エインセル
ひゐ(宵々屋)
エインセル
その黒猫を拾ったのは、学校からの帰り道でのことだった。
一人道を歩いていると、ゴミ捨て場から猫の鳴き声がきこえてきた。見れば丸々としたゴミ袋の山の横に小さな箱が置いてあって、新聞紙が敷かれたその中に、子猫が一匹いた。
まさに、いらないからゴミとして捨てられていた、捨て猫だった。
私が見下ろせば、子猫は鳴くのをやめた。黒い子猫だった。その黒さが私の髪に似ていた。私を見つめる緑の瞳はきらきらと輝いていて、黒い髪の私を映していた。
だからほっておけなかった。
家に連れて帰り、飼いたいと言えば、母は不満そうな顔をした。野良猫じゃないの、そんな親もわからない怪しい猫より、もっとちゃんとした猫を飼いましょうよ。スコティッシュフォールドとか、ソマリとか、メインクーンとか。
猫のカタログを用意するわね、と母には捨て猫を飼う気が全くなかった。しかし私はただ猫が飼いたいわけではない、この拾ってきた猫を飼いたかったのだ。そう訴えるも、父もちゃんとした猫を飼おう、と言うだけで、しかし頑固にこの子を飼いたいと言い続けた結果、両親は折れてくれたのだった。
お金がいっぱいあるというのは、医療の面ではとてもいいことだと思う。
飼うことが決まって、まずは子猫を病院につれていった。何か病気があるかもしれないし、菌を持っているかもしれない、診てもらおう、と父が言った。
子猫は見た目では何も問題がないように見えたが、獣医さんが言うにはずっと弱っているらしかった。でもその獣医さんがいい獣医さんだったので、子猫はすぐに元気になった。
私はこのオスの子猫に「エインセル」と名前を付けた。何かの本でみた、妖精の名前だった。確か『自分自身』という意味があったはずだ。黒い体毛が、私の長い髪に似ているから、そう名前を付けた。
エインセルは自由奔放だった。
元野良猫だけど、これからはちゃんとしましょうね、と両親は高い餌を選んで買ってきた。けれどもエインセルは一口も食べなかった。私があげても食べなかった。でも商店街のペットショップでこっそり買ってきた餌だけは食べてくれた。やがてそのことが両親にばれると、そんな安っぽい餌を、と私は怒られた。しかしエインセルはやっぱり高い餌を食べず、安い餌なら食べるので、両親も仕方なく自分達が許せる安さの餌を買ってくるようになった。もっとも、安いといっても、そこまで安くはなかったが。
エインセルはきっと、高いものが気に食わなかったのだろう。多分、自身が野良猫だったことに、誇りを持っているのだと思う。俺は高級猫じゃない、甘えてたまるか、染まってたまるか、と。事実、母が買ってきた首輪も気に入らなかったらしく、つけてみたが次の日になくなっていた。高いものだったらしく、母は家政婦さんの誰かに盗まれたのかなと考えていたが、どうやらエインセル自身が自力で取り払ったらしく、ひっかき傷が沢山ついた状態で廊下の隅に転がっていた。別の高い首輪を買ってきてつけても、同じだった。
けれども、私がこれまた商店街のペットショップで買ってきた鈴のついた安い首輪は気に入ってくれた。ずたずたにして取り払おうとはしなかった。こんなに気に入るなんて珍しい、どこで買ってきたんだ、と父が尋ねてきたが、高いお店と嘘を吐いた。
首輪のことがあるように、エインセルは容赦しなかった。柱や家具で爪を研ぎ、沢山傷をつけた。どれもいい素材でできた、高いものだった。また跳ね回って花瓶や皿を割ったりもした。これもまた高いものだった。
でも、私にはそれが、清々しく感じられた。
お金持ちであることが、私は嫌だった。必要がないのに、見栄を張るように高いものを買って、権力を誇示する。両親も、小学校のみんなも、そうだった。特に小学校がひどかった。みんな控えめに見せかけ積極的で、争うよう親の権力を鼻にかけていた。そうしなければ、生き残れない場所だった。そんな場所で、人付き合いが苦手で話すのも苦手な私に、もちろん隅に追いやられ、友達はできなかった。
だから中学は普通の学校にいきたいと、両親にわがままを言った。近くの学校がいい、すぐに行けるからと。
小学校で友達が一人もできなかったことは、言わなかった。心配させたくなかったから。
頼み込んだ結果、私は近所の普通の中学校に通うことになった。それで友達ができると考えていたが、甘かった。そこでも浮いてしまったのだ。友達は一人もできなかった。
みんな、私を相手にするのが怖かったのだ。何かしでかしてしまうことを、恐れたのだ。あの子はお金持ちだ、何かしでかせば、お金と権力でひどい目に遭うと、生徒達の間にも、その親たちの間にも噂が流れた。
だから私は避けられた。友達はできなかった。
もちろん、このことも親には言っていない。心配させたくないし、下手をすると、それこそみんなの思う恐ろしいことが起きかねない。
私はお金持ちの家に生まれるべきではなかった――それでお金持ちが嫌いになった。
だからエインセルの容赦ない行動に清々しさを感じた。思うがままに行動し、お金持ちを馬鹿にするような態度はよかった。もっとも、エインセルがだめにしてきた高いものは、両親にとってそこまで高いものではなかったが。
あるがままに生きるエインセルは、誰の言うことも聞かなかったし、誰にも懐かなかった。両親はもちろん、家政婦さん達にだって。
でも私は別だった。家に帰ってくると、エインセルはどこからともなく首輪の鈴を鳴らしながら私のところへやってきてくれる。そして学校でひとりぼっちだった私を慰めてくれるように、足下にすりすりしてくるのだ。私が撫でてあげると、甘い声で鳴いてくれる。他の人がエインセルに触ろうとするとひっかかれるが、私にはそんなことしない。
家にいるときは、ずっと一緒だった。ずっと私の後についてきた。椅子に座れば傍らに並んで座ったり、膝の上にきた。
思っていることも、一緒だった。私が誰かに苛立ちを覚えれば、エインセルがその誰かに向かって飛びかかった。私の機嫌がいいときはエインセルもご機嫌な様子で甘えてきたし、嫌気がさして悲しくて泣いている時は、エインセルも悲しそうに鳴いて寄り添ってくれた。猫舌はざらざらしていたけれど、頬を伝う涙を舐めてくれたのは嬉しかった。キスもしてくれた。そしてそのまま二人で泣き寝入ることがよくあった。
私はエインセルを求めていたし、エインセルも私を求めるように、ずっとそばにいてくれた。身体こそ分離しているものの、思うことは同じ、心は一緒だった。
エインセルはまさに
私とエインセルは、本当に、一緒だった。
ジャネットが家にやってきたのは、エインセルと暮らし始めてから、二年と四ヶ月が過ぎた頃だった。
親戚のおばさんが家に来た際、つれてきた。白い高級猫だった。ターキッシュアンゴラという種類の猫で、毛が多く、おばさんはそれがいいというのだが、私にはどうしてもぼさぼさしているようにしか思えなかった。また、ジャネットは左目が銀色、右目が金色だった。縁起がいいらしいが、正直気持ち悪く思えた。
おばさんは、ジャネットには友達がいないから、一緒に遊んであげて、とエインセルに言った。けれども、エインセルは私同様、ジャネットに興味を持たなかった。それどころか嫌悪を抱いたらしく、全身の毛を逆立て威嚇した。やはりエインセルは私と一緒なのだ、その後で私のところにくると、あいつなんだよ、という顔をした。
でも、問題はそれから一ヶ月と少し経ったくらいに発覚した。
おばさんから、電話がかかってきた。ジャネットの様子がおかしいので、病院に連れていったところ、妊娠していた、と。いままでに会わせた猫はエインセルしかいないから、エインセルとの子だと――。
あり得ないことだった。一体いつの間にそんなことが起きたのだろう。あの時、私とエインセルは一緒にいたはずだ、それ以前にエインセルは私とずっと一緒の存在だ。でも私以外に、しかも高級猫に懐くなんて。それも、妊娠させるなんて。
エインセルは他の誰とも何とも一緒にならない存在のはずだった。私とだけ一緒であるはずの存在だった。私自身であるはずの存在だった。
それでも高級猫のジャネットに好意を抱き妊娠させた?
自分とずっと一緒であるはずなのに。私自身であるはずなのに。
エインセルの裏切りだった。
睡眠薬は簡単に手に入った。
高血圧で不眠症の父が時々使うのだ、部屋にこっそり侵入して、白い錠剤をいくつか頂いた。薬は沢山あったし、父も時々しか使わないから、いくつか消えても気付かないはずだ。
自室に戻ると、今までずっと後ろについてきていたエインセルがベッドに飛び乗り座り、こちらをじっと見た。私はその隣に腰を下ろす。真っ黒いエインセル。私の髪と同じ色。
でももう違う。
エインセルの前に、薬を一粒差し出す。エインセルは一瞬迷うも、まるでキャットフードのように食べてくれた。そうして持っていた錠剤すべてを食べさせた。
ためらいなんてなかった。
錠剤がなくなって、これでいいの? という顔をした。
これでいいの、という顔をした。
エインセルに異変が起きたのは、それからしばらくしてからだった。
まず、歩き方がおぼつかなくなり、それから嘔吐を何回かして、様子がおかしいと気付いた両親が病院へ連れていった。
病院では下痢薬を飲まされ、点滴を受けた。けれども獣医さんによるとかなり危ない状態で、死に至るかもしれないということだった。
そして言葉通り、次の日の午前中、エインセルは死んだ。
涙は出てこなかった。
両親や獣医さんは、どうしてこうなってしまったのか、考えていた。私が睡眠薬を飲ませたことに、誰も気付かなかった。
だから私は言った。自分自身で死のうと思ったのよ、ジャネットを妊娠させちゃったんだもの、とんでもないことをしちゃったんだもの――。
でも自分がとんでもないことをしてしまったと気付いたのは、エインセルがいなくなって数日してからだった。
エインセルと一緒の夢を見て、朝目覚めて、ふとどうして自分は死んでいないのだろうと思った。
エインセルが死んだのに、どうして私は生きているのだろう。裏切られたものの、私とエインセルが本当に一緒であるならば、エインセルが死んだその瞬間に、私も死ぬべきではないだろうか。
でも死んでない。それはどうして?
答えは簡単だった。
死んだのはエインセルであって、私ではないから。
それはつまり、エインセルと私は別の存在であるということ。
気付いたときには、もう遅かった。だってエインセルはもういないのだから。
当たり前のことだった。私とエインセルは違う存在だ。エインセルは拾われたオスの猫で、私はお金持ちの家に生まれた女の子だった。猫と人。男と女。エインセルの心臓の鼓動と、私の心臓の鼓動は、違う。
エインセルを亡くしてようやく気が付いた。
私は、たった一人の、いやたった一匹の大切な友達を、殺してしまったのだ。
全く同じではなく、単純にひどく似ていただけ。それを私は、同じだと勘違いした。
私は再び一人になった。号泣しても、もう鈴の音は聞こえない。黒くてふわふわした、優しい友達はもういない。
ドアの向こうが騒がしい。私に気付いた家の人達が騒いでいる。ドアを開けようとしているが、鍵がかかっているため入ってはこない。開けてくださいと騒いでいる。意味なんてないのに、ドアノブをがちゃがちゃ回している。
違う違う、私がほしいのはそんな音じゃない。鈴の音だ。
もちろん、それからずっと泣いていても、鈴の音は聞こえてはこなかった。エインセルはもう死んだのだから。
ふと、自分の長い黒髪に目が留まった。エインセルと同じ黒色の髪。だからエインセルと名付けた。
そんな名前をつけたのが、間違いだったのだ。
テーブルの引き出しから、はさみを取り出す。そして鏡も見ずにその場に立ったまま、髪を大きく切った。黒髪は無惨な形で床に落ちる。でも気にしない。どんな髪型になるかも知らない。ただ切り落とし続ける。
「ばいばいエインセル、ごめんね――」
エインセルは、もういない。
【終】
エインセル ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya
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