衣装箱には鍵を

西海道 真秀(サイカイドウ マホ)

一話完結

 ジリリリンと古めかしい音が鳴り響いて、家政婦の慌しいスリッパの駆け抜ける音を騒々しい、と眉をしかめて聞く。

からり、とした夏の終わり、日差しを避けた部屋の中で涼子は読んでいた金色夜叉の文庫本を静かに閉じて、カウチに頭を預けた。

ベージュのワンピースがさらり、とカウチから涼風に揺れるカーテンのようにたなびいて、背を猫のように伸ばした涼子の膝までめくりあがる。

ティーテーブルに置いた本を眺めながらあの女は本なんて読まないんでしょうね、と呟きつつ家政婦のけたたましい声に身を起こせば緩やかに巻いたこげ茶色の髪が揺れた。

「旦那様!お電話で御座います!」

階下から聞こえる濁声を聞きながら、この声と流れるガーシュインは合わないと嘆息しCDと止めるとカーディガンを羽織り化粧をなおし手袋をして、小さなバッグを持つ。

鏡の前で身嗜みを確認すると自室の扉を開けて、階段を降りる。

インテリアは昔のままなので玄関わきに電話はある。

その前で右腕を曲げつつ夫はなにやら薄笑いを浮かべて笑っていた。

よく見る仕事の向けの顔ではない、笑顔だわ、と口角を上げそうになった所で。

「奥様お出かけで御座いますか?」

濁声と騒がしい足音が擦り寄ってきた。

「ええ、少し。車を回して頂戴」

まろやかで上品な色合いの爪先をストーンが慎ましやかに飾ったの美しい指先を憧れるように憎むように家政婦が見つめたあと、あのけたたましい声で運転手を呼ぶ。

運転手がここへ来るまで、涼子は動かない。

無駄に日の光の下、涼子は立つ事など出来ないのだ。

やかましいこと、と口に出さず心の中で呟いて、真っ白な手袋の手で肩に落ちた髪の毛をそっと後ろへ流す仕草をしている途中、

ふと、電話中の夫がこちらを向いて、「すまないね」と電話の相手に言うと、早々に電話を切る。

「どこかへ行くのかい?」

媚びる様に下から覗き込むような仕草と表情で夫は話しかけてきた。

「ええ、少し買物にでも。あなたはお仕事の電話ですか?お忙しいのは結構ですがご無理はなさらないで下さいね?」

涼子のふんわりと咲く春の花のような微笑にホ、とした表情を浮かべた夫は気遣うような言葉を紡ぐ。

「有難う。そうだ、夏が終わらないうちに海でも行こうか。水着を買ったといっていただろう。折角だしね」

やんわりと微笑み首をかしげる姿に夫は安堵したかのように更に笑みを深くした。

「あなた、わたくし水着など買っておりませんわ。お医者様に止められていますの。

 夢でもご覧になったのです?お疲れですの?私に気遣って下さるのは有り難く思いますが、くれぐれもお体を大事になさって」

「そ・・・そうだったね。すまない。おや、車が来たようだよ、気をつけていきなさい。

 僕はそろそろ出かけて夜には戻れないかもしれないから、先に食事はおあがり」

「ええ、行って参ります」

生温い扉の取っ手に手をかけて、涼子は一度夫を振り返ると、既に家の奥へ向かう後姿が妙に浮き立っている様を見つめた。





 アスファルトからゆらり、と上がる煙のような熱が足元にまとわりつく。

不快さを感じつつも一切表に出さず涼子は日傘を少し強めに握る。

一人歩きなぞ、どれほどぶりであろうか。

ぼんやりと、様々なものが混在する街をのんびり歩き、デパートの買物ばかりではなく、たまにはこういうものもいいものだと思っていると、いつの間にか騒がしさがあたりからそっと焚き終えた香の煙のように消えてた。

不思議に思いつつ歩き進めると、寂れてはいないものの、静かなアーケード街を一本入った裏道の道路に程近い、所に長く生きているであろう銀杏の木があった。

その目の前に古びた小さな雑貨屋が目に入る。

こんな所にお店が、と不思議に思いつつも久方ぶりの外出に疲れた身体は一休みしようと囁いている。

目の前の雑貨屋らしきものをのぞくと、openの札がかかっている扉とは反対側の、古典柄のレースの向こうで白いコペンハーゲンのポットが見えた。

喫茶もやっているかしら、と目をこらすと、薄い灰色のワンピースの女性がゆっくりと振り返って微笑む。

思わず返礼として涼子も軽く頭をさげると、店員とは思えぬ程の気安さで軽くカップを目の高さにあげる。

まるで旧友に合った時のように、何をしているの、入っていらっしゃいな、とでも言うように。

本来ならば涼子はこのような馴れ馴れしさというか、そのようなものを好みはしないが、何だかその女性の仕草に嫌な気持ちはせず、そっと、入り口の扉を押す、と。

リン、リィン・・・・

扉にはピーターチャイムトーンがついていたらしく、涼やかな音が涼子を迎え入れる。

こつり、とヒールを店内にいれれば飴色の床にヒールの音がそっと鳴る。

まるでダンスが踊れそうなぐらいに。

街の真中にいる筈だというに、ここはとても静か。

クラクションの音、電話の音はせず、どこからか流れる水の音と、湯を沸かすやかんの音に涼子は息を深く吐いた。

「いらっしゃいませ。今丁度お茶にしようと思っていたんです。

 今日はマックウッドのアールグレイのアイスティーにミントのジュレ。ご一緒に如何ですか?」

低めのヒールの音と共に隣の部屋から現れたのは、さっき目が合った女性。

真っ直ぐな黒髪に、まろい日本人特有の肌、職人のような指先の、独特な雰囲気の女性。

室内にはコレルリの合奏協奏曲が静かな音で流れ、テーブルには金色のしおりが挟んである三島由紀夫の鹿鳴館が置いてある。

「ええ・・・いただきたいわ」

身も知らぬ人の誘いを受けるなど、お母様が知ったらなんとおっしゃるかしら。

自分の行動の意外さに小さく笑みを含んで返事を口に出すと、女性はそう、と涼子の為に椅子をひいて、目の前に見るからに涼しさを誘うジュレを置く。

「シロップは必要でしょうか?」

「いいえ、結構よ」

あたりを見渡すと、大正浪漫風とでも言えばいいのだろうか、そんな雰囲気の中幾つものテーブルがあり、確かにメニューが置いてあった。

「ここは喫茶店なのかしら?」

「基本は雑貨屋というかアンティークショップですね。喫茶は私の趣味。今は開店休業中です」

ワンピースの上に羽織っただけの黒いレースのカーディガンをおさえて、涼子の前にセッティングは手際よくされて、あっという真に目にも涼やかな一つの風景が出来上がる。

「お付き合い下さって有難う御座います。私、あおといいます」

「いえ・・・こちらこそ。私は涼子。」

微笑みながら黒髪を指先で耳にかけつつ紅茶のストローに紅を残し、ふふと微笑みかけられた。

彼女につられて涼子もアイスティーを口にすれば爽やかなベルガモットの香りと心地よい味が喉を通り、心を潤す。

更に指先で薦められ、はしたない、と律っしつつ小さく掬った見た目の涼やかな花模様の陶器のスプーンで口に運んだジュレのミントの清涼感、丁度良い甘さに頬が緩む。

「紅茶はお好きです?」

感想は心のまま滑った。

「ええ、好きだわ、貴女紅茶を淹れるのとても上手なのね。それに、ジュレ何処で売っているのかしら、とても美味しいわ」

「これは私が作っているんです、お気に召して頂けて光栄です」

「お店のメニューに出しているの?」

このように浮き立つ気持ちはどれぐらいぶりだろう。

もってかえって明日も色合いを愛でながら口に運びたいと思った。

「いいえ、試作品なんです」

彼女のいい様に明日は食べれないのか、と残念に感じるが、このジュレは是非ともメニューに加えるべきと両手を口元に持っていき彼女にお願いをする。

「是非検討して頂戴、このジュレのファンがここに一人いますの!」

食の細い涼子にしては珍しいぐらいにジュレと彼女が勧めるほろほろとしたクッキーを食べて、おかわりにと淹れてもらったヒギンズのアフタヌーンを楽しむ。

初めて会ったというのに、まるで学生時代を彷彿とさせるような感覚に胸が高鳴り、自然と最近見た絵画展や音楽界の事話題に上る。

小さな花が咲くように、女同士の他愛もない会話があっちへ転び、こっちへ転び色んな方向へところころ回る。

涼子は久方ぶりの笑い声を包み隠さず出して、目の前の初対面の蒼と笑いあう。

夏の小川に足をつけたようなそんな感覚に浮き立つ涼子の鞄の中から急に無粋な音が鳴る。

「失礼」

謝って携帯に手を伸ばすと、いつの間に、と驚く時間。

着信は運転手のものだった。

自由気ままに出歩きたくて時間を指定して運転手を待たせていたのだ。

そんなに時間が経っていただなんて思いもしない、この店に入ってまだ三十分も経っていない気がするのに、もう四時間も経っていただなんて。

「お城の鐘が鳴っているようね」

「そのようだわ。残念」

彼女のもの言いはロマンチストだ、とても素敵と思い別れ難く涼子は蒼の手を握る。

帰りたくはない、もう少しお話したいわ。

自分の役目も全て忘れて縋り付きたい衝動のまま、涼子は蒼の瞳を見つめた。

「また来て下さいな。時折はここに私いますから」

頷いて涼子がお茶代を出そうとすると、蒼がそっと手で制する。

「今日は試食していただいたから。また付き合ってくださると嬉しいわ」

秘密ね、と唇に手をあてる仕草に学生時代の友人を思い出した。

「有難う、ね、ひとつ戴きたいものがあるのだけれど。

 入り口のピーターチャイムトーンと同じものがあればいただけないかしら。私の事は涼子と呼びになって、そして貴女とは敬語ではない言葉でお話したいの、お願いよ」

勿論、と蒼は微笑んで隣の部屋から小さな箱を持って来て瀟洒な袋に入れると涼子の手を握り優しく包み込むように手渡す。

「気に入って下さって嬉しいわ。私もあれ大好きなの」

二人の大人になった少女は顔を合わせて小さく笑った。





 それから二週間後の午後、涼子はお気に入りのカフェでチーズケーキを購入すると、喧騒から離れた場所へと向ける。

太陽はやっと真上にきた頃で、日傘を握り締めた涼子のこげ茶色の髪を風が揺らす。

煉瓦作りの小道を行けば、大きな銀杏の木の前に大正浪漫風のもはや家といっても過言ではない、店がある。

涼子はそっと外からのぞき見れば薄水色のワンピースが揺れて、黒い髪をハーフアップにした後姿が目に入ったので、そっと入り口の扉を押す。

リン、と鳴るチャイムに涼子が安堵の息を吐くと、衣擦れの音と共に隣の喫茶室から蒼が出てきた。

「涼子さん、いらっしゃい。もうそろそろお茶にしようかと思っていたの」

招きいれられた喫茶室の真中に、繊細な花の彫刻があるアイリッシュハープがしなだれた猫のように在る。

「これ、貴女がお弾きになるの?」

「少しだけれどね」

奥の扉を開けているのだろう、風がふわりふいて、髪を少し押さえる蒼の指先をじっと、涼子が見詰めていると好き?と問われた。

好きって。

涼子は頬が少し赤くなるのを感じながら、学生時代の憧れた先輩を思い出して、なんだか恥ずかしくなりながら下を向けば、

蒼の笑う気配。

「楽器興味あるのかしらっておもって。」

「え?・・・ええ、楽器ね、好きよ。

 是非聞きたいといいたい所だけれど、休憩をしようとしていた人を無理矢理弾かせる程に気が回らない人間ではないと自負をしているの」

私は貴女に無理をさせたくは無いのよ、気が向いたときに聞かせて頂戴な、と付け足すところころと蒼は嗤う。

「まあ!」

「だってそうだと思いません?今休憩を取ろうとしていたのに。

 まるで自分の意志のまま全てが動かせると思っているみたいに・・・」

蒼に会うのはこれで五回目。

通い詰めているのは自覚している。

長時間居ないようには気をつけているのだけれども楽しくて、蒼もいいと言ってくれるからついつい来てしまうのだ。

涼子はこの不思議な女性に心が傾いていくのを感じながら、いつまでもこんな時間ばかりがあればいいのに、と目を伏せる。

思考の海に投げ出された意識をそっと蒼の影で戻されて、彼女がは、っとする程近くに居た。

なだらかな頬が優しげでいて快活な瞳が瞬きつつ、指が伸び涼子の胸元にブローチが輝いた。

「これ、直し頼んでたの出来たから。どう?」

「綺麗になっているわ。有難う、嬉しい」

蒼が触れた部分があたたかく感じた。

彼女に会うまで何年も何年も、忘れていた感覚であった。

そしてその感覚はきっと私がまだ私を忘れていない証拠だから。

私の胸の高鳴りを私は愛しく思う。

「お母様から戴いたものと聞いていたから。丁重に直させて戴きました」

まるで宮廷の貴婦人に挨拶する貴公子のような態度で右手を左胸に持ってくるのだから、面映い心地である。

涼子の軽やかな笑い声が響いて、では、と涼子が差し出した箱に蒼が満面の笑みを浮かべた。

「有難う!これならば、そうね、テイラーズ・オブ・ハロゲートのヨークシャーティー ゴールド をいれましょう!」

低めのヒールを鳴らしてお茶を入れる用意をしはじめた蒼を、涼子は見守りつつ、ふと、視線を隣室の奥へと向けるとそこには大きめの箱、いや、長持ちが目に入る。

「蒼さん。あれは何?」

湯を沸かし、カップをポットを温めている蒼は顔を上げて、涼子の指先へと顔を向けた。

そのまま目を丸くしてそのまま涼子をじっと見つめた。

「衣装箱、よ」

「古いものなの?」

少し困ったように唇を爪先でなぞりながら、すこおし考えながら話すような、ゆっくりした口調で返答をする。

「古い、と言うもの程古いわけじゃないのだけれど、日本が開国した後ぐらいの作品ね。マゼランチェストの模造品。紅毛漆器こうもうしっきとして分類していいものね」

「売り物かしら?」

「・・・・・・欲しいの?」

涼子の腰を降ろしたテーブルの中央にノリタケのポットを置いた蒼の目が少し光る。

「気になっただけ」

「そう。まだ、売り物じゃないの。仕入れてきたばっかりで何も見てないからチェックも済んでないし」

「いつ買ってきたの?」

「旧正月に面白い市が立つと聞いてね。そこで買ってきたの。多分欧米人とかが買ってそのまま流れた、って感じじゃないかしら。日本製だし、外国人が好みそうな品だもの」

彼女の説明よりも衣装箱から目が離せない。

「随分と経つのにまだ見ていないの?」

紅茶の時間を計るために置いた砂時計が最後の一粒になった所で、ティーコジーを取ると白磁のカップに琥珀の輝きが注ぎ入れられる。

「沢山、買ったから」

音も無く、渡されたカップを手にとり、涼子は少し口をつけながら衣装箱が少し揺らいで見えたのを不思議に思い、そっと瞼を手で押さえた。

「何をいれていたのかしら。」

切り分けたチーズケーキにフォークをいれた蒼は目を細め小さく笑う。

「衣装箱は衣装をいれるもの。そうね、あとは大事なものを」

「大事な、もの・・・」

「いれたいものがあるの?涼子さん」

涼子は、は、と顔を蒼に戻すと、いれたいもの、と繰り返す。

今やっと低い音量でヘンデルのパッサカリアが流れている事に気付いた。

何故気付かなかったのか。

「若しくは、大事な、隠しておきたい大事なもの。それか隠しておかなければいけないもの」

口をつけた紅茶の香りと走るヴァイオリンと目の前の蒼の姿。

涼子はぼんやりとノリタケブルーの美しいカップに口をつける。

程よい温度の紅茶は唇を濡らしながらぼんやりと言葉が回り始めた。

大事なもの。私の、大事な。

「見てみる?衣装箱」

ケーキを食べ終えた蒼は立ち上がり、誘うように手を伸ばす。

その手に涼子は手を載せて、部屋の奥へと足を運ぶ。



 隣室の奥は工房のような部屋だった、沢山の何に使うかもわからないような道具、雑多に置かれた物の中に、衣装箱は静かに佇んでいる。

人が一人、しかも男性が入るような大きさの衣装箱には頑丈そうな鍵がついている。

作られた年代は古いのに修復を行ったのか、平蒔絵は精密で美しく、白蝶貝の輝きがライトを柔く写していた。

図案は復刻モノね。後世になる程空間の美を愛する日本人気質が反映されるのだけれど、これは初期のように全体にびっしり模様があるでしょう?東インド会社の注文かもしれないわ、と説明をする声は耳半分で聞いている。

指で触れる凹凸の様、鳥の舞う植物模様は眩暈がする程美しく、大切なものをしまうには最上の美であると感じた。

「これはとても丈夫でね、もしペットとかが入ったら大変。蓋も重いでしょう?中から揺らしてもびくともしないし、声を上げても外にもれない」

熱い季節の筈なのに、ひんやりと、冷たい汗が涼子の腕を伝う。

頑丈な、衣装箱。

「中を見る?」

怖い。

「いいえ」

怖いわ。

触れながらも、この長持ちは恐ろしい、と中身を見る事への躊躇いと、既にこの長持ちへの自分自身の執着を感じた。

「チェックし終わるのはいつ頃?」

「涼子さんが望むのならば今日からでも見るわ。終わるのは一週間後ぐらい」

でも。

これは私のものだわ。

「そう、お願いできる?」

「勿論よ、涼子さんのお願いだもの」

微笑む蒼の顔に涼子はいつもと違う蒼を見た気がしながら、自分を呼ぶ携帯の音を遠くで聞いていた。










 トントントン、と軽くバジルを刻む手を止めて、湯で加減を確かめるとザルにパスタを上げてオリーブオイルであえると、皿に盛る。

適当な大きさのバジルとフライパンの上で音を立てるトマトにバジルを入れモッツァレラと混ぜ塩で整えると、パスタの上にのせた。

更に今日庭でつんだルッコラを水洗いしてサラダボウルで混ぜる。

ガスパチョを冷蔵庫から出した所で、玄関を開ける音に顔を上げた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

姉のゆえが機嫌良さそうに、ダイニングの馴染んだ椅子に腰を降ろすと、差し出された土産の菓子を受け取って、冷蔵庫に直す。

出来上がった夕食を並べると、冷やしていた紅茶を渡し蒼も席につく。

プライベートで出かけて人ごみの中帰ってくる時、不機嫌な表情で帰るのはいつもの事、そして少しの甘えからくる我儘が今日は無く、珍しい事だ、と蒼は微笑む。

不機嫌になる理由を知っているからこそ、嬉しいのだ。

月はふとした拍子で、「みえる」から。

人ごみの中であればそれは必然というもの。

「楽しかった?」

「そうね、これ見て」

差し出されたポストカードには、美しい大和絵の舞う白拍子の姿。

「展覧会の初日に行くなんて珍しいのね」

「たまにはね。この絵はよかったわ、清廉で、純粋で。哀しくなるほどに美しい」

「欲しい?」

「実はね。・・・良い?」

上目遣いでおねだりする様子はかわいく、自分は相変わらずこの目に弱いのだと嘆息した。

「いいわ、色々聞く口はあるから聞いておくね。結構買物してきたのね、何を買ったの?」

「本と、あとショール、お茶・・・蒼の分もあるから後で見せるわ。一先ずご飯にしましょう。

 て・・・またパスタ?」

一昨日もパスタじゃなかった?とちょっとだけ眉をよせる月にごめん、と蒼は笑う。

「次はパスタじゃないメニューにする」

和やかな食卓で、野菜の多い夕食を食べおえると蒼は月が買ってきたものではない、デザートを冷蔵庫から出し、

食後の紅茶をいれる。

「涼子さんが持ってきてくれたの」

「涼子さんって最近のお得意さんの?」

貴方は交友関係が多いからと微笑まれる。

「お得意というよりも友達かなあ。あ、そうそう、旧正月の市で長持ちというか、衣装箱買ってきたじゃない?

 あれ、涼子さんに売るから」

月が食べようとしていたチーズケーキはお皿に転がり、嬉しそうにケーキを頬張る蒼は気にもせず、まるで明日のメニューを告げただけのような、そんな表情のままだった為、月は眉を吊り上げる。

「なんですって?」

「だから、あの長持ち・・」

「阿片戦争後に作られたあの衣装箱の事よね!?」

「そうだけど?」

「意味わかってるの?」

怒ったように月は落としたチーズケーキを口にいれ、紅茶を一気に飲み干す。

そのカップに紅茶を継ぎ足して、蒼は笑った。

「だって、涼子さんが見つけてしまったのだもの。仕方ないじゃない?月だって売れないよりも売れたほうがいいでしょう?」

月が眉間にしわを寄せて、不機嫌そうに紅茶に口をつける。

「だからといって普通の人にあういう市で買ったものを売ると言うの!?」

怒る月を宥めるように蒼が笑うと月が怪訝そうな顔になった。

「涼子さんなら大丈夫だよ、だって呼ばれたようなものだもの」

ふふ、と笑う顔には月もお手上げだ。

「勝手にすればいいわ。時々蒼って怖い人だと思う」

「そう?必要なものを必要な所に置くだけよ?」

蒼の言葉にぐったりと疲れた月はこめかみをゆびで解してため息をついた。






 古い電話の喧しい音に涼子は眉をしかめて額の上に掌をのせた。

りん、とあの店で購入したピーターチャイムトーンが鳴って、レースのカーテン越しに見た青空を憎々しげに睨み付けると涼子は手にあったスタンダールの赤と黒の大判本を置くとカウチから乱暴に立ち上がる。

ああまた、またのね、と怒りの衝動からかこみ上げてきた嘔吐感を押さえバルコニーへ足を向ければ、玄関の門前に見える黒い日傘。

伸ばした手がブザーを押したのだろう、ブザー音から程なく家政婦のけたたましい足音がして、玄関の乱暴に開く音。

日傘が折りたたまれると、日に焼けた健康そうな腕と、マタティニィドレスに身を包んだ肢体が露となる。

家政婦の親しそうな仕草に涼子は頭の先から冷えていく感触に身を任せて、己の白い腕を組み一瞥すると身を翻し鏡台の前に座る。

薄い化粧の上に剥げてしまった紅を引き、丁寧に、だがあの女とは対照的なように化粧を施す。

軽い部屋着からワンピースに着替えて、髪を整えるとそっと応接室へ降りてゆく。

応接室の扉の前に立てば中から聞こえる話声に涼子はそっと耳を澄ませば、やかましくがなりたてるだけの家政婦の声ではなく、ひっそりと内密な話に向く声が聞こえ、こんな声も出せたのかと涼子は内心驚きを隠せないでいた。

「いい?奥様は大人しい方だから強気に言えばこっちのもんだ。

 絶対に弱気に出ちゃいけないよ。

 あんただって愛人のままは嫌だろう? 

 私だって、産まれてくる子が父無し子よりもいた方がいいに決まってる。

 旦那様はあんたの言いなりなんだから、奥様に強く言えばいいさ。

 養子とはいえども旦那様は今では会社ではなくてはならない人だからね、奥様と別れたっていい収入が得られる筈だ。

 あんな奥様なんかに負ける筈がないんだから、私の娘が。

 うまくやれば末は社長婦人、駄目でもたんまりと慰謝料が来る」

卑しい声の応酬が耳にざわめきを与える。ああ、やはり育ちが悪い方々ですものね、お母様。

お母様の仰るとおりでした、ええ、わかっています。

涼子は続く声に嘆息を漏らした。

「わかってる。泣かせるぐらいに言い負かせちゃえばいいよね。お嬢様だもん、世間知らずのやつなんか敵じゃないわ」

そこまで聞くと静かに自室へと戻るとゆっくりと扉を閉めて、鏡台近くに飾ってある夫との写真立てに手を伸ばす。

そっと写真だけを手元に出してバルコニーに行くとマッチ棒を擦る。

しゅ、と音がして独特の香りと共に赤い色が写真を侵食していくのをじっと見つめ、やがて黒いカスとなった写真だったものを踏みつけると、涼子は小さな笑い声を上げた。

優しい夫ではあるのだ。

人形のようだと親族にいわれた涼子に美しい人と囁き、結婚式の時に陶器を扱うような手つきで重ねた指先を覚えている。

男は裏切るものよ、とお母様は電話口で崩れ落ちながら泣きながら私に言ったものだが、この人は違うと言うと、私もそう思ったわ、でも違った、ねえ涼子覚えていなさい、この世の中には色事で惑わす卑しい女がいるの、汚らしい女がね!と。

凛と美しい和装の母は父の女癖の悪さに随分手を焼いていた。

だからこそ涼子の夫を選ぶ時は誠実な人をと随分父に言っており、父も母を苦しめているからこそ、願いを聞き届け、政略結婚よりも社内の優秀な者、つまりは立場の弱い者を涼子の結婚相手として連れてきたのだ。

初めて会ったのは軽井沢で、淡いカンカン帽を手に白いシャツの爽やかな、優しげな人であった。

以降も涼子の罵ったりさげずんだりは一度も無く、優しい夫のまま、今がある。

涼子を乗せてボート遊びをした水面の美しさにヴェルレーヌを歌えば、貴方は優雅な方なのですね、と微笑む。

指輪も華奢な貴女に似合うものをと宝飾店で特別に誂えてくれた。

覚えている、覚えている、貴方の優しく細やかな愛情を。


扉を叩く三つの音が涼子を現実に戻した。

「奥様、客様が」

いつもの家政婦の口調に綻ぶような笑顔で涼子は扉を開ける。

「奥様、おでかけなさるご予定でも御座いましたか?」

「ええ、少しね。でも急ぎではないから。お客様?予定に無い方ねどんな方?」

やんわりとした受け答えに家政婦はにっこりと微笑み、声を弾ませた。

「若い女性です。応接室に通しております」

「どんな御用かしらね」

ゆっくりと階段を降り、涼子は家政婦の開けた扉の中にいる女性を思い浮かべて一度瞼を閉じてそうして開けば、そこには酷く若い、華やかなというよりも派手な女性が作り笑いで立っている。

「初めまして、どのようなご用件でしょうか?」

優雅な仕草でソファに座る涼子を目で追って、若い女も丁寧にしているつもりなのであろう仕草でソファに腰を降ろした。

「単刀直入にいいます。私あなたのご主人の子どもがお腹の中にいます、もう8ケ月です」

早口で少し舌をもつれさせたような言葉に鷹揚に頷いて、家政婦の持ってきた紅茶を一口飲む。

「そう。で、どうなさりたいの?」

あまりの簡素な受け答えに女は一瞬うろたえるが直ぐに持ち直し、オレンジベージュに彩られた唇を動かす。

「別れてください」

「随分急なお話ね。主人は承知なのかしら?」

「勿論です。」

直ぐにわかる嘘をつく女を涼子は心底憐れと思い、女の指にはめられている指輪を見つめると、ふと、その指輪に、正確に言えばその石に見覚えがあった。

涼子のその視線に気づいた女が勝ち誇ったようにして指を口元近くに持ってくるとグロスがよく光る唇で言葉を紡ぐ。

「これは貴女のご主人から頂戴したものです、私に、ってね。綺麗でしょう、このエメラルド」

こんな女はどうとでも出来る、だがその指輪は。

「離婚の事は承知しましょう、ですがその指輪は返して戴きます」

「なんでよ!」

鷹揚な態度から一転して凛とした涼子の言葉に女はたじろぎ、精一杯の上品さの鍍金がいっきょに剥がれ落ち、常の態度が外に出る。

「その指輪は私が母から受け継いだものです。

 曾祖母の代からあるものですから、貴女に差し上げるわけには参りません。

 返していただけないのならば離婚の件は承知しかねます」

元より、門前にてこの女の姿を確認した時点で離婚を提示されたら応じるつもりでいたのだ。

涼子はここまできて柔らかい態度でいる必要もないと感じた、というのもあるが、指輪の件で半分ほど理性が飛んでいる自分に驚く。

あのエメラルドは、父の帰りを待つ母が夜中何度も撫でて父と祖母の名を口ずさんでいたものだ、母のこの家の者として妻としての縁の象徴なのだ。

あんな女の手にあるも汚らわしい。

涼子の言葉に女は顔を真っ赤にして、指輪を指から引き抜くと、涼子に向かって投げつけた。

指輪は涼子のこめかみにあたり、つ、と一筋の血が流れるのをみて女は、ははっと、笑う。

「こんなもんくれてやるわ!だってこんな物よりも大きな物買って貰えばいいんだもの。

 あんたは早く出て行く事ね。

 離婚もさっさとしてよね!」

流れた血をそっと指ですくって、涼子は静かに女を見るとその後ろに立っている家政婦共々に、口角を上げて告げた。

「今晩にも主人に話しますわ。

 色々手続きもありますから暫く時間は頂戴しますが、貴女の子どもが産まれるまでには成立させましょう。

 詳細は主人から話させましょう、これでいいですね?」

「あたりまえでしょう!」

ふん、と顎をそらしてテーブルに叩きつけるように封筒を置くと、女は足音も慌しく去っていくのを涼子は見送りもせず、

その後を追う家政婦のやかましい足音を聞きながら封筒を手にとると、中を見る。そこには夫の欄は記入済みで妻の欄は未記入の離婚届が一通。

封筒を手に応接室を出ると、丁度家政婦が帰ってくる所で、涼子は額に汗をかいた家政婦を見る。

「お帰りになられた?」

ヘラリ、とした笑みを浮かべる女に優雅に微笑む。

「ええ、はい」

「そう、身重だというのにあのように歩いては身体に良くないわ。貴方からも注意して差し上げないと」

「へ?」

鳩が豆鉄砲をくらった、というのを体現した家政婦に涼子は少女のように笑う。

「歩き方がそっくりなのだからわかりますよ」

笑いながら階段を登る涼子の後ろで暫く家政婦は固まったままであった。















 深夜、慌しい音がした為、読んでいた本から少し目を離した涼子は夫の車が門前に止まったのをバルコニーから確認して、再び本へと目を通す。

玄関の開く音と、駆け足の階段を登る音の次に涼子の部屋の扉がノックも無く乱暴に開けられた。

本から目を離さないそぶりのまま、俯いた髪の間から真っ青な表情で服も乱れた夫を確認しつつも直ぐに本に集中する。

「涼子」

泣きそうな夫の声に涼子は本の次の頁をめくる仕草をすれば、涼子の夫は縺れそうな足取りで涼子の座るカウチの側に立ち、すまない、と頭を下げた。

「頼むから、聞いてくれ、昼の事は聞いた、あれはあいつの行き過ぎで、本当は」

一つため息をついて、本を膝の上に置くとカウチの側にある小物入れから封筒を取り出し夫へと差し出す。

そしてもう一つ、涼子の中指に輝くエメラルドの指輪を見せつけた。

「私、約束しましたの。これを返して戴く変わりにあの方の条件を受け入れると」

夫の顔色が変わる。

「申し上げましたわね?これは曾祖母の代から受け継がれている大事な指輪ですって。

 あの方に合わせてサイズも変えられましたのね。少し私には大きいようですわ。

 デザインも変えてしまわれまして。

 回りについていたダイヤはどうなされましたの?

 まあ、かまいませんわ、あんな小さなダイヤは大方ピアスにでもしてしまわれたのでしょう?」

淡々と目もあわせず言葉を紡ぐ涼子に夫は項垂れて、膝を床につく。

「涼子、涼子、許してくれ、頼む、許してくれ・・・」

時期重役候補として、有能だと聞いている。

だが、初代より実るほど頭を垂れる稲穂かな、と口ずさんでいたからして、今もなお多額の報酬は出さぬ方針の会社だ、更に婿養子という立場から自由に出来る金額は大きいわけではなく、女に貢ぎこむには足らぬのであろう。

報告を受けた中で、涼子の宝飾品はもとより、あまり使われてはいない別邸や別荘の絵画や骨董品、更に売り払っている土地もあった。

無論既に買い戻し済みではあるが。

哀れな男ではあった。

地位も名誉も失わず、ちょっと遊んでみただけなのだろう。

水の混じった男の後頭部を見ながら涼子は口元にベージュのマニキュアを施した指先で触れて、あなた、と甘い声を出す。

「涼子」

その声に期待を感じ取って、顔を上げた夫の頬に指先で触れて、涼子は悲しそうに眉を寄せた。

「あの方からこれを頂戴しましたのよ」

封筒から白く美しい手が引き出した離婚届には既に涼子の名前の記載がある。

「あの方、あなたの了承はとってあるとおっしゃったの」

「違う!そんな事は断じて無い!これは無理矢理書かされたんだ、涼子、信じてくれ、涼子」

泣き崩れた夫の腕が涼子の膝に回り、太股に顔を押し付けて泣く様は憐れとしか言いようがなく、憐憫の情がわかないでもない。

涼子が夫の髪に指をいれて優しく撫でれば、夫は喜色満面の笑みを浮かべて微笑んだ。

「許してくれるのか!?」

「あなた、あの方は離婚届をご覧にならなければ納得いたしませんわ。お腹に子どもがいるとおっしゃるの。

 ご存知ですか?」

「子・・・ども?いや、知らない!そんな筈は無い!」

父の愛人とは違い、己の立場やこの状況の危うさをよく知っている男は矮小さを隠そうともせず、この場を取り繕うのに精一杯という様子に涼子はあなた、

と呆れたように笑う。

「事実かどうかは今はわかりませんわ。でもあなたの子だったらどうしますの?」

「あ、あんなあばずれ、俺の子どもじゃないかもしれないじゃないか。

 本当だ、あんな女どうでもいい!俺が一番大事なのは涼子だけだ。本当だ、浮気は悪かった、

 あいつのせいで涼子に嫌な思いをさせたのは本当に悪かった。お願いだ、許してくれ」

裏返った声の夫の肩を撫でて、誘導するように立たせると離婚届を封筒にいれると持たせた。

「あの方にこれは一度見せるの。

 それは必ずあなたが自分で出すからと言って破棄して下さいね。

 その間に、あの方の・・・お腹の子が貴方の子かどうか必ず聞いて下さい。

 必ずですよ?あなたも色々と大変でしょうから、私は明々後日から少し遠出します。そうですね一週間程。

 その間に必ず身辺整理なさって下さいね」

うんうん、と何度も首がはずれる勢いで頷く夫の頬に涼子は唇を落とした。











 夕刻、薄い水色のスカートを揺らして蒼が妙な声を出しながら背伸びをすると、ぼきぼきという音と共にパラパラと木屑や金屑が落ちていく。

紺色のエプロンを椅子に座りながら外して、足を伸ばしたまま行儀悪く、靴を床に片方ほおり投げた。

ころん、と転がった靴を椅子に横座りしてなお身体を倒した体勢のままの蒼が見ていると、靴を拾う指先がそのまま反対の手で蒼の額を弾いた。

「蒼。行儀が悪い」

逆さまの姉の顔を見て緩んだ口元のまま、蒼は月の腕を掴んでよいしょ、と一声。

身軽に身体を起こして月の目の前に立つと、床に置かれた靴を吐く。

「疲れた」

「お疲れ様」

肩に月が白いショールをかけると嬉しそうにスカートを揺らして一回転。

そのまま月の手元に指輪と、そして宝石箱を置けば、月がおどろいたような表情で蒼の目を見る。

「急ピッチだったよ。修復終了」

「御疲れ様・・・・また何処かに出かける気でしょう?」

「ばれた?」

「今度は何処?」

スナフキンのように生きたいと豪語する蒼だけあって、気が付けば旅行鞄を持って何処かへいってしまう。

だが仕事を疎かにするような人間ではないのであまり強く言わないが、最近安全ではない場所にも行くので月は心配で仕方ない。

蒼はいう事を基本的にきかない。

唯一、止める言葉を言えるのは月だけだ、というのは強く自負している。

「多分ホーチンミンか、もしかしたらスコットランドかも」

「かもって何」

「涼子さんとお出かけなの。明後日から一週間ぐらいね」

「涼子さんって、あの衣装箱欲しがっていた涼子さん?」

「うん。今日納品したの」

さて、お腹がすいた、と歌いながら歩き出した蒼の爆弾発言に月は思わず蒼の解れ毛を強く掴んだ。

「痛い!」

「ちょっと!それは私が昼に出かけている間にって事よね?」

「うん。だって月さんいなかったし。大丈夫、これぐらいはもらったから」

指で示す金額にあら、と月が口元を押さえる。

「この間のブローチの修理もいらないっていったのにこれぐらいくれたし。」

「あれは当然よ。材料費だって結構かかる代物だったでしょう。」

「まあ、お友達でありいいお客さんだよ、お客さん好きでしょう?」

「好きよ、好きだけどあの衣装箱は」

「だって、あれは涼子さんに必要だったんだから、だからいいと思うのだけれど」

「・・・・・・売っちゃったものは仕方ないけれど。これで警察が家に来るとかなったら嫌だからね」

ダイジョブ!と自信満々に言った蒼に月はため息をついた。














「嬉しいわ!」

涼子の部屋で抱き合う二人がカーテンに写り、ひとしきり抱き合えば女はそっと身体を離して男の唇に唇を重ねる。

「これで安心して貴方の子どもを産めるわ。この部屋も改装しましょう。なんだか古臭いもの。

 そうねえ、ピンクを貴重にて、こんなしみったれた絨毯なんか捨ててしまいましょう。

 ニューヨークモダン風にして、貴方の書斎もあんなマホガニーの机なんか今時流行らないわ。

 もっとシンプルにしましょう!」

「いや、この家は涼子のものでね、僕の自由には・・・」

「何言ってるの!?勝手にやっちゃえばいいじゃない。貴方はここの主人よ。出て行くのはあの女よ。

 旅行から帰ってきたら追い返してやればいい。早速明日にでも業者を手配しましょう。母さんが得意なのよ、そういの。

 それからあの女に指輪盗られたからそれ取り返してよね!」

捲くし立てるように話す女を宥めて、一先ず客室へと案内した後、もう一度涼子の部屋に戻り、

そうして先刻証拠と言って見せた離婚届を何処に隠そう、と辺りを見回した。

涼子の宝石箱や箪笥など、先刻指輪を探すのに勝手にあちらこちらひっくり返した彼女の行動には参った、とこめかみを押さえていると、

自然に目が行く大きな衣装箱。

開かないわ、これどうなってんのよ!と彼女が喚いていたものだ。

先日には無かった気がするが、この部屋には昔からあったといっても差し支えが無い程に馴染んでいる。

何故だか妙に惹かれて近付いた。

きっと重いであろう蓋を力を込めて開ければすんなりと蓋が開く。

中は。

空だ。

自分一人入っても余裕な程の大きさの長持ち。

どこからどうきた確信なのか、ここに置けば大丈夫、とそっと長持ちの中に書類をいれればゆっくりと落ちていく離婚届。

ふと思い返す先刻のがなりたてるような彼女の声、そして妻の、涼子の声。

嗚呼、もう嫌だ、何もかも逃げてしまいたい。

小さい頃親の説教が怖くて押入れの中に隠れた事を思い出す。

ここなら大丈夫という安心感がこの長持ちの中に溢れている。

そうだ、ここなら、という遊び心も足して、そっと長持ちの中に足をいれた。







「ただいま!」

りーん、とピーターチャイムトーンの音を響かせて、嬉しそうに旅行鞄を持って入ってきた蒼は店内にいる常連の姿を見つけると、手放しに喜ぶ。

「真澄ちゃん!いらっしゃい!」

真澄、と呼ばれると手に中国茶を持って香りを楽しんでいた真澄が振り返り、アトリエボズのスカートを翻し蒼に抱きついた。

「お久しぶりです!」

「あら、蒼お帰りなさい」

奥から出てきた月にもハグをして、お土産と差し出した物を受け取った月は冷蔵庫に直しに再び奥へと姿を消す。

「蒼さん二週間もどちらに行かれたんですか?」

「スコットランド!途中に骨董市があっていいのがあったら空輸してるの。

 真澄ちゃんにもお土産あるの」

鞄をあけて、差し出した綺麗なグラスに奇声を上げて真澄は喜ぶ。

「凄い綺麗!有難う御座います!」

「邂逅のご挨拶はここまでね。さあ、紅茶を淹れて頂戴」

ティーポットを手にしてお土産の菓子を皿に盛った月が微笑めば蒼は満面の笑みで頷いてお湯を沸かし始める。

その隣で月が真澄ちゃんへの土産を見ながら近くに置いてあった週刊誌をそっとブックラックに片付けた。









そこに小さな記事が一つ。



名家にて妻の留守中に夫の変死体発見。犯人は愛人の逆上によるものか!







やがて室内にベルガモットの香りが漂い、三人の菓子を誉める言葉が響いた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

衣装箱には鍵を 西海道 真秀(サイカイドウ マホ) @kou_maho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る