『玄冬病棟』
血飛沫が止み、黒い影が言う。「横取りされた、と思っとるかね、坊主」と。「わけのわからん闖入者に、勝負を『なし』にされたと、そう思っとるかね、坊主」と。そして続ける。「腹ァ、立つわな、坊主」と。笑顔だ。黒い影の頭部に、やたらと真白い歯の、張り付いたような笑顔がある。
「良い入れ歯だろう、これ」
言って、黒い影はがちん、と歯を鳴らす。
心を読まれているようで、不気味だ。
わかっていること。黒い影は老人だ。だから『玄冬病棟』の代表だ。そして何らかの凶器を所有している。人体を二つに断つことが可能な凶器を。老人の風貌は、ほとんど浮浪者のそれだ。髪は白く長い。いつから切っていないんだ、と思わせるほど長い。眉も髭も同様に長く、垂れた皺も相俟って表情はほとんど伺えない。真っ白い入れ歯を除いて。服装は垢で変色したジャケットに、サイズの合っていない、だから裾が擦られて破けている、カーゴパンツ。そして、右手には杖を突いている。
「杖が気になるかね」
再びの読心。
二度目、となるとまぐれではない。
「なあ坊主、やり合う前に『横取り』の正当性の話をさせてくれんか。俺はさっき、そこな男を斬ったな。坊主がさっきから気にしてるこの杖で、斬った。仕込み杖……ふん、隠すほどのモンでもないわ。二尺三寸の、要するに刀の長さの、仕込み杖で斬った。不意打ちだったなあ。俺は不意打ちをした。そりゃ、そこで真っ二つになっとる男が、強かったからだ。そして、その強い男が、俺の仲間を、三人、殺しとるからだ。しかも巣鴨でな。巣鴨で……老いぼれが三人がかりで、負けた。この老いぼれの仲間が。だが仲間の誇りのために言うぞ。仲間はな、手傷くらいは、負わせた。こいつはお前らの前では隠していたがな。話が見えてきたかい、坊主。この年寄りの長い話が、見えてきたか、坊主」
坊主、と老人は言って。
しかし、答えたのはぼくではなかった。
「『横取り』は、わたしたちの方だった、と言いたいの? あなたの復讐に割り込んだ邪魔者は、わたしと18号の方だったと?」
「正解だよ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんが孫だったらご褒美でもやるところだが、しかし」
ずるり、あるいは、ぬらり、と。
粘性の音を想起させる動きで、老人は刀を抜く。
「生憎、手持ちは、こいつだけだ」
老人は笑う。
がちがち、と入れ歯が鳴る。
「勝手な話ね」
16号が言い、ぼくは考えている。先の不意打ちで老人が狙ったのは、手負いのぼくではなく、ほぼ無傷の16号でもなく、あの白秋会議室の男だった。単に私怨からくるものだと、そう捉えていいのか? ぼくは考える。おそらく答えは『否』だ。私怨からの選択ではない。あの場で最も強い人間から排除しようとしたと考えるほうが、妥当だ。とすれば、ぼくらは残されている。後回しにされている。ぼくは考える。天秤の釣り合いを。『未来』と『過去』で釣り合わせた、比喩としてのあの天秤のことを。
どうだ?
この老人と相対している今も、天秤は釣り合っているのか?
認めよう。ぼくには動揺がある。しかし鼓動もある。16号と繋がれたままの右手に、折れたままの右手に、力が入る。すでに刀は抜かれている。ぼくは、どうすべきだ?
戦うか?
いける、か?
「睨み合いかい、坊主。しかしなあ、辛抱比べじゃあこっちに分があると思うがねえ。歳老いるってのは嫌なもんだ。本当に嫌なもんだ。いろんなことが失われていくし、いろんなことが平気になっていく。今日だって三人、先に逝っちまったていうのに、まあそういうこともあらあな、ってな、思っとる自分がいる……辛抱比べに睨み合い……坊主にお嬢ちゃんよ、こっちは糞尿垂れ流したって、平気な面ァして睨み合うぜ。爺だからな。糞爺なんてな、言われなれてっからな。なあ、辛抱比べに睨み合い……ほんとに勝てっと思っとるか? かかって来なさいな、若いの」
老人は言って、ぼくは躊躇う。
しかし、16号は。
「18号、睨み合う必要も、近づく必要もないわ」
ぼくの手を離し、16号は弓を構える。そして矢を番える。動きは速く、淀みない。ほとんど『瞬間』だと感じられる。瞬く間に、矢は放たれている。
「……阿呆」
老人がなにがしかの動きをとる。
とった、はずだ。
だって、16号の放った矢は弾かれているのだから。
けれど、見えない。見えなかった。
そして矢はただ弾かれたのではなかった。
矢は、打ち返されていたのだった。
「え」
16号の右手に返された矢が刺さる。短く叫びを上げて、彼女は弓を取り落とす。さらにその腕に、刃渡りにして一〇センチほどの短刀が二本、突き刺さっている。ぼくは彼女の手を取り、しかし老人から目は離さない。離せない。狙って、このようなことが? 仕込み刀ひとつで? しかもその上に暗器による追撃まで……ぼくは老人の積み重ねられてきた過去のことを思う。この境地に至るほどの時間の蓄積を思う。その、秤に乗せられた賭金の重さを思う。
「相性を考えんかい、お嬢ちゃん。そんな弓なんて、板張りの道場と和服が似合う武器はよ、こっちの領分だろうが、ええ? わきまえんか、阿呆」
言い返せない。
迂闊なことは言えない。
動揺はもはや恐怖に、畏怖に、その姿を変えている。
「18号、ごめん」
違う、16号の落ち度ではない。少なくとも彼女だけの落ち度ではない。
どうすればいい……ぼくは、いかなる賭金を、秤に上乗せすることができる?
ぼくはこれ以上、何を燃やす?
高温で、青く、青く……青春を。
「ああ、そうか」
「……18号?」
「大丈夫だよ。何も問題ない。ねえ、さっきぼくは言った。『ぼくらには手に入れるべき未来がある』。ぼくらの過去が軽いって意味の言葉だった。けど、違った。間違いだった。ぼくは何を失念していたんだろうね。積み重ねてきた過去がないなんて、どうしてそんな間違いを……」
ぼくは言う。
「ぼくはひと月前、きみに『恋』をしたんだ。『一目惚れ』だった。パーフェクトなシチュエーションだった。雲ひとつない青い空、授業中なのにぼくときみは校舎の屋上にいて、授業には出ずに、二人きりで、ぼくは後ろからの声できみに振り向いた。それが始まりで、そして、『記録文書』には残らない思い出がぼくらにはある。いくらでもある。朝に昼に夜に、学校に、帰り道に、出掛けた場所に、食べたものに、贈ったものに……一つ一つの思い出に、全部に、未来がある。『またいつか、同じことをしよう』ってぼくらは何度も言った。そうだろ。美味しいものを食べても、楽しい遊びをしても、キスをしても抱き合っても、いつだって思ったんだ。『また、二人で一緒に、同じことをしよう』って。だから、さっきのぼくは間違えていた。ぼくらにあるのは未来だけじゃなかった。きみに恋をしていなかったら、ぼくは、こんな未来の想像はできなかったはずなんだから。ねえ■■■■■さん」
ぼくは彼女の名前を呼ぶ。
記録文書では塗りつぶされてしまうだろう、青春16号の本当の名前を呼ぶ。
そして続ける。
「ぼくはきみに恋をしている。この戦いが終わっても、終わらない恋をきみにしている。
それを証明するために、まずこの戦いを終わらせるんだ」
ぼくは生き残るよ、とぼくは言う。
「いい啖呵だ、坊主。」
がちがちがちがちと歯を鳴らして老人が笑い、そして構える。
刃が杖に仕舞われていく。
居合の構えだ。
「来なさい」
かちん、と鞘が音を鳴らす。
老人は、もう笑っていなかった。
■■
ぼくは後先考えるのをやめる。ぼくは先程理解した。『過去も未来も今この場所にある』。今は今だけでいい。だから、ぼくは体を駆動する。イメージは発火、そして燃焼。勿論、炎は青。そして老人の居合の圏内に踏み込む。
瞬間、刃が煌めく。
眼に映すには速すぎる運動。しかし、それは刃を見るならばの話だ。その速度を齎す腕の、脚の、身体の動きに目を遣るならば、刃の軌道は判ぜられないわけではない。無論、それは老人も承知だ。承知の上で、老人の斬撃は告げる。判ぜられたとして、と。なあ、躱せるか、と。
「躱せるかァ!坊主!」
ぼくは。
ぼくは、刃を躱さなかった。
「ぐ、う、あ、うあ、あああああ!!」
「何ィ!?」
ぼくは折れた右腕で身を庇っていた。
当然、右腕は引き裂かれる。肉は割かれ骨は断たれ血液は逃げ場を得たとばかりに傷口へ殺到し体内から噴出する。逃げてんじゃねえ、と毒吐きたいがそんな場合ではない。痛くて痛くて痛いのかすらわからない。冷たさと熱さを同時に感じる。理由のわからない汗が吹き出す。けれど、ぼくは退かない。
今この瞬間しか勝機はないのだから。
最初からこのつもりだったのだから。
ぼくは後先を考えていない。
そして、ぼくの左手が老人の首を捕らえる。
生まれ持っての利き手である左手が。
ぼくは老人の顔を間近で見る。初めて、老人の瞳を眼にする。
そして驚愕する。
その瞳に燃える炎の、なんという、青さ!
左手に、全身に残った全ての力を注ぎ込みながら、ぼくは叫ぶ。いや、叫べているのかはわからない。叫びたい、とそう思っている、その事実だけが真実としてそこにある。
いずれにせよ、ぼくはこのようなことを叫びたかった。
「ぼくはあなたの全てがわかった。強さの秘密の全てがわかった。ぼくはあなたの、いや、お前の、すべてを奪うものになる。ぼくは青すぎる炎を見たぞ。お前の、瞳の、青すぎる炎! お前は青春17号だった。いや、今もまだ、だ。なぜなら青春17号は永久欠番だからだ。ずっと、お前がしがみついてきたものだからだ。しかしぼくは全てを奪うぞ。なぜならそれは正しくないからだ。そしてぼくは覚えているからだ。『季節は移り変わる。それを逃れることはできない』。あの原則! お前は、背いた。お前は、巧妙だった。お前は、装い、隠匿していた。けど青い炎は、もうお前のものじゃない! ぼくらのものだ! ぼくは、彼女と二人で、この戦いを生き残る!」
そして、ぼくは意識を失う。
その直前に得られたものは、左手の内で何かが折れる感触と、
見る影もない右腕が、それでもはっきり感じとった、駆けつけた彼女の体温だけだった。
■■
世代間闘争は終わり、ぼくらは記録の外に出る。
ぼくはもう青春18号でなく、彼女も青春16号ではない。
また春が来て、そして、卒業が訪れる。
ぼくの隣には、今も彼女がいる。
ぼくらは青春17号になれない。 君足巳足@kimiterary @kimiterary
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