第4話 わかれた別解

  1


 俺を発狂させるためのデマだとしたらやりすぎている。流した奴を探し出して川に流したところでなお憎い。

 さはりの子どもが死んだ。

 さはりの子ども。誰との子だ。子どもが死んだ。誰が殺した。自分で死んだか。さはりが。子どもがいなければ死ぬことはない。子どもが死ぬという条件を満たすには、さはりに子どもがいた、という前提条件が必要で。俺はそれを認めたくない。

 考えられるのは、誰か別の、まったく関係ない子ども。拾ってきた。攫ってきた。理由がわからない。可能性としては、あの精神科医の子ども。だから攫った。そう思って調べさせたがそれもない。

 精神科医は、研修医時代に世話になった病院を追い出されている。病院の風紀を乱したそうで。中学の頃から素行に問題があり、退学寸前まで。義務教育なので仕方なし通過したことにさせてもらっているが、実際のところはほぼ通っていないに等しい。そんな素行の悪い生徒を迎え入れる高校があったことが驚きだがカネで解決したのだろう。

 それでも、精神科医に子どもはいない。いたとしても認知などしない。堕ろせとカネを渡すこともしない。ただ、放っておく。その類のにおいがする。

 情報が錯綜している。嘘が紛れているのではなく、すべてが嘘なのだ。俺を騙したいんだったらもういい。わかった。充分だから。騙されたから、誰か。本当のことを教えてほしい。

 さはりがいまどこにいるのか。

 今度は書置きすらなかった。ほんの一瞬、眼を離した隙に。離婚損だ。取り消そうにもなんていって復縁すればいいのかわからない。彼女はすでに納得している。慰謝料は予想の範疇内。さはりがいなくなったこと以外は、すべて予想通りだというのに。

 さはりだけがいない。さはりだけが。

 さはりの子ども。嘘に決まっている。嘘だ。嘘だから、嘘で。

 死にたくなってきた。さはりもどこぞで。精神科医はさはりのことなど気にかけていない。いなくなって清々。そんな顔をされた。嘘。とは思えない。嘘でなくていい。

 さはりのことを思っているのは、世界中で俺だけでいい。

 裏から手を回したら簡単に面会が叶った。釈放もさせたい。幾ら積めばいい。幾らでも積める。そいつはやっていない。証拠がないなら白だろ。

「すぐに出してやるから」

「来てくださったのですか」さはりが言う。

「当たり前だ。お前は誰かに嵌められたんだ。罪を被せられたんだよ。お前がそんなことするはずないだろ。なんで、たまたまお前の家で子どもが死んでたくらいで」

「わたしがやりました」

「そうゆえって言われたんだろ。いい。もういいから」

「わたしです。わたしが」

 どこのどいつだ。さはりをこんな暗くて狭い所に閉じ込めて。にやにや笑ってる奴がいるはずだ。引きずり出して脳髄引きずり出してやる。

 しかし、肝心の白髪ジジイがこの件から降りたいといってきた。

 はあ?

「余命心配するような歳じゃねえだろ。あとは甥っ子のために潔く」

「そうしたいのは山々なんやけど、すまへんね。ホンマにあかんことになりそな」

「あかんってのは具体的に」

「すっぱり忘れたったほうがええ。親切なおじさんからの最後の忠告やで」

 役に立たない。

 なんでこんなことになったんだ。何が悪かった。

 なにが。どこで。なにが。食い違って。

 さはり。

 俺はさはりのピアノが聴きたかっただけなのに。

 燈留ともる君のところにいた二メートルの大男が会社にやってきた。陣内とかゆったか。

 辞めたい、らしい。燈留君が入院中なので代理で来たとか。

 入院?

「容態は」

「ただの検査入院です。ちょっと誘拐されてまして」陣内が素っ気なく言う。

「無事だったのか」

「無事だから検査入院で済んだんです。お気遣いどうも」

 口調がつっけんどんだ。第一印象が悪かった。

 陣内は燈留君に忠誠を誓ったようだし。

 その主人を使ってカネ儲けをしていた俺を憎むのも致し方ない。

「ナガカタさはりを知らないか」

 もう当たり構わず訊いている気がする。なにか手掛かりが欲しいのだ。なんでもいい。さはりを陥れた輩について。

「知ってどうする」陣内が言う。

「知ってるのか」

「どうするんだ。それを訊いてる」

 あのときと同じだ。しかし今回の俺に余裕はない。

「子どもがいるのは初耳だった」

「いねえよ」陣内が呟く。

 いない?

「そんなことでショック受けてたのかシャチョウさんは」

「いないんだな。本当か。じゃああれは」

「それは俺の口から言えない。あいつから」

「訊けたら苦労しない。いまさはりがどんな状況にあるかきみは」

「知ってるよ。ともる様はあいつに攫われたんだから」

 なぜ。

「人質だよ。俺を誘い出すための」

「どうゆうことだ」

 陣内とさはりが知り合い? 

 どうしてそうなる。何かとても重要なことが抜け落ちている。

「それも俺は言いたくない。シャチョウさんとはこれきりで。ともる様に二度とそのツラ見せるなよ」

「待て。さはりのこと」

「知らねえよ。お前が知ってること以外は」

 さはり?

 それから程なくして、さはりはあの暗くて狭いところから出ることができた。俺の積んだカネが効を奏したとは思えない。

 陣内だ。あいつにも、なにかある。

 さはりはひどく衰弱していた。磨り減っていた。

 これだけで俺は殺意を憶えた。国家権力の抹殺が本気でよぎった。

「ごめんなさい、またご迷惑を」さはりが消え入りそうな声で言う。

 拾ったときのことを思い出す。また、俺が拾った。

 でも、所有権は永遠に俺には移らない。

 冷たい足。さはりは靴を履いていない。

 いなかった。亡霊みたいな顔で病棟内をうろうろしていた。

 なぜ、ここにいるのか。主治医の指示だから。誰もがそうゆう。どこが悪いのか。誰も答えられなかった。主治医でさえも。的を射ない専門用語を延々つらつらと。俺はそんなことが知りたいんじゃない。

 怪我をしたのか。違う。病気なのか。曖昧な返事。なんてゆう病気だ。専門用語を使わずに説明してみろよ。ストレス。ふうん、わかった。さはりは自分の意志でここに入ったわけじゃない。ついこの間、ステージでピアノを弾いていたのだ。ストレス。仕方ない。百歩譲ってそうゆうことで納得する。

 さはりは裸足で廊下をとぼとぼ歩いていた。面会。患者さんが疲れてしまいますから短時間で。患者さん。患者。何を患っているというのだ。

 呼び止め。られない。聞こえていないのか。そんなはずはない。この近距離で。大声を出すわけにいかない。ナースが寄り集まって俺を睨んでいるから微笑み返す。効果は程なく出る。彼女たちは暇なのだ。

 話を総合するに、退院できないこともない。誰も見舞いに来ない。家族がいない。独りきり。引き取り手がいない。それなら、そうと言えばいい。

 さはりは俺の家に来ればいい。どうせ部屋は余っている。

「いいのですか」さはりが顔を上げてくれた。

「何か欲しいものがあるか」

「ピアノが」

「それと?」

「ピアノが欲しいです」

 ピアノと一緒に靴も買う。さはりの足は小さいからなかなかぴったりのサイズが見つからなかった。

 もしあのときピアノだけを与えていたら。靴がなかったら逃げなかったかもしれない。二度も三度も逃げられて。俺の買った靴を履いて。

「靴は? どうした」

「ごめんなさい。どこかで」

「靴落とす奴なんか聞いたことないぞ。自殺するんじゃあるまいし」

 冗談が過ぎたか。さはりが黙る。

 厭な沈黙。厭な間。

 先を促そうとしたとき、さはりが首を。

「死のうと思ったんです」

 なぜ。どうして。

「死ねなかったのか」

 首を振って。

「死にたくなくなったんだろ」

 振って。

「よかった。生きてて」

 道連れにしようとしたのかもしれない。子どもが先に逝って。次に逝ってもらう燈留君を攫ったはいいが、寸前で、陣内に止められたのだろう。

 いい、それで。そうゆうことなら、陣内を憎まずに済む。

 燈留君を連れて行こうとした理由。わからない。深く考えると闇に嵌りそうだからやめておく。

 燈留君は嫌いじゃない。さはりの一番弟子。そんな彼を、優輔ゆーすけのライバルに設定したのがそもそもの間違いだったのだ。

 俺とさはりの代理戦争みたいなものだ。勝てるわけがない。負けるに決まっている。師匠が端から負け戦だったのを過敏な弟子が感じ取っただけで。

 悪いのは俺だった。長々とまあ莫迦なことを続けていたものだ。

 長々と莫迦なこと。それは俺の生き方すべてに言える。自虐でも反省でもない。感想。面白くもない本を読んだあとに書かされる読書感想文に頻出の、面白かったです、に似ている。嫌味な原稿用紙を埋めるための字数稼ぎにすぎない。

 さはりはピアノを弾いてくれなかった。弾きたくないみたいだった。

 一日目。

 さはりはピアノの前に座らなかった。弾きたくないみたいだった。

 二日目。

 さはりはピアノの部屋に行かなかった。弾きたくないみたいだった。

 三日目。

 さはりは。

 久しぶりに自分のベッドで眠ることができた俺の安眠を妨害しにきた。

 照明。

 点けようとしたら、このままで、というので上体だけ起こした。

「なんだ」

「先生のところに行きます」

 どこだ。

「先生の」

 だから。

「それはどこなんだ」

 地獄か、天国か。どちらにせよ先生は。

 いない。俺の。

 いないところ。

「出掛けたいなら明日にしないか。いま何時だと」

「ごめんなさい。でも今日、いま、いま行きたいんです。いま行かないと」

 いかないと?

 どうなる。知ってる。

 しらない。

 しなない。

「行かないと?」

「靴を」

 ください。

「靴?」

「欲しいんです。失くしてしまったから」

「明日でいいか」

「起こしてしまってごめんなさい。これだけ、云っておきたくて」

 これだけ? たったこれだけ?

 別れのことばにしてはあまりに。

 それに、靴。靴なんかすぐに買ってやったのに。なんでゆわない。

 靴くらいいまからでも。

「待ってられるか」

「待ってます」

 靴を履いていると、さはりが眼鏡を持ってきてくれた。

「お忘れですよ」

「夜は要らないんだ。ほら」

 瞳。

「どんなのがいい?」

「かわいいのが」

「可愛いったって。難しいな」

「お任せします。あなたの好きな」

 俺の好きな。

「あなたが選んだ靴を履きます」

 選べるだろうか。

 さはりに。ひとつだけ。

 一つ。一足。

「文句ゆうなよ。お前が俺のセンスでいいってゆったんだからな」

「はい」

「いってくる」

「いってらっしゃい」

「おやすみ」

 ドア。完全に閉まるまで、最後の隙間が消えるまで。消えても。

 さはりを見ていた。

 さはりの立っているであろう位置を。

 寒い。寒すぎる。マフラをしてくればよかった。コートだけでは凍えてしまう。ポケットを探って、しまったと思う。ケータイを置いてきた。腕時計も。まったく、寝ぼけているとしか言いようがない。しかし、太陽が空にいないおかげでよく見える。

 月。ついていない。ついていない。

 本当に、ついていない。

 往来の向こうの公園。親切な時計が教えてくれる。こんな時刻に開いている靴屋さんはありませんよ。

 そりゃそうだ。ご親切にどうも。

 いえいえ、お風邪など召されませぬよう、早めにお帰りになってください。今夜はとても、冷えます。

 丑三つ時、は何時だったか思い出す。

 忘れた。わからない。そんな昔の時刻表記など。

 歩く。歩く歩く。たまに、止まる。不親切な時計のいる公園を探す。寒い。寒すぎて爪先の感覚がない。ベンチに腰掛ける。

 ペンキ塗り立てだがな。

 嘘をつくな。疲れたんだ、休ませろ。

 眠るなよ。死ぬぞ。

 不親切な時計は時刻を教えてくれない。いま、何時なのか。わからない。あと何時間で靴屋が営業を始めるのか。それだけ教えてくれればいいのに。

 教えたら帰るのか。

 あと何時間かによる。

 莫迦か。風邪を引きたいのか。

 引きたいのかもしれない。引いたらきっと、あの謎の飲み物を作ってくれる。作り方を聞いた。簡単だった。蜂蜜をお湯で溶かしてレモンを絞って。掻き混ぜる。ただそれだけの簡素な飲み物。説明するのも面倒くさい。俺が作ればいい。なんだそうか。

 帰れ。

 そうしようと思ったとこだ。

 莫迦莫迦しい。勢いで飛び出してくるからそうゆうことになる。ついさっき確認したら財布もカードも持っていなかった。よく知っている場所のはずなのに、眼鏡がないから方向感覚が鈍る。

 ここ、さっき通った。ような、あれ?

 指先の感覚がなくなった頃、ようやくそれらしき店に着いた。親切な時計も不親切な時計もここにはない。いるのは、顔見知りの店員。

 挨拶、笑顔。そんなものはいま必要ない。

 選べるか。選べない。さはりにひとつだけなんて。どうせ一足も持っていない。靴なんかいくつあったって困らない。靴箱に収まりきらないなら専用の部屋を。

 靴。前に来たときにここだけ。数ある靴屋の中でたった一つ。

 さはりの小さな足のサイズを扱っていた。さはりの気に入った靴が手に入った唯一の。

「あるだけ貰う」

 カードはないが、俺の顔でものが買える。支払いはいつもの通りで。

 当日中に届く。部屋中靴だらけ。この中から好きなのを履けばいい。

 さはりを呼びにいこう。待っていると言ってくれた。人を待たせてはいけない。一般常識だ。

 ノック。

 ノック。

 鍵はかかっていない。鍵のかからない部屋。

 ピアノの部屋にいる気がしてそちらを。

 さはりは。

 四日目。

 どうゆうわけか。優輔がもう一度、ピアノを弾きたいと云ってきた。

 さっぱりわけがわからない。まあ、結果よければ。

「もうひとつ、やりたいことがあるんですが」優輔が言う。

「なんだ」

 母親。会いに。

「いってこい」


      2


 まずは、彼女。パートナだから当然だ。

「理由を訊いてもいいかしら」

「エイコを一番に考えられない」

「そう。それなら仕方ないわね。二股かけられるのも厭だし。正直に言ってくれてよかったわ」

「それだけか?」

「取り乱すと思った? そーすけが私以外の女と寝てるのを見たら違ったかもしれないけれど。状況がまだ上手く呑み込めてないみたい。ごめんなさいね。怨み言をいってあげられなくて」

 その割には翌日に書類が届いた。あらかじめ準備してあったもかもしれない。備えあればなんたらかたら。彼女がその諺を知っているかは別として。

 つぎは、兄夫婦。調停役としてあらかじめ仲間になってもらうのが狙い。

「これがあるんだから僕は何も言えない。二人で決めたんなら」兄が言う。

 論より証拠。書類を一式持ってきた。

 兄は基本的に、というか遺伝的に俺の味方をするように運命付けられている。

「先にゆーくんのところにいってらっしゃいな」兄嫁が言う。

 読まれている。心の準備ができてないことが。

 兄嫁は書類を見ようともしない。

「トルコも引きずり込もうと思ったんでしょう。浅はかね」兄嫁が言う。

「仰るとおりで」

「きちんと説明できる? ゆーくんにわかってもらおうだなんて考えないでちょうだいね。ゆーくんがピアノを弾かなくなった理由がわかって?」

「俺のせいですね」

「その話もするのよ? いいわね。今度ゆーくんを哀しませたらトルコと二人で呪い殺してやるから」

 許してもらったとみていいのだろうか。許してくれはしないか。

 自分のことしか考えていない。それはそうだ。自分が一番可愛いのだから。兄嫁はそうゆうことを言っているのではないような気がする。

 俺の性格は絶対に治らない。諦め。そっちか。

 そして、本日のメインイベント。の前座。にしては手強い。

 爺。

「別れてどうするんだ」

 爺はざっと眼を通して静かにテーブルに置いた。これから然るべき窓口に提出しなければならないので、俺に投げつけるのを勘弁してくれたのだろう。

 やれやれ。いちいち俺以外には気を遣う。

「日本が一夫一婦制じゃなければそいつは無意味なんですけどね」

「この家系にかけられている呪いのことを知っているか。知らないだろうな。こーに言った覚えしかない。予想くらいつくだろう。解く方法はない。血が途絶えるまで続く。俺は途絶えさせるつもりだった」

 暗にエロジジイのことを明言したつもりだったのだが、爺は違う意味にとったみたいだった。

 爺の奥方。つまりは俺の母親。

「嫁をとると碌なことがない。別れるとわかっていてどうして結婚など。それを逆手に取ったのが兄貴だ。俺は順当な方法を採ったつもりだったんだよ。打ち破れとは言わない。こーには期待しているが、お前は」

 俺にそっくりだから。いずれはこうなると思っていた。

 爺は文末の大事な部分を言わずに、とっとと行け、と顎でしゃくった。

 へいへい、わかってますよ。兄にも兄嫁にも尻を叩かれたんだから。

 優輔は校門の前で待っていた。ちゃっかり女子を連れて。

 さすがは俺の息子。手が早い。

「そんなんじゃ」

 とは言っているが、顔はまんざらでも。

 髪の長い女子は俺にぺこんと頭を下げて優輔に手を振る。宿題忘れないでね、とずぶとい釘を刺して。

「忘れたのか」

「いつもああゆって」優輔が口を尖らせる。

 女子が振り返る。優輔が手を振る。

「一緒に帰る予定だったんだろ」

「まあ」

 女子が振り向く。なかなか先に進まない。

「ちょっとばかし腹が減ったな。食ってくるから、ほら」優輔を小突く。

 女子が気づいて、足を止める。

「待ってんだろ。女の子待たすのは最低の男だ」

 駅で待ち合わせることにした。ゆーすけは十五分遅刻。白髪ジジイの隔世遺伝だろう。

 俺は約束の時間に遅れたことはない。人を待たすのはちょくちょくだが。

「さっきの、仲いいのか」

「そこそこ」優輔が煮え切らない返事をする。

 からかおうと思ってぐっと堪える。先ほど散々トルコに注意された。喉もと過ぎれば。一人諺大会のようだ。

 一通り説明したあと、優輔が頷く。

「わかってくれるか」

「父さんたちが俺に許可とって結婚したんじゃないから」

 なるほど。それは慧眼だ。さすが以下略。

「ついでに面白い話してやるよ。俺の家にかけられてる呪いの話」

「あ、それ知ってます」

 ちょっと待て。なんで親の俺が知らなくて息子の優輔が知ってるんだ。

 兄か兄嫁か爺か。

「ろーくんに聞いて」兄貴の長男だ。

「なんで?」

「俺が打ち破ってやる、と」

 どうも優輔は兄のほうに似ている。

 その代わり、狼佑は俺に似ている。

 弱ったな。なにかがおかしい。

 その晩、さはりは俺の家を抜け出す。靴も履かずに。こんなことなら連れて歩けばよかった。俺がエイコと別れたのは。別れたのは、と見せびらかせば。

 同じか。

 さはりには欲しいものがある。それは俺じゃない。


      3


 空港から戻ったらトルコが社長室で待ち伏せしていた。そこは俺の席だ。挙句に茶をもってこいとうるさいので秘書に頼んだら。

「そーくんが淹れたんが飲みたい」

「一杯一億」

「そらあかん。親族割引とかあらへんの? ウチと家族ぐるみのお付き合いやん」

「何の用だ」

 内緒話をしたいらしい。手招きされた。

 顔を近づける。

 痛い。デコピン。

「なにする」

「天罰。見に覚えありすぎて良心がかしゃくしゃくしてへんかな」

「邪魔しに来たんなら帰れよ」

 トルコがケータイ画面を見せる。メール。

 いきがと

 まり

「いらんから転送したるわ」

 振動。

「黙っててすまへんな。せやけど、ウチも厭やったん。忘れよ思っとったさかいに。ウチの昔の名字、ユサてゆうんやけど。調べたか」

 知ってる。調べたから。

 精神科医の名字と同じ。

 しかし、俺が知りたいのはそっちじゃなくて。

「知ってるのか」

「居場所だけな」

 家に帰る。会議に出る。どちらの時間もない。

 どちらも採れない。両方。

 さはりが、

「待ってはるのと違う?」

 さはりが、

 いるのはわかっているが。

「待ってるのは」

 俺じゃない。

 俺じゃないとわかっていてどうして。

「靴、持ってはったらええやん。あっちは雪やさかいに。霜焼けんなってまうよ」

 さはりの欲しいもの。

 手に入ったのだ。手に、入ったから以前の持ち主にその証拠として。

 画像。

 見れない。憶えている。

「確かめてきてくれへんかな。ウチは勇気がのうて」

 しろい、しろいそれは。

 雪じゃない。雪はもっと黒い。

 それは、しろくてしろくて。白すぎる。

「死んでへん、て証明してよ」

 トルコが左手を見せる。薬指。嵌っている指輪と。

 画像。ゆび。

 おなじ。

「なあ」

 雪が降っていた。ドライバに散々文句を言われた挙句、目的地の、も、すら見えない座標に放り出される。

 積もっている。現状に近い表現をするなら、吹雪いている。

 寒い。靴を買うために遥々寒空の下を歩いたのを思い出す。つい最近だったような気もするし、何十年も前だったような気もする。

 無人のコンサートホール。

 ホワイエ。雪の延べ棒みたいなソファに座っていた。

「恩返しをしようと思って」さはりが言う。

 靴。

 履いてるじゃないか。せっかく沢山の中から選んできたというのに。

「いただいても?」

「ああ」

 脱ぐ。白い脚。履く。

 ぴったり。当然だ。

「かわいい」

「そりゃよかった」

「先生はここにいます」

 どこだ。

「先生は」

 だからそれはどこなんだ。

 空気がしんとして。雪に吸い取られている。

 音。ステージの。

「安否を確かめろってゆわれたんだが」

「いますよ」

「お前の定義じゃない。俺の定義で話せ」

 ピアノの前に。

 座る。

「質問に答えろ」

「聴きたくないのですか」

 それは。

 ずっと欲しかったもの。それが眼の前にある。叶えられようとしている。

 一瞬だけ。

 一瞬それが、手に入る。

「わたしが先生のところに行く必要はなかった。先生がわたしのところに来てくれれば」

 いま、思い出す。この会場には地下がある。

 いくか。

 いったら、聴こえない。聴きたい。欲しい。その音が欲しくて。

 さはりは、ペダルに足をのせる。

 音が壊れていた。調律ももう手遅れ。耳が。耐えられない。軋む。

 鼓膜も。

 蝸牛管も。

「やめてくれ」

 やめろ。

 やめないと。やめ。

「ゆーすけくんがまたピアノを弾いてくれると約束してくれたんです」

 どうしてそうなる。なぜ、そのつながりの意味が。

 わからない。

 この二人がすれ違うタイミングはなかった。あったとしたらそれは、俺が感づいて。いても。

「礼をゆう相手を間違えてる」

「本人に言いました。そうしたら」

 俺がピアノを弾くきっかけになった父さんに。

 耳鳴りがする。

 さはりの演奏じゃない。俺が手に入れようと思ったさはりの演奏とは程遠い。別人とは思えない。さはりの中で、あの演奏を選ばなくなった理由ができた。

 先生を、手に入れたから。

 先生を手に入れるために弾いていたあの音は。

 要らなくなった。不要。じゃあ今度は何を手に入れようと。

 音、已む。

 拍手はしない。素晴らしいとは思ってない。野次を飛ばすにもエネルギィが必要。

 いったん会場を出て地下への階段。まで歩いていく力はもうない。

 さはり。

 そんなこと、しなくたって。火を放つ。

「ともるくんです」

 へえ。

 ピアノに火を放ったのは。

「わたしとでも思われましたか?」

「お前しかいないだろ。ともる君はそんな過激なこと」

「わたしがスパルタだったから。ともるくんはとてもいいものを持っている。なのに、ちっとも生かそうとしない。わたしにはそれがないのに。あの日は大喧嘩しました。一方的にわたしが怒鳴りつけただけですが」

 まあそうだろう。燈留君はそんなことしない。

「ピアノがなくなればいいとでも思ったんでしょう。頭もいい」

「止めろよ。師匠なら」

「師匠だから、止めませんでした。自分に火を放とうとしなかっただけよかったと思わないと。ピアノなど、また買ってもらえばいいんです」

 熱い。

 外はあんなに吹雪いているというのに。暖をとるにしてもやりすぎだ。

「本日はわたしの最初で最後のリサイタルに足を運んでいただき誠にありがとうございました。天候はお生憎の猛吹雪です。気をつけておかえりくださいませ」さはりがお辞儀する。

 爆発。顔が熱い。眼も耳も。

 さはりがステージに座る。ブーツ。脚を振って脱ぎ飛ばす。

 ぴったりじゃ、なかったか。

「失望しましたか? わたしの音が滅茶苦茶で」

 焦げたにおい。鼻が麻痺する。

「ありがとうごめんなさいさようなら」

 先生は。

「どこにいる?」

 さはりは。

 指を差す。

 あたま。こめかみ。

 銃があったら撃ち抜いていただろうか。

「ずっと、一緒です」

「よかったな」

 手に入って。

 俺は手に入れ損ねた。はじめて、手に入れられなかった。

 欲しいものはすべて手に入れてきた。一度手に入れたものでも要らなくなれば手放す。つまり、現在俺の手に入っているものは。

 現在の俺が手に入れたいと欲するものの集合。いまこの手に入っていないものは。

 いらないもの。

 さはりは。

 雪で顔を冷やす。口に入った。

 まずい。もっと綺麗な雪を選べばよかった。

 爆発。爆風。

 吹雪とどちらが強いだろう。見物していないで電話を。どこに?

 ケーサツ?

 ショーボー?

 キューキュー?

 俄かに番号が思い出せない。

 指揮者が必要だ。俺の混濁したアタマをタクトの一振りで一色に染めてくれ。そもそもなんだったかわからなくなるくらい一緒くたに。そうすればわかるかもしれない。いま熱いのか寒いのかちょうどいいのか凍えそうなのか生ぬるいのかが。

 ケータイを落としたらしい。莫迦だ。どうやって帰ろう。この天候じゃ送迎も期待できない。行きと同様適当な座標で放り出されるのが落ちだ。

 歩こう。ちょうど靴もある。

「行くぞ」

 ついでに足がある。

 ぶかぶかの靴ではつらかろう。靴ずれになってしまう。あれは痛い。化膿して歩けなくなる。脛の傷に加えて大打撃だ。

 抱きかかえようと思ったら首を振られる。

 コートを貸そうと思っても羽織ってくれない。

「置いていってください。なんで、なんでわたしなんか」

 そんなに、恥ずかしがらなくとも。

 誰も見ていない。誰も。

 テンくらいはいるかもしれないが。

「寒いだろ」

 俺が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

混濁た一色た 伏潮朱遺 @fushiwo41

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ