第2話 かわれた飼買代変
1
脚が痺れてきた。だから座敷は好かない。
約束の時間から二十分経過。時計を見ていると時間経過が遅く感じられる。見るのをやめたい。見るべきものが他にあればわざわざ時計を見ることもないのだが。
喉がイガイガ。出掛けにさはりが作ってくれたあれを飲んだというのに。
襖がするすると開いて和装の白髪ジジイが顔を見せた。のはそれから半時間経ったのち。
とっくに脚は崩した。胡坐ですらない。あまりに退屈で寝転がっていた。
「あー、ええて、ええ。気にならんわ。長う長う待たせてしもうてすまへんねえ」
手を出されたので応じる。
厭な温度。ぬめぬめしている。汗だったらこんなに不快にならなかった。
「そこでな、オモロいもん見つけてつい」白髪ジジイがにやりと笑う。
「お早いですね」
「お前さんが待っとらんかったらなあ。あと三時間はイケたわ」
「それは遅すぎですね」
おしぼりで拭き取って庭に投げる。本当は石鹸で洗って消毒してきたいところだが。長い会合ほど無駄なものはない。
「せやな、はじめよか。甥っ子の」白髪ジジイが言う。
「
「そんなん知っとるに決まっとるやろ。融資の。どないしよか」
「謹んでお断わり致します、と父が申しておりました」
白髪ジジイがげらげら笑い出す。エロジジイと爺を足して二を掛けたくらいうるさかった。
「種はどっちや種は」白髪ジジイが聞く。
「弟のほうですね」
「そーっくりやで。鼻につく慇懃無礼なとっこが。ああオモロ。久しぶりにヘイとダイに会えたみたいや。むっちゃうれしいわ」
「会いたいんですか。父は顔も見たくないという態度でしたが」
「なあんも聞かされてへんのやな。あれらが甘い融資断る理由がわかるか」
「嫌いだからですか」
「それもある。せやけどもーっとむちゃくちゃキビしい理由。なんや浮かぶか」
「さあ、僕には検討も」
「しょーじきにゆうてみい」白髪ジジイが言う。「さっきので想像ついたやろ。ヘイが異常に女好きな理由。そう振舞っとるだけ。ダイがひねくれた理由。構ってもらえんかったさかいに」
「ご冗談を」
「可愛い甥っ子にウソ吐いてどないするん? 訊いてみい。オレがいまゆうたのとおんなじ訊き方で。魂消て飛び上がるであれら」
まさか。あまり考えたくない。
気に入ったから積もる話ついでにこれからちょっと、と誘われたが気が進まない。忙しいといったらまた次の機会に、と名刺を渡された。
如何わしい役職名。
「カネのことやのうてもなんや困らはったらゆうてくれてええぞ。顔広いでな」
報告に。行かなくてもいいだろう。
爺の望みは融資を断ること。結果など最初からわかっている。
さはりのこと。最初から聞き入れる気はない。
爺たちの望みは。
彼女と結婚すること。彼女の意見は聞いていない。聞かずともわかる。
しばらく会っていないが、向こうも忙しいのだろう。俺も忙しい。お互い様だ。お互い自分のことで手一杯。
彼女はピアノを弾きたい。俺はピアノで儲けたい。
もしかすると、利害が一致しているのでは。
気のせいか。気のせいだ。俺は彼女のピアノに心動かされない。彼女のピアノは完璧すぎる。味がないわけではない。その味が完璧すぎてぐうの音も出ないからだ。やっかみだろう。嫉妬でもいい。
彼女の音は、一度聞いたらもういい、という気になる。厭きる。美味しいものが次から次へと食道に流し込まれる。満腹になっても尚。遠慮というものがない。躊躇いもない。無感動にただ注入される点滴となんら変わったところがない。さはりはそうではない。
さはりのピアノは、はっきり言って不味い。テクも我流だし、まだまだ未熟な感じが否めない。しかし、一度聞いたら忘れない。美味しい料理は喉を通ればもう忘れる。不味い料理は二度と忘れない。消化できないから。腹を下す。場合によっては逆流する。
俺はそちらのほうが心地よい。作ったシェフを呼び出して皿ごと投げつけてやりたくなる。テーブルをひっくり返してカネを返せと怒鳴りたい。賠償金。裁判を起こしてもいい。そのくらいの威力がある。さはりの音には。
結婚したいわけではない。さはりのピアノをずっと聴いていたい。そのためには一緒に暮らすことが最善だと考えた。
わからないのだ。あとは死ぬだけの耄碌爺共には。
「連れて来い」爺から電話。まださはりの処遇についてああだこうだ。
「ご自分でいらしては」
「お前が留守の隙に上がるのが得策とも思えないのでな」
「まあそうでしょうね。どうか短い余命を大切に」
切りたい。切ってしまいたい。いっそ投げ捨てるか。こんなうるさい縄つき端末なんか車に轢かれればいい。業務上過失致死。被害者はケータイ。弔いくらいはしてやるから。
「要はバレなければいいんでしょうが」
「そう巧いこといくまい」爺が言う。「お前はもう一度自分の立場というものを」
わざと耳から離す。
「あーあー、すんませんねえ、電波の状態が悪くて」
「日曜の。忘れてないだろうな」
「なんでしたっけ。ああ、はい。でもそれ、オトウサン参加しないんじゃ」
「挨拶がてら出席することにした。立ち見は勘弁したいものだな」
引退隠居爺がしゃしゃり出て。彼女が来るからか。
彼女。
ドタキャンしてくれないものか。日付と時間をずらして教えるか。干支に入れなかった猫のように遅刻させて。
帰宅する。やけに床が滑ると思ったら。
さはりが雑巾を絞っている。バケツ。水はどす黒かった。
いったい何を拭いたらこんな色に。
「余計なことはしなくていいと」
「ごめんなさい。足の裏が黒くなるので」
さはりは靴下を履かない。スリッパも嫌い。裸足でいる。冷えるだろうに。
ふとカレンダに眼がいった。来週の。
ああ、そうか。そうだった。自分で企画しておいて度忘れ。
星降る聖夜にロマンティックなひと時を。クリスマスコンサート。メインが彼女。バイオリンやらチェロやらを弦楽団を呼んではいるが、ほぼ彼女のための前座。チケットは即日完売。さすが。俺の企画が。
「明日、出掛けるぞ」
「どこにでしょうか」さはりが言う。
「女神は無理だから雪の精くらいにはしてやる」
秘書に電話。ぜんぶキャンセル。
損失など構わない。そのくらいで文句を垂れてくるような俗物なら相手にしない。
機嫌がいいから秘書にもオフをやろう。奥さん子どもとまったり過ごせ。なんという優しい心配りのできる社長だろう。社員の福利厚生もばっちりだ。
さはりは不安そうに首を傾げる。
何も心配しなくていい。俺についてこれば何も間違いはない。
2
騙し討ちならこちらとて同じ。さはりが車から降りてくれない。
「早くしてくれ。俺は主催者なんだ」
「ですからわたしに構わずお行きください。終わるまでここで待っています」
腕。つかめない。あざになりそうで。加減ができない。
隠せない白い素肌の露出。
我ながら最高の出来。初めて会ったときのあの格好など遙かに凌駕する。いや、それは憶えていないから比較対象としては不備がある。一日掛けた甲斐があった。
上から下まで幾らかかっていると。それはいい。カネは使うべき場所を誤らなければ幾らでも取り返せる。口封じを含めて。封じなくとも喋らないだろう。喋る相手もいない。喋ったらあとがない。少なくとも俺の眼の届く範囲でカネを稼ぐことは出来ない。
「何が不満だ」
「言わなければわかりませんか」さはりは椅子に深く座ったまま。「わたしは、このようなところで披露するような技量を持ち合わせてはおりません。帰していただけないのなら歩いてでも」
立ち上がろうとしたさはりがよろける。その高い踵では無理もない。
支える。エスコート。そのまま会場へ連れて行きたい。
そのくらい。
「綺麗だよ」
「そっくりそのままエイコ様に仰ってください。わたしなど」
声が震えている。顔も心なしか紅く。
もしや押して押して押せば、或いは。
「雪の精のつもりだったが、元がよかったんだろうな。女神も嫉妬する。一曲でいい。聴かせてくれないか。忘れられない夜にしてほしい」さはりの手の甲に口づけした。
スタッフが俺を呼びに来た。彼女が話があるらしい。ステージに上がる前に魔法の言葉を耳元で囁いてもらわないと心臓が飛び出そうだとかそうゆう気弱な精神の持ち主ではあるまいに。勝利宣言かもしれない。私の音色に恍惚する聴衆をそこで指をくわえて見ていなさい。
そっちか。予想がつく。つまらない。
その通りだった。言い回しは多少違ったが内容は概ねまま。
コンサートは滞りなく始まる。
ただひとつ、別会場のゲリラリサイタルを除いて。
「偉そうな中年に会わなかったか」舞台袖で待機するエイコに言う。
「激励のお言葉をいただいたわ。ご招待を受けたのよ。もちろんあなたも来るんでしょう?」
兄宅でのクリスマスなパーティだろうか。コンサートお疲れ様の打ち上げのわけがないから。
「全部は出られない。出来るだけ早めに顔を出すよ」
「楽しみにしているわ。今日の感想も聞きたいし」
彼女の出番になった。キスを求められたので応ずる。生まれも育ちも日本、というのは嘘かもしれない。どうも滲み出るものが日本国のものではない。文化が異国産だ。
会場から徒歩一分。ホテル。
気分を落ち着かせるように言ってあるが、はてさて。ピアノを与えたから指慣らしくらいにはなっているだろうが。問題は弾いてくれているかどうか。
さはりはピアノと向かい合って座っていた。下を向いたままじっとしている。
「寒いか」
さはりが首を振る。
「悪かった。こんなことをして」
「心にもないことを言われても響きません」
お見通しか。
ソファに腰掛ける。さはりの横顔が臨める。
「いいのですか。エイコ様の」
「聞き厭きてる。もしかして、お前のほうが聞きたかったか」
さはりが首を振る。
「だよな。こっちのほうが有意義だ」
「弾きたくありません」
「なら脱ぐか。気に入らないんだろ、そいつが」
さはりの手がドレスの裾を握る。
「着替えをいただけませんか」
「着替えたら弾くか」
「一曲というお約束です」
もともと着ていた服を捨てなくてよかった。店員に捨てるか、と聞かれたときに頷いていたら、忘れられない夜は存在してくれなかった。
さはりが着替えている間、いったん会場に足を運ぶ。
彼女だけのステージ。爺たちも聴衆として席に座っているから、誰も気づいていない。それに俺が突然会場を出て行っても誰も疑問に思わない。
忙しいのだ、社長は。
この音はやはり、
上質すぎてつまらない。
足早にホテルに戻る。さはりはピアノの前に立って待っていた。
こちらを向いてお辞儀する。曲名を言ってくれたようだったが聞き逃した。
背筋にぞくぞくと。何度も何度も。
走る。駆ける。繰り返し繰り返し叩き付けられる。
床に。天井に。一曲。あまりに短く、あまりに長い。最後の音を鳴らす。
その予感を過信して、手。
つかむ。首を振る。やめないで欲しい。
音を止めないで。
「終わりです」
首を振る。
「会場にお戻り下さい」
首を振る。首を振る。
「わたしはあなたに迷惑をかけたくないのです。どうか今日限りに」
首を。
「俺のそばにいてほしい」
「できません」
首を。
「わたしはあなたに相応しくない。それはあなたが一番よくわかっています。お戻り下さい。本当のパートナの元へ」
「お前がいい。お前しか」
「わたしはあなたの要求に応えられません。見掛けだけです。あなたを騙すような外見をして申し訳ありませんでした。でも嬉しかったです。例え勘違いでも、わたしをわたしの望む姿に見てくださったのはあなたが初めてでした。いままでありがとうございました。無駄な出費をさせてしまって」
首を。
振ってくれ。頼むから。
「戻るところがあるのか」
「あなたにお話していないことがあります。聞いていただけますか」
「俺にとって不利になることか」
「わたしはずっとこのことを言おう言おうとしてきましたが、毎晩お疲れの様子で帰ってくるあなたのお顔を見てしまうとどうしても。先延ばしにして申し訳ございません。わたしには」
言わないでくれ。
いわないで。
それは。
聞きたくない、音。わかってる。わかってるから遮ってきた。さはりは俺のためにピアノを弾いてるんじゃない。自分のためだ。でも自分が弾いている姿を見ていてほしい人間がこの世に存在する。それは少なくとも俺じゃない。俺以外の。
誰だ。悔しい。
「ご迷惑をかけたお詫びにその方のお名前をお教えします」
メモは要らない。憶えた。さはりを家に送り届けてからすぐに探させた。名前さえわかれば。容易い。一瞬で見つけて。
見つからない。そんなまさか。偽名。やられた。そうだ。そうに決まって。さはり。
さはりはいなくなっていた。
ごめんなさい、というメモを残して。
3
第二子が生まれてから結婚式とはこれ如何に。
イカじゃない。タコだろう。自棄っぱちになっているのだ。
たぶんそう。兄にも言われたし自分でもそう思う。
「ありがとう。ここでいいわ」
エイコにキャリーケースを手渡す。荷物運びの役を仰せつかっていたのだ。
「いつでもいらっしゃいね。歓迎するわ」
「帰ってくるのか」
「未定ね」
離れて淋しいとでも。どの口がそれを。そもそも離れている。付かず離れず、ではない。
離れているのだ、彼女とは。
「お別れのキスはやめましょう」
代わりに握手をした。長い指。初めて彼女の指を見た気がする。
引っ込め損ねた惰性で手を振る。
彼女はにっこり笑ってくれる。何も心配は要らない。そんな表情だった。
趣味の悪い車に乗り込む。乗るところを誰にも見られていないといいが。俺の趣味が悪くなったみたいに思われたら不快だ。
「おったで」
白髪ジジイが座布団代わりに敷いていた紙切れを分捕る。
調査結果。
ざっと眼を通して納得。せざるを得ない。調べられないわけだ。
「カネで手に入らんもんはあらへんけど、そいつは例外やさかいにな」白髪ジジイが言う。「可愛い甥っ子のために一肌脱いでやりたいが、もう布は残ってへんのよ。こっから先は骨と皮。お前さんが屍んなるんをぼさっと見てられるほどオレも落ちぶれとらんわ」
さはりのために。
すべてを捨てる覚悟。
「即答できません」
「そか。まあせやろな」白髪ジジイが言う。「よう考えて。賢いアタマで考えるんやで。熱冷ましてからでも遅うない」
趣味の悪い車から降りる。降りるところを誰にも見られていないといい。俺の趣味は悪くない。
タクシーを拾う。目的地。とりあえず本社か。
客と会う時間だ。誰だったか。誰でもいいか。誰だろうと。
どうでもいい。
ピアノが聴きたい。さはりの音が。
俺に何が足りないと言うのだ。俺で不満のはずがない。連れ戻したい。
しかしそのためには、払う犠牲が大きすぎる。いままで俺が手に入れてきた、俺の欲しかったもののすべてを捨てることになる。出来るわけがない。
一息ついたところで電話がかかってくる。定時報告。
兄が代行してくれていることを思えば、兄には頭が上がらない。
「今日もいい子でした」兄が言う。
「そうか」
「ちっとも泣かないんだ。ろーのほうがお兄ちゃんなのにね。ろーは欲張りなんだよ。パパもママも同時に自分を構ってくれないと厭だって泣き出すんだ。ゆーくんは待ってるよ。毎日いい子で」
あいつが可愛くないわけじゃない。殺したいわけでもない。
育てられない。俺が育てたら、俺になってしまう。
それが厭だ。
俺は俺だけでいい。
顔が似ている。兄に指摘されなくてもわかる。俺の顔だ。
俺が一番よく知ってる。
「帰っておいでよ」兄が言う。
帰れとは、どこに?
実家に?家に?
それとも。
「悪い。これから」
「そうやって自分を追い詰めれば何とかなるって思ってるんじゃない?」
「おやすみ」
耳から離したときにかすかに聞こえた。
電話は切れない。
「もうちょい、待ってくれないか」
「待てない」兄が怒っている。
珍しい。見たことは、あったかもしれないが遙か昔の出来事で。
なかったかもしれない。
ない。兄は怒らない。怒らない兄が怒っているということは。
「いまから来て」兄が言う。
「会議なんだ」
「どこで、誰と、何を、話し合うの?」
言えない。言えるわけがない。
兄は知っているだろうか。兄嫁には知られているかもしれない。一方的なお節介とはいえ電話をしていた仲だ。
「嘘なの?」兄が言う。
「嘘じゃない。本当だ」
「じゃあ言えるよね」
秘書がちらちらとこちらを見る。もうそんな時間か。帰っていいぞ、という意味で手を振る。子どもが風邪をこじらせたとか。ああ、それは治ったんだったか。
治った。風邪なら治る。こじらせて致命的な病気になりさえしなければ。
よかったな。治って。
何を採るか。
莫迦だった。
一つに絞るだなんて俺らしくもない。
欲しいものはすべて手に入れる。どれか一つに選べるわけがない。
すべて、欲しいのだ。
「そーくん?」兄が催促する。
「お兄様の家で、お兄様とお兄様の奥様と、俺の大事な息子・優輔について話し合う」
それがいい。そうしよう。
さはりは逃げない。いまでなくとも。
必ず、俺のために弾かせる。
「待ってるよ」兄が言う。
第二子だけ日本に置いていった彼女を怨んではいない。第二子まで作らせた俺の責任だ。
よく考えろ。俺と彼女の遺伝子が入ってる。
素質充分。あとは環境。
完璧な師がここにいるじゃないか。
怨んでいるわけがない。感謝している。
よくぞ置いていってくれた。
彼女を打ち負かすことが出来る。
4
乳母にしては可愛すぎるか。俺の好みだからいけない。
素性の明るい人間では困る。出来る限り素性が後ろめたい、抹消したい過去をもつ人間が好ましい。脛の傷が化膿して、歩くこともままならないくらいの。
「子育ての経験は」
「いいえ」女が首を振った。
「ガキは好きか」
「嫌いではありません」
「俺のことどう思う?」
綺麗な眼。
俺とは違う色。彼女とも違う。
「どう思われたいのですか」女が言う。
「質問してるのは俺だ」
「自己中心的ですね」
採用。
そもそも九割合格ラインだった。決定打を確認したかっただけ。
従順なメイドなど欲しくない。
「ピアノは弾けるか」
「お借りしても?」女が言う。
「ああ」
椅子に腰掛けると、音。すべての指を同時に。鍵盤。
女は、滅茶苦茶に弾き始めた。
「もういい」
「ピアノは誰にでも弾けると思います」女が言う。
「そうゆう意味じゃない」
優輔を連れにいったら兄貴にとおせんぼされた。ドアの前に両手を広げて立っている。
そんなことしたところで。
ドアが僅かに開いて、優輔が顔を見せる。
「迎えに来たぞ」優輔に言う。
「説明がまだだよ」兄が言う。
「そいつはお前のじゃねえだろ。どうしようと俺の」
怒鳴ったにもかかわらず、優輔は泣かない。驚いてすらいない。
優輔を盾にして様子を窺っていた狼佑のほうがぐずりだした。
さすがは俺の息子だ。
見かねた兄が狼佑を抱き上げる。
「ちょうどいいだろ。お前らも近々手間が増える」
「あの家は何?」兄が言う。
「こいつの家だ。こいつと俺の家」
「僕らじゃ不満なんだね」
「そうゆうわけじゃねえよ。これ以上お前らの負担になるのが忍びなくなったんだ。俺の息子は俺が責任持って育てる」
「その責任てゆうのが、その辺で拾ってきたわけのわかんない女の人ってこと?」
埒が明かない。なんのために兄嫁がいない隙を狙って訪問したんだか。
「ほら、優輔。行くぞ」
「そんなことをしても何も手に入らないわ」兄嫁が帰ってきた。
もたもたしてたから。
優輔の手を取る。嫌がらない。
まあ当然だろう。
父親は俺だから。
「止めても無駄でしょうから、監察官を派遣します。それでよろしい?」兄嫁が言う。
「ご勝手に」
新居の庭で乳母のエマイユが待っていた。
優輔が自分から挨拶する。丁寧に頭まで下げて。兄貴がしつけておいてくれたのだろう。
翌日に、監察官とやらがやってきた。てっきり男だと思っていたが、兄嫁の古い友人とのこと。
ファッションデザイナ。
確か、どこかで。
「きっしょいことゆわんといて。お口がじょーずなんはお仕事やろか」監察官が言う。
「お前」
「ウチのほうが年上やさかいにな。トルコゆいます。ここ、ええあんばいのインスピレイション沸きそうやわ。あとは、かわいらしゆーくんのお姉さん代わりに」
「ヘレネか」
「歳が歳やろ。もうあかんわ。ウチは引退。まあセンスやら才能やらが抑え切れんで、こうやって隅っこで細々とやっとるわけね」
ヘレネだ。
常々顔が広いとは思っていたが、ご多分に漏れず兄嫁のお知り合いだったとは。
一度だけ観に行ったことがある。一人だけ日本人だったからよく憶えている。背も高い。スタイルも申し分ない。
しかし、内面。思い描いてたのとだいぶ違う。モデルなんかお高く留まって何ぼの。
「けーったいな色しとるんやねえ」
眼鏡を外される。光が乱反射して眩しい。
返せ。
「何分のいくつやろか?」ヘレネもといトルコが俺の眼をのぞき込む。
「ばあさんがドイツ」
「へえ、そか。とにもかくにもよろしゅうな」
変わった奴だった。彼女ともまた違う。さはりは、比べる次元にいないとして。
兄嫁は女帝だが、トルコは。なんだろう。
姉貴。
姉はいないのでイメージだが。
トルコは人の意見を聞かない。言いたいことだけ言ってやりたいことだけやって。その過程にたまたま俺がいるから、視界に入るに過ぎない。
不服ではない。そのなんともいえない不可思議なペースに巻き込まれるのが心地よい。
エマイユもその類だ。ただ、トルコと違うのは、関わったあとなんとも形容しがたい脱力感と疲労感に見舞われるのだが。なんだろう。精気を吸い取られているのかもしれない。
優輔がピアノに関心を持ってくれたのが、なによりの成果。ここに移してよかった。幼稚園なり小学校なりはすでに手を打ってある。
焦る必要はない。俺はすべてを手に入れる。欲しいものはすべて。
「ホンマ、飛ぶ鳥落とす勢いやなあ。鳥が全滅しよるよ」トルコが言う。
トルコの許可が下りたのでモニタを覗き込む。
あまりに奇抜。
トルコは兄嫁に依頼されて、兄の家に勤めるメイドたちの衣装を製作することになった。エマイユはすでに装着済み。
「画一的やつまらんやろ。メイドかてひとりひとり個性があるさかい。その子らに合わせたもん作らへんと」
「一着一着作るのか。は?あすこに何人いると」
「非常勤も含めると半端な数やないな。腕が鳴るえ」
エマイユが紅茶とケーキを運んできた。
俺にではない。トルコの定時おやつ。
「おい、雇い主は俺だぞ」
「ご命令を戴いていませんでしたので」エマイユが言う。
「優輔は」
「お耳が遠いのですか。ピアノを弾いておられます」
トルコがぶっと吹き出す。
「ホンマやそーくん。お耳遠なったん?」
「うるさい。帰る」
「なあ、飛ぶ鳥いななったらどないする? 落とすもんおらんくなったら」
「何の比喩だ」
「何を狙うとるかようわからんけど、ウチはゆーくんの味方やさかい。そのためにここにおるし、そうしとるつもり。せやから、ゆーくんが哀しむようなこと、せんといてくれへんかな」
「それはどうも。監察官殿の貴重なアドバイスを」
「裏口と違う?」
それがなんだ。
入学の方法ぐらいで。
「裏口かて構へんよ。ゆーくんが行きたいとこなら」
「あいつの親は俺だ。口出しするな」
ピアノの音が止まる。さすがに疲れたのかもしれない。
俺がいる間はひっきりなしに弾いている。弾くたびに上手くなる。
当然だ。
俺の息子だし、なにより俺が教えている。
車に乗ろうとしたときに、後ろから声がした。優輔が走ってくる。
「帰るのですか」
「ああ、また来る。次までに完成させとけよ」
「コンクールがあると聞いて」
「出たいのか。あんなの箔付けにもならない。お前の器は国内じゃ狭すぎる。だがな大丈夫。お前は天才だよ。誰よりも上手い。誰よりも上にいける」
そうやって、彼女の鼻を明かしてやる。長男に負けて堪るか。
「頑張れよ」
飛ぶ鳥がいなくなったら。落とすべき、飛んでいる鳥がいなくなったら。探しに行く。
落としたい鳥が飛んでいる空を。
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