高嶺の花の彼女に
そばあきな
第一話
「兄ちゃんってさ、
長い髪を片側でくくった、いわゆるサイドテールの髪を揺らし、妹の
「なんで?」
「だって樹里さんって、めっちゃ美人じゃん。芸能人みたいに可愛いし。だから、面食いの兄ちゃんなんてイチコロじゃないかなって」
……イチコロって死語じゃないだろうか。久々に聞いた気がする。まさか妹の口から聞くとは思わなかった。
――いや、それよりも。
「お前、俺のこと何だと思ってんだよ」
軽く妹を小突いて、俺は少しだけ笑う。
「……そんな身分違いの恋なんか、してないっての」
俺の言っている意味が分からなかったのか、美羽は首をかしげた。風を受けた風鈴みたいに、美羽の動きに合わせてサイドテールが揺れる。
そりゃあ、美羽にとっては、兄の同級生の美人くらいにしか認識していないかもしれないが、俺の学年だったら、きっと通じるんじゃないだろうかと思う。
彼女は通称、高嶺の花だった。
✿ ✿ ✿
過去を振り返った時に、後悔しない日々を送ろうと思って、俺はずっと生きてきた。
でも、今の俺より、昔の俺の方が確実に行動的だったように思う。
小学校時代の俺は、いつだって必死だった。
例え、たった数回しかないような放課後の居残り授業の回避のために、ほとんど話したことのない秀才の女子に、勉強を教えて欲しいと頼み込むことになったとしても。
「……
「頼む! 来週のテストで七十点以上取らないと放課後居残りなんだ! 勉強教えてくれ! いや、教えてください!」
手を合わせて、俺は全力で頼み込んだ。
たった数回、放課後の遊ぶ時間が潰れるだけでも、あの頃の俺にとっては死活問題だった。どうして、ほとんど話したこともないような女子に頼んだのかというと、多分いつもその彼女が百点を取っていることを、ぼんやりとだが覚えていたからだと思う。
数秒間の間をおいて顔を上げると、ちょうど笑顔のその女子と目が合った。
「分かりました。一緒に頑張りましょう」
それがおそらく、きっかけだったんだと思う。
それまで何とも思っていなかった彼女と、俺は初めて接点を持つことになったのだ。
それからしばらく、休み時間に彼女に勉強を教わる日々が続いた。
友達は最初、俺が真面目に勉強をしている姿を不思議がり、事あるごとに邪魔をしようとしてきた。
しかし、俺が無反応だったためか、もしくは教わっている相手がクラス一の秀才だったためかで、数日もすると誰も声もかけなくなった。
「……あのさ。頼んだ俺が言うことじゃないけど、樹里さんはこんなところもう分かってんじゃないの? 時間の無駄だったりしないのか?」
俺は、その秀才の彼女のことを「樹里さん」と呼んでいた。
基本的に男女関係なく、名前呼び捨てで呼ぶのが俺の普段のスタイルなのだが、彼女にはどこか「さん」付けで呼ばないといけないような雰囲気があったのだ。
おそらくまた、美羽あたりには分かってもらえないだろうけれど。
「……いえ、人に教えることも立派な勉強です。分からないところがあったら言ってくださいね」
樹里さんとの勉強会は、先生の授業よりよっぽど分かりやすかった。そのおかげで俺は、次の週のテストで自身最高記録の八十五点を取り、見事放課後の居残りを回避することが出来た。
テストの点を見た瞬間、俺は感極まって、授業中にもかかわらず「ありがとうな樹里さん!」と彼女にハイタッチをするという行動を取ってしまい、しばらくネタにされたのは、もういい思い出となっていた。
でも、それ以上俺たちが接点を持つことはなかった。
俺が外や体育館で元気よく遊ぶような生徒とするなら、樹里さんは教室や図書室で黙々と勉強をするような生徒だった。
元々タイプが違っていたのだから、勉強会という接点が無くなってしまえば、会話をすることもなくなっていった。
そのまま俺たちは小学校を卒業し、中学に上がった。
中学の時は、三年間クラスが違っていた。クラスは違ったが、彼女の噂は時々耳にしていた。曰く、今回の期末テストの一位が彼女だったとか、街を歩いていたら何かの取材を受けたとか、誰が統計をしたのかは知らないが、俺たちの学年での可愛い女子ランキングで上位だったとか、その影響からか週に一度告白されているとかないとか、まあ色々あった。真偽のほどは知らない。知らないが、どれも本当にありそうだとは思った。
そんな彼女が俺と同じ高校を受験していて、そして共に合格していたことを知ったのは、入学式の名簿で同じクラスに名前が載っていた時だった。
彼女の名前を見て最初に思ったのは、俺の学力でギリギリだったその高校に、学校一の秀才は余裕で入れたんだろうなということだった。
✿ ✿ ✿
後悔しないように、俺はいつでも全力を尽くしてきたつもりだった。
それでも振り返ってみると、後悔しかないように感じてくる。
時は過ぎる。歯車は回っていく。
何も行動出来なかった俺と、何も知らないままの彼女を乗せ、ぐるぐる、ぐるぐると回っていく。
俺が彼女と再び接点があったのは、高校生になってしばらくしてのことだった。
✿ ✿ ✿
「それでさあ、
テーブルの向かいに座る妹が、嬉々とした表情で今日学校で起きた出来事を話している。
それを俺と両親がうなづいたり相槌をしながら、夕飯に手を付けていた。
いつも通りの、夕食の光景。
俺にもこんな頃はあったなと、少し懐かしくなる。
さすがに高校生になった今では、そんな報告もしなくなったけれど。
「最近達也って名前よく聞くけど、ソイツ友達なのか?」
「うん、そう! 同じグループで、いつもテスト百点の凄いやつなんだよ! テスト百点なんて、信じらんねえよな……」
なるほど、あの頃の俺たちのクラスでいう樹里さんのように、今の美羽のクラスにも、テストで毎回百点を出すような秀才がいるようだ。
「俺に似て、美羽も頭良くねえもんな」
「いーや、兄ちゃんの方が絶対に頭良くなかったと思うね! なんてったってこっちは、最近達也に勉強教えてもらっているんだからな!」
「当時の俺と同じことしてんじゃねえよ……」
天を仰いで頭をかく。兄妹の宿命なのだろうか。
俺が勉強を教えてもらったことは、美羽には言っていないはずなのに、なんてシンクロ率だと思う。
「遺伝こわ……」
「急に天井見てテンション下げる兄ちゃんの方がよっぽど怖いんだけど」
「別に天井見てテンション下がったわけじゃねえよ」
両親は、俺たち兄妹の小競り合いをいつもの日常として受け流して、間に入って止めることもなくテレビを観ていた。しかしその後俺が夕飯を食べ終わって席を立とうとした時に「テスト勉強しろよ」と釘を刺されてしまう。
もうすぐテストとは言っていないはずなのに、どうして知っているのだろうか。近所の噂で聞いたのだろうか。それなら怖いなと思った。
ギリギリ赤点を回避しているような学力の俺は、平均点を取れば上々だ。
樹里さんに教えてもらって取った八十五点は、今でも俺の最高記録となっている。
「ただいま……ん?」
テスト週間という名の午前授業により、久々に早く家に帰ってくると、玄関に見慣れない靴が一足あるのを見つけた。
サイズからして、美羽の友達だろう。軽く認識した後、俺は二階にある自分の部屋へと向かった。
自分の部屋とは言うが、美羽の部屋でもある。俺と妹は、二人で一つの部屋を使っているのだ。
学習机が二つあるせいでスペースは中々狭いのだが、俺も美羽も本は読まないタイプなので、本棚などの場所を取りそうな家具が机以外にないのは救いなのかもしれない。
部屋を分けて欲しいと思わなくもないが、そんな空き部屋がないことは十何年住んでいてよく分かっているので、俺は高校生になっても妹と二人部屋だった。
だから、俺と美羽の友達が鉢合わせするのは必然だったのだろう。ちょうど向こうがトイレに行こうとした時だったのか、俺とその友達は廊下の角で鉢合わせし、ぶつかりそうになった。
「わっ……っと、大丈夫か?」
「いえ、大丈夫です……すいません」
今まで、見かけたことのない子だった。
一瞬、女子に見間違えてしまいそうなショートカットの髪に、整った綺麗な顔立ち。
美羽がいつも連れてくる友達とはまた違ったタイプで、とてつもなく、礼儀の正しい子だと思った。
「えっと……美羽のお兄さんですか?」
おずおずと、美羽の友達は俺に話しかけた。
「ああ、うん。美羽の友達ね。今部屋使ってんの?」
「はい……えっと、初めまして、美羽のお兄さん。あの、美羽のお兄さんは」
「あのさ、
彼の言葉を遮り、俺は手短に自己紹介をすませておいた。
さすがに美羽のお兄さん呼びはどこかこそばゆい。
「……はい、あの、柊羽さん。今日は、美羽の勉強を見るために部屋を貸してくださり、ありがとうございます」
育ちの良さが垣間見えるほどのお辞儀を受けると、逆にこちらが緊張してしまいそうだ。
「――あれ、兄ちゃんじゃん。帰って来てたんだね」
俺たちの声が聞こえたのか、美羽も廊下に出てきていつの間にか会話に加わっていた。
「おう。しばらく帰る時間早いからな」
「そういや兄ちゃん、部屋使ってるぞ」
「見たら分かるわ……まあ俺のことは気にせず勉強しな」
「でも、テスト勉強とか大丈夫ですか?」
そう心配してくれたのは達也くんだった。
よく知ってんなと思いつつも、俺は問題ない風を装って手を振った。
「大丈夫大丈夫。俺の机使ってんでしょ? 俺はリビングとかでやるからさ」
「……すいません、ありがとうございます」
本当に、美羽の友達とは思えないくらい礼儀正しい子だった。
それに比べ、妹の美羽はというと、若干男口調なためどことなくガサツな印象しか感じない。
兄の俺のせいだったら申し訳ないとは思うが、もう少し綺麗な言葉を使ってもらいたいものだと思う。
「元はと言えば、兄ちゃんと部屋が一つってことがおかしいんだから……」
「贅沢言うな」
軽く美羽を小突いておいた。ムッとした顔の美羽が、達也くんの方へと顔を向ける。
「……でも、達也のところはお姉さんと別々の部屋なんでしょ? いいなあ……」
「うーん……多分姉さんの部屋が本だらけでスペースがなかったから、仕方なく分けたんじゃないかなあ……」
「でも達也の家行った時さあ、それぞれの部屋にネームプレートがかかってたんだよね。ホントうらやましい」
「……まあ、俺らの部屋のは、俺と美羽の名前が汚い字で書いてあるネームプレートだもんな」
ちなみにそのネームプレートの字は、当時小学生だった俺が書いたため、とても読めたものじゃない文字が躍っている。恥さらしもいいところだ。両親もいい加減新しいものに変えようとは思わないのだろうか。
「達也のところアルファベットなの、ホントにカッコよかったなー。『ZYURI』と『TATSUYA』ってさあ――」
「――え? ジュリ?」
突然出てきたその名前に、俺は思わず反応してしまった。美羽が不思議そうに俺の顔を見つめている。
「どうしたん、兄ちゃん」
「いや、俺の同級生にもジュリって名前の子がいてさ……」
「でもそれ、僕の姉さんのことですよね」
「……え?」
俺と美羽の会話に達也くんが割り込んでいく。
明らかに動揺している俺を気遣うことなく、達也くんはさらに衝撃の事実を教えてくれた。
「美羽がお兄さん――柊羽さんの話をよくしてくれるんですけど、姉さんのクラスにも、本郷って苗字の人がいるらしくて。多分姉さんと同じクラスだと思うんですけど……柊羽さんって今いくつですか?」
「高一だけど……え、じゃあ達也くんの苗字って……」
「高梨です。僕が達也で姉さんが樹里です」
「兄ちゃん、達也の苗字知らなかったのか?」
「お前が達也達也って名前しか言わねえから初めて聞いたわ! ……え!?」
確かに言われてみれば、どことなく樹里さんに雰囲気が似ているような気もした。
達也くんは男だが、女子と言われても通りそうな顔立ちだった。おそらく美少年に分類されるのだろう。
――いや、でも、妹と弟同士が同い年だなんて、そんな偶然があるのか?
美羽は俺の動揺ぶりに爆笑していた。後で覚えていろ、と軽く呪っておくだけに留めておいた。
整った顔立ちの妹の友達だけが、しばらく混乱していた俺を心配してくれていた。
次の日、教室の机の整理をしていた俺に、樹里さんが話しかけてきた。
実に久しぶりの会話だった。高校に入って初めてだったかもしれない。
話題はもちろん、妹と弟のことだった。
「昨日達也から聞いたんだけど、本郷くんは知らなかったんだね……」
「ああ、じゃあ樹里さんは知ってたってことね……」
俺の言葉に、彼女は少しだけ戸惑ったような表情を浮かべて口にする。
「達也のクラス名簿を見た時、『本郷』って名前があったから、もしかしてそうなのかなって思ったくらいで……」
「妹のクラス名簿なんて見ないよ……」
大げさにため息をつき、俺は机に突っ伏した。
知らなかったのは、俺だけってことらしい。とんだピエロだ。なんだか恥ずかしい。
「……ああ、でも、今でこそ達也は美羽ちゃんのことを名前で呼んでるけど、最初は本郷さんって呼んでたからっていうのもあったかも」
「……へえ、そうなのか」
その時点で知っていたってことか。
本郷なんてそんなに多くいないだろうし、俺の妹だと気付くのもわけなかっただろう。
美羽には基本、男女問わず名前で呼ぶ癖がある。俺もそうだから文句は言えない。名前だけは知っていても、苗字まで知っているような妹の知り合いは、ほぼ皆無に近かった。
そんなだから、俺はいつまで経っても気が付かなかったのだろう。
「でも、凄い偶然だよね」
「……ああ、二人がクラスメイト同士だったこと?」
「うん、それもそうなんだけど……私たちもそうなんじゃないかなって。私たち、示し合わせてこの高校に入学したわけじゃないでしょ? けれど今、一緒の高校に通っていて、またクラスメイトになって……。そういうのって、凄い巡り合わせだよね」
「……そうかもな」
昔から、樹里さんにはこういうところがあった。
巡り合わせとか、運命とかって言葉が好きで、すぐそっち方面に結び付けようとするところが、昔から。
……俺の気も知らないで。
熱い顔を隠し、より深く机に突っ伏した。
これはきっと、あまりのセリフのクサさに、聞いている方が恥ずかしくなったただけだ。
高嶺の花の彼女に、高校生になった今でも振り回されっぱなしだ。
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