第7話
ベッドに寝転がって、天井を見る。
枕元に置いたスマートフォンを手に取り、画面に触れる。
けれど、すぐにスマートフォンを枕元に置き直す。
昨日の夜から、こんなことを繰り返している。
『話ぐらいならいつでも聞くから』
亜利沙ちゃんの声が頭から離れない。
昔なら、こんなとき迷わず亜利沙ちゃんに連絡していた。亜利沙ちゃんに相談すれば、何でも解決するというわけじゃない。解決しないことも多かったけれど、それでも彼女と話すことで気持ちが軽くなった。
でも、それは昔のことで、今は亜利沙ちゃんと話しても、心が軽くなるというより重くなるのはわかりきっている。それに、話したいことがあるわけでもないし、相談がしたいわけでもない。ただ、それでも声が聞きたいと思った。
明日は日曜日。
話したいと言えば、亜利沙ちゃんは時間を作ってくれる。
私は、机の上に置かれたままの進路調査票に視線を移すと、ゆっくりと息を吸い込み、一気に吐き出した。枕元のスマートフォンを手に取り、思い切って亜利沙ちゃんに電話をかける。
呼び出し音が一回、二回。
三回目が鳴る前に、私は電話を切った。結局、「この間はありがとう」とメッセージを送り、スマートフォンを投げ出す。
ごろんと枕に突っ伏すと、部屋の外から私を呼ぶ声が聞こえた。時計を見ると、もう十二時を過ぎている。
私は自分が何をしたいのかわからないまま、お昼ご飯を食べ、またベッドに寝転んだ。
食べてすぐ寝ると牛になると言ったのは誰だろう。
ゴロゴロとベッドの上を転がりながら、そんなつまらないことを考える。
私と同じようにベッドに転がっているスマートフォンに、着信はない。
気がつけば、日が傾いていた。寝転がったまま窓から、夕陽に照らされている町を見ていると、ため息が一つ出る。
今日は一日寝転んでいただけで、何もしていない。
私はスマートフォンの電源を切って机の上へ置くと、手早く着替える。チェックのスカートに白のトップスを合わせて、母親に出かけてくると声をかけて家を出た。
そのまま、海へ向かう。
見飽きた風景だけれど、家の中にいるよりも気分が楽になった。歩き慣れた通学路を進んでいくと、古めかしい家が見えてくる。視線を曲がり角の街頭の下へと移すと、そこにはこの間のように亜利沙ちゃんがいた。
同じようなことが二度もあるとは思っていなかったから、驚いて足が止まる。馬鹿みたいにぼけっと立っていたら、亜利沙ちゃんが呟くように言った。
「遅い」
その言葉に、「待ってたんだからね」と付け加えられる。それは、私がここを通るとわかっていたような口ぶりだった。
「いつからそこにいるの?」
ゆっくりと亜利沙ちゃんに近づいて尋ねてみると、彼女はいたずらっぽく笑って言った。
「秘密」
亜利沙ちゃんはそれ以上何も言わなかったから、彼女がどれくらい私を待っていたのかわからない。けれど、風に吹かれてぼさぼさになった髪を見れば、十分や二十分ではないことはわかる。考えているより、長く私を待っていたに違いない。
「電話してくれれば良かったのに」
そう言って私は歩き出す。風に吹かれながら、亜利沙ちゃんが隣を歩く。
「出ないくせに」
「出るよ」
「すぐに電話切って、メッセージ送りつけるような人が?」
亜利沙ちゃんの指摘は、間違っていない。彼女が電話をかけてきても、私はきっと出られなかった。だから、メッセージで誤魔化した。私は亜利沙ちゃんに返す言葉が見つからなくて、彼女が求める答えとは違う言葉を口にする。
「……なんで待ってたの?」
「里穂、上手くいかないことがあると海に行くことが多いから」
「多いだけで、今日行くかどうかはわからないのに?」
「里穂のことは、何でもわかるんだよ。私」
笑いながら、亜利沙ちゃんが言った。
「海、行くんでしょ?」
一号店の前。
亜利沙ちゃんは尋ねておきながら私の返事を聞かずに、浜辺へと降りていく。目的地は確かにこの場所だったから、私も亜利沙ちゃんの後に続いて浜辺へ降りた。
夕陽で染まった海を見ながら、砂浜を二人で歩く。
見慣れた景色がやけに綺麗に見えた。
亜利沙ちゃんは髪を染めて、お洒落になって、外見は変わったけれど中身は変わっていない。
子どもの頃から、何かあったときには私の隣にいてくれる。今日だって、電話をかけたのに話をする前に切ってしまった私を心配して待っていてくれたんだと思う。
でも、こんな風に優しいから、ここから逃げ出したくなる。そのくせ、逃げ出せないのだから、亜利沙ちゃんを追い続けている私も子どもの頃から何も変わっていない。
多香美は変わったし、この町から出て行く百香も変わっていく。
それなのに、私はずっと亜利沙ちゃんに囚われていて、立ち止まったままだった。
私は足を止めると、亜利沙ちゃんの影を見た。
「里穂?」
足を止めずに歩いていた亜利沙ちゃんが振り返った。
ざざんと波が打ち寄せてくる。
私は、波を追いかけるように海へと向かった。
「里穂、濡れる」
亜利沙ちゃんの声が波音と混じり合う。
「もう濡れてる」
波打ち際、海水を吸った靴が冷たい。
私は、亜利沙ちゃんに今まで聞いたことがなかった疑問をぶつけた。
「多香美と何かあった?」
「なんで?」
「多香美が先輩って言うの、ずっと気になってたから」
多香美と私は、大抵のことは隠さずに話している。それでも、亜利沙ちゃんのことを草野先輩と呼ぶ理由は、はぐらかして教えてくれなかったのだから、それは私が知らない方がいいことなのかもしれない。でも、多香美が変わった理由が知りたかった。
海に背を向け、亜利沙ちゃんを見る。
「好きだって言われた。……って言ったら、信じる?」
少し考えてからぽつりと言った亜利沙ちゃんの言葉に、不思議と驚くことはなかった。
ああ、だからだったんだと納得する。
ずっと亜利沙ちゃんに囚われたままの自分とは違って、多香美は前へ進んだんだと思った。
私は多香美が羨ましかった。
「信じる」
短く答えて、私は足元を見た。
靴を濡らす寄せては返す波。
それは、まるで私のようだった。
亜利沙ちゃんが好きで近づきたくて、近寄ってはどう思われるかが怖くて離れる。
「そろそろ、戻ってきたら。体、冷えるよ」
海水浴には遅すぎる海に足をつけたままの私に、亜利沙ちゃんの声が届く。
「もう十月だよ。風邪ひくって」
海を染める夕陽に夏の力強さはない。このまま海に浸かっていたら、亜利沙ちゃんが言うように風邪をひくだろう。けれど、足は動かなかった。
「里穂」
亜利沙ちゃんが幾分、強い口調で私の名前を呼ぶ。でも、動こうとはしない。いつだって気にかけて、心配して、世話を焼いてくれる。でも、それだけだった。
亜利沙ちゃんは、私が逃げれば逃げた分だけ追いかけてきてくれるけれど、私が追いかけた分だけ逃げていく。
この風景と同じで、きっと私と亜利沙ちゃんの関係は何年たっても変わらないと思う。だから、これからずっと同じ毎日が続いていく。
そう思うと、私は苦しくて逃げ出したくなる。
気付いていたけれど、見て見ぬ振りをしていただけだった。
私はこの町から離れたいというより、亜利沙ちゃんへの想いから逃げ出したいのだ。抱えていた想いは、いつのまにか随分と大きくなっていて、押しつぶされてしまいそうなほど重たくなっていた。
「里穂、こっち来なって」
もう一度、名前を呼ばれて、私は海へさらっていこうとする波に逆らい、亜利沙ちゃんの元へと向かう。海水を吸った靴は、冷たいだけじゃなくて重くなっていた。
じゃぶじゃぶという水音と共に、砂浜へとたどり着いた私は亜利沙ちゃんの手を取った。
指先をぎゅっと握る。
「私も亜利沙ちゃんのこと好きだよ」
今はまだこの町から離れることができそうにない私は、亜利沙ちゃんへの気持ちに押し潰されてしまう前に、ずっと心の奥にしまっていた言葉を口にした。
「知ってるよ」
いつもと変わらない声でそういった亜利沙ちゃんは、優しく私の髪を撫でた。
頭が良い生徒会長。
少し悪くて格好が良い先輩。
優しい大学生。
亜利沙ちゃんが付き合ってきた誰よりも、私は亜利沙ちゃんが好きだと思う。
でも、亜利沙ちゃんには届かない。思っていることの半分だって伝わっていなかった。
生徒会長でもなく、先輩でもなく、大学生でもない私の告白は流されてしまう。
太陽が海に沈み、海の青が深くなる。
「大好き」
もう一度、想いを言葉にすると、亜利沙ちゃんが困ったように言った。
「知ってる」
「……亜利沙ちゃん、わかってない」
「わかってる。里穂とどれだけ一緒にいると思ってるの。どういう風に思ってるか、ずっと前から気付いてた。でも、里穂はずっと私にとって妹みたいなもので、今もそう思ってる」
子どもの頃から変わらない関係を積極的に変えようとしなかったのは、こうなることがわかっていたからだ。
それでも、同じ日々を繰り返したくはなかった。この町からはまだ離れられないけれど、この場所から一歩踏み出したかった。
「妹みたいに思ってるなんて、言われなくてもわかってるよ。私だって亜利沙ちゃんのこと、何でもわかる」
多分、最後は涙声になっていた。視界がぼやけて滲む。
「そっか」
短い返事は、優しい声だった。
亜利沙ちゃんの柔らかな手が頬を拭う。
「ねえ、亜利沙ちゃん。私が今とは違う私になったら、好きになってくれる?」
昔とは違う自分になりたい。
みんなと同じように変わりたかった。
「今とは違うって、どんな里穂?」
「それは、まだわからないけど」
どんな自分になりたいかなんて、進路調査票と同じで白紙だ。まだ、どこへ向かって行きたいのか決められない。それでも、前へ進みたい。
「高校卒業したら、また告白してもいい?」
「きっと、返事は変わらないよ」
「それでも」
亜利沙ちゃんは、返事をしなかった。
私は踏み込んだ分だけ、逃げていこうとする亜利沙ちゃんの手を強く握る。
今はまだ何も変えられないけれど、いつか変えたいと思う。
まだ涙は止まらない。
それでも、私は前を向いた。
夕暮れシルエット 羽田宇佐 @hanedausa
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