-Stigma-

桜々中雪生

-Stigma-

 ──ややはまだか。


 義両親に幾度となく詰られ、赤ん坊を渇望された。


 ややはまだか。

 ややは。

 ややは。


 ──煩い、煩い、煩い。

 お前たちじゃない。私が、一番赤ん坊を、この子を欲していたのに。どうして、私が責められなくてはならない。

 この子はお前たちの子じゃない。私の子だ。


 返せ。返せ、返せ、返せ、返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ。私のややを何処へやった。可愛い私の子。名もまだ与えられていないのに。


「絢子さん」

 姑が私の名を呼ぶ。嗚呼、忌々しい。そのしわがれた汚い声で私を呼ぶな。

「……ややを返せ」

 絞り出すように声を出す。姑よりも嗄れた声で、誰の声なのか、束の間、理解できなかった。息を呑む音が背後で聞こえた。

「絢子さん、それは、謝るよ。私らが悪かった。あんなに、あんたを追い詰めていたなんて……」

 聞きたくない。お前の声も、言葉も。言い訳など要らない。ややを、早く。


***


 絢子は子をなかなか授からなかった。十五の時に齢が二十も上の男の元へと嫁ぎ、彼で破瓜の痛みを知った。その夫と契り、毎晩のように抱かれても、月のものがなくなることはなかった。

 ──ややはまだか。

 ──お前はどうして私のせがれの子を授からない。

 義両親は、けして自分たちの息子が不能である可能性を考えようとしなかった。すべて、嫁に来た絢子が悪いのだと、結婚して十七年、赤ん坊を授かるまで憚らない口撃は続いた。月のものがいつも通りにくること、それを伝えたときの義両親や夫の失望した顔、それらの重石おもしは絢子にのしかかり、絢子の胸をぐしゃりぐしゃりと潰していった。


「……お義母さま」

 ある日、絢子は真剣な面持ちで義母を訪ねた。

「あぁ、絢子さんかい。何か用かね」

 興味なさそうにちらと絢子を一瞥し、義母は赤ん坊の服をせっせと縫う作業に戻った。結婚して三年も経った頃からだろうか、子ができないことに痺れを切らしたのか、これ見よがしに赤ん坊の服をこさえるようになった。絢子には、これも苦痛で堪らなかった。見るたびに、胃がきりきりと軋んだ。

 私だって、否、私の方が自分の子を望んでいるのだ。お前たちに責められる謂れなどないはずなのに。

 幾度となく、義母の作った服を裂いてしまおうと思った。しかし、それらを壊してしまえば、身籠るという望みも壊れてしまいそうで、それはまるで呪いのように、絢子の行動を縛った。

 だが、きっと漸くその日々が終わる。

「……月のものが、もう二十日ほど遅れております」

 服の間を縫っていた針がぴくりと動いた。目を凝らしていなければ気づかないほどの小さな動きだったが、絢子は見逃さなかった。しかし、義母は何もなかったかのように普段と同じ憮然とした態度で絢子へと声を発した。

「そうやって糠喜びさせておいて、ただ遅れているだけなんだろう」

 事もなげに言い放つ。一週間ほどならまだしも、一月近く遅れることなど滅多にないだろうに、それすら信じたくないほど私を嫌っているのだろうか。所詮私は、家の後継ぎを産み、義母の憂さを晴らすためだけの道具なのか。ふつふつと湧き出る痛みを握り潰し、棘のないように言葉を選んだ。

「あの、ですが……、念のため、明日お医者様へかかろうと思います」

「あぁ、勝手に行っておいで。どうせ身籠ってなどいないだろうからね」

 ちくしょう。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、軽く頭を下げて障子を閉めた。ぴしゃりと音をたてたのは、心が漏れ出てしまったからか。腹を優しく撫でながら、絢子は暗い感情の捌け口を探していた。


***


 村の医者へは、女の足では一と半刻ほど掛かる。ふぅふぅと息を切らせて、絢子はようやく門戸を叩く。

「ごめんください」

 がた、がたん。

 立て付けの悪い引き戸を鳴らして腰の曲がった白髪混じりの老人が出てきた。

「おや」

 皺だらけの顔に不釣り合いな大きな瞳で、ぎょろりと絢子を見た。そのままじろじろ全身を隈なくめつけた後に、

「ああ、ミチさんとこの嫁さんかね」

 と無造作に言うと、くるりと背を向けて中へ入ってしまった。戸惑いを隠せないまま、門のそばに立ち尽くしていると、頭だけをこちらに向けて

「早うおいで。お腹の子のことじゃろう」

 診もしないうちから、何故絢子が自分の元へ訪れたのか言い当てた。この医者が村の人間たちから仙人と噂される所以の片鱗を絢子は見たような気がした。ひょいと投げて寄越された言葉に唇を戦慄わななかせる。

「……私は、身籠っているのですか?」

「なんじゃ、儂よりもお前さんの方がわかっとるじゃろうて。月のものは来とるのか?」

「いえ、ひと月近く……」

「そうじゃろう。お前さん、もう立派に母親の目をしとるよ。ほれ、薬湯じゃ。入り用なら巾着に持たせてやろう。湯で煎じれば、すぐに飲める」

「ありがとうございます。……よかった、私は不出来な身体ではなかったのですね」

「そんな風に言われたのか? 気にせんでええ、気にせんでええ。ミチさんはそういう人じゃ。お前さんは、お腹の子を無事に産むことだけ考えとりゃええ」

 言葉と同じにひょいと眉を上げて、医者は軽く言い放つ。不思議な男だった。絢子の潰れた胸に空気が満ちて、再び膨れる。夫でさえも放っていた絢子を、たった二言三言で回復させた。

 ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も頭を下げながら、来た道よりも足取り軽く帰路に就いた。


「ただいま帰りました」

 誰もいない廊下に声を投げかけると、奥の襖が開いて、義母が片目だけを覗かせた。どんより濁っていて、絢子は悪寒を覚えた。

「絢子さんかい。医者は何と言っていたかね」

「身籠っておりました」

 悪寒を振り払い、できるだけ毅然とした態度で答える。漸く、口撃から解放される。その安堵も絢子を後押しした。だが、それも呆気なく打ち砕かれる。

「良かったじゃないか、出来損ないじゃなくて。まあ、あの藪医者の言うことだ、当たっているかどうかも怪しいもんさね」

 まだ腹も膨れていない絢子を見ただけで身籠っていると認めた医者を、藪医者などと吐き捨てる。三十を過ぎて遂に身籠もった絢子を出来損ないと言う。

 まだ、まだ駄目なのか。身籠ってさえ価値は認めてもらえないのか。あの医者の言っていることは正しかった。義母はそういう人間なのだ。昨日握り潰したはずの痛みが、胸の奥からまた湧き出てきた。今度は、止まることなくどろどろと流れ続けていた。握りしめた手を開くと、赤い筋がつうと延びた。

 身籠もったとわかっても、義家族の態度は変わらない。

「絢子さん、昼餉の支度はまだ済まないのかい。相変わらず鈍いね。こんなんじゃ、ややが生まれてからどうなるんだろうねえ」

「おい、皿の端が欠けとる。家族だけじゃのうてお前もおるからうちは今貧しいんじゃ、あるものは大事に使え」

「嫁いで来た身で親父とかかあを煩わすんじゃないぞ。早くしろ」

 口々に言いたいことをべちゃべちゃと言う。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。全身が熱を帯び、小さく震える。それでも、今これ以上の反感を買えば腹の子もろとも路傍に捨て置かれるかもしれないことを考えれば、絢子のそれは行き場なく留まるしかなかった。どす黒い染みが頭の中を埋め尽くしていく。胸の潰れる感覚を握りしめた拳で押し殺して、日々を堪え忍んだ。どろどろした痛さには、慣れることがない。


***


 とうとう腹が出てきた。赤子が大きくなってきたのだ。悪阻つわりも酷くなったが、それでも夫の家族に気遣いなど欠片も見られなかった。絢子は毎日、げえげええずきながら家のことをこなした。存在と精神をすり減らしながら、毎日、起きて、働き、嘔吐し、寝て、起きて、を繰り返した。腹にいる赤子を無事に産む。そのためだけに生きた。ややのためなら、この程度のことに堪えるなど造作もない。何度も何度も己に言い聞かせる絢子の精神は、義家族に侵されている。


 村医者のところへ薬を貰いに行き、大きくなった腹を撫でながらそろそろかもしれませんねえ、と談笑したその帰路で、絢子は産気づいた。内股うちももを温かい水が流れていく。気づかぬうち、破水していた。すぐに痛みに動けなくなり、絢子は腹を守るようにして横に蹲った。ううう、と声になり切らない音が、涎とともに口から漏れ出る。ここでひとりで産むのか。たったひとりで、こんな道端で。嫌だ、と思っても手は砂を掴むことしかできない。嫌だ、嫌だとひゅうひゅうした呼吸の中で呟き続け、痛みに意識が奪われる寸前に、女の金切り声を聞いた。


 痛みで目を覚ますと絢子は自分が家に担ぎ込まれているのに気づいた。視界は霞んでぼんやりしているが、古ぼけた畳の匂いと、嗄れた姑の声で、ここは家なのだと認識する。どたどたと慌ただしく駆け回るような音が聞こえる。他にも、何か大声で言葉が交わされているようだが、耳に膜が張られているようで、内容まではわからなかった。くぐもった声を聞きながら、絢子は再び意識を手放した。それから何度か痛みで目覚め、また痛みで意識を失うことを繰り返し、ついにそれが頂点に達し、眠ることが叶わなくなった。

 破瓜の痛みをいとも容易く超える痛みが満ちては引き、また満ちて、絢子は息すらできなかった。産婆が股座またぐらに構え、産婆の姪が絢子の傍についていてくれた。家の者は、誰も寄り添う気配はない。煩いから外でやれと、厠をてがわれそうにさえなった。あんまりにもひどい、と産婆と姪が抵抗してくれたおかげで、家の端ではあるが、厠でない場所での出産を何とか許された。こんな時でさえ、と朦朧とした意識の中失望する。それすらも痛みにすべて押し流される。

「ひぎ、い、痛い、怖い!」

「大丈夫、絢子さん、叔母ちゃんが絶対元気なやや子を受け取ってくれますけえ。だから安心して、ほらっ、あたしの腕、掴んでください」

 痛みに叫べば、産婆の姪が優しく声を掛けてくれる。名を優子と言った。名前の通り真っ直ぐに、優しく育った娘だと思った。だが、絢子はその優しさに感謝する間もなく訪れる痛みに必死に堪えていた。

 この痛みはいつまで続くのだ、どれくらい時間が経ったのかもわからない。まだ終わらないのか、まだ? いつまで? 早く終われ、早く、早く、早く!

 痛い、以外の思考がすべて奪われて、絢子は人でいることを手放そうとする。獣のような低い呻きが自分の口から発せられると気づいても、それを止める手立てはなかった。

「うう、ぐううあっ……!」

 膜の張ったような耳に、遠くからずるん、と音が聞こえた気がした。瞬間、鼓膜が震えた。


 うぅぅふぎにゃああぁぁ…………


 うぎゃああ、うぎゃああ、と猫の鳴くような声が響く。

 ──嗚呼、生まれたのだ。私の子。たった一人の私の味方……。

 安心すると同時に、ふつりと絢子の意識は途切れた。


***


 目を覚ますと、ひとり寝屋に寝かされていた。何やら様子が変だ、と思った。赤子の重みもぬくもりも、近くには感ぜられない。産んだはずの子が、いないのだ。むくりと身体を起こす。簡素な布団が雑に被せられているだけで、身体の下には茣蓙ござ、出産の時の汗でべたついた着物はれたまま着替えさせられてすらいなかった。

 ──これなら、ややがここにいなくて良かったかもしれない。

 こんな扱いなのに、安堵でほうっと息を吐く。ずず、と何かを引き摺るような音がして、襖が開いた。向こうに、夫が立っていた。

 「旦那さま」絢子が口を動かす。夫は、徐に右足を踏み出し、三歩で部屋の真ん中に寝かされていた綾子の元に辿り着いた。絢子を見下ろしているが、逆光で、絢子からその表情は伺えない。ふっ。吐息が聞こえた。微笑んでいるのかしら。そうよね、私、漸く旦那さまのややを産めたのだもの、きっと喜んでくださっているのだわ。しかし、吐いた息を吸い込んだ夫が放った言葉は、

「女だった」

「え?」

「男でなかったぞ。お前は、家の跡継ぎを産まねばならんのに、男でなかった」

 吐き捨てられた言葉に、今度こそ絢子は脆くも崩れ去った。本当に、私はただ子を産むだけの道具だったのかもしれない。跡継ぎとなりうる男しか産むことを許されない道具。

「ごめんなさい。けれど旦那さま、あの子を、私に抱かせてはくれませんか」

「……好きにしろ。産んだ部屋にそのまま寝かせてある」

「ありがとうございます」

 それ以上は絢子に興味がないようだった。むしろありがたいと、足早に赤子のもとへ向かった。

 もう日が傾きそうだわ、夕餉の支度をしなければ。あまりややとは一緒にいてあげられないかもしれないわね。

 逸る気持ちと切り離されたもうひとつの自分がせわしく入れ替わるのを感じながら、裾をたくしあげて廊下を駆けた。


 ぎゃああ、ぎゃああ、ぎゃああ

 赤子の泣き声が遠くで聞こえる。

 あら、赤ん坊のかかさまは、あの子をあやしてやらないのかしら。可哀そうに、でも私も、今は夕餉を作っている途中だから行ってはやれないわ……。

 昨日丹念に研いだ包丁は、気持ちの良いほどに切れ味が良い。刺し込むと、すぐに肉が切り離される。薄く削いで、剥がしていく。

 おぎゃあああああああああ!

 一際声が大きくなった。

 かかさまは一体何をしているのかしら。あの泣き方は、かかさまに抱いてもらえなくて寂しがっているのね。

 手元の肉が暴れる。もうくびり殺した鶏のはずなのに、うねうねとまな板の上をのたうち回っている。可笑しいわね、と呟いて絢子は首に手をまわして力を込めた。「ふぎっ」と蛙の潰れたような耳障りな声がした。

 ぼぎん

 一番太い頸椎が折れた感触が手にじんわり広がる。びくん、びくん。大きく震えて、鶏は動かなくなった。やっと夕餉の支度に取り掛かれるわ。絢子は呟いて、再び包丁を手に取った。丁度その時、義母が険しい顔をして台所へ入ってきた。

「何なんだい、泣いてるややをあやしもしないで。煩いったらないよ。ようやく泣き止んだようだけど、あんたそれでも母親かい……」

 まな板の上の肉を見て、義母の声は尻すぼまりになっていった。同時に両目がこぼれるかというほど見開かれ、下顎がすとんと落ちた。まるで何かの細工人形だわ、と絢子は他人事のように思った。ひ、ひ……と開かれた口から不規則に音が漏れていて、『壊れた』という言葉が比喩に加わった。

「あ、……あ、絢子さん、それは……」

「お義母さま、どうかしましたか」

 まな板から視線を逸らさないまま、義母は声を震わす。

「ややを、ややを……」

「あら、あの子はよく眠っております。だから今、夕餉を作っているのです。今夜は鶏が安く買えたので、鶏鍋を作ろうかと……」

 言い終えるより早く、義母の眼球がぐるりと回り、真っ青になって倒れ込んだ。どさりと鳴った重い音を聞きつけ、夫が何事かと早足でやって来た。倒れている自分の母と、まな板の上に載せられた肉塊と、呆けた顔をした妻を順に見て、何が起きたか把握したのか、かっと表情を険しくし、絢子を睨めつけた。

「絢子……お前、ややは」

 絞り出した声はやけに低く、獣の唸り声のようだった。しかし、絢子は夫の様子に気づいていないようで、夫に優しい目を向ける。倒れたままの義母も、目に入っていない。

「あの子は眠っておりますよ。でも、そろそろお乳の時間ですから、起こさなくてはなりませんね」

 はたはたと足音を鳴らして寝屋へ行く。向かったままの格好で、すぐに戻ってきた。

「ややが……」

 首を傾げながら呟く。

「ややがいないのです。きちんと寝かしておりましたのに」

 心底不思議でたまらない、といったふうに見えた。夫を見上げる視線は彼の視線と交わらない。

「ねえ、旦那さま。私のややは、どこへ行ってしまったのですか?」

 赤くなった指先で夫の着物を掴む。指の形にくっきり模様がついて、夫は口の端をひくひく震わせた。

「何を言っているんだ。お前が、お前がすべてやったんだろう。その血は一体何だ。俺の子の血ではないのか」

 だが、絢子の瞳には血の赤など映らない。

「何を仰っておいでです。私が自分の子を手に掛けるはずなどないではありませんか」

「煩い!」

 腕が振り払われる。

「お前がややを殺したんだろうがっ。お前は人の子ではない、鬼女だ!」

「あ……」

 冷たくとも一欠片ほどの愛情くらいは抱いてくれていると信じていた夫の言葉と振る舞いに、絢子は思わず怯んだ。払われた腕は宙を掻いたまま、硬く強張って動かない。絢子の怯えた表情を見て、流石に些かの情は残っていたのか、声を荒らげていた夫は剣幕を潜めた。

「……もう、お前の顔も見たくない。さっさと行け。親父がお前に部屋を遣ってくれる」

 お前はそこで暮らせ。

 それだけ言い放つと、夫は絢子の前に姿を見せることはなかった。呆然と立ち尽くし、その後のことは覚えていない。


 絢子はあれからてがわれた自室に籠るようになった。義両親も夫も、絢子をまるで腫れ物扱いだ。家のことを何もしなくとも、文句も言わなくなった。鏡を見なくなった絢子は、自分がどんな風貌になっているのか、知る由もなかった。時折畳に落ちている灰色の細い毛髪を見つけては、また居丈高な義母が寝ている間にでも入ってきたのだろうと思っていたが、義母は部屋の前までは来れど、中には入ったことなどなかった。襖の向こうから声を掛け、そのくせ、絢子が返事をすると怯えたように声を震わす。すまなかった、と、赤子が生まれる前には一度も聞いたことのなかった謝罪を何度も聞いた。

「何を謝ることがあるんです?」

 くふくふと笑いながら絢子は問い返し、言葉に詰まる義母の様子を気配で感じては、我が子に思いを馳せた。時折、ややを返せ、とどこかから低い声がする。


 嗚呼、本当はずっと知っていた。可愛いややはもういない。名前もつけてやれずに、手の届かぬところへ行ってしまった。もうすぐ会いに行けるかもしれないけれど、その気力すら絢子のもとには残っていなかった。

 ふふふ。ふふ。

 口許だけを歪めて笑う。その手は、痩せこけて老婆のようになって尚、大切なものがそこにあるように、優しく上下に動いていた。


 きずあとは消えない。

 ずっと、心臓に刺さる針のように、私を苦しめ続けるのだ。

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