無題その2
『人生は、後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない』。かの偉人キルケゴールの言葉だそうだ。
結果は出てしまってからしかわからないが、どの道人間は前へ進むしかない。
わたしからするとは酷い皮肉でしかない。
わたしという人間にとって未知は恐怖なのだ。
闇でしかない前を向いて歩くことが怖くてならない。
だからわたしは過去を、経験したことだけを、確定し身体が覚えている感覚のみを、小説として書いてきた。それしか書くことができなかった。これもある意味逃げていることに他ならないのだろう。先の未来から。まだ見ぬ未知から。
彼の言う「本当の意味での創作」。わたしの思い描いた今回のシナリオは、失敗や後悔を忌み嫌うわたしにとって、実に荷が重い試みでもあった。
だから今回、わたしはわたしなりに頑張ったつもりだ。妹の為に、頑張って頑張って、そして失敗した。でも、失敗はしたが、後悔はしていない。
結果、彼には多大な迷惑を掛けたし、妹にはあの小説を見せた後、少し叱られた。
しかし、今回の件はわたしにとって、わたしの人生において、とても大切な経験となったことも確かだ。結果的に妹も、彼も、学校に復帰することになったのだし。色々な犠牲の元に至ることができた結果ではあるが、頑張ってみて本当に良かったと思う。でも、やはり決断してくれた彼への感謝が一番大きいだろう。彼が彼のような人間ではなかったとしたら、もっと別の、それこそ酷い結末に行き付いてもおかしくなかった。
それくらいのことをわたしはしてしまったのだ。
わたしたち姉妹には両親がいない。二人ともわたしたちが幼い頃に事故で亡くしている。わたしが社会に出て自立するまでは親戚が面倒を見てくれたし、両親が残してくれた遺産もあったので金銭的にはわたしの収入だけで現状困ることはない。だが、金銭面だけでは何ともできないことがある。妹の雪が独り立ちするまではわたしに全ての責任があるのだ。
無論今回のやり方が世間的にみて一般的だとも思わないし、最良だとも思わない。両親が存命だったなら、きっともっと別のやり方をしただろう。
それこそ、妹を根気よく励まし説得することや、彼に隠さず全ての事情を話しお願いをすることだって考えられた。
でもわたしにはできなかった。妹の苦悩から目を背け我慢を押し付けるのも、彼に一切の罪悪感を押し付けるのも、わたしには到底できないことだった。彼は日記の中でしきりに自分のことを臆病者だと書いていたが、真の臆病者はわたしの方かもしれない。
一番の理想はわたしの思惑に気付かれないまま二人に学校に復帰してもらうことだった。罪悪感は全てわたし一人がひっそりと抱えて。抱え続けて。こんな酷い事をしたわたしだけがひとり苦しんで生きていけば良いと思った。
今回の結果は表面上だけで見れば最悪だ。結局彼と妹、その双方に対して全てを曝け出すことになったのだから。(無論、妹に関してはわたしから伝えたのだが)。その上でこんな結果になっている。
日頃から人間を観察し、他者についての理解を深めようと努めてきたわたしだが、そんなわたしが一番、わかっていなかったのだろう。
「――――であるからして、真実とは常に観測されていなければならないのだ。例え幻想だとしても、最後まで目に映るものそれこそが観測者にとっての真実となる」
今日は妹の久々の登校の日。初日は妹に付き添って一緒に学校へ行くことになっている。そこで少し早めに家を出て、朝食代わりにと妹と一緒に駅前喫茶店のモーニングを食べることにした。妹の友人であるリツキちゃんも一緒だ。リツキちゃんは先程から演劇に対する持論を熱く語っている。
妙な口調をしているのは、率直に言えばわたしの所為だ。わたしが小説の参考にする為にと彼女に頼んで魔術師の演技をして貰ったのだが、どうやら彼女は一度その役に成りきるとすぐには元に戻らないらしい。今も半分はまだ異世界の魔術師なのだろう。
「リツキちゃん、もう良いのよ。魔術師の役に成りきるのは。色々と参考になったから、ありがとう」
実はあまり参考にならなかったことはわたしがお願いをした手前言わずにおく。わたし自身魔術師を見たことがないが、「少なくともこれじゃない」とは思う。
「我が創造主よ、案ずるでない。我は我の使命をまっとうする。その為に――」
「わかったからリツキちゃん。でも、これだけはお願い。いくら演劇の小道具だからって本物の火を使わないように」
「えぇー……」
「えぇーじゃないでしょ?」
リツキちゃんは手先が器用で、部活動の小道具作りにも一役買っているらしい。たった今制服の上から羽織っているこの黒マントも自分で縫ったとか。
「レッド・ファイア・クリムゾン・プロミネンス・マギア・ステッキは我が偉大なる魔術師の家系に伝わる由緒正しき神器であるぞ?」
「リツキちゃん、〝マギア〟はラテン語よ。そこは英語で統一した方が良いと思うわ」
「ツッコむところそこ?」
妹がポツリと独り言のように呟く。
リツキちゃんはちょっと変わっているが、とても良い子だ。ちょっと思い込みが激しいところと、隠し事ができないおしゃべりなところが玉に傷だが、こうして妹と仲良くしてくれていることはわたしからしても感謝しかない。
当の妹はというと相変わらず口数が少なく、もくもくと大きなパンケーキを口に運んでいる。
「そういえばお姉ちゃん……」
と思っていたら、妹が徐に口を開いた。
「ん? なに?」
「お姉ちゃんさ……、ヒイラギ先生と……その、付き合ったら良いのに……」
「げほッ! げほッ!」
わたしは中途半端に喉に入れかけたカフェオレで盛大に咽た。
「なななななな何を言ってるの!? 怒るわよ?」
珍しく外出先で自ら口を開いたかと思えば、何てことを言い出すのだ。
「だって……あんなもの見せられたら…………ねぇ……」
何のことかわかっていないリツキちゃんはフレンチトーストをもごもごと頬張りながら小首を傾げていた。
「第一、あなたは彼のファンなんでしょ?」
「わたしが好きなのはヒイラギ先生じゃなくて、先生の書く小説。そもそも恋愛とか……よくわかんないし……。そこは心配いらないよ」
「べ、別に、心配なんかしてないわよ……」
「おやおやぁ、恋バナの気配がするぞぉ」
ちょうどその時、話題に加わると一番厄介そうな人物が喫茶店に入って来た。
「よう! カイトウ!」
「ああ、先輩。おはようございます」
わたしの働いている会社の先輩だ。
「おっはー。あ、ユキちゃんとおチビちゃんもおっはー」
「おチビはよさぬか! この無礼者!」
「何それ、今回は何キャラ? 武士? サムライ?」
リツキちゃんを軽くあしらいながらわたしたちのテーブルに来た先輩は、わたしのカフェオレの残りを無断で飲み干した。
「先輩、午前中会議でしたよね。早く行かないと遅れますよ」
わたしが妹の付き添いで出社が遅れることは勿論、一応は上司である彼女にも伝達済みだ。
「わかってるつーの。もーホントこの時期は忙しくて嫌んなるわ。ねぇ、ストレス解消かねて今夜飲みに行かなーい?」
文字に起こすと濁点が付きそうな唸り声交じりの話し方で先輩はわたしの肩に縋り付いた。
「お誘いは嬉しいのですが今日はちょっと予定が……」
「なんだよー。せっかく店の窓から見えたから挨拶がてら誘おうと思ったのにー」
「すみません」
「いや、いーんだけどさ。それよりも何? もしかして男? あーわかったー! 水族館の時にいたあの男の子だー」
「や、やめて下さい! 先輩まで! 怒りますよ?」
「あははは、ごみーんごみーん」
「もう、本当に先輩は調子が良いんですから」
こんな一辺倒な反応しかできないわたしもわたしだが、先輩はこんなわたしの反応を見て楽しんでいる節がある。
「それと先輩。いつまでその呼び方なんですか? 何度も言ってますがわたしは〝カイトウ〟ではなく〝ミフジ〟です」
「そんなことわかってるよー」
彼女が「わかっている」ということはわたしだってわかっている。仕事中に来るわたし宛の「ミフジ様いらっしゃいますか?」という電話に対しては普通に対応しているのだから。
まあ、マイナーな読み方であるのは確かだし、入社当初は周囲から結構間違われたが、未だにそう呼び続けるのはこの陽気な先輩くらいだ。
「でも、あだ名ってことでいいじゃーん」
「まったく……、先輩がちゃんとした名前で呼ばないからぁ…………」
「なんかあったの?」
「いやですね、思わぬところで変な誤解が生まれるってことですよ」
「ふえ?」
当然理解できない先輩は気の抜けるような声を上げ、あの小説を読んで事情を知る妹は顔を背けてくすりと笑った。
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