ポスト・ワールド・シネマ

久山橙

ポスト・ワールド・シネマ

 古い映画館に行ってみたい。事の発端はそこから始まる。


「これは入りにくいぞぉ……」映画館の出入口周辺には手描きの映画看板がびっしりと立ち並ぶ。なかには桃色言語満載のポルノ映画のものも。破壊力の高い淫語は達筆で連なることで破壊力をさらに高められ、看板に描かれた全裸の女性は扇情的な表情でこちらを見つめている。

「こいつが白昼夢ってやつかいな……」などと嘯いていると、後方で怒鳴り声。身構え振り返ると、カップ酒片手に往来をふらふらと歩く老人が看板の前で立ち止まり、それに描かれていた兵隊になにごとか怒鳴っていた。


 まだまだ寒い三月の中頃、私はその映画館を訪ねた。出入口の券売機でチケットを買う。三本立て大人千円。安い。館内に入るとすぐに番台と売店があり、そこで店員にチケットをもぎってもらう。通路の壁は一面赤色で、ところどころ塗装が剥がれていた。通路と劇場内を隔てる厚い扉は革張り。そんな館内の様子は、建物が経てきた短くない時間を感じさせた。

 

 館内出入り口の通路奥ある「女子更衣室」を除けば……


 私はさっそく場内へ。入ってすぐのところに踊り場のような空間がある。午前にも関わらず場内にはそれなりに人が入っており、客層の多くは男性。

 踊り場から場内全体を見遣る。なかには女性もちらほら。踊り場には立ち見客が何人かいた。

「満席じゃないのに……」と彼らを不思議に思いつつ、私は最前列から三番目の席に腰掛けた。


 十分ほど映画を観たところで映画館の雰囲気にも、場内の暗闇にも慣れてきた私は、先ほどまで気付かなかったいろんなものに気付き始める。


・異様に人の出入りが多いこと。つまり、場内の暗闇が全く担保されていない。

・上映中にも関わらず場内を歩き回る人があまりにも多いこと。

・なかにはスクリーンの前を横切る人もいた。

・館内のあちこちでなんだか水っぽい音がする。

・それはすさまじい臨場感で私の聴覚を刺激した。


 映画も佳境に差し掛かったころ、スーツを着た老人とアザラシが二足歩行を始めたよう体型の男性の二人組が最前列に座った。彼らは座ると同時にディープキスを始めた。最前列ゆえ、その光景はスクリーンの光で非常に鮮明だった。映画のなかから飛び出してきたような、しかし私と同じ現実空間で起こる鮮烈な出来事。

 そういえば、フレンチキスって響きがかわいいけれど、それが意味するものってディープキスと同義なんだよな、なんてことを思い出した。


 そんな光景を眼球から脳へ供給した私は、どちらが映画なのかわからなくなった。リアルな質感の湿った音が私の耳の穴から私の狼狽を目指し、「ぬっぽぬっぽ」とどんどん行進してきている。キャパオーバー寸前の私は、既に映画の内容など露ほども入ってこない。

 不意に隣から強烈なにおい。私の二つ隣に座る女性がスルメを食べていた。間髪入れずに缶ビールを呷る。彼女と少し視線が合い、そして私は気付く。

 彼女は女装した男性だった。場内を歩き回る客の一人が彼女もとい彼のすぐそばで立ち止まる。数度ボディランゲージを交わしたあと二人は手を繋ぎ場内を出て行った。


 私はだんだんと自分の鼓動の早くなるのを感じている。暗闇はしっかりと非日常を担保している。このままでは呑まれてしまう。やれ、こうなったなら現実逃避だ。そも、映画館で現実を見据えるとは何事か。映画を観ろ愚か者。

 狼狽える感情を叱責、仕切り直し、そして私はスクリーンに集中する。

 しかし、そうすると否が応でも先ほどのカップルに目が行く。先ほどまでいたスーツの老人の姿が見えない。よく見ると、太った男性の両足の間で何かが上下に弾んでいる。綺麗にまとめられた白髪がスクリーンの光を吸い、ヒカリゴケのように発光していた。それは正しいリズムでピストン運動を続ける。


「あっ、これあかんやつや」


 私はここからの脱出を決意する。この決心、もはや映画だ。最前列のカップルは当たり前のように本番に移行していた。ダイナミックな騎乗位。白髪の老人の若々しい腰使い。マグロ受けのアザラシ。私は、法とは何かを自らに問うていた。毒杯を呷りそれでも法の重要性を訴えたソクラテスに思いを馳せる。いや、馳せない。そんな余裕はもはやどこにもなかった。


 ——すとん


 私の身体が一瞬で強張る。心臓が荒れ狂う。私のすぐ隣の席に坊主頭の男性が座った。彼はなぜかこちらを見、微笑んでいる。死んだふりは通用しそうにない。


「あ、終わった」


 走馬灯は巡らない。私の頭のなかは真っ白だった。男性はいつのまにか私の肩に綺麗な坊主頭を預けている。私の肩を男性の頭髪がちくりと刺す。うむ。俺もここまでか。


 ——ぴたっ


 太ももに電撃が走る。私は反射で男性の手を払い除け、その勢いで座席を立ち、場内を出た。革張りの厚い扉は羽毛のように軽かった。私は身体中に力が入っていた。立ち見客の視線が私の背中に刺さっているような気がした。


 時間は正午を少し過ぎていた。客がひっきりなしに出入りし、出入り口のチケットもぎりがニコニコと忙しく働いていた。私は気持ちを落ち着けようと通路で煙草を一本吸った。

 デパートの紙袋を提げた男性が通路奥の女子更衣室に入っていった。数分後、女装した姿で女子更衣室から出てきた男性は間髪入れず場内へ消えていった。

 煙草を吸い終え、私はそのまま出入口へ向かった。横目でちらりと売店を見る。パンフレットの類は一切なく、スーパーで市販されているような菓子が申し訳程度に陳列されていた。その隣にはピラミッド型に積まれたポケットティッシュの山。


「公認じゃねえか……」


 帰路、狐につままれたような浮遊感のなか、私は寒空にそびえる通天閣を見上げた。それはいつもと変わらない新世界のシンボルだった。

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