混濁た一色た
伏潮朱遺
第1話 われたか割
1
指摘されてああそうかと思う。ペンの持ち方がおかしい。
一般から一本ずれる。中指のペンだこの代わりに薬指の爪が凹んでいる。平らに。爪がでかいほうなので痛くもかゆくもない。人差し指が余って、中指と一緒に親指を押さえつける。中指と薬指と小指が合わさるとなんだか気持ち悪いのだ。
肩を回していたら秘書が気を遣ってマッサージを申し出る。それよりこっちを代わってほしい。面倒なんだ。こうゆう事務処理は。なんのために秘書を雇ってるかわかったものじゃない。使えない。が、癇癪起こして辞めさせるのも寝覚めが悪い。不手際があるわけではないのだ。思う通りに動いてくれないだけで。
今日中に片付くか。片付かなければどうなるか。電話が入る。早くしろと。催促の。
「みんな眠っちゃったよ」予想に反して兄からだった。
「そいつを狙ってた」
「僕が起きてることを見越してそうやって余裕してるんだと思うけど、延ばしたって延びるだけだよ」
用があるなら直接でなくとも。
大体あの爺の言いたいことは想像つく。説教される時間が惜しい。
「今日も?」兄が言う。
「も、てなんだよ。そこは俺の家じゃない」
とっくに兄夫婦の家。赤ん坊がいるから余計に行きたくない。
敬虔な信者でもないのに。輸入品の祭ではしゃぐ。莫迦にしているわけじゃない。イベントごとは儲かるから。最大限利用させてもらう。なんたら商法。
ナガカタさはり。漢字表記は知らない。
遠回しに言えば拾った。落ちていた。所有者はいない。もしいたとしても所有権はカネで買える。幾らつぎ込んでも損にはならない。さはりにはその価値がある。さはりという名前も本名かどうか怪しい。調べさせたが何もわからなかった。何も。
そんなはずはない。偽名だとしてもそう簡単に自己証明は消せない。過去がないのか。或いは消されたのか。本人に尋ねたが曖昧な返答。詰め寄って吐かせてもいいが後々に影響する。いまは信用を売っておく。
さはりが寝ているところを見たことがない。兄は昼夜逆転だがそれとも違う。俺がいない間に寝ているわけでもなさそうだ。眠らなくても生存活動を維持できる体質だとしたらなんとも羨ましい。
また新しい曲だ。壁が防音仕様なので部屋に入らなければ聴こえない。
華奢で綺麗な背中が見えた。
さはりが俺の気配を感じて演奏を止めようとするので、続けろという意味で咳払いした。
「完成か」指が止まったところで話しかける。
さはりが振り返って頭を下げる。おかえりなさい、のつもりだろうか。そのまま、という合図をしたはずだが。
「まだならいい」
「わたしにはあなたが思っているほどの価値は」さはりが言う。俯いたまま。
「俺ごと否定したことになるが」
「そんなつもりでは」
どうせ顔を付き合わせたところで後ろを向いているのと同じ。目線なんか合った試しがない。
壁際のソファに腰掛ける。与えた五線譜を捲る。
真っ白。
「まさかお前」
書き方がわからないんじゃないだろうな。
さはりは申し訳なさそうに頷く。
なるほど道理で。いわゆる現代音楽の枠すらぶち壊すほどの滅茶苦茶な奏法だと。
「同じ曲は二度と弾けないのです。一度弾いたらそれを忘れてしまって。ですから」
「ライヴのほうがいいか」
「それも」
「なんだ」
さはりの眼線が更に下がる。みてくれに自信がない。そういうことだろう。
「ピアノを与えてくださっただけで」
「満足してもらっちゃ困るんだよ。いい頃合いだから言うが、お前は俺に借金してるも同然なんだ。借金は利子付けて返すのが世間の礼儀だろうが。お前の曲は絶対売れる。俺の会社からデヴュさせてやるっつってんだよ。それとも俺の愛人にでもなるか。使いもんになればの話だがな」
信用なんか売れてない。拾ってからもうだいぶ経った。どのくらい経ったか。
数えていない。
穀は潰さないがピアノだ。あまりにカネが掛かりすぎてる。先行投資。対象は誤っていない。方法が荒っぽかった。とも思えない。
苛々する。睡眠時間が不当に削られているせいだ。
さはりは何も言わない。
「おい、ちょっとこれ」手招きした。
さはりがこちらに近づく。呼んだのだから来るのが当然。
五線譜は真っ白。そんなものを見せても。ただ線が五本引いてあるだけのつまらない紙切れ。
さはりが腰を屈めたところでソファに押し倒した。案外抵抗した。やめてください、という口を塞ぎながら上半身を。
疲れているだけだと思いたかった。実際相当疲れている。四方八方からわけのわからない要求を突きつけられて。
自分の眼鏡を外す。裸眼でも変わらない。色だけ修正するために掛けているだけだからまあ予想の範疇。視力は悪くない。俺も悪く。
ない。小さいわけじゃなくて本当にない。心配になって脚の間に手を。
あった
まが痛い。睡眠不足で。
2
彼女と会ったのは、いつだったか。十代のうちに会っていなければ計算が合わない。
わけでもないか。認知はしたが俺の子だという証拠は何もない。養育費云々。いつかは請求されると覚悟しているが。
彼女は、ピアノという手段において首位を競うあらゆる催しの最上位に君臨していた。そのたびに彼女のためにあらゆる賞賛の言葉が使われ、使い尽くされた。もうこれ以上目新しい言葉で彼女を形容することはできない。そんな頃だったと思う。
俺と彼女とさはりは、まったく同じステージでまったく同じピアノを弾いて、結果。彼女だけが栄誉を勝ち取った。はっきり言って、彼女の演奏は一音も記憶にない。さはりの演奏は鮮明に憶えている。負けたと思った。彼女の記録がストップすると確信した。
しかし、結論。あいつらには耳が付いていない。
俺はさはりを探した。
会場を走り回ってようやく。それらしき後姿を見つけたところで、彼女に声を掛けられた。日本語で。
「お上手ですね」
「あなたこそ」彼女が言う。自信に充ち溢れた振る舞いで。
「僕は生まれも育ちも日本ですので」
「奇遇ね。私もよ」
おかげでそれらしき後姿を見失った。が、彼女の泊まっているホテルで彼女から強烈なアプローチを受けた。平たく言えば、恋人からそれ以上。
「よかった。一目惚れって倦厭されるんじゃないかと思ってたから」彼女がベッドの上で言う。
彼女の寝息を10セットほど聞いてからホテルを飛び出す。彼女を見ながら考えていたのはさはりのこと。裏から手を回せばよかった。そうすれば無駄な時間を過ごさずに済んだというのに。
さはりはほどなく見つかった。俺が拾った。
俺が拾ったのだから俺のものだ。どうしようと俺の勝手。使い道だって、カネを稼がせるか傍に置いておくか。そのはずだったがこれは。
どうしたものか。
頭を振って消える幻ならとっくに振っている。なんで気づかなかった。見た目があまりにも。疑問すら生じない領域。初めて会ったときも。
あれ?わからなくなってきた。音は憶えているのに。
音だけか。そうか。俺が憶えているのは。
姿など。
「すまなかった」捲り上げた服を戻して立ち上がる。
ばつが悪い。悪いのはばつ。
やっぱり俺は悪くない。
「紛らわしいんだよ」
「そんなつもりはないんです。わたしは」さはりが言う。
見た目通りだったとでも言うのか。
確かにそうゆう人間はいる。理解はできるが了解が難しい。
近くにいないだけか。例が。そんなにごろごろされても。
「困っているのか」
「何がですか」さはりが眼をぱちくりさせる。
「見た目と中身が違うだろ」
「わたしはわたしの思う通りに見られていますので」
それはそうだ。事実、ものの見事に俺が引っ掛かったんだから。
「変えたいとか、あるのか。カネがないんだろ」
さはりは複雑な表情をする。伝わらなかったか。
「カネがないなら出してやるよ。いい医者も探してやるから」
「どうして」
「先行投資だよ。決まってるだろ。その分含めて」
「違います。わたしはそんなこと望んで」
「遠慮しなくていい。お前にはそれだけの価値がある。何度も言わせるな」
「やめてください」さはりが静かに言う。
わからない。なぜそんな顔でこちらを見るのか。
「そのままじゃどっち道困るだろうが。俺は親切で」
「困るのはあなたでしょう」
なんだその口の利き方は。
「家に帰してください」
「倉庫だろ」
「あなたにとっては倉庫です。けれど、わたしにとっては」
「今夜は冷え込む。風邪引かれたら迷惑なんだよ」
「わたしは」
あなたのためにピアノを弾いてるんじゃない。そう言い放ってさはりは。
部屋を飛び出して行った。防寒具もなしに。
着ていた服を思い出す。思い出せない。あの格好でうろうろしたら一発でくしゃみ。身に付けていたものを思い出している場合じゃない。
逃げられたのだ。追いかけないでどうする。あっという間に見失う。警察に連絡を。
いやいや、そんなおおごとにするわけには。おおごとにしないためには。
自分で探すか。タクシー捉まえている時間が勿体ないので走る。さはりの行きそうなところ。
倉庫。家に帰してください。
やはりタクシーを捉まえよう。
厳密には倉庫ではない。倉庫にしか見えない。ならば倉庫と形容するほかあるまい。
さはりは倉庫の入り口に立ち尽くしていた。当然だ。すでに荷物は運び出してあの部屋にあるのだから。鍵は俺が持っている。いまは持っていない。どこに仕舞ったか。捨てたかもしれない。
ここに戻る必要はない。
「帰るぞ」
さはりは首を振る。こちらを見ない。
寒そうなのでコートを肩にかけた。華奢な肩なのでずり落ちるだろう。
ほら、落ちた。
「戻らないか。寒い」
「もうわたしに構わないで下さい。わたしはあなたの考えているような価値のあるニンゲンではありません」
人間、という語句が不可思議な音に聞こえた。そこだけずっしりと重みを帯びる。
かけて落ちてを繰り返すのでそろそろ苛々してきた。
さはりの前に周ってコートの前を留める。
「価値の有無は俺が決める。価値がない理由を言え。それでもし」
「もし、はありません。お願いです。金輪際お顔を見たくありません」
嫌われたものだ。強引だったとは思わない。少しくらい強引なほうが付いてくる奴は付いていきやすい。眼を瞑っていても目的地に辿り着ける。俺が手を引くのだから。
障害物はすべて叩き壊して均すし、濁流の川には決壊しない丈夫な橋を架ける。何が不満だというのだ。さはりの望みはピアノを弾くことじゃないのか。
「どうしたら帰ってくれる」
「お相手がいると聞きました」さはりが言う。
誰に。秘書か。
いや、あいつにさはりを会わせた憶えはないから。
「部屋入ったろ」俺の。
「お電話が」
「誰から」
固定のほうに掛ける奴は一人しかいない。
兄嫁。
「何聞いた」
「あなたの知っていることはすべて」さはりが言う。
「だからそれはなんだ」
「決まったお相手がいるのに、なぜわたしを」
「お前に関係ない」
「あります。お相手がいるのならわたしはあの部屋にいるわけにいきません。短い間でしたがピアノを弾かせていただいてありが」
とう、じゃねえよ。手放して堪るか。
さはりは俺が見つけた。俺が拾った。所有者が名乗り出ないのだから拾った奴の。
抱きしめた。
「は、なしてく、ださ」さはりは抵抗する。
「戻ると言うまでこうしてる」
寒いのだ。コートを貸したから。代わりに俺が風邪を引いたらどうする。
もしかすると俺が引いたほうが厄介ではないだろうか。さはりは一日中部屋でピアノを弾いているだけだが俺は。確か明日は面倒くさい会議が。飛行機。遥々遠方に。用があるなら向こうが来ればいいのだが。
「戻りますから、あの」さはりが根負けして言う。
コートを返してくれた。俺ががたがた震えているのを気遣ってくれたのだろう。情けない。同情としか思えない。
しかしさはりを連れ戻すことに成功したのでまあとんとん。結果よければ、というやつで。
次の日、起きた瞬間から喉がイガイガした。
とんとんじゃなかった。
3
会議が終わったそのタイミングで呼び出しが来た。とうとう痺れを切らしたらしい。
爺。これからの身の振りについて話があるから。
誰が行くか。早々に俺にぜんぶ押し付けて楽々引退した隠居と違って忙しいんだよ。
ミヤギ・クラヴィア社長の俺は。
「そろそろ観念したほうがいいと思うけど」兄から電話も来た。
「何だよお前まで。お前俺の味方じゃ」
「味方だから言ってるんだよ。おじさんが」
あのエロ爺。
退院した兄嫁が目当てなのは手に取るようにわかるが。そうか。そのついでに。爺が余計な助っ人を。助っ人にすらならないことくらい。
何が狙いだ。
「とにかく絶対だからね。来ないとそーくん」
降ろされる。兄の心配は最もだが。
兄に継がせなかった理由をもう一度よく思い出してみろ。反芻してみろ。
兄にはできない。昼夜逆転云々ではなく兄には向いていない。俺にしかできない。俺が相応しいから俺に任せるべきだった。それをすっかり忘れている。
さはりのところに寄る。通り道のはずがない。迂回させて。
「ただいま」
おかえりなさいではなく微妙な表情を返される。お仕事中では、と喉まで出掛かって呑み込んだ。そんな顔だった。
俺だって喉が痛いんだ。ただいま、の何が悪い。
ここは俺の家だ。
「あの、よろしければ飲まれますか」さはりがキッチンから出てきた。
蜂蜜と酸っぱいにおい。レモンか。
カップにお湯を入れて掻き混ぜる。
「お声がおかしいので」
「悪いな」
味はよくわからなかった。さはりが俺のために作ってくれた。動揺しているせいだろう。
頭が熱い。熱があるのかもしれない。
「ここに置いてもらう代わりにわたしに仕事を与えてくださいませんか」さはりが言う。
「作曲して録音しろ」
「それ以外で」
「そいつが一番俺のためになる。お前にだって悪い話じゃない。プロになりたくなくはないんだろ。こんなチャンス二度と」
「さきほどお電話が」
兄嫁。催促だろう。
いい加減、ケータイ番号を暗唱させようか。
「やはりわたしはここにいるべきではないと」さはりが言う。
「そう言われたのか」
「いいえ、あの方はいつまでもここにいていいと言ってくださいました。とてもありがたいのですが、わたしはあなたの期待に応えられそうもない。一刻も早くここを立ち去りたいのです。しかし、お認めにならないでしょう。わたしが世界の果てまで逃げようともあなたは世界の果てで待ち伏せをしている。そのような無駄な追いかけっこであなたの貴重な時間を奪ってしまうくらいなら」
「いい心掛けだが、あと一歩決定的に足りないものがある。わかるか」
俺はお前のピアノに惚れてる。
「どれだけ素晴らしいか、全世界に知らしめてやりたいんだ。協力してほしい。だから仕事をくれなんて」
宝石は宝石箱に大切に厳重に仕舞って置くためのものではない。
見せびらかすためにあるのだ。
「お相手の方もピアノをお弾きになるのでしょう」さはりが言う。
あいつめ。べらべらと余計なことを。
「その方ではいけないのですか」
「どこまで聞いた」
「あなたの知っていることはすべて」
「だからそれは」
さはりの口が動く。見間違いでなければ。
エイコ。
「あの方に比べたらわたしのピアノなどただの」
「自信がないのはよくわかった。だがな、そう何遍も自己卑下を聞きたくない。お前のピアノを気に入った俺の耳の価値まで下がる。お前の存在に価値がないわけがない。そこまで言うなら根拠を言ってみろよ」
「わたしには」
着信。誰だ。このタイミングで。
ただじゃおかない。
爺め。
「出られたほうが」さはりが言う。
「続き、聞くからな。きちんと説明しろよ」
確かにそろそろ潮時だ。これ以上爺に逆らっていてもいいことがない。そもそも爺にいいことを生成できる能力はないのだが、邪魔だけはされたくない。社長の座はとっくに俺に譲っただろうに。
さはりのなんだかわからない飲み物のおかげで喉のイガイガが和らいできた。帰ったら作り方を教わろう。秘書に作らせる。
兄嫁の家。もとい爺(つまり俺の実父)の隠居先。
錚々たる顔ぶれで応接室に勢揃い。そこは客が座る席だろ。ここはお前らの家なんだから、どちらかといわずとも俺のほうが客だ。
爺と直面。横に爺の兄(つまり俺の伯父)のエロジジイ。のサイドにメイド。そいつは関係ないだろうに。ぬいぐるみか愛玩動物抱いてないと情緒不安定になるタイプか。
離れたところに兄。兄嫁はいなかった。いてもらっても困るがもっと大切なことがある。俺なんかに構っている場合じゃない。
「素性の知れない者を住まわせているようだが」爺が言う。
最初の一言がそれか。切り返す気も失せる。太刀筋が見え見えで。
鈍い。
「わしに知らせもしないでようやるな」エロジジイが言う。
「ご挨拶が遅れました。どうもこの度は、どこぞでお生まれになったかもわからない素性の知れないお孫様がお誕生日を迎えられたようで。いくつになられたのか知る由もありませんがとりあえずおめでとうございます」
メイドの腰をがっしり掴まえていた汚い手が離れる。エロジジイが猫なで声でメイドを退室させると。
殴られた。
兄が反射的に椅子から腰を浮かせるが遮る。手を挙げて。
「あなたがしていることよりは数段マシでキレイな関係ですよ。僕とカノジョは」
さはりの名誉のためにカノジョ、ということにした。どうせ誰も気づいてはいまい。一番近くにいた俺が気づかなかったのだから。
「兄さんを立ち会わせた理由をまだ話してなかったですね」爺が言う。「すみません。手を冷やしてこられては」
「余計なお世話だ」エロジジイが言う。「いちいちそっくりだなこいつは。お前の顔を殴ったと思えば大したことない」
「
エロジジイの弛みきった顔が引き締まる。
せいすけ。
誰だったか。興味がないだけか。
兄が眉を寄せて爺を見遣る。
「こーには話したことがあったかな」爺が言う。
「お父さんのお兄様ですか。二番目の」兄が言う。
「どうせガセだ。あいつは」エロジジイが吐き捨てるように言う。
「私もそうだと思いましたよ」爺が言う。「だが、あまりにも嘘くさい。裏を取らせようにも」
「取り方が悪いんだろ」エロジジイが言う。「それより、どういうことだ」
わけがわからない。爺にはエロジジイという兄貴しかいないはずだが。
まさか隠し子。
「邪推をするでない」エロジジイが言う。「わしの弟だ。おらんことになっとる次男坊だ」
「失踪されたと伺っておりますが」兄が言う。
「それはそうだ。私がそう教えたからな」爺が言う。「自主的にいなくなれば失踪でいいが、そうでないとしたらどうだ」
「おおかた後ろめたいことしやがったんだろ。そこのエロジジイみてえな」
黙っとれ、みたいな眼で睨まれる。
邪推をするなといわれたから積極的に質問したというのに。
「今更、わしらの顔に泥でも塗りに」エロジジイが言う。
「融資の話ですよ、どうやら」爺が言う。
「脅しの間違いだろ」エロジジイが鼻で嗤う。
「そうです。さすがは兄さん」爺が頷く。「融資に見せかけた脅しを仕掛けてきますよ」
「会うたのか」エロジジイが聞く。
「近々そうならざるを得ませんね」爺が言う。「お願いできませんか」
「冗談だろ。なぜわしが」エロジジイが眉を寄せて首を振る。
「ですよね。私も厭なんです」爺が静かに言う。「門前払いで済ませたいのですが、門前払いをさせるには門まで足を踏み入れさせなければいけない。私はそれがとても厭だ。そこで、提案があるんですよ。きっと兄さんも賛成していただけると」
「賛成だ。もういいか」エロジジイが食い気味に言う。
「どうぞ。それだけ聞きたかった」爺が頭を下げる。
エロジジイは至極不機嫌そうにドアを開けた。そのツラを一瞬で取り替えて廊下で待たせてあるメイドに擦り寄っているかと思うとやれやれというか。
ここからが本題。そんな雰囲気だった。
「お前に頼みたい」爺が満を持して言う。
「そいつを条件にカノジョとの暮らしを認めていただけるんでしょーか」
「結果次第だな」爺が言う。
「へいへい。俺が有利になるように揺さぶって」
「逆だ。断れ」爺が首を振る。
「せめて理由くらい聞かせてもらっても」
「お前は知らなくていい」
そして爺までも退室した。
わけがわからないなんてものではない。爺に二人目の兄がいたことすら初耳なのに。
失踪。せっかく融資をしてくれるというのだからご好意に預かればいい。
何が不満なのだ。
存在すら疎ましい。そうゆう態度だったようだが。
「お前は行くなよ」兄貴に牽制した。
「説明するよ。ごめんね。お父さんたちがいる間に注釈入れてあげたかったんだけど」
いないことにされた次男。
「何したんだ」
「わからない」兄が首を振る。「でも相当まずいことしたんだと思うよ。横領とかそうゆうレベルじゃなくて。なんてゆうのかなあ。存在を否定してもなお憎い、くらいの徹底的な」
「なんとかして知れねえかな。気になってきた」
「やめたほうがいいよ。隠してるみたいだし。それこそお父さんたちの機嫌損ねるよ。ただでさえ綱渡りの綱、切れそうなのに」
「失踪ってのは」
「僕が生まれる前だよ。そーくんが生まれなければ僕が継いでたわけだから、そのときのために言ってくれたんだと思うけど。あんまりにも的を射ない。融資を断るだけなら言伝でいいよね。弁護士でも派遣してこれこれこうゆう理由で申し訳ありませんが、で終わりじゃん。僕はすごく厭な予感がするんだ。ねえ、そーくん、いまなら」
「僕には無理です出来ませんカノジョのことはあなたがたのご意向通りに取り計らいますのでどうか、とでもいわせたいのか。莫迦か。こんなチャンス」
存在を抹消された伯父・
会いたい。どんな奴なのか。
「止めても駄目だからな」
「わかってる」兄が言う。「だからせめて僕の忠告は聞いてって。ひとりで行かないで。危ないって感じたら即帰ってきて。好奇心で突っ走らないで」
「最後のは無理だな。わくわくして仕方ねえよ」
「もーまったく。本当に気をつけてね。僕も付いてきたいけど」
泣き声が聞こえた気がした。
「いいから早く行ってやれ」
「ごめん。そーくんは優しいね」
兄に夕食を誘われたが特に食べたくなかった。爺たちと仲良く食卓を囲むのが厭だったからかもしれない。
ポーチに出たところで呼び止められる。
上だ。バルコニ。
兄嫁。
「ちょっと見ない間に男前ね」頬を指さしながら。
「生憎社長なもんで」
頬の湿布。心配性なメイドが手当てしてくれた。
剥がす。どうせ大したことはない。
寒いからさっさと部屋に戻れ、という意味で手を振ったが何か云いたそうな顔をされる。
こちらから訊いてやるか。話題提供。
「ガキは」
「ろーくん」兄嫁が強い口調で言う。ガキの名前だろう。
「その、なんだ、ろーくんとやらは」
「眠ったところよ。会っていってくれないの?」
「寝てんだろ」
「さっきまで起きてたわ。そーくんが顔を見せずに帰るものだから不貞腐れて眠っちゃったのよ」
「そりゃ悪いことした。パパによろしく」
「そーくんもパパでしょ」
ドライバに行き先を告げて眼を瞑る。秘書にスケジュール管理をさせてあるので日付はズレない。不測の事態がない限り。
不測の事態。起こる前にあらゆる事態を想定しておけば不測の事態など存在しない。柔らかい枝は折れにくいのだ。
しかしそれでも、不測の事態。派手に起こってくれて構わない。予想できた未来なんぞ誰が飛び込むものか。
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