教師になった当初は前向きな明るい気持ちでいた。だが、仕事をしているうちにこの学校という場は、授業という機会は、俺が考えていたものとは違うとわかったのだ。

 退屈そうに黒板を眺める40人の前でひたすら予め決められた学習指導要領に沿った講義を続ける毎日。だんだんと俺の中でのモチベーションが削がれていくのがわかった。

 我ながら教師失格だったと思う。実に身勝手で生徒たちのことなんて全く考えてすらいなかった。俺に「先生」だなんて敬称で呼ばれる価値はなかった。

 でもミフユさん、俺が喫茶店で出会ったあの女性は、もしかしたら気付かせてくれたのかもしれない。人に何かを「教える」ということの醍醐味を。俺は確かに楽しんでいたのだから。もっとも、俺の方が教わることが多かった気もするが。

 授業の中で「読むこと」、「書くこと」の素晴らしさを教えられなかったのは単なる俺の力不足。「くだらない」と思うのはお門違いも良い所だろう。勿論これから先、上手くいく保証はない。俺だって高校時代の授業は退屈だったのだから。それでももう少し頑張ってみようと思う。40人のうち2~3人でも、いや、1人でも良い。俺の授業を通して僅かでも活字の紡ぐ物語に素晴らしさを感じてくれる子がいるかもしれない。そう信じて今はもう少し続けてみようと思う。

「おいおぬし!」

 少しのあいだ足を止めて校舎を眺め、そろそろ行こうかと思った頃、傍らから聞こえる少女の声が意識に入った。隣を見ると背の低い女子生徒が俺を見上げている。どうやら一人思案に耽る俺にずっと呼び掛けていたらしい。

「おぬし、何を呆けておる」

「ああごめん、小さくて気付かなかった」

「『小さい』はよさぬか! この無礼者!」

「ははは、ごめんごめん」

「この面倒見良さ男が……」

 俺は宥めるように少女の頭をぽんぽんと叩いた。少女は心底不満そうにしばらく「ふーっ」と猫みたいな威嚇をしていたが、不意に俺と目が合うと急にしゅんとして俯いてしまう。

「こ度はまこと、すまなかったな……」

 そしてそのまま何の脈絡もなく謝罪を口にする。しかし今度は俺にもその謝罪の意味がわかった。

 そうか、君が……。

「こ度はまこと、すまなかった……いや…………、ごめんなさい……先生……」

 俺は少女の頭に置いたままの手でくしゃくしゃと撫でてやる。

「ううん、大丈夫だよ。君は悪くないよ」

「…………」

「君が友達想いの子だってことは知ってるよ。僕の方こそごめん。知らなかったんだ、そんなことになってるだなんて。本来、生徒の為に色々考えるのが教師の役目だからね、気付かせてくれてありがとう」

「うん……」

「これからも友達のことを大切にね」

「うんっ!」

 少女は一歩後ずさるように俺から離れると、深くお辞儀をして走り去ってしまった。

「『先生』か……。何だかまだ慣れないなぁ……そう呼ばれるの」

 さて、俺もそろそろ行かなければ。約束の時間に遅れてしまう。



 俺はその日、真っ直ぐ自宅へは戻らず、そのままの足で茗荷谷駅へ向かい電車に乗った。

 行先は池袋駅。駅近くのあの妙に高い喫茶店。

 店内に入ると迷わず一番奥の席へ向かう。目当てのテーブルには既に一人の女性が待っていた。

「お待たせしました」

 俺は席に腰掛ける長い黒髪の綺麗な女性に声を掛ける。彼女はこちらを見て微笑んだ。いつもと違って今日の彼女は社会人らしい黒のスーツ姿だ。もっとも、土曜日の制服姿が特別だったのだろうが。

「ヒイラギ先生、お疲れ様です」

「〝先生〟はやめて下さい」

 俺は苦笑しながら対面に腰を落ち着ける。

「ええ? これでようやく〝先生〟と呼べると思いましたのに」

「僕に〝先生〟だなんて呼ばれる価値はありませんよ。まあ、資格は……あるのかもしれませんが」

 教員免許というごくあたりまえの資格だが。

「ではこれまで通り、〝ヒイラギさん〟とお呼びします。本来なら佐倉さんとお呼びすべきでしょうが、こちらの方がしっくりきますしね」

「では僕も〝ミフユさん〟でいいですか? でも、よろしければ本名を教えて頂けると嬉しいです」

「陽菜です、海藤陽菜みふじひな。〝ミフユ〟というユーザー名は最初に妹が登録したものですので、あの子の名前からきているのですが、ヒイラギさんがその方が呼びやすいようでしたら構いません。でも……」

 そこでミフユさんは急に顔を赤らめ、照れたように視線を逸らす。

「でも、そのうちちゃんと名前で呼んで頂けると嬉しいです……」

「ええ、まあ……ではそのうち……」

 俺も無性に照れくさくなって視線をテーブルに置かれたメニュー表に逃がした。アイスコーヒーに決まっているのだが。

「ヒイラギさん。わたしとヒイラギさんって同い年らしいですよ?」

「え? ってことは今年24……ですか?」

 そうか、恐らく妹を通して知ったのだろう。新任当初、全校集会の自己紹介の場で口にした記憶がある。

「ええ、ちなみにヒイラギさんはお誕生日いつです?」

「…………。12月18日……ですが。〝冬樹〟って言うくらいですからね」

「ではわたしの方がちょっとだけお姉さんですね。わたしは4月6日ですから」

「まあ、〝陽菜〟さんなら春でしょうね」

 しかし、ずっと高校生として接してきた女性が同学年とはいえ自分より年上だったとは、何とも言えない感覚だ。

「何はともあれ色々と合点がいきました。時折ミフユさんが妙に大人っぽく見えたので」

 とはいえ女子高生だと信じ込んでしまうくらいなのだから、世間的には童顔と言えるのだろうか。

「お会いする時は制服姿が多かったですからね。ヒイラギさんは女子校生の制服姿の方がお好みでしたか?」

「職業的な立場上、変な誤解が生じますのでやめてください。いや、本当に……」

 俺は真顔でそうお願いした。

「ミフユさん、今一度お訊きしたいのですが」

 俺はからかい交じりに微笑む彼女にそう前置きを挟む。

「あなたの今回の試み、もし仮に僕が最後まで気付かないまま進んでいたら、あなたの予定通りになっていたのでしょうか?」

 ミフユさんは考える、というよりは口元に自嘲気味な薄い笑みを作ってから、口を開く。

「わかりません。文字通りわたしにとっての〝試み〟でしたから」

「でも、先日読ませて頂いたあの小説は、〝あなたが書いた僕自身〟は、まさしく僕自身でした。僕そのものでした。恐ろしいくらいに……あれは確かに僕だったんです」

 俺はどう説明して良いかわからず、同じような言葉を繰り返した。

「僕の日記と録音音声だけで書き上げたとは思えない程です」

「それはヒイラギさん、あなたがわたしのお願いした通り〝ありのまま正直〟に日記をつけてくれた証拠だと思います」

「でも真実とは異なる箇所もありましたけど……」

「ああ、例の内容ですね」

 彼女の小説内容と同様の事件が起こるという内容。まず前提としてあの小説内の出来事は概ね真実だった。ミフユさんの書いたファンタジー小説と現実に起きた事件。それらは実際にあったものだ。

 しかしその時系列が実際のものとは異なっていた。つまりあの二つの事件は実在したものだが、それらはミフユさんが小説に書くより前、それこそ十年以上前に起きたものだった。そしてその二件の事件内容を参考にミフユさんがファンタジー小説のシーンに取り入れたのだ。当然称賛の声と共にカクヨム内での「不謹慎」といった批判コメントも多かった。それでも俺にとっては十分な不安要素だった。

 友人や倉敷さんに相談した時の彼女たちの回答は当然小説内容とは異なるものであったが、「考え過ぎ」と一笑に付されたような反応は概ね似たようなものだった。

 ただ俺だけが一人騒いでいたのだ。ミフユさんならそのうち「人の悪意」を真に理解し、あの小説に書かれていたのと同じように犯罪を誘発するような作品を書き上げてしまうのではないかと。そして不安が募ったタイミングで追い打ちを掛けるように彼女は小説に自分自身を被害者として登場させた。あの時は心底焦った。ついにこの時が来たかと。

「あれは何か意味があったのでしょうか? 正直者のあなたがあえてあんな内容を書く意味が」

「意味……と言われると少し困りますが……でも、スリルはありますでしょう?」

「スリルはあんな内容がなくても十分ありましたけど」

 スリルというか、彼女の謎に関する怖さというか……。そして俺はその怖さに惹かれてしまったのだが。

「それにヒイラギさん、わたしは嘘を書いたわけではありません。あれは小説です。そして小説に嘘は存在しません」

「と言いますと?」

「こと小説においてそれは〝フィクション〟と言われています」

 そう言われればそうかと思うが、いまいち納得はできない。弁明というよりは、からかわれた印象の方が強い。

「気になった点としてはもう一つ。作中での僕のミフユさんに対する気持ちの描写、何だかどことなく好意があるように書かれている節がある気がするのですが…………」

 ミフユさんは俺の言葉を遮りながら笑顔で「ファンタジーです」と言い切った。そこは「フィクションです」じゃないのか。やはり年下を良いことにからかわれているのだろうか。

「ああ、そうそう……これ、忘れものです」

 俺はささやかな仕返しにと鞄から小さい紙袋を取り出し、彼女に手渡す。ミフユさんは袋の中身が俺の家に置いて行ったレギンスだとわかると、信じられないくらい真っ赤になった。

 俺たちはそれから飲み物を一杯飲み終えるまで取り留めのない雑談をし、喫茶店を出た。会計時はいつもの癖で俺が払おうとしたが、「わたしの方が年上だから」と、ミフユさんから強引に奢られてしまった。



 駅までの道中、こうして互いに社会人らしくスーツ姿で並んで歩くのは新鮮で、とても不思議な気持ちだった。

「ヒイラギさんは頑張る人がお嫌いですか?」

 徐にミフユさんが尋ねる。確かに、そんなようなことを日記に書いた気がする。嫌いとまではいかないが、「好きになれない」とか、何とか。

「いえ、僕自身、少し頑張ってみようと思いますから。ミフユさん、あなたがそのキッカケをくれたことには感謝しています」

 ミフユさんは俺の言葉を受けて、「よかった」と小声で呟く。

「その気持ちを忘れそうになったら、あの小説を読み返します」

「ええ、是非そうして下さい。いいえ、むしろ続きを書いてみてはどうです?」

「えぇ? 僕がですが?」

「だってあれは〝あなた自身〟ですから。そうです、せっかくですからカクヨムに投稿してみるとか」

「そんなことになったら今度こそ僕は不登校になるばかりか、山奥に籠ります」

「ふふっ」

 ミフユさんは口元に手を当てて上品に微笑んだ。

「そこはおきまりの文句をあらすじに記載しておけば大丈夫ですよ。ほら、この物語はフィクションです云々――といった」

「それはそうかもしれませんが…………。それにいかに僕にとって特別な小説でも、赤の他人が読みたいと思うでしょうか?」

 それこそミフユ名義で公開すれば話は違うだろうが。

「そこはほら、キャッチコピーで補強します。こんな感じでどうです? 『現役女子高生に教わる面白い小説の書き方』」

「いやいや、思いっきり嘘じゃないですか」

 これでは叙述トリックも何もあったものではない。

「フィクションです」

 ミフユさんはやや食い気味にそう断言した。

「それに女子高生お好きな方は多いでしょう?」

「職業柄お答えできかねますとだけ言っておきます。それに何だか〝釣り〟みたいで気乗りしませんね。実際は言う程『書き方』に触れてませんし。ただハタチ以上の成人した男女が出会うだけです」

「なんだかいやらしい……」

「な!? 何でです!?」

 よくわからない照れ方をしたミフユさんに俺はつい大声でツッコミを入れてしまう。周囲の視線が集まったので俺は咳払いをして誤魔化す。

「そもそも肝心のタイトルはどうするんですか。僕にはあの小説がどんなジャンルに分類できるのかすらわかりません」

 ミフユさんは歩みを止めないままこちらを覗き込むようにする。

「小説タイトルはヒイラギさん、あなたが付けて下さい。あなた自身の物語ですから」

「…………まあ、それもそうですね」

 そう答えながら俺は内心考えていた。「小説タイトルはあなたが」。もし付けるならば、それが良いかもしれない。間違っても公開したりしないが。いずれにしても、あの物語が良いものになるかはこれからの俺次第なのだろう。

 電車に乗り、早くもミフユさんの下車駅である新大塚駅が近づく。

「ヒイラギさん、これからも時々小説について教えて頂いても良いですか? わたし、次に書きたい小説があるんですが、このジャンルに関してもわからないことばかりで……。また手伝って頂けると嬉しいです」

「構わないですけど……どんな小説です?」

 その時、ちょうど電車が新大塚で停まった。

「恋愛小説です」

 ミフユさんはそのまま逃げるように電車を降りて行ってしまったので、表情すら確認できなかった。

 「小説タイトルはあなたが」か……。さて、最終的に一体どんなタイトルになるやら……。

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