環状高速の月
フカイ
掌編(読み切り)
> ぼくの情熱はいまや
> 流したはずの涙より
> 冷たくなってしまった
> どんな人よりもうまく
> 自分のことをいつわれる
> 力を持ってしまった
酔って帰った部屋。
二階で寝ている夫と子どもを気遣い、彼女は音を立てずにリビングを歩いた。
廊下を隔てて反対側にある化粧室でメイクを落とし、洋服を着替えた。
リビングに戻った彼女はそして、グラスに水を注ぐと、テレビのスイッチを入れた。
音を消したテレビからは、無意味な深夜放送が流れていた。
この街をめぐる環状高速道路を走る車の窓から撮った、道の風景だ。
その画面の下段に、本日のニュースが横スクロールしてゆく。
「東京株午前、日経平均300円超下げで終わる」
「米大統領が規制法案に署名 連邦政府、対策本腰へ」
「自民『20兆円捻出』公約」
やがて彼女はふと思い立ち、ボリウムスライダーを上げる。
小さい音で、車窓の風景に音楽がかぶさった。
耳障りなベイスが導く、うねるようなビート。
不思議な小節から、しわがれ声のヴォーカルが、歌詞をつむぐ。
美しい声、とはとても言えない声色のくせに、ひどく耳に残る。
その、歌詞が、やがて、世界となってこころのなかに、迫ってくる。
> 大事な言葉を 何度も言おうとして
> 吸い込む息は ムネの途中でつかえた
> どんな言葉で 君に伝えればいい?
> 吐き出す息は いつも 途中で途切れた
それはまるで、先ほどまで会っていた、男の言葉のように聞こえてしまう。
そう。
大切なことは何一ついわずにただ、彼女をむさぼるように求めた男。
はじめての浮気だった。
浮気、などと呼ばれたくない。
それは、単なる間違い。あるいは行き違い。
ましてや不倫など! 失笑ものだ。
出張でこの街を訪れただけのあの男に強引に口説かれ、気づいたときにはホテルの部屋にいた。
そう、明日陽が昇ればこの街を去ってしまう人などと、恋するわけがない。
恋するわけが。
> 知らない間に ぼくらは
> 真夏の午後を 通り過ぎ
> 闇を背負ってしまった
> その薄明かりのなかで
> 手さぐりだけで なにもかも
> 上手くやろうとしていた
しわがれ声の歌うたいは、そう、言葉をつなぐ。
何事かを暗示しながら。思わせぶりに。
彼とはネットの、趣味のコミュニティで知り合った。最初はメール。その後はLINE。最初は趣味の情報のやりとりが続いたが、知らぬ間にそれ以外の私通を送り合った。そして気づけば、彼からの些細なメッセージを待つようになっていた。
オフィスにいるときはLINEで。帰宅してからはプッシュ通知の来ないwebメールで。
#おはよう
#今日は一日外出だ
#いまからランチに行ってくるね
#午後は会議。眠いよ
#おつかれ。また明日ね
これまでと同じように、それが続いていくと思っていた。
わたしたちは、それで上手く行くと。
コントロールの範囲内なのだと思っていた。
#今度、出張で、きみの街に行くことになったよ。会議は18時までだけど、一泊することにしたよ。
そのメッセージが来た時、彼女は混乱した。
これまであくまでもヴァーチャルの友だち、いや、仮想の甘い友だち、として認識していたはずのひとが、いきなりリアルになって現れる、と言われたからだ。
彼はそんな彼女の動揺を見透かして、上手にリードした。彼女が食事の誘いを受けやすいように。罪悪感をすこしも感じさせず、ただ、趣味の友だち同士としての食事だと言って。
新幹線の停まる大きな駅に隣接したシティーホテルの夜景の見えるレストラン。地元の人間が行くような店ではない。そこで仔牛のカツレツをふたりで食べながら、ふたりは静かに、友だちの垣根を超えた。
恋などとは呼べないほどの淡い感情のうす暗闇のなかで、ふたりは目を閉じたまま、手を前に出し、行く先を探っていた。頼るのは、声だけ。言葉だけだったはず。
しかしその手がまさか偶然に、互いに触れることになろうとは…。
> 君の願いと ぼくの嘘を合わせて
> 六月の夜 永遠を誓うキスをしよう
> そして夜空に 黄金の月をえがこう
> ぼくにできるだけの光を集めて
> …光を集めて
光など。
光などなにひとつないことは、ふたりとも知っていた。
アルコールのせいにするには、酒量が少なすぎた。
性欲のせいにするには、心を開きすぎた。
そして梅雨空のこの街で、私たちは幼子のように、永遠を誓うキスをした。
光など、何一つない夜空に。
> ぼくの未来に 光などなくても
> 誰かがぼくのことを どこかで笑っていても
> 君の明日が 醜くゆがんでも
> ぼくらが二度と 純粋を手に入れられなくても
未来に光など、ないことは知っていた。
いっそ、性欲の赴くまま、だったほうがどれほど気楽だったろう。
帰りのタクシーの中で何度も、大したことはないのだ、と自分に念を押した。
ただの性交だ。つかのまの迷いごとだ。
恋などでは、決して、ない。
そう心に決めたというのに、“ぼくらが二度と、純粋を手に入れられなくても”といわれると、まぶたが熱くなるのはどうしてだ? 下腹部がどんよりと重くなるのは何故か?
> 夜空に光る
> 黄金の
> 月などなくても…
深夜のテレビは、照明もつけない部屋の中で小さい声で歌っている。
ヘッドラインニュースは、変わらず無意味に流れ続けている。
環状高速を行くクルマには出口などなく、ずっと同じところをまわり続けている。
そして夜空には、いうまでもなく、黄金の月などない。
明日は夫と子どもの大好きな、とびきり美味しいカレーライスをつくろう。
リモコンでテレビのスイッチを消すと、環状高速の風景は一瞬でかき消される。
しん、とした深夜の部屋のなかで、彼女はカレーライスのことを強く思うことで、ありもしない黄金の月のことを忘れようとした。
(作中詩【黄金の月】/スガシカオ)
環状高速の月 フカイ @fukai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます