市庁舎の塔の上の旗
フカイ
掌編(読み切り)
午後の斜光が街に差し込む。
窓辺に座って、彼女は街を見ている。プラハ。1968年。
青黒いグラデーションに染まった空。硬そうな雲。建物はすべて、近づく夏の日差しに黒く塗りつぶされている。
タイプライターを打鍵しつづけた午前中。
改行のたびにキィを上げて、紙を左に戻す作業。事務所では代わり映えのない仕事と、昨日と同じ背広を着た顔のない経営者。
彼女は辟易している。この事務所のタバコの臭いにも。油の切れた床板にも。
彫りの深い顔立ちに、はしばみ色の瞳、薄い唇。その唇に金色の髪がかかるのにも気づかず、彼女は窓の外を見つめ続けている。
キラリ、キラリと。時折訪れる前触れ。
向こうに見える市庁舎の二本の塔。その上にはためく、オレンジ色の旗。青黒い空に、白い昼月。しどけなく、表情をなくして。
町並みは死んだように静まり返っている。でもそれは、彼女の耳に音が届かないから。彼女は音を遮断して、世界を眺め続けているから。音のない街に、未来の胎動が聞こえる。変化の兆しが訪れる。
変わりゆく街の空気。それがこの、青黒い空の下に広がる街をゆっくりと包み込んでいる。
変わるかもしれない未来。若者たちは語ることをやめず、指導者達は唇を舐め続ける。
でも、彼女の未来は変わらない。変わるわけなどない。窓枠のこちらの現実は、固く、冷えているのだから。
安定した収入は子どもたちに与える黒パンとチーズになる。その代償は何にも興味の持てないビジネス文書の打鍵の日々だ。軍隊に取られた夫はずいぶん長く帰宅せず、西側との最前線勤務と聞く。
タイプライターを打鍵する。瞬きする間に、一文を綴る。
「シャイニング。それは光り輝くもの。未来を見通すもの」
キラリ、キラリ。
そしてヴィジョンが訪れる。
ブラウン管の中で口をへの字に曲げた、ブレジネフ。首を横に振る。
夜のうちに国境を超えてくる、濃緑色の戦車。その、キャタピラーがチェコ・スロバキアの肥沃な農地を蹂躙してゆく。
若者たちの夢見た未来を踏み潰し、指導者たちは銃殺刑となる。
市庁舎の塔の上の旗は、風もないのに揺れ続けている。
灰色の雲が街を覆い、時計塔の針は右回転を始める。
いい気味だ。
自嘲気味に彼女は笑う。
世界に希望などないのだ。あるのは計画と、それを粛々と進める行動のみ。
彼女はまた、タイプライターを打鍵する。
「世界は変わらない。このまま、昨日と同じ明日を迎える」
そしてその頬に、涙のしずくが流れる。
訪れることのない未来を夢見る若者たちを哀れんで。
すべてを疎ましく思う自分を哀れんで。
パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム。
パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム。
何も出来ない自分は、いつか聞いた呪文を、音のない声で唱える。
市庁舎の塔の上の旗 フカイ @fukai
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