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ネタバレあり君たちはどう生きるか所感メモ



冒頭から動きがいい。階段ダッシュ、一旦寝巻きに下駄で外出てから思い直して着替え、火事に向かうダッシュ、CG併用の炎と、ボケ表現。エフェクトの思い切りがいい。

母が死んで疎開→新たな母との出会い、フォーカスされるボディタッチ、少年の少年らしい性欲(あるいはそれ未満の何か)

お屋敷周りの作画、ちょっと美しすぎる。異世界に行くまでもなく異世界感がある。もはやBGMすら不要。

何星人ですか?みたいなおばあちゃんズ。はじめの印象は不気味。卑しい感じ。しかし彼女らにはセリフがある。

塔のてっぺんに止まったアオサギがグルンと回って塔に入っていく動き、滑らかすぎ。

塔に入ろうとしておばあちゃんズに止められる。ここでは素直に言うことを聞く。ここで行かないのが脚本的に抑制が効いていて好ましい。

父親と夏子の抱擁とおそらくキスシーンを除く真人。覗き魔のアオサギと同類の心性が自分にもあると彼は知っている。そういえば寝巻きも青い。

学校のシーン、粗野な同級生のモブにはセリフがない。風立ちぬでもそうだったかな。海軍のお偉いさんとかも何言ってるかわからん描写だったはず。

石で自傷。意図が読みにくいかもしれない。でも少年らしいプライドが見えるいいシーンだと思う。わかりにくいだからこそ後半で説明があったのだろうが。高潔でありたいという意志を感じる。ただ彼は覗き魔のアオサギでもある。

父親との根本的なディスコミュニケーションが見える。父は資本主義的マチズモの権化。しかし愛はある。むしろ過剰にある。

母が残した「君たちはどう生きるか」。真人は結局全部は読み切っていないまま塔に飛び込むが、こういうところが子供らしさかもしれない。強く影響されたのは間違いないがだからと言って「きちんと」読んでいたとは限らない。そういう大人が決めた「きちんとした」感と子供は本質的には無縁。

夏子の失踪を機に改めて塔へ。1度目は素直に帰ったことと合わせて、彼は決して自分の好奇心のためだけに家族に心配をかけて身を危険に晒すタイプではないという描写か。一度帰って身支度をし直して向かう描写は病院の火事に向かう時のリフレイン。

「夏子が嫌いなのに助けに行くのはおかしい」とはっきり言うキリコさん、すごい。ひるまない真人もすごいが。

キリコさん、あのおばあちゃんズで唯一腰が曲がってなかったのに真人を引き留めようとする時はずっと腰が曲がっているし痛そうにしてる……と思ったが、そもそも曲がってるのがデフォの他のおばあちゃんズだと「腰が引けてる」芝居が成り立たないのか。

完全に自業自得で化けの皮が剥がれるアオサギ(っていうかお前はアオサギを名乗ってるだけの着ぐるみ被ったおっさんだろ……)。

海の世界、落ちた瞬間から西洋絵画そのまま動かすみたいな背景アニメーションが続く。シンプルに美しいし、あとはヨーロッパウケ良さそうという印象。で、それは幻で、死んでるやつの方が多いと……。

「飛ぶことも忘れつつある」ペリカンたち、あくまで顔つきはかわいい。しかし「行こう」と「食べよう」しか言わない。

「学ぶものは死ぬ」何かが埋葬されている墓。アニメのことか? あるいはフィクション全般のことか? 見たらそのまま後退しろ、しかし見続けろ、という警句と合わせると?

わらわら、かわいい。

わらわら、ほんとうにかわいい。

魚を捌くシーン、もっと深く刺せ、思い切り引け、と言われた通りにはしているのだが実は「思い切り引く時にはそれ以上深く刺してはいけない」という指示の抜けからああなってるんだなあと。指示をするのは難しい。

魚の滋養で熟してサンゴの産卵みたいに飛んでいくわらわら。かわいい。

食べられたり燃やされたりするわらわら……かなしい。

おばあちゃんたちに守られている、という自覚を得る真人。父親の都合で現れる他人をどう少年が受け入れるか、というのはこの映画の主題だろうとわかる。まずこの海の世界がおばあちゃんズ編。

「わらわらを食うために連れてこられた」「ここは呪われた海」と言い残すペリカン。彼ら目線ではそれはそうなのだろうけど、連れてきた側(大叔父だろう。おそらく)にはそんな目的はなかったような気もする。インコと同じで「思ったより増えて困っている」のだろう。要するに彼は全然完璧な神のような存在ではない。引きこもって思案やら創作やらに没頭していたつもりが気付けば社会を守る羽目になり困っている老人。

アオサギとの和解? アオサギは明らかにもう一人の真人なので、喧嘩ではないというのはそういう意味かもしれない。同族嫌悪か。

自己言及のパラドクスからの「この嘘は本当だ」はかなり示唆的。アオサギは意外とクリエイター気質であるのかもしれない。

アオサギの嘴を治す(直す?)シーン、コミカルに描かれているが「おれは友達でもなんでもない」「いや出っ張りが気になって」でもう一度直してあげる真人、アオサギの言うことを流しすぎではある。

鍛冶屋の家。「お腹に子供がいるから食べない」「お前は食べる」インコたち、ただただ衆愚極まるのだが、いちおう、台詞がある存在ではある。しかし、食われてしまった鍛冶屋とは?(物語的な意味ではなく、誰の比喩か?)

ひみさまの家へ。毎度ながらステージ移動(ステージ移動ではない)するたびに風景があまりに美しく、どことなくRPGっぽさがあるというか、なんかインディーズゲーム(雰囲気ゲー)みたいな味がする。

桜の木と柑橘類の木があまりに美しい。

迷うと出られない庭から隠し通路を経て現世への扉の回廊へ。父親の助けを自ら絶って(しかし母の助けは受けながら)再び塔へ、というくだり、古典的なまでに少年の成長譚。

「父さんの好きな人」ナツコさんのいる産屋へ。緞帳の作画どうなってるんだ。質感がリッチすぎる。

「なんでこんなところに」「大嫌い」「出ていって」どこまでが本心かわからない(おそらく真人を帰らせたいだけだろう)言葉を受けての「母さん」呼び。ここで「父さんの好きな人」ではなくなる。しかし「自分の好きな人」ともまた違う。

「石の王」に助けを求めるもうまくいかないひみさま。捕まる二人。そして夢の中で初めて会う(あまりにも宮崎駿っぽい佇まいの)大叔父

「積み木を調整する」仕事で世界を守る大叔父。一日先のことしかわからない、その日暮らしの世界。真人は驚愕するが、ずっとそうしてきた大叔父は……これをフリーランスあるいは経営者的だと感じ取ると案外大叔父と父親は立場だけなら重なる部分がなくもない。しかし父親は屈託なく資本主義マチズモの人だ。

夜空、星、波打ち際、光の表現、過去作に求めるならハウルのそれだけど、どことなくVS新海誠みたいな意識を感じなくもない(主題歌も込みではある。ただ劇中に流さなかったあたりは手つきが違うか)。カメラワークのせいかな。

巨大な石を自らの力の源泉と語る大叔父、そして世界中を旅して見つけた悪意に染まっていない石、巨大な石は現実そのもので、白い石はフィクションのような。

染まる前でさえ、石は(木でなく)「墓と同じ石なので悪意がある」「自分にも悪意がある」と告げる真人、「だからこそお前に継がせたい」とする大叔父。この場合、「木ではない」とは自然にその形にはならなかったという意味か。積み木は幾何学図形だった。(しかし木もフラクタルな幾何学図形なのではないか、と言い出すのはどこか考えすぎな気配がする)

包丁舐めウインクやめろ。

アオサギ、何その仮装……。

インコ大王のパレード。思ったよりは社会やってて非常に不気味。現実パートの出征パレードのリフレイン。

体力ありすぎボルダリング(冒険活劇要素+1)

「ここが天国でありますか!」「ご先祖さまだ……!」ちょっと泣ける。しかしこれが、彼らにも感性はあるにはあるのだが俗物的だったり先祖への畏敬であったりわかりやすいものだ的な描写でないとも言い切れない。

はぐらかされてるしあしらわれている大王。はぐらかされてることにもあしらわれていることにも気づいてはいる大王……。

真人と大叔父の対面。「この傷は自分でつけました」「友達を作ります」おばあちゃんズを受け入れ夏子を受け入れ、最後はアオサギを受け入れる必要がある。これはつまり「この嘘は本当だ」のような物言いを受け入れるというようなことであり、そこは二項対立の内部にない。

大叔父もわかっている。「友達を作るのもいい、ここから出ていくのもいい、しかしあとは継げ」はまさに「この嘘は本当だ」的な言葉遣いであり、アオサギを友達と呼ぶようになった真人にはこれに対して、そんな無茶苦茶な、というような泣き言を言うことはできない。自己否定に繋がる。そして、それを許さないのは大王の方だ。大王は真人が要求されていることの難しさが全くわかっていない。そして全てを台無しにしてしまう。

世界の崩壊。ひみさま=母には死地に向かう覚悟があるのだが、それを支えているのは真人がいい子だという事実だ。けれど塔から出た彼女はそのことを覚えておらず、まだ母親ですらなく、いつか(いま)事後的にそれを肯定されることになる女の子に戻る。つまりそもそも彼女は何か保証があって真人を産んだわけではない。未来に何かしらの期待をしたから今がある。真人の「友達をつくります」に相当する決断を、塔の中での経験に関係なく彼女はすでに済ませている。

現実への帰還。大量のインコとペリカンとともに。本作内で鳥たちは執拗に糞尿を撒き散らすが、内在する悪意=汚れの表現なのはそうであるとして、誰もそれを意にも介さないところが徹底している。ぬぐい落としすらしない。あらかわいい、で済ませる。これは子供に対する態度にも近い(ポニョは魚くさいとはっきり言われているのだった、ということを思い出す)

終幕があまりに潔くて感動した。何か気の利いたことの一つでも言いたくなってしまう場面であるはずなのに、それが抑制されている。(風立ちぬですらこの抑制はなかった)

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