小説タイトルはあなたが
無題その1
「付き合っちゃえば良いのに」
最後まで読み返してからそう独り言を漏らすと、わたしは原稿用紙の束を整え、机に置いた。
不登校のわたしが言えた義理ではないが、姉は少し変わった人間だ。
先日「お姉ちゃん失敗しちゃった」と言いながらいきなりこの大量の原稿を手渡してきたと思えば、まさかわたしに隠れてこんなことをしていたとは。
手書きの小説には区切り毎にサブタイトルが付けられているが、そのどれもが【仮題】となっている。最後の方なんか、最早読み手に向けての弁明が入ってしまっている。そもそも悩むくらいなら律儀にサブタイトルなんて付けなければ良いのに。
まあ、これが小説である以上どこまでが真実であるのかはわからないが、つい最近まで入院していて退院後も滅多に部屋から出ないわたしには今更確かめようもない。
でも一つ最近不可解だったことの謎が解けた。壁際に掛けられていたわたしの制服が土曜日になると知らず知らずのうちになくなっているのだ。恐らくわたしが寝ているうちに姉が持ち出していたのだろう。
わざわざ学校のない土曜日だけにしていたのも、わたしがいつでも登校できるようにという配慮なのだろうか。
「ほんと……変なんだから……」
わたしは時計でまだ時刻が6時半であることを確認すると、ベッドに倒れ込む。寝返りを打つとカエルの間の抜けた顔と視線が合った。近い。ガチ恋距離である。いや意味不明だ。
そう自分にツッコミを入れながら無駄に大きなカエルのぬいぐるみを抱き枕代わりに抱え込む。
姉はわたしと比べて極めて優れた人間だが、そんな姉も完璧ではない。冗談のセンスは壊滅的と言って良いし物選びのセンスだって……。
そういえば、あの小説にはこのぬいぐるみを選んだ経緯も書かれていたが、そもそもこんな大きさのぬいぐるみが転がったところで簡単になくなったりするだろうか。姉は本当に変わっている。
何はともあれ、今からではまともに眠れる時間もないだろう。引きこもり生活で完全に昼夜が逆転してしまった所為で、わたしは昨晩から一睡もできていない。でも、恐らく眠れていないのは狂った体内時計の所為だけでなく、別の緊張によるところが大きい気がする。出だしのコンディションとしては最悪だ。
ちょうど枕元に置いてあったスマホに着信が入った。わたしに電話してくる人間は姉を除けば一人くらいしかいない。
わたしの学校生活における唯一の友人、リツキちゃん。クラスも違うのに、四六時中不愛想で何の面白味もないわたしに根気よく付き合ってくれている。リツキちゃん、彼女もまた変わっているのだと思う。わたしが彼女なら、こんなわたしみたいなつまらない人間と仲良くしたいとは思わない。背が低くて周囲から子供扱いされることが多い彼女だが、わたしと違って活発で、演劇部に所属し精力的に取り組む姿はわたしという暗い人間には眩し過ぎる。
「うん……うん……、大丈夫だよ。ちゃんと今日から行くって」
こんな時間から電話を掛けてくるなんて、わたしが学校へ復帰するのを余程疑っているのだろうか。いや、彼女は彼女なりに罪悪感を感じていて不安でならないのだろう。
確かに原因の一つではあるかもしれないが、わたしは彼女を恨んではいない。いや、むしろ感謝することの方が多い。例の件だって、友達のいないわたしの為に少しでも共通の話題になるようにと考えた結果でのことだろう。心底わたしのことを想って。こんなわたしだから未だ面と向かって日頃の感謝を伝えられていないのだが。
わたしはそれからも執拗に言質を取って来るリツキちゃんを宥め、電話を切った。
リツキちゃんはわたしが不登校になってからも毎日のように連絡をくれる。最近口調がおかしいと思ってはいたが、元々割とおかしい子だったのでそれならむしろ別におかしくはないかと、あまり気に留めてはいなかった。だが、まさかこれも姉の仕業だったとは。
彼女曰く、例えまやかしであろうとも信じ込むということが大切らしい。つまり演劇における「役になりきる」ということだろう。人前で演技を披露するなど、わたしには到底理解が及ばない行為だが。想像するだけで震えがきそうだ。
電話を切ったばかりだというのに、りつきちゃんからLINEのメッセージが入る。
『今朝方おぬしの屋敷に迎えに参上し候。大丈夫? お腹痛くなったりとかしたら言いなよ?』
しかし口調が安定しない。
彼女には一度わたしの愛読するライトノベルを貸して勉強して貰った方が良い。これでは異世界転移というよりは武士の転生だ。
それにしても…………、
「こんなの……、こんなのってずるい……」
わたしは机の上の紙の束に向かって恨めしそうな視線を送り、口を尖らせる。
普通に考えれば逆効果だ。こんなことまでされて、わたしはますます学校へ行きづらくなってしまう。
でも、ここに書かれている内容が概ね真実だとしたら、わたしだけずっとこうしているわけにはいかなくなるではないか。
だって、皆頑張ってくれた、それだけはわかるのだから。姉も、ヒイラギ先生も、リツキちゃんだって、わたしなんかの為に。頑張ってくれたことには相応に応えなければならない。
それに、彼、ヒイラギ先生に知られてしまったなら、いずれにしてもわたしには後がない。なくなってしまった。
ヒイラギ先生がわたしの所為で学校に来なくなったのはショックだった。そのショックが原因で体調も崩したし、一時期入院だってした。
でもわたしは耐えきれない。あのわたしの尊敬するヒイラギ先生に知られてしまったなら、こうしている場合ではない。彼にこれ以上心配を掛けるわけにはいかない。罪悪感を押し付けるわけにはいかない。
仮にこれが、わたしがそう思い至ることが、姉の真の目論見であるとするなら、姉もかなりの食わせ者だし、うまい具合にしてやられたが、そんなことは今となっては考えるだけ無駄なことだ。
それにわたし自身姉が嘘を吐けない人間であることは良く知っている。姉妹なのだから当然だ。彼女は確かに言っていた。「失敗した」と。
だからわたしは、いやわたしも逃げないことにした。
学校からも、自分からも。
それにこの小説が真実ならばヒイラギ先生はこれからも小説を書き続けてくれるのだし。
わたしは彼の書くファンタジーが好きだった。いや、〝好き〟というのは少し違うかもしれない。何というか、〝空気〟とでも言おうか、とにかく読んでいて摩擦と言うものを感じない。「空気にも摩擦はある」だなんて無粋なことは差し置いて、わたしが彼の小説を読んで感じるのは、何の抵抗もなく自然と身体に染み込むような圧倒的な親和性だ。
これは姉が主張するように、わたしと彼が近いものを持った人間同士だからだろう。
でも難儀なことに、彼の小説はカクヨム内で人気とは言い難かった。だからわたしは彼にモチベーションを維持して欲しい一心で毎話応援のコメントを欠かさず書いた。でも、いきなり「わたしと似ている」だなんて書かれたら気持ち悪がられること必至だし、「あなたの小説は空気です」なんて書こうものならアンチと捉えられてしまっても仕方ない。だから書く時は当たり障りない内容でヒイラギ先生の小説を称賛した。
わたしは恐れ多いと思いながらも心の隅の方でわかっていたのかもしれない。彼がわたしと近い人間だということを。そしてそのことが嬉しかったのかもしれない。
わたしは学校が嫌いである以上に、わたし自身が嫌いだ。
思い通りにいかないわたしが嫌い。
頭の中でこそこんな風に流暢な思考ができるが、ひとたびそれを表へ出そうとするとことごとく上手くいかない。頭の中では次々に言葉が出てくるのに、いざ口に出そうとするとスムーズにいかず、色んな何かに引っ掛かって、擦り切れて、ぼろぼろになり、ようやく絞り出す残滓は頭の中で浮かんだのとは雲泥の差、とても不格好なモノに変わり果てている。
そしてまた、わたしはわたしを嫌いになる。前よりもどんどんどんどん……。昨日のわたしよりも今日のわたしが嫌い。1秒前のわたしより今のわたしが嫌い。
あの時だってそうだ。ヒイラギ先生が廊下で落とした原稿を拾った時。「せっ、先生っ! あああ、あのっ!」だなんて、あっちこっちひっくり返ったような実に無様な声で原稿用紙を手渡した。「ああまたどもった。ホント嫌になる」と一時は自己嫌悪したが、でも、あの時は憧れのヒイラギ先生に出会えた喜びの方が勝っていた。
だからあの時は何かが変わると思った。
こんなくだらない毎日の中にも価値があるのかもしれないと、そう淡い期待をした。それがこんなことになるなんて……。
でも、わたしはもう逃げない。
彼が逃げないなら、わたしだって逃げるわけにはいかない。
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