第3話 かれたわ枯涸嗄
1
さはりが見つかった。
正確には、さはりそっくりの男がピアノ講師をしている、という情報を掴んだ。
優輔と同い年の生徒の素性を調べた。
彼の父は、ほぼ独りで飲食店を切り盛りしているので滅多に家に帰ってこない。同じく母は、忙しなく国内を飛び回っている。トルコの近接領域らしいので情報を求めた。
「ぼちぼちみたいやけど、ただなあ。ウチの趣味とこう、ぐいいっと離れとるさかいに。なんで売れるかわからへん」
「画一的じゃ駄目なんだろ。お前の趣味に乗ってこない連中がそいつの作るものを気に入る。そうゆうことだろ」
「せやのうて、ううん。ええわ。嫉妬かもな」
トルコは得意先からの口利きがない限り一見さんを相手にしない。得意先から注文があったときだけ、得意先のためだけに衣装を作る。自分のためには作らないらしい。
トルコが着ている服はトルコが作ったものだろうが、と反論したら。
「ウチはマネキンやもん。手っ取り早い商品見本。味気ないカタログよかええやろ。実際に着てるとこ見てもろたほうが」
「モデルに戻りたいんじゃないか」
「せやね。そうかもしれへんな」
見つかったのはいいが、どうやって接近するか。
それだけが問題なのだ。他はなんとでもなる。
一番困るのは、俺が近づいているのを察知して逃げられること。
しかし、念には念を入れて。
幾分か時期尚早だが、当日までに幾らか時間がある。エントリ締め切りはとっくに来たが、審査員に知り合いがいるので無理が通る。
「来月だ」
「え、でも」優輔が困惑した表情を浮かべる。
「ここのところ、お前の音を聴いてると勿体なくてしょうがない。無限に拡大する才能を埋もれさせているんじゃないかって。だから決めたよ。心配要らない。課題曲はもう弾ける。ほら、弾いたことあるだろ。最終調整だ」
衣装はトルコに作らせて。
デヴュ戦だ。ここでお前は世界中に名前を知られる。
史上最年少の世界一だと。
結果はわかっている。そんな出来レースでも、意味がある。
彼女が特別審査員として呼ばれている。
最高の舞台だ。
「元気みたいね」エイコが優輔に微笑みかける。
優輔は挨拶しなかった。そのくらい緊張しているのだ。
おいおい、駄目だろ。審査員には媚を売っておかないと。
「いつまでこっちに? 長くいられるの?」エイコが聞く。
「お望みなら一日延ばそうか」
「まあ素敵。早く終わらないかしら」
結果。聞くまでもない。
俺の息子は世界で一番だと証明された。
「私も連れてくればよかったわ。大きくなったのよ」
長男か。
「上達してるのか」
「あら、私の演奏を環境音に生活しているのよ。必ず私を超えるわ。超えてもらわないと困るのよ」
そんな最高の気分の夜中に事件は起こる。
手遅れだった。
さはりの生徒の家がぼやに遭って。燃えたのは離れだけで、誰も死んでいないし誰も怪我をしていない。喜ぶべきなのだろう。
離れにはピアノが置いてあった。ピアノを練習するための部屋。
ピアノを燃やしたのだ。さはりが。
さはりは行方不明。ぼやの日から姿が見えないらしい。
生徒に接触しようにも、精神的なショックを負っているらしく面会は叶わなかった。入院しているわけでもない。部屋に引きこもったまま出てこない。
彼は何を知っている。何を見た。
さはりは、彼に何をした。
彼の父親の店に行った。単なる客として。料理を並べてもらったところで紙を見せた。
ジュニアコンクール。主催はもちろん、俺。
「どこぞで倅のことをお聞きになったかは知りませんが、いまはそうっとしておいてくださいませんか。ずっとお世話になっていた先生が突然いなくなってそれどころでは」
「僕が聞きたいのは息子さんの現在の状態ではありません。息子さんが出場するかしないのか。それだけ伺いたい」
父親は私の名刺を見て首を傾げる。
知らないのか。これから息子がお世話になるかも知れない大手企業だというのに。
「これを、息子さんにお渡しいただけませんか」
「私は家に帰らないもので」
知っている。そのくらい。
ここの経営が芳しくないことも。
「では僕が届けても」
「それはご迷惑では」
「いいえ、未来に輝く原石を発掘するのが僕の仕事です。彼、
父親は名刺をしげしげと眺める。俺の立場と仕事内容を確認したかったのだろう。時間はかかったが、それなりに呑み込めたみたいだった。
俺が悪の秘密結社のボスではないことが。
「これはほんの気持ちです」
「困ります。そんな、もらえません」
「よくご覧になってください。借用書ではありませんよ。一方的なプレゼントです。役に立つこともあるでしょう」
それでも頑として受け取らないので、近々ここの店を貸切るときの利用料ということにしてもらった。本当に使うかどうかはさておき。ものは言い様。
「いつでもいらっしゃってください。お待ちしております」
カウンタの奥から強烈な視線を感じていた。席についてからずっと。暖簾をくぐったときだったかもしれない。
負の感情。立ち去れ、とかそんな生易しいものではない。
消え失せろ。
言われなくとも。そろそろお暇する。
魅力的な眼光だった。盛らない飲み屋の従業員にしておくには惜しい。欲しいもののリストに付け加えておこう。鳥がいなくなったって関係ない。鳥のいない空は存在しないのだ。他の空を探せばいい。
元生徒には居留守を使われた。仕方ないのでポストに案内と手紙を投函する。
「何が目的だ」
欲しいものがのこのこ追いかけてきた。わざわざタクシーまで捕まえて。
これは、好都合。
「何を企んでいる?」
奴は、二メートルはあろうかという大男。脛の傷が化膿して一歩も歩けないはずなのに、這ってでも尚前に進もうとする。
俺はこうゆう人間が大好きだ。言い換える。
こうゆう人間の洗いざらいを暴いて、動けなくなったところを上から踏みつけるのが大好きだ。
「その頬はどうした。手も。両手じゃないか」
左頬にガーゼ保護。
指の先までびっちりと包帯が巻かれている。
「気にするな。ケンカだ」
「だろうな。売られてもいないケンカに手を出して厄介ごとになったところを、あの店で匿ってもらったってとこか。どうだ。おっ潰れ秒読みのあの店じゃなくて、俺のところで」
「何が目的かと訊いている」
「ここの坊ちゃんで稼がせてもらいたい」
「断る」
「きみに訊いてるんじゃない。燈留君に」
「帰れ」
獰猛な番犬が相手じゃ敵わない。すでに飼い犬だったか。
飼い主が手放せば或いは。リストには入れたからいずれは。
さはりはこの生徒を捨てた。通過した点だ。もう戻ってはこないだろう。
次の点。どこだろう。心当たりがないところが哀しいが。
しかし、やはりさはりの教え子。元生徒はコンクールに出場して、見事に日本一の座をもぎ取った。
さあ、どうする。優輔。
お前にライバルができたぞ。
2
さはりが見つかった。
正確には、さはりそっくりの女がとある精神科医の家庭を破壊させてその家に棲みついている、という情報を掴んだ。
やけに情報が具体的で生々しい。白髪ジジイの探知精度が上がっているのか。
「どんどん世間ずれしとらへんか。ピアノのセンセやと思たら、次は一般家庭。わからへんなあ。せやけど、手に入れるんは」
「わかってます。熟考に熟考を重ねている最中です」
「頼むで。オレもそろそろ」
優輔と燈留君はよきライバルとしてお互いを高めあっている。ように見せかけて最近、優輔の意欲だけが低下している。燈留君はめきめきと上達しているというのに。反抗期か。
俺が訪ねていってもピアノの音がしなくなった。ピアノが壊れたのかと思ったがなんらおかしくない。調律も定期的にさせている。埃を被せるためにそこに置いてあるわけではない。
「いるか。話がある」
優輔がピアノに触らなくなって一ヶ月。一時の気の迷いだと思って甘く見ていたのがいけなかった。
これは、重症化する。
「来週、テストが」優輔は部屋で勉強をしていた。
「そんなものはやらなくていい。体育と同じに学校も辞めたいか」
「義務教育じゃ」
「義務教育の義務は親の俺に対する義務なんだよ。お前にじゃない。だからお前は俺のゆうことだけ聞いてればいいんだ。練習するぞ」
優輔が首を振る。
「じゃあ何故弾かないのか言ってみろ。納得できるような答えが言えるんだろうな」
黙る。言えないに決まっている。意見を言わせないように教育した。
「燈留君に置いていかれたのがショックか」
「最初から負けてます。俺は」
負け。
「俺は? なんだ」
「俺は」
言えるか。言えないだろ。
言うなよ。言ってはいけない。それを言ったら。
お前は、俺の子じゃない。
「一ヶ月切ったぞ。ここでこけたら世界一の名が廃る。わかってるんだろうな。負けることはあり得ない。許さない。お前は俺が」
手塩に掛けて育てた最高の駒。敗因は駒にはない。主の側だ。俺に不名誉が降りかかってくる。それだけは避けなければ。
保守に回っている。それがすでに負けだ。攻めて攻めて攻め続けなければ王者たり得ない。
ライバルは王座を譲り渡すために見繕ったんじゃない。お前を高めるためだ。一人で走るより二人で競い合って走ったほうが速く走れる。同じ道理だ。
「そのへんにしたったらどや」トルコが廊下に立っていた。「ゆーくん、テスト勉強ごくろーさん」
「監察官殿も精が出ますね」
「そらどーも。おんなじ屋根の下できゃんきゃん吠えられたら敵んわ。こっちはクリエイティブ最前線やのに」
最初の一手から筒抜けだったらしい。
トルコは肩を竦める。
「ええよ、ゆーくん。暴君なおとうちゃんは引き受けたるさかいに」
「暴君ってなんだ」
「ここに、手ぇ当ててよう考えてみ。どくどくゆうてへんかな。心筋さんがサボらんと働いてくれとる証拠や。信用金庫やないで」
寒い。
「なんやのその顔。あっついから涼しうしよ思うたウチの心遣い」
優輔が笑っている。俺がそれに気づいたとわかって、口を閉じる。ドアも閉めた。
笑った。俺には笑いかけないのに。
泣かなかった。怒りもしなかった。俺の前では感情を出さない。そうゆう教育をしたから当然だ。当然なのだ。当然だから、笑わない。笑わないのは。
なぜだ。なぜ笑わない? 俺を好いていないからか。父親は俺なのに。俺が父親なのに。
一緒に住んでいるだけの赤の他人には笑う。きっとエマイユにも笑っている。燈留君にも笑っている。俺だけに、笑わない。
なぜ。
さはりも、笑わなかった。
「ゆーくんこないだ担任のセンセに褒められたんやて。きみはピアノが上手だね、合唱コンクールの伴奏をやらへんか、てな。クラスのみんなも満場一致で推してくれたらしわ。せやけど、暴君おとうちゃん主催のコンクールも控えとる。ゆーくん、悩んで悩んで悩んで、そんで、どっちも捨てられへんさかいに」
辞めた。やめ、た。
なぜ。
「どうゆうことだ。おい、優輔、出て来い」
叩いても不可能だ。聞いていない。届いていない。ヴォリュームが上がる。教養のために俺が買ってやったCDじゃない。そんな音は俺は知らない。
いつ買った。いつの間にそんなものを。
「わからへんか。いまゆーくんが聴いとるの、合唱コンクールの」
じゃあ、そっちを。
俺を捨てて。
選ぶ。
冗談じゃない。選ぶというのは、選ばなかったほうを捨てることだ。両方を手に入れることができない奴らのする負け惜しみの。
「ゆーくん譜読み苦手なん、知らへんやろ。せやから、おとうちゃん帰るとCD聴いて、耳で憶えてピアノ弾いて、それ繰り返す。完成形しか興味ないおとうちゃんには未知の情報やと思うけど」
「よく、知ってるな」
「ウチはおねえさんやさかい。かいらし弟のことはしっかり見守らへんとな」
俺が優輔について知っていることはなんだろう。ない。なにも。
さはりについても、なにも。
追いかけても手に入らない。手に入らないもの。カネで買えないもの。どうすれば手に入るのだ。わからない。俺はその方法を知らない。
もし、もしだ。考えたくはないが、一つの可能性として。さはりがいま居ついている精神科医とやらの家庭が、精神科医によって壊されたとしたらどうだ。精神科医の望みで壊し、そこにさはりを迎え入れたとしたら。
さはりには、ピアノを弾いているところを見ていてほしい人間がいる。それが、その精神科医だとしたら。さはりは、手に入れたのか。欲しかったものを手に入れて、精神科医と仲良く暮らしているのでは。
ちがう。
という証拠もない。
確かめる。どうやって。精神科医に会う。会って、推論が当たっていたら。諦め。られるわけがない。俺はさはりの音が欲しい。さはりの音を手に入れるには、さはりごと手に入れなければならない。それが出来ない。不可能なのだ。
ただとうとうと、トルコの話を聞いていた。優輔のこと。優輔の考え。優輔の望み。本来は直接聞くべきこと。直接本人が表明してくること。トルコに云ったところで届かない。しかし、俺に云うより有意義だと思ったから、俺に云わずにトルコに。
「いまからでもじゅーぶんやで。取り返せへんほど溝は深うない。そーくんが勇気出してぴょいっと跳び越えたったら余裕でいける。ウチが離婚したこと知らへんやろ」
「結婚してたのか」
「まあせやな。結婚せんと離婚はできひん。ウチはな、それに気づけんかったさかいに。勇気があらへんかった。なあんも残ってへんかった。気ぃついたら、離婚届に判子捺してたわ。アホやろ。ああ、アホなことゆうてしもたな。忘れたって」
訊けば答えるかもしれない。調べれば簡単にわかる。しかし、それをしたら。どうなるだろう。端から嫌われている。監察官。ここからいなくなる。ことはたぶんないが、ここにいたくないと思うかもしれない。そうしたら、優輔が。哀しむ。推論。
予測できることはつまらない。だから、しない。
精神科医の居所も予想がつく。
3
本当は家がよかった。さはりに会えるかもしれないから。
「私を訪ねてくる方はあまりにも自己中心的な方が多くて、はあ、厭になっちゃいますよね。サボってると思われると、そのね、いろいろ不都合が生じますからね」
猫背の無精ひげ。白衣のボタンをひとつも留めていない。わけのわからない染みがこびりついて。きちんと洗ってないのだろうか。脛の傷は化膿してはいるが他人にそれを気取られないようにうまく隠している。俺じゃなきゃ気づかない。
「病院くらい幾らでも紹介してやる。金儲けがシュミな経営者も腐るほどいる。なんなら開業するか」
「それはなんとも頼もしい。ははは、これで大手を振ってお散歩に勤しめますね」
病院の裏の遊歩道。患者やナースがちらほら。
精神科医は名刺をじろじろと見てああ、と感嘆詞を放り出す。
「あなた道理でどこかで。これはどうもどうも。私の知り合いというかなんといいますか、とにかくお世話になったとかなっていないとかで、ええ。お噂はかねがね」
「その知り合いとやらについて伺いたいものだが」
「話すことなんかありませんよ。私たちはすでに他人なのですからねえ、はい」
「とぼけるな。一緒に住んでいることくらい」
「住んでいた、の間違いでしょう。いまはしがない独り暮らしです。ああ切ない」
おかしい。さはりはすでに出て行った? いや、そんな連絡は入っていない。
それとも精神科医が嘘を?
そうだ。そっちが正しい。
「さはり、という名に心当たりは」
「はて、どなたでしょう」精神科医が言う。
「いい加減にしろ。俺はそいつを捜してる。お前のところにいるんだろ。正直に言ったほうが」
「ちょっと待ってくださいよ。あれえ、もしかするとなにか大きな勘違いをされているような」
「勘違いなわけがあるか。俺はようやくここまで」
「あなたが捜されている方は、さはりとかなんとか」
「そうだ。いるんだろ」
「ナガカタとかエイヘンだとかゆう方ならしばらく前から凝りもせずによくもまあ厭きもせず私のストーカをしておいでですけれども」
名字が同じで、名前が違う。血縁?
「ストーカ?」
「どうやら今日はいらっしゃらないみたいですね。よかったよかった平和です。別人かどうかはあなたが確かめればいいのではないでしょうかね。僭越ながら応援させていただきますよ。ストーカがあなたの尋ね人ならばいいですねえ、ええ」
精神科医はキィを手渡すととっとと病棟に戻ってしまった。
住所はわかっている。行くべきだろうか。
行かない。わけにはいかない。
あの話しぶりを過信して解釈するなら、精神科医はさはりを鬱陶しく思っている。好感度はゼロに等しい。むしろマイナス。付き纏われて迷惑だ。ストーカ呼ばわりがその最たるもので。
だが、精神科医の話がそっくり嘘だったとする。さはりを手放したくないから俺に虚偽を吐いて、訪問したところで精神科医が待ち構えていて、残念でした、だ。今頃先回りしている。
むざむざ誘いに。乗るしかないのだ。俺には手掛かりが少なすぎる。
車庫付き二階建て。二人で住むには多少広い。子どものことを見越しているのかもしれない。
誰の? 精神科医はさはりに別れさせられたのだ。妻がいたのに。子どももいたのかもしれない。車はないようだが、待ち伏せするのにどうして自分の車庫に車を納めるのか。用心しよう。後ろからぶすっと刺される可能性だって。
ないか。それはない。
チャイム。呼び出す。緊張してきた。居留守を使われるかもしれないのに。モニタがないタイプだから顔は見えないと思うが、声。変声機を持ってこればよかったか。
返答がない。留守か。声、出してみるか。
ピアノの音。すぐにわかる。
さはりだ。さはりがいる。さはりがここに。
「さはり、いるんだろ。俺だ。創輔だ」
やってしまった。侵入する前に名前を名乗る礼儀正しい盗人がどこにいる。
これで強行不法侵入しか道がなくなったわけだが。
塀。裏口。
ドアが開く。チェーンは外されていない。
「どうして」さはりの声。
「さはりか。よかった、やっと」
会えた。
何年ぶり。何十年ぶり。何百年ぶり。何千年。
「入れてくれないか」
「何をしにきたのですか」
「会いにきたに決まってるだろ。早く、顔が見たい」
チェーンは動かない。
「あなたとはお別れしたはずです」
「あんなんで納得できると思ってるのか。ごめんなさい? 何に対する謝罪だ。俺は許さない。俺を本気にさせておいて」
「そんな、あなたにはすでにお相手の方と」
「本気だよ。俺はお前とずっと一緒にいたい。お前の音を聴いていたい。俺のそばでピアノを弾いてくれないか」
チェーンは。
「弾いてくれ。聴きたい」
チェーンはきっと、外れたいと思っただろうが。チェーンに意志はない。チェーンがどんなに外れたいと言ったとしても、主張は無碍に却下される。
閉められる。鍵が閉まった音。
いま気づく。
俺は、キィを持っている。開けることができる。チェーンの意志を尊重することができる。
差し込んで、回す。開いた。
チェーンは外れていた。
玄関に、さはりにそっくりな後ろ姿。
力の限り抱き締める。
「どうして。鍵は」
「家主が味方してくれたんだよ」
「先生が?」
「お前、好かれてないんだろ」
「そんな、ことは」
「ストーカだっつって嫌がってたぞ。もういいだろ。このままここにいたってお前は邪険にされるだけだ」
「離してください」
欲しい。ほしい。ほしい。ほしいものは。手に入れないと。
さはりは、ここにいる。俺の一番近くに。
「離してください」
「俺の元に戻るか」
「離してください」
「戻るって言えよ」
「離してください」
「戻ってこいよ。俺はお前のことしか」
「はなして、ください」
なんで。
「俺じゃ駄目なのか。俺の何が」
「あのときも言いました。あなたにお相手がいるのなら」
「いなきゃいいのか」
抵抗する力が弱まる。
「別れたら俺の元に戻ってくるんだな。そうゆうことなんだろ。わかった」
離す。
さはりは、泣きそうな顔で。
「うれし泣きか」
「別れるって、お子さんが」
「子どもの一人二人いるからなんだ。いまだってほぼ別居状態だ。大して変わらねえよ。慰謝料ふんだくられるかもしれねえがな」
「やめてください。あなたはよくてもお子さんが」
「そいつは訊いてみねえとわからねえだろ。約束だからな。俺が離婚したら、お前は俺のところに来る。いいな?」
「できません」
「なんで」
「私は先生が」
「あんなに嫌われてんのに、なんでいつまでもこだわってるんだよ。俺がいるだろ。俺ならお前を独りにしない。ずっと好きなピアノを弾いてればい。俺は聴きたい」
やっとさはりが泣き出した。涙は出ていないが、顔が泣いている。
声も出ていないが、俺にはわかる。
泣いている。
「なぜ、わたしなのですか。わたしは」
「知ってる。知ってるから何も言うな。つらかったろ。お前には生きにくい。でも俺はその生きにくい世界を切り開いてやれる。通りやすいように舗装して、危ない崖にはガードレールを付ける。なんでもする。なんでもするから」
さはりのためにすべてを捨てる。のはしない。俺らしくない。
俺は。
さはりのためにすべてを手に入れる。
「あいつのどこがいいんだ」精神科医。
「わたしが、初めて会ったニンゲンです」
さはりを腕につかまえたまま、電話をする。眼を離したらいなくなってしまう。もう厭だ。捜すのは疲れる。空だって無限にあるわけじゃない。鳥を落とすのも労力が要る。
「人間に会ったことなかったのか」
「お調べになったのでしょう。よく調べられましたね。わたしだって知らないのに」
「もういい。思い出すな」
コール音。
「どちらにおかけになってるのですか」さはりが意味のない質問をする。
結論は見えている。現体制とどこに違いがある。
ない。結末がわかっていることをわざわざなぞるのは好きじゃない。
「別れないか」
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