ルマルラ

myz

rmrl

「おれ、超能力者になっちゃったかもしれない、って言ったら、ハル、どうする」


 ヒロが突然そんなことを言うので、あたしはすすりかけだったカップのうどんをひとくさり口の中に収め、咀嚼し、その流れでダシのよく染みたジューシーお揚げも一口かじり、前歯の裏あたりの歯肉を果敢にやけどしながら、言った。


「えー、マジー? かなり大爆笑ー、ちょーウけるわ」


 するとさっとヒロの目にガチで失望とかしたふうな色がよぎり、あたしは、やっべ、選択肢ミスったかな、いまのガチでアンサーしないといけなかった系のヤツ?とちょっとだけ焦るが、二日連続で唐突にガッコをブッチしてLINE未読スルーかましてきたヤローの生存確認にわざわざ出向いてやった(コンビニで適当な食いモンも買いだしてきてやった)ツレに向ける言葉としてだいぶ斜め下の球をほおってきやがったのはヒロのほうなので、あたしはノットギルティなのでは?


「つか、のびるよ、ほら」


 と、あたしがテーブルの上のカップのそばを指さすと、ようやくヒロはのろのろ~っとベッドから下り、する~っとあたしの隣に座って、わりばしを手に取った。


………………いただきます


 ぼそぼそ~っとした感じだけどヒロはたしかにそう唱えて、わりばしを割り、カップのフタをめくり、テンプラをそばに乗せる。


 よし。

 ひとまずはよし、とあたしも自分のカップうどんに向き直る。


 つか、ここまでくるのがわりと大変だったのだ。


 LINEは未読スルーが溜まってくばっかだし、フツーの電話にも出ないし、アパートの呼び鈴連打してもぜんぜん返事ないし、さすがにあたしもこれはちょっとアレなのではないか?なんかのビョーキで倒れてる系のヤツなのでは?と本格的にちょっと心配になって部屋に突入すると、ベッドの上で布団ひっかぶってダンゴムシのようにまるまってるヒロ(推定)がいた。

 あたしはとりあえず、おーい、ヒロー、死んでるかー?と呼んでみたが返事がない。やっぱりちょっと本格的にダメなんじゃないか?と不安になって実力行使に出ると、あろうことか布団をつかんでガチめに抵抗する。あ、クソ、こいつ起きてるぞ、ということでしばらく謎のつなひき大会を行った結果、勝利はこのあたしの手に握られ、ぶあつい冬物かけ布団(このクッソ暑い中)がはぎとられると、それでもヒロはしばらくダンゴムシを続けようとしたが、やがて観念したのかなんかふんぎりがついたのかじわ~っと人間のかたちになった。

 思ったよりか元気そうであたしはちょい安心したけど、でもヒロはじみに憔悴してる感じで、血走った目で宙を見つめてだま~っている。脚も神妙に正座だ。

 さて、どうするべ、と思う。ひとまず病気とかじゃなさそうだけど、なんかこう、いっぱいいっぱいな感じ。ヒロはつねにわりといっぱいいっぱいなところがあるが、今日は格段にいっぱいいっぱいっぽい。

 まあ、でも、とりあえずメシ食えばどうにかなるんじゃね?と短絡的に考えたあたしは、勝手にキッチンを拝借してコンビニで買ってきたうどんとそばにお湯を入れた。


 そこからの流れである。


 その流れでのヒロの第一声が「おれ、エスパーになっちゃったかも(テヘペロ)」だったわけで、キレずに受け流したあたしのムーヴはもうちょいほめられていい。えらかったぞ、あたし。


 そうしてあたしたちはしばらくずるずるもそもそとカップのうどんとそばを啜る。その合間に、あたしは一応たずねてみる。


「で、なんの能力」

「……」

「なったんでしょ、チョーノーリョクシャ」


 ヒロはわりばしをカップのヘリに置く。とりわけ鹿爪らしい顔で、言った。


「……なんでもかなえちゃう能力」

「えっ、じゃあ、いちおくまんえんちょーだい」


 コンマ1秒以下の逡巡を経て発されたあたしのクレクレ発言に、ヒロの目がマジ残念そうに伏せられる。


「それは、ムリ……」

「ダメじゃん」


 なんでもじゃないじゃん。


「ほら、わけわかんないこと言ってないで食った食った」


 あたしがハシをとる。ヒロもハシをとる。

 またしばらく、ただただうどんとそばを啜る、あたしたち。

 ずるずるもそもそ、ずるずるもそもそ。


「で、なんか関係あんの」

「……え?」

「ガッコこないし、LINEも既読つかないし、電話でないし」

「……ごめん」

「お、シュショーな態度、非常によろしい」

「でも、ほんとなんだ」

「え」


 えっ、その話、まだ続けるの?

 あたしがじみに困惑していると、ヒロはヤクのキれたユアン・マクレガー(トレインスポッティングのときのやつ)の目つきで、続ける。


「ほんとにかなっちゃうんだ」

「へえ」

「おれが外に出たら大変なことになるんだ」

「あー」


 まー、ほんとになんでもかなっちゃうんだったら、日本がいちおくまんえんに埋もれて沈没しちゃうね。たいへんだね。へー。


「べつにいーじゃん」

「……え?」

「拒否ればいーじゃん、断固」

「あふれちゃうんだ」

「え」

「コップの水があふれる感じなんだ」

「あー」

「自分でもコントロールできないんだ」


 おっ、きたよ、中二設定。この、オレの左手のキズに封じられたジゴクの炎が、こう、暴れだしそうだ!みたいな、そういうの、そろそろ卒業したほうがいいと思うよ、あたしは、うん。


「じゃー、ヒロキくんは人にお願いされるとなんでもかなえちゃうマンになっちゃってこのままじゃ世界のインフレが超加速して諭吉に埋もれてメツボーしちゃうからおとなしくひきこもってたってそゆこと?」


 あたしがおおよそかいつまむと、ヒロがコクリと頷く。


「え、じゃあだからちょーだい、いちおくまんえん」


 ほら、だれの願いごとでももれなくモリっとかなえちゃうマンなんでしょ? さあ、出せ、はやく、出せよ、というかそれもうあたしのもんだよね? 返せよあたしのいちおくまんえん! あ、リッケンバッカーでもいーよ、あたし19万も持ってないけど。


「……できないんだ」

「え」

「ハルだけは無理なんだ」

「えぇ~」


 かーっ、マジつっかえねえなコイツ! なにそれあたし以外の願いごとなんでもかなえちゃうマンって、あたしのメリットゼロじゃん。そこはむしろあたしの願いごとだけなんでもかなえちゃうマンになるもんなんじゃないの? かーっ。つきあい甲斐がねえーっ。


 そもそもなんでつきあってるんだろ?


 そもそもこれはつきあってるんだろうか? とちょいちょい思う。

 そもそも事の起こりは小2の夏、ヒロんちが三軒隣くらいに引っ越してきたとこで、なし崩し的にあたしとヒロの通学路が同じになった。

 あたしのセイブツガク的遺伝子の半分をもともと持ってたヒトはあたしよりも新たな別の遺伝子の半分を持ってるヒトのことのほうが大事な人だったので、あたしにできる最大限のオヤコーコーはあたしがウチにいる時間を最小限に減らすことだったから、あたしは朝起きて顔を洗うと新聞配達のオニーサンと微妙にすれ違うぐらいの時間に家を出る。

 朝の街は好きだ。冬がいいな。空気がしんと張り詰めて冷たい。けど、まだ明けきらない東の空の太陽に、自分の中のあたたかいものが共鳴して鳴り始める。世界に開かれていくカンジがする。

 からっぽの街は、世界が自分のものになったみたい。朝焼けの雲。電線で休む鳥の影。まだシャッターの閉まった通り。音を立てずに通り過ぎてゆく野良ネコ。みんな、みんな、あたしのものだ。そう心の中で叫ぶ。

 ただ、王様の時間は短い。人生は短く、通学路もまたあんま長くない。

 あたしは閉め切られた校門の前にじぃっと立ち尽くして、最初のセンセーをただただ待つ。

 その日もそうなるはずだった。

 うちを出たときに、あたしは視界に見慣れない小さな人影があることにきづいた。

 ヒロはやせっぽちのオトコのコで、このときはまだあたしのほうが背も高かった。

 ストレートに言って、うざってーな、って思った。


「……ハル」


 しかもそのうち消えるかなと思ってたら、とぼとぼあたしのあとをついてくる。結局校門までいっしょに来てしまい、なんとなく校門を挟んで右と左の塀に背中を預けたポジションで落ち着いてしまった。

 あたしのイラダチはマックスだった。


「ハル」


 朝の街はあたしのもんだし、そこを陰気なツラしたガキにちょろちょろされるのは我慢ならなかったし、あたしもやはり陰気なガキだったわけだけど、そういうガキがしばらくになれる貴重な朝の時間を奪われるのははっきり言ってボートク的だったし「ハル」

「えっ」


 気づけばヒロがあたしのほうをじっと見つめている。こころなしか、というか、スネてる顔をする。


「……ハル、いま昔のこと思い出してただろ」

「あー、ごめん」


 だって、えーと……なにしてたんだっけ? あ、そうそう、ヒロの能力(笑)があんまりにも斜め下だったもんでその虚無さに思考をトバしてたんだった。

 でもやっぱヒドくない? あたし限定でナシって。それもうなんかのいやがらせじゃない? あたしはフカク傷つきました。バイショーをセイキューします!


「昔のことは覚えてるんだ……」

「え」


 ヒロがゆら~っと立ち上がる。なぜかヒロはあたしよりもフカク傷ついた目をしている。


「じゃあ、どうやったら思い出すんだ……?」


 ヒロはブツブツと呟きながら、クロゼットの戸を引き、中から一本、ベルトを取り出す。


「いや、思い出さないほうが……」


 ブツブツと呟きながらベルトの金具を使って輪を作り、反対の端で器用に結び目を作ってもうひとつ輪を作る。


「そっちのほうが――成功する」


 その片側をドアノブに引っかけ、もう一方を首に回し、グッと体重を「なにやってんだテメェええええッ!!」


 あたしはヒロにとびかかると、ヒロの首にかかったベルトをひきちぎり、おさまりがつかずに胸倉つかみ上げてベッドのほうにぶん投げた。

 ばぅん、とベッドの上でバウンドしたヒロはしばらく呆然としてた感じだったけど、そのうちじわじわとまたダンゴムシのポーズになった。


「やっぱりだ……」


 ベソベソ泣きだしながら言う。


「やっぱり、ハルがおれのこと死なせてくれない……」

「ッたりめェだバーカ!! 死ぬならあたしのいないとこで勝手に死ね!! このボケ!! カス!! このっ……!! バァーカッ!!」

「そうしようとしたんだ」

「あぁ!?」

「飢え死にならいけるかなと思ったんだ」

「はぁ!?」

「だけどやっぱりハルが来た」


 ヒロがテーブルの上をさす。


「おれにカップめんを食べさせに来た」

「わけわかんねェわ! たまたまだろがそんなもん!」


 人を自分専用のレスキューサービスにしてんじゃねえよ!


「ハル、まだ思い出さないのか?」

「しらねぇよ!」

「ハル、ふつうの人は素手でベルトをちぎったりできない」


 マジメくさった調子でヒロが言う。


「おれをベッドまで片手で投げ飛ばしたりもできない」

「んなもん! アレだろ!? その……」


 火事場のバカ力的なアレだろ?

 たしかに言われてみたらわれながらちょっとヒくけど、夢中でやれちゃったんだからしょうがねえだろ? なぁ?


「じゃあ、ハルはどうやっておれの部屋に入ってきた」


 のっそりと身を起こしながら、ヒロが言う。


「そりゃ、合鍵で……」

「ドアにはチェーンもかかってた」


 ヒロはいつのまにか、眠れなくなったクリスチャン・ベール(マシニストのときのやつ)の目つきになっている。


「おれは開けてない」


 あたしは部屋から飛び出すと、玄関ドアのノブに縋りつく。

 がちゃり、と冷たい音がする。カギは閉まっている。チェーンもかかっている。


「……あれ?」


 脳ミソがグラリと揺れる感覚がする。


「どうやって入ってきたんだ、ハル」


 背後からヒロの声がして、あたしは思わず肩を跳ねさせる。

 いつのまにかそろりとあたしの後ろまで近寄っていたヒロが、玄関のドアを指さしながら、訊く。


「どうやったんだ」

「はは」


 われながらサイコーに空々しい、はは、が出て、唇の端に引っかかってユラユラ揺れる。


「か、勘違いでしょ? チェーンかかってなかったよ?」


 あたしはなぜか、自分でも1ミリも信じてない言い訳を始める。


「あたしが入って、それで、ブヨージンだし、ちゃんとかけてあげたんだって」


 昔の記憶はいくらでも鮮やかに思い出せる。鮮やかなクソだ。クソみたいな思い出ばかりクソみたいにあたしの中に詰まってる。

 なのに、今日ヒロのアパートに入った、そのシーンを思い出すことが、あたしにはどうしても、できない。


「ほら、ハル」


 ヒロの指が玄関のコンクリートをさす。


「今日、靴はなにを履いてきた」


 見下ろすと、狭い玄関にあるのはヒロのくたびれたスニーカーが一足きりだ。

 あたしは今日、なにを履いてきた? ローファー? パンプス? ブーツ? そういうお気に入りのイロイロのことははっきりと思いだせるのに、ここにそのどれがあるのが正しいのか、あたしにはわからない。


 わからない。わからない。わからない。


 頭のグラグラが限界を突き抜けて、あたしはキッチンの床にへたり込む。


「カップのうどんもそばも、どうやって作ったんだ」


 ヒロの声が水の膜をとおしたようにくぐもって聞こえる。


「水も電気ももうとっくに止まってるんだ」


 深海の水の向こうで、ヒロがシンクの蛇口をデタラメに回したり(水は一滴も出ない)、壁のスイッチをパチパチ鳴らしたり(部屋の電気はつかない)する。あたしはそれを、ただ呆然と見てる。


「ほら、ハル」


 ヒロの筋ばった手が、あたしの腕をつかむ。


「ちょっと、やめて、いたい」


 ヒロに引きずられるように部屋に戻ると、カーテンの閉まった掃き出し窓の前で手がはなされる。


「ハル、外はもうこんななんだ」


 ヒロが、カーテンを開ける。


 街は、燃えている。

 至るところから煙が立ち昇り、垂れこめた雲が炎を照り返して不気味に赤く光っている。

 その向こう、地平線を圧するように、巨大な人影が見渡す限り並び立ち、肩をそびやかしながら行進してくる。


 ありふれた滅びの光景。


「なにこれ……」


 あたしは呆然と呟く。


「だって、そんなはず、ない」


 そんなはず、あるわけがない。

 今日もだらだらガッコの授業を受けて、帰りにコンビニによって、ヒロのお見舞いに来ただけだ。

 なのに、こんなのは、おかしい。


「ハル、学校なんてもうないんだ」


 聞き分けのない子供を諭すときのように、ヒロが言う。


「コンビニももうやってない」


 あたしを見下ろすヒロの顔は深い陰影の中に沈んで、見えない。


「こないだ


 でも、ヒロに静かに言われると、そっか、という気がした。


「ヒロ」

「うん」

「あたし、どうしたの?」

「ハルは多分、ついさっきキッチンの空中からじわっと出てきたんだよ」

「あぁ」


 あたしはヒロのアパートのキッチンの空間からなにくわぬ顔で出現し、カップのうどんとそばにお湯を入れる自分の姿を想像する。

 わりとアリなんじゃないかと思った。


「だれかがヒロに、そうお願いしたの?」


 あたしの問いに、ヒロはすこし考える素振りをする。


「きっかけは、ハルだったんだ」


 遠くを見ながら、言う。


「学校の帰り、駅のホームで、近くにいたおじさんが刃物を振り回しはじめた。刺されたおばさんがうずくまってる。おじさんとおれの目が合ったのがわかった。腰だめに包丁を構えたおじさんが、なにかを叫びながらおれのほうに突っ込んでくる。死ぬんだと思った。わりとそんなもんかって思った。でも、死ななかった。ハルがおれをかばってくれたんだ。おれを突き飛ばしたハルがかわりに刺された」


 グラグラと揺れる頭の中から、ないはずの記憶が浮かび上がってくる。


 刺された瞬間の、焼けつくような傷の熱さ。逃げ惑う雑踏の中で、ヒロはあたしを抱き起して、ずっと名前を呼んでてくれたこと。傷の熱とは裏腹に、急激に冷えていく体の感覚。

 「ヒロ、手ぇ握っててくれない……なんかすげー寒い……」そう言うと、ヒロの大きな手が、あたしの手を包みこんでくれる――


「そのときなんだ。はじめてのは」


 映し出される記憶がダブルスクリーンになる。

 あたしの顔を覗き込む泣きだしそうなヒロの顔が、段々ぼやけていく。

 人並みを掻き分けたもうひとつの視点が、ヒロと抱きかかえられたあたしの姿を捉える。


「声にはその人の『願望』が乗ってるんだ」

「願望?」

「言葉にはならなくても、ああしたい、こうしたい、それがほしい、これもほしい、とか、そういうのが声には乗っかってて、おれはそういうのがわかるようになった。おれの中にそういうのがどんどん溜まっていって、あふれると、そのお願いごとをかなえてくれるようなが世界に滲み出てくる。多分、そういう能力なんだ」


 ヒロがあたしの目をまっすぐに見る。


「ハルは最後に、おれといっしょにいたい、って願ってくれた。だから次のハルが来たんだ。おれとハルがいつまでもいっしょにいられるように。一人目のハルのお願いごとをかなえるために」


 二重映しになった記憶の映像の一方がぼんやりと霞み、暗転する。もうひとつの映像に急速にピントがあって、ヒロの背中と血の気の失せたあたしの顔が大映しになる。「え?」二番目のあたしが間抜けな声を上げる。


「通報で来た警察の人は、双子だと思ったみたいだった。当然だよな。どんなに説明してもわかってもらえるわけがない。でも、どんな記録を調べてもハルはハルだったし、いろいろ検査してみても、死んだハルと生きてるハルは完全に同じ人間だっていう結果しか出なかった。死んだハルと生きてるハルのどっちが本当のハルなのか、だれにもわからなかった。結局、おばさんは生きてるハルを受け入れることにした。死んだハルは多分、身元不明の遺体ってことになって、焼かれて、無縁仏にでもされたのかもしれないけど、そこまではおれもしらない。そういうゴタゴタでハルはしばらく休んでたけど、出てきたハルは本当にハルのまんまだったから、おれもあれは変な夢だったのかもしれないって思うようになってた」


 ヒロの表情がさっと曇る。


「だけど、おれの能力は、ハルを生き返らせてくれただけで終わりじゃなかった。ハルのお願いごとはただのトリガーで、おれがなんでもかなえられるようになったことは変わらなかった」


 罅割れた三日月みたいな笑み。


「みんながなにを願ってるのか、全部わかるんだ。言葉ではどんなきれいなことを言ってても、裏ではどう思ってるのか、全部わかる。そういうのがおれの中にすこしずつ溜まって、いつかあふれる」


 細くて長い息。


「最初のうちはうまくやってたんだ。あふれる前にコップを倒してやればいい、ってことにも気づいた。そうしてやると、願いごとのなりそこないみたいな弱い幻が生まれて、すぐに消えてしまうだけだってことに。そうやって、やり過ごしていけばいい。なんとかなるかもしれない、って、そのときおれは本当にそう思ってたんだ。でも、ダメだった」


 なにか忌々しいことを口にするみたいに、ヒロが言い淀む。


「『噂』を聞いたんだ」

「ウワサ?」

「べつに、他愛もない話なんだ。二年の先輩と1組のあの子がつきあってるらしい、とか、そういうどこにでもある話……」


 ヒロの視線が、グラグラとゆれる。

 

「でも、それを聞いたとき、それに乗っかった願望が、一気におれの中に入ってきて、あふれるのがわかった」


 息遣いが乱れる。速くて浅い呼吸。


「噂は願望を増幅する回路なんだ」


 でも、奇妙に淡々と、確信めいた調子で、ヒロは言った。


「それを話してた子の願望だけじゃない。今までその噂を伝えてきたすべての人の願望を乗せて、拡散して、増殖していくものが噂なんだ」


 ヒロは見えないなにかを、懸命ににらみつける。


「だから、おれは部屋から出ちゃいけない。世界をぶち壊せるだけの願望を乗せた噂がおれのところまでやってきたら、おれは世界を徹底的にぶち壊す怪物を生み出すんだ。容赦なく、自動的に。そうなる前に、おれは死ななくちゃいけなかったんだ」


 だが、ふいにヒロの目が伏せられる。ぴぃんと張り詰めてた気配の糸が、ぷつっと切れる。


「でも、全部ダメだった」


 魂ごと吐き出してしまうようなため息。


「さっきも、首を吊ろうとしたらハルに止められた」


 これはついさっきの記憶。あたしはジャングルの王者ターザンのともだちのゴリラになって、ヒロの首にかかったベルトを引きちぎる。


「ビルの屋上から飛び降りたときは、スーパーマンみたいに空を飛んできたハルに助けられた」


 鮮烈な記憶のフラッシュバック。地上100メートルのビルの屋上から飛び降りるヒロの姿を、あたしは地上からピンスポットで補足して、「あ、ヒロだ」と間抜けなことを思う。そして突如自分の身長の150倍跳ねるとかいうノミめいたジャンプ力を発揮する。落下中のヒロをキャッチして、ガチこわばって死んでる表情のヒロの顔をのぞきこみ、「え、ちょっと、びっくりするわ、なにしてんの?」とヨユーかました次の瞬間、つま先から着地して地上100メートル分の落下衝撃をヒロを抱えてる胸元あたりまででズタボロで相殺しながら生きたエアバッグとしての役目を果たして血反吐を吐いてあたしは死ぬ。視界がブラックアウトする。


「部屋で練炭を炊いたこともある」


 次のフラッシュバック。ブルース・リーばりのカンフーキックでドアをぶち破ったあたしは、部屋の中央で赤々と練炭を燃やす七輪を掴み上げ、ヒロの頭越しにミッチリ目張りされたガラス窓に向かってぶん投げる。ガシャーン!! ストライク!!


「違う洗剤を混ぜたことだって」


 フラッシュバック。いままさに二番目の洗剤を注ぎ入れようとされていたバケツをかっさらい、流れるようなエルボーで粉砕した窓から放り出すあたし。


「睡眠剤を致死量までオーバードーズしたことも」


 フラッシュバック。キッチンからひっぱってきたホースをヒロの口に突っ込み、蛇口を全開にするあたし。


「全部ハルに止められた」


 エトセトラ、エトセトラ――

 心なしか恨み節のきいたじとっとした視線をヒロに向けられながら、あたしの中ではさらにいくつもの、いくつもの数え切れないヒロの自殺阻止シーンの記憶が去来し、飽和し、ゲシュタルト崩壊して混ざり合う。


「おれといっしょにいるっていうのがハルの願いごとだから。おれが死なないようにするためなら、ハルはなんだってできる。そういうふうに


 ヒロの指が、地平線を埋める巨大な人影のほうを指す。


「今回は多分、あれをぶっ倒すためにハルは来たんだ」

「あれ?」


 あたしは思わずヒロと同じほうを指さして、次に自分の顔を指す。


「あたしが?」


 ヒロがしかめっ面で頷く。


「いや、ムリムリムリムリ」


 あたしエヴァじゃねえし。旧劇の弐号機みたいに量産機をちぎっては投げちぎっては投げとかできねえし。

 とかなんとかやってると、巨人の影のなんか口らへんからビュオンと光が瞬く。


「えっ、ちょっと、ちょい待って、ちょい」


 あたしが思わず片手を突き出してちょっと待ってタンマタンマのポーズを取ったのと、まっぶしい光の奔流が直撃したのがほぼ同時だった。


「うおおおおおおおおおおおおお」


 すると、あたしの手からなんかビームを弾く光のバリアー的ななんかが展開して、あたしと、その後ろのヒロがいるあたりをうまいことよけてなんかビームが通り過ぎてゆく。

 その流れが途絶えたのを確認して、あたしはほっと息をついてかざしてた手を下ろす。

 その手のひらをマジマジと見つめてみるが、傷ひとつない。すげーな、人体。


「ほら、なんでもなかった」


 ヒロはそう言うけど、あたしがビームを防いだ後ろあたり以外の建物はごっそり抉られていて、多分アヴァンギャルドな立体作品みたいになってる。も一発撃たれたらどうなるかわかんないし、もしなんかあってヒロがなんかアレしちゃうのもあたしは嫌なので、あたしはやっぱりあのデッカイのボコらないとダメかー、と緩く決意する。

 ともかく、アイツらをぶっちめる、ということでイメージすると、あたしの体はパタパタと指先から順番に折り曲げられていって、グルグルとあたしという実体が圧縮されて、それが限界に達するとまた世界に向けて展開されていく。展開は元々のあたしの境界を超えて拡がり、ヒロの部屋のアパートの三階をフラットな視点で見られるぐらいのスケール感に達して、完全に拡がりきったネオ・あたしが出現する。スポーン、と後頭部から視点がすっぽ抜けて、その光景をあたしはサード・パーソン・ビューで眺める。流線形と鋭いエッジが共存するクールなデザイン。飛び出した視点でその雄姿をじっくりモニタリングして、ほれぼれと嘆息すると、ブシューとあたしの口らしいところから蒸気が噴き出し、余計テンションの上がったあたしはおもむろに巨人どもに襲いかかる。


 決戦の経緯は、さほど重大ではない。


 結果として、あたしは今日もヒロの部屋に入り浸っている。

 この世界には多分もう、ひとりの人間と、人間っぽいものが一体、いるだけだ。

 きっと、それで十分で、あたしたちは今日もカップのうどんとそばをすすって、前歯の裏をやけどする。

 空は快晴。

 もうすぐ、夏が終わる。

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