花の音

里内和也

花の音

 桜の木の下で、男がラジオを聴いている。

 白いものが混じった髪やひげも、しわがいくらか刻まれた肌も、男がすでに初老に差しかかっていることを告げていた。あぐらをかいてみきに寄りかからせているその体のかたわらには、小型ラジオが置かれている。一見、頭上から舞い落ちてくる花びらを眺めているようだが、実のところは何も見ていないのではないかと思われた。心は目の前の物ではなく、ラジオにだけ向けられているに違いない。

 男はこちらに気づき、ふっと目元をゆるめた。私は歩み寄りながら、気になっていたことをたずねた。

「聴こえますか?」

「いやあ、駄目だね。昔はもっと聴こえたんだが」

 予想通りの答えだった。さらに歩を進めると、ラジオから流れている音が私の耳にも届いた。どしゃ降りをいくつも集めたような、あるいは急流の川のような音。ひと言で言えば――雑音。

 私は男の横に腰を下ろした。男は視線を中空ちゅうくうに向けたまま、

「花見ですか?」

「まあ、そんなところです」

 散歩中に公園の前を通りかかった時、奥まった所に桜の大木があることをふと思い出し、ふらりと立ち寄っただけではあるが、これも花見といえば花見だろう。一度ぐらい今年の桜をじっくり見ておきたい、という思いは確かなのだから。

 具体的な樹齢は知らないが、この桜は人の年齢で言えば、すでに老齢だろう。それでもなお、今をさかりと咲き誇る姿は、りんとした力強さを感じさせる。

 男はラジオに目を落とし、ぽつりとつぶやいた。

「よくわかりましたね、これがラジオだと」

 その眼差まなざしにも、穏やかな声にも、いつくしみがにじんでいる。

 ラジオは相変わらず、どしゃ降りの音だけを放っている。

 私は少し考えてから、

「少し、たずさわっていたことがあるんです」

 とだけ答えた。さらに詳しく聞かれるかと身構えていたが、男はただ、「そうですか」としか言わなかった。

 私はラジオに手を伸ばし、チューニングのダイヤルをゆっくり回した。端から端まで、回せるだけ回しても、どしゃ降りの音は何ら変化を見せなかった。

 花びらが一枚、木漏こもれ日を受け止めながら舞い落ち、アンテナをかすめて着地した。

 男の目には、何が映っているのだろう。公園を眺めているような姿勢で、もっとずっと別の何かを見ているに違いない。

 私はそっと立ち上がり、差し出がましいとは思いつつも言ってみた。

「もっとたくさん桜が咲いているところもありますよ」

「いや、ここがいいんですよ」

 予想通りの答え。身じろぎもせず、やんわりと返されては、私にできることは何もない。

 そのまま去ろうとする私を、男が呼び止めた。

「君の声に、聞き覚えがある」

 私は顔だけ振り向かせた。

「お会いしたことはないはずですよ」

「会ったことはない。だが声は、耳が覚えている」

 花びらが一枚、私と男の間に舞い落ちた。男の目は、ひたと私に注がれている。答えを探ろうとするかのように。

 それをかわして、私は軽く微笑ほほえんだ。

「どこにでもいる、珍しくもない声ですよ」

 今度こそ本当に歩き出し、あとはもう、振り返らなかった。

 公園の中央まで来ると、時計が目に留まった。ポールの先に円盤型のアナログ時計がついていて、少々遠くからでも時間がわかる。ちょうど十一時を差そうとしていた。

 胸の奥が、ざわついた。

 こんなところでのんびりしていてはいけないと、かす声が己の内側でわき起こる。

 この時間にスタジオ入りしている必要はない。マイクに向かってしゃべらなくてもいい――頭で考えて、自分に言い聞かせると、次第に心は静まった。

 番組の始まりを告げるBGMが、耳によみがえる。このメロディはおそらく、この先もずっと私の中から消えないのだろう。

 リスナーの興味を引きそうな話題を考えることからも、スタッフから渡された原稿を下読みしておくことからも解放されて、気楽な身になったはずなのに。なぜこんなにも、頼りなさを感じるのだろう。

 公園の入り口で足を止め、振り返る。桜の老木も、その幹に寄りかかっている男も、もう見えない。もちろん、ラジオも。

 リスナーというのは、案外近くにいるものだな。

 私は迷うことなく、公園を後にした。花びらが一枚、風に乗って空へ舞い上がった。

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花の音 里内和也 @kazuyasatouchi

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