【仮題】6日目その5、或いはやっぱり未完でした。
その正体不明の人影は低い男の呻き声を上げながら両手を広げ、彼女に覆い被さろうとする。
「きゃあっ!」
背後の人影に気付いたミフユさんが短い悲鳴を上げた。
俺は足を緩めることなく彼女の元に辿り着くと、力任せに背後の男をミフユさんから引き剥がした。
「なんだぁてめぇ」
男は引き剥がされた反動で足をよろめかせながらも威嚇の声を上げ、俺の顔面を殴りつけた。
「ヒイラギさんっ!」
これまでまともな喧嘩なんてしたこともない俺は、初めて経験する脳が揺れるような感覚に一瞬意識が飛ばされそうになりながらも、なんとかミフユさんの前に立ち、持参した杖を突き出して男を牽制する。
「邪魔すんじゃねぇよ」
男が二発目を繰り出そうと間合いを詰める。衝撃で明滅する視界。しかし俺は杖を両手で強く握り込んでちょうど剣道の構えのようにして男を睨む。
どうする。この金属製の杖で殴ればそこそこ痛いだろうが、そう上手くいくだろうか。考えている猶予なんてない。男の拳が今まさに俺に届こうという瞬間、握っている指先が何かのスイッチのようなものに触れているのに気が付く。
「おらぁ!」
男が再び叫ぶ。
なるようになれ。俺は咄嗟にそのスイッチを強く押し込んだ。
「うわぁ!」
その刹那、杖の先から炎が上がり、真っ暗っだったトンネル内が瞬時に明るく照らされた。
炎に怯み、その場で尻餅を付く男。俺は杖を捨て、男に覆い被さる形でその場に押さえ付けた。
「ひ、ヒイラギさん……」
「何をしているんです! 警察! 警察を呼んでくださいっ!」
暴れる男に全体重を掛け押さえつけながら、俺は怯えるミフユさんに向かって必死に叫んだ。
幸い警察署が近かったこともあり、ミフユさんの通報からすぐに警察官が到着し、男を連行していった。
警察が到着するまでのあいだに、説明に困りそうな例の杖はミフユさんに頼んで適当に隠しておいてもらった。
俺たちは被害者として事情聴取を受け、そして解放された頃には朝日が昇り始めていた。
結論から言うと、俺が取り押さえた男は連続通り魔の犯人なんかではなく、単なる酔っ払いだった。明け方まで飲んで電車もなく泥酔状態で彷徨っていたところにミフユさんのような美女と遭遇し、酔った勢いと出来心からことに及んでしまったとのことらしい。
男が泥酔して記憶が曖昧でいてくれたお陰で、俺が怪しげな武器を持っていたことが警察に知れ渡ることは免れた。警察に知られたことでどんな罪に問われるかはわからないが、あんな殆ど火炎放射器のようなものを持っていて不問に付されるということはないだろう。
「ヒイラギさん……この度は本当に……なんとお詫びして良いか……」
朝日に照らされたアスファルトを歩きながら、ミフユさんは力なくそう口にした。もう二人ともすっかり疲弊しきっていた。
「いえ、謝罪をしなければならないのは僕の方です」
俺は駅近くの公園に彼女を連れて行き、ベンチに座るように促すと自分も隣に腰掛ける。
「もう率直にお聞きしますが、妹さんが学校へ行かなくなったのは僕が原因なんですね?」
「…………」
やはりミフユさんは答えない。でもこの質問内容ですぐに否定をしないということは正しいということだろう。俺は構わず続ける。
「先日病院へ問い合わせた時に彼女が、『
「悪気は……なかったんです……」
ようやく決心が付いたのか、ミフユさんは重い口を開いた。
「あなたがカクヨムでファンタジー小説の執筆を行っている大好きな『ヒイラギ先生』であることを学校で偶然知ってあの子は嬉しかったんでしょう。内気な性格で友達が少ない子でしたが、唯一仲の良かった友達の子にそのことを話したそうです。そしたらその友達の子が広めてしまったらしく……。本当に悪気はなかったんです。あの子にも、あの子の友人にも……」
「ええ、それはわかっています。悪いのは全部僕ですから。そんなことで学校へ行くのを辞めた僕に全ての責任があります」
ミフユさんはそれを聞くなりただ無言で首振った。
「あの子はヒイラギさんの小説が好きでした……。以前話してくれたことがあります。『ヒイラギ先生の小説を読んでいると、どこか安心できる』と。最初に読み始めたキッカケは、自分と同じ〝冬〟を連想させる名前だったからという理由らしいのですが、恐らくあなたとあの子は本質的にも似た者同士だったんでしょうね。例えフィクションであっても小説を書く人間の根源的な〝何か〟が、作品には表れますから」
「それは、ミフユさんの書く小説で言う、潜在的な〝要素〟のようなものでしょうか?」
ミフユさんはこくりと頷いた。
「わたしの書く小説では駄目でした。姉妹で容姿が似ているとは言っても、中身は別です。あの子と近いものを持っているあなた以上の小説は、わたしには書けませんでした」
残念なことに、俺は彼女の妹である〝海藤雪〟という女生徒についてあまり知らない。どんな性格で、どんな価値観を持っていて、どんな人間なのかを。
でも、もしかしたら、その子も常に俺と同じようなことを考えていたのかもしれない。「くだらない」と、心の中で思いながら日々学校に通い続けていたのだろうか。
「それで、『1人の心に刺さる作品を』ですか……」
彼女がファンタジー小説に固執していた理由も、それを教わる相手が俺でなければならなかった理由も、これで全て説明が付く。しかし、それらは根本的な解決にはならない。彼女の妹が不登校になった要因は、そもそも俺がファンタジー小説の執筆趣味をバラされ、学校へ行かなくなったことにショックを受けてということなのだから。
だから彼女の目的はもっと別のところにある。
「ミフユさん。あなたの一番の目的は、『僕から小説を取り上げる』ことではないでしょうか」
言葉は返ってこなかったが、俺の言葉を聞いた瞬間、傍らで彼女がびくりと身体を震わせるのがわかった。
「ミフユさん。僕はあなたと接触するようになってから自分の小説が全くと言っていい程書けていません。ミフユさん、あなたは僕が小説の執筆を辞めたら、縋れるもの、唯一残された生きる意味をなくしたなら、学校に戻ってくれるのではないかと、そう仮定して今回のことに及んだ。違いますか?」
「違わないです。ヒイラギさん。あなたの言う通り、わたしはあなたから小説そのものを奪おうと思っていました。本当に身勝手な行いだと思っています。でもあの子の為ならと、自分に言い聞かせながら今日まであなたと接触してきました」
「でもそうすれば妹さんの楽しみを奪ってしまうことにもなる。だからあなた自身が僕の代わりになろうとした。僕から小説を奪うと同時に僕が書くようなファンタジー小説の執筆を目指した」
俺が補足すると、ミフユさんはまた小さく頷いた。
「冗談みたいな話ですが、確かに人に本を出版させることができるならば、小説の執筆を辞めさせることも可能かもしれませんね。現に僕は全然書けていないのだし。まあ、それに関してはあなたと出会う前からだいぶ怪しかったですが」
「わたし、最低です……。最低な人間です……」
「そんなことありません。正直あなたが僕の小説の本当のファンでないことにはショックでしたが、それでも、僕の小説を好きでいてくれる人が確かにいる。今はそれだけで十分です。それに、あなたはとても妹想いの良いお姉さんです」
「いいえ、それだけじゃないんです」
ミフユさんは胸の辺りで両手を重ね、握り込んだ。そして俺の目を見る。これまでで一番力強く。
「わたし、途中からどうして良いかわからなくなっていたんです。あの子の為にヒイラギさんと接触していたにも関わらず、あなたと小説について真剣に話し合う日々、それがだんだんと楽しいと感じ始めるようになっていて。あの子があんな状態なのに、わたし最低です」
「結局のところ、あなたも小説が好きだったということでしょう。別に悪い事なんてないです。それに……」
俺は自分で言いながら急に照れくさくなって彼女から視線を逸らす。
「僕も、その……楽しかったです……。やや……スリルもありましたが……」
ミフユさんも同様に恥ずかしそうにはにかみながら、「はい」と小さく返事をしてくれた。
人のいない公園の中をしっとりとした初夏の風が通り過ぎ、朝焼けに照らされた新緑がさらさらと音を立てる。そろそろ始発が出る頃だろうか。
「でも、今度こそこれで終わりですねー」
ミフユさんは急に声のトーンを明るくすると、吹っ切れたような両手を広げて伸びをした。
「なかなか上手い具合にはいかないものです」
そう言いながらおどけた感じでペロリと舌を出す彼女の表情は、出会ってからこれまで一度も見せたことのない初めてのものだった。
「ミフユさん、聞いてください」
俺は決意を彼女に伝えることにする。
「あなたと、もう一人のミフユさん、あなたたちがこんなにも苦しんでいたのなら、僕は、もう逃げるわけにはいきません。だって、それが僕の役目でもあるのだから」
「ヒイラギさん……それってどういう……」
「僕は学校へ戻ります。勿論、小説の執筆だって続けます」
ミフユさんは驚いたように目を見開いた。
「別に無理はしていません。それに……」
「それに?」
ミフユさんは恐る恐る俺の顔を伺うようにした。
「それに、両方とも僕のやりたかったことでもあり、両方とも〝僕自身〟ですから」
「そうですか……」
ミフユさんは俯くと、自分の膝を見つめながら優しく微笑んだ。
とまあ、ここまでが限界だと思う。
いえ、思います。
このくらいが潮時でしょう。ええ、このくらいにしておきます。
まあ、あの場にいた当事者の一人ですから、記憶を基にもう少しばかり続けることはできなくはありませんが、これまでのやり方に則って「ここまで」としておきましょう。それに続けること自体に意味がなくなってしまいましたことですし。
真実が露呈してしまった以上は、わたしの目論見もこれまでです。
これを読んでいるあなたが今、何を感じ、何を思うか、それはわたしにはわかりません。作中の言葉を借りるならば、これが本当の意味での「創作」といったところでしょうか?
何はともあれ、これをお見せした以上、わたしの目的が完遂できるかは、最早祈るしかありません。
あなたの言葉が真実か、或いは真実だったものが、この小説を読むことによって変わってしまうのか。変わらないでいて下さるのか。
変わったからといって気に病む必要はありません。
変わってしまうとしたら、それは仕方のないことです。だって、わたしはあなたに隠れてこんなものを書いていたのですから。
それでもあなたにお見せしたのは、あなたの気が変わってしまうかもしれないと懸念しながらもあなたにお見せしたのは、やはりこれがあなた自身だからです。
わたしが書く「あなた自身」。だから、そこにどんな不利益があろうとも、あなたにはこの物語を確認する権利があります。当然、責任はありませんが。
この小説はあなたから毎週頂く日記と、お会いした時の録音を基にわたしが書き上げたものです。
その理由は今回のことをわたしなりに記録すること、そして作中であなたの目線になることにより、あの子と近いものを持っているあなたという人間をより良く知る為です。
今までわたしが書いたものはわたしが書くわたし自身。
今回書かせて頂いたものはわたしが書くあなた自身。
こんなことの為に日記を書かせてしまったことは申し訳ございません。でも、ひとつ弁明させて頂けるならば、日記を書くことが〝自分を良く知る為になる〟ということは決して間違いでないということです。わたし自身小説を書き始める前に日記を付けていたことは事実です。あなたも自分を知る為に、是非今後も続けてみて下さい。
最後にひとつ、言い訳といいますか、保身と捉えられてしまっても仕方ありませんが、言わせて下さい。
わたしはあなたとの接触を重ね、あなたを知り、あなたを変えるのが目的でした。
ですが、この段階であなたにそう仰って頂けたことは、わたしの予定にないことです。想定外の出来事です。不測の事態であり、嬉しい、いえ、有難い誤算でもあります。
信じてください。今更こんなこと虫のいい言葉に聞こえるかもしれませんが、あなたが決断して下さったあの言葉は、紛れもなくあなた自身の言葉です。
わたしは嘘を言いません。隠し事はたくさんしたかもしれませんが。でも、それはお会いした当初きちんとお伝えしていたことですし。お許し頂けると幸いです。
それと、妹をどうぞよろしくお願い致します。』
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