フェロモン社会

持明院冴子

フェロモン社会

(1)


「……というのが我々の実験目的です」

 大木公平教授は会場をゆっくりと見渡した。

 今回の学会は四国にある国立大学で開かれている。大木は一番小さな教室で、研究の中間成果を発表していた。

 聴講しているのは十五名ほどだろうか。マイナーな研究にしては多い方ではなかろうか。

 それは大木教授が無い人脈を使って聴衆を必死でかき集めたからだ。大学時代の同級生だった学会の重鎮とその秘書も座っている。この発表を聞いてもらうために大木はわざわざ付け届けまでして呼び寄せたのだった。


 大木は蟻の研究者だ。もう何年も、「イオウジマオオアリの集団行動習性とフェロモンについて」飼育実験と研究を繰り返していた。昆虫に、感情を同調させるフェロモンがあるらしい事に気付いたのが五年ほど前だ。


 人間には性周期同調フェロモンというのが存在する。例えば女子高で一人の女子が生理になると、他の人間に生理が移るという現象がしばしば見られる。それが性周期同調フェロモンである。身体から発する臭い(フェロモン)、つまり化学物質によって生理を誘発するのだ。


 大木の主張するイオウジマオオアリの感情同調フェロモンはそれとは似て非なるものだ。人間で喩えるところの群集心理に近い。

 人間社会で喩えると、群れのリーダーが暴力をふるうとその場の雰囲気にのまれて自分も高揚してリンチに加担してしまうという類のものだ。イオウジマオオアリががむしゃらに集団行為を行う時、その現象に感情が伴い、その感情にはフェロモンが強く関与している事に気付いたのが大木なのである。


 すべての蟻がオラつきながら虫の死骸を解体しているように見えたのが事の発端だった。蟻に感情があるのかと訝しく思った。

 だが観察すればするほど、感情が無いようには見えなかった。機嫌が良い時には触角を円状に動かすし、機嫌が悪い時には目がつり上がって見える。実際機嫌が悪そうな時には大木は必ず噛まれる。


 丁寧な観察によって得られた様々な事象は、従来の説に従って読み解くとたくさんの疑問や矛盾を生み出す。しかし「イオウジマオオアリには感情がある」と仮定した瞬間、それらがすべて整理整頓され、解決するのである。


 本格的研究はそこからスタートした。次に出た疑問が、集団で怒ったり上機嫌になったりする現象の解明である。大木は匂いで伝達しているのではないかという仮説を立て、それに沿って地味な実験と観察を繰り返した。地道な努力と丁寧な検証によって得られたのが「感情同調フェロモン」説である。

 だが昆虫学会は大木の発見したフェロモンに懐疑的だった。

「そもそも昆虫には感情など無いだろう」

 その一言で論破した気になった、非科学的妄信的な学者はかなり多い。

 すでに蟻が集団行動をするためのフェロモンが解明されている事も、感情同調フェロモンに否定的になる理由の一つだった。そもそも一つの集団行動原理にフェロモンは種類要らないだろうというわけだ。

(違うんだよ。ただ団体行動をしているんじゃないんだ! 同時に怒ったり上機嫌になったりしているんだよ!)

 それがわかりやすいようにと工夫を凝らした実験についても、査読の学者は「結果を導くための実験ではないか」とクレームを入れてきた。

 こういうツッコミは良くある話だが、実は論破が難しい。なぜなら論破すべきは相手の固定観念だからだ。固定観念とは客観ではなくあくまで主観である。であるから難しい。

「昆虫に感情(エモーション)は無いですよ。そんな、学習アニメじゃあるまいし」

 こんなセリフで向こうはこちらを論破したと思い込んでいる。

(馬鹿どもめ)

 大木は内心で毒づいた。

(研究者のくせに固定観念から逃れられないとは、おのれの無能を晒しているようなものだ。理系学者が目の前の事象に否定的でどうする。まっさらな目で観察もせず答えを導いてどうする。おのれの経験則と知性を過信してどうする)

 奴らは実に簡単な知性の罠にすら気づかない。そして、自分のような最先端のさらに先端にいる学者の研究を否定する。鼻先で否定する事イコール賢い事だと錯覚しているのだ。


 だいたい、学会の重鎮でしかも仕事熱心なのは皆、政治活動に熱心な輩であって優れた研究者というわけではなかった。ただし、重鎮かつ仕事熱心ではない学者はこの限りではないが、そんな奴はそもそも学会に出てこない。

 だが学会で支持されないという事は、学術振興会から科研費(科学研究費)がおりないということだ。科研費がおりないという事は研究が進まないという事で、それでは生きてきた甲斐がない。情けないが学者は国の娼婦であり奴隷でもあるのだ。


 大木はどうしても科研費が欲しかった。そのためには今回のフェロモン研究の中間発表で重鎮を含む場の全員から好評価を貰い、それが評判となり、科研費をせしめる道筋にする必要があった。

 一旦もらってしまえば、あとは毎年惰性で出るのが世の習いである。もちろん惰性はいけない事ではあるが、科学の発展のためには致し方ない。適当に論文を小出しにしていれば、科研費はずっと出るはずだ。

(まずは今日この時間だ! ここさえ突破すれば、あとは楽なはずだ!)


 大木はだんだんと熱を入れ始めた。むしろ本心の解放と言っていい。寝食を忘れ、私生活を犠牲にしてまで打ち込んだ研究なのだ。熱が入らないわけがない。

 仮説を滔々とまくしたてる。実は大木の身体中に、イオウジマオオアリから抽出した感情同調フェロモンが振りかけてあった。聴講者は、体温で温まって揮発したフェロモンを吸ったせいで場のリーダーである大木に同調するはずだ。もうまもなくだ。


 予測通り、終盤になる頃には、会場は大木の本気と熱気に充分同調していた。

「こりゃすごい発見だ!」

 学会の重鎮が立ち上がり、スタンディングオベーションをした。

「素晴らしい! ノーベル賞ものかもしれない。昆虫生態学の新たな黎明だ!」

 重鎮の賞賛に釣られ、会場のあちらこちらで拍手音が聞こえてきた。最初まばらだった拍手がだんだん力強く、そして数が増えてくる。

「世紀の発見だ! いやはや、固定観念が覆された!」

 会場は和して拍手の海になった。充分まわった感情同調フェロモンが知性に勝った瞬間だ。もっとも大木によれば、この場の知性などしょせん似非知性であり、真の知性はおのれの中にしかないと思っている。

 大木が重鎮の約束を取り付け、科研費にいの一番に推薦してもらう事になったのは言うまでもない。


(2)


 感情同調フェロモンの研究は潤沢な資金を得て飛躍的に進んだ。

噂を聞いて、とある製薬会社を介して広告代理店がスポンサーになりたいと言って来た。他にも革新政党が資金援助を申し出てきた。

 援助については、来る者を拒まなかった。なぜなら大木にとって科学の発展と謎の解明こそが正義であり使命であるから、他の事情などは考慮の埒外なのである。

 学内派閥にせよ学会内派閥にせよなにがしかの画策にせよ倫理問題にせよ、それで食ってる人にやらせておけばいい。我々学者の仕事ではない。何か間違っているだろうか。


 科研費で潤ったせいか大木に弟子が二人出来た。助手である。

 かつての指導教官の伝手で他大学からも研究者が訪れてくる。そういう応対は新しい弟子に任せ、大木は潤沢な資金で研究室内にイオウジマオオアリの巨大なコロニーを再現した。そしてフェロモンを抽出し、分析器にかけまくる。フェロモンの厳密な成分表を作るためだ。


 感情同調フェロモンは抽出から合成に向かって第一歩を踏み出した。アメリカからゴキブリの専門研究者を招へいし、フェロモンの合成に関して意見を交換する。そしてアドバイスを受けた。

 いよいよ化学合成である。試験管の中で完璧なフェロモンを合成するべく、大木は神経を尖らせていた。

 もちろんスポンサーもそれを待ち望んでいた。何せリーダーの感情に同調するフェロモンなのだ。巨大な利権を産み得る。何なら世界征服だってできる。早速特許の申請がなされ、マル秘を隠し通すための特殊な研究所が設立された。


「出来た……完璧だ……」

 今まで作っていたものよりも強力で効き目が良いものだ。追加実験で分かった事だが、学会発表時に使ったフェロモンの試作は、百パーセントの効きでは無かった。たまたまあの時は運よく効果が出ただけだったのだ。

 早速、革新政党の担当者と広告代理店がそれを持って行く。一年後には選挙によってドラスティックな政権交代があった。もちろんフェロモンのお蔭だろう。雰囲気で革新野党に投票した人が多かったのだ。


 政治が変わって行政も変わった。新しく総理になった鳥山首相は憲法改正と軍隊創設を同時に済ませてしまった。

 徴兵制が始まる。しかし博士が人工的に作り出したフェロモンのお蔭か、文句を言う者は誰もいない。

 老人は早々と死んでいった。積極的に治療するわけでもなく、静かに世代交代してゆくのだ。それはまるで厳しい自然界の様子のようだった。大木にしてみれば至極満足だった。学者らしくない言い分だが「神が戻ってきた」とまで思った。これこそが摂理である。

 医療費が浮く。介護の手が要らなくなる。浮いた予算が若者に向かう。若者、特に男は意気揚々と軍隊入りする。


 誰もが不平を言わない。むしろ若者は団体行動に喜びを見出し始めていた。個を主張し続け潮流に逆らう事は案外大変で、人間の場合ほとんどが破滅してしまう。

 情報過多の世界に育った勘の鋭い若者は実はその事に気付いていたのだ。教育する側が気付いて無かっただけだ。


 最近の博士は人間用フェロモンの新作に着手していた。集団行動フェロモンだ。

これが完璧に作り出せた後には、人間用の性周期同調フェロモンが待っている。もちろん生理を一斉にというわけではなく、発情期・繁殖期を一斉にというわけだ。

 いちどきに発情する事で、あぶれる男女を減らす。大量にカップルが生まれる時、パートナー餞別に対する妥協もまた最大になる、という経済学的な原則である。

「みんなツガイになってるし、私もこの程度でいいから取りあえずつがっておくかな」

 みたいな諦めが女子を支配した。今や、つがって産むのが一大ブームになっている。拘りでその波に乗らない奴こそ「遅れてる」というわけだ。


(3)


 人間用の集団行動フェロモンと性同調フェロモンがとうとう完成した。

 軍隊は一層規律正しくなり、若者の行動も一糸乱れず整ってきた。もちろん、全員が笑顔である。何せもうすぐ子供を作る波が来るのだ。

 斜に構えていた童貞も、いっぺん子作りしてみたいのが本心だ。自分が発射した精子が卵子と融合して腹が膨らむさまを観察するのが案外楽しいという事を彼らは知った。


 日本列島に日本人が爆発的に増えた。まるで勢いのある蟻のコロニーのように、ザクザクと増えて働き者も増える。広告代理店も手掛けた商品広告が全部大ヒットし、うはうはの状態だった。

 日本人の群れの中で女王蟻代わりになっているのが総理大臣だった。総理大臣だけが、女王アリのフェロモンをミックスした特性フェロモンを使っている。

特性でない感情同調フェロモンは、政党内で偉い順に配られる。量は偉い人ほど多く、偉くない者は少なく。こうして階層の固定化と分断化がさらに進む。秩序は人類史上かつてないほどに整っている。


 大木は満足していた。学会内でも今は自分が重鎮だ。政治活動は一切しないが、閉塞的だった世の中の風通しが劇的に良くなったことを肌で感じていた。

 若者の目に生気が宿っている。老人が減って社会が活性化している。何となく、皆が団結して日本をより良い方に持って行こうとしている。その空気が実に爽やかだった。


 日本国の一生を四季に喩えれば、晩秋から一気に早春に戻った感じを人々は持った。四度目のオリンピックも招致し、我らがテリトリーはますます隆盛を極める。

 大木は研究者としても満足していた。何せイオウジマオオアリのフェロモン研究では第一人者となったのだ。たぶん、彼らの持つフェロモンの殆どを解明出来たと思う。そしてそれを理想的な形で人類に役立てる事が出来たのだ。

 日本は世界の中でもまれに見る成長国と絶賛され始めた。デフレと老齢化社会の弊害を跳ね飛ばし、若さと希望、生き生きとした生活が望める社会となった。

 

(4)


 だが綻びは意外と早くやってきた。ある日、博士の側近である助手が二人同時に仕事を休んだのだ。無断欠勤だった。ここ数か月、ずっと元気が無かった二人だった。

 電話にも出ない。メールも寄越さない。使いの者に様子を見に行かせると、布団をかぶってうずくまっているという。


 何とか引きずり出して聞いてみると、何もやる気が起こらない、起きる気もしないし、身体の芯が腐ったように動けない。風呂にも入りたくない。表に出るのを諦めてずっと家にいると言う。

 病院に連れて行くとすぐにうつ病の診断が下りた。

「うつ病だって? 一体どうしたんだろうね」


 生真面目な者がなりやすいというが助手は二人とも生真面目ではない。どちらかというとちゃらんぽらんで、彼らには舌打ちをする事も多々ある。むしろ自分の方が生 真面目で、研究に対しても真摯だと大木は思っている。

 次に学会の重鎮がうつ病になった。例の科研費承認の立役者だ。大木はまだ認めたくなかった。偶然に違いない。


 次に、学会の会場にいてフェロモンで同調した学者たちが次々うつ病になった。

「僕は大丈夫なんだぞ。おかしいじゃないか」

 フェロモンを使った人間はうつ病にならず、使われた側だけがうつ病になる道理が分からない。同じ気体を吸っているのだ。辻褄が合わないではないか。

 次に、スポンサーになりたいと言って来た当時の政党担当者と当時の製薬会社担当者がうつ病になった。助手は二人とも何か言いたげにこちらに目線を送ってくるが、大木はあえて無視をした。

(そんなはずはない)

 フェロモンとうつには何も関連性が無い。たまたま重なっただけだ。


 しかし、世の中の人間が次第にどんよりしてきた。まず始めに広告に熱狂して物を買った人がうつになった。それから選挙で張りきった人たちがうつになった。それからマスコミの人達、政治家、官僚とじわじわ広がってくる。


 やがて日本ご自慢の軍隊も、全員がうつになって機能不全になってきた。元気なのは当初からフェロモンを使う側にしかいない大木と、現在の総理大臣だけだ。

「どうにかしてくれんかね」

 総理大臣からホットラインが入る。

「僕の秘書も先週から無断欠勤なんだよ。これじゃあ困る。日本中が機能不全だ」

「フェロモンを倍量使って、こっちのやる気に同調させられませんか」

 総理大臣は困惑したように返答した。

「そんな事くらい、君だってすでに試しているだろうに。答えはノーだ」

 確かにその通りだった。そんな事くらいは自分の助手相手にとうに試しているのだ。


 どうして自分には効かないのか。それは多分耐性が出来ているからだろう。確かに昔孤独に研究していた時、うつの症状と戦っていた事がある。科研費も下りず、学生も付いて来ず、女房に馬鹿にされていたあの頃だ。あの頃は確かにずっと、ひどい状態だった。


 うつの原因の一つに化学物質過敏症が指摘されている。農薬を多く使う農家ほど自殺が多いという統計もある。フェロモンの中の化学物質が何らかの作用をしている事は仮説として充分成り立つ。

 大木は自分だけの実験室に戻った。巨大なガラス製の器にイオウジマオオアリの巣がすっぽり入っている。大木は巣穴を横から観察した。


 蟻たちはうつ病など知らぬげに今日もせっせと働いていた。一体どこが違うのだろう。フェロモンの再生は完璧だったはずだ。だとしたら、アリと人間の感受性の違いなのだろうか。うつ症状のイオウジマオオアリなんて見た事が無い。思わずうなだれてしまう。

 その時、視界の隅をさっと、楕円形の虫が横ぎった。

「まてよ、ゴキブリか……」


 昆虫の名を口ずさみながら頭の片隅に閃くものがあった。アメリカからゴキブリの研究者を招へいした時にゴキブリのフェロモンについて語り合った事があった。その時彼女は「ゴキブリのフェロモンの中にも人間に作用するものがあるかもしれない」と冗談交じりに言っていた。


「あれは彼女の学者としての直感で、本当に存在するかもしれない……」

 フェロモンの抽出方法は基本的に蟻と大差ないはずなのだ。大木は早速、実験用のゴキブリを数万匹購入し、観察を始めた。


 蟻とは勝手が違う。見ているだけでおぞましい気もするが、大木はおぞましい先入観を捨て、ただの昆虫として扱い、久しぶりに観察に熱中した。

 長い髭の付け根が円を描いている。妙な事に感心しながらじっと見つめる。ふと、ゴキブリとイオウジマオオアリを戦わせたらどうなるだろうかと閃いた。

 大木家ではちょうど二番目の孫が超合金製の昆虫ロボにハマっていて、大木は時折TV番組を一緒に視聴していた。頭の片隅に残っていたのである。


 早速イオウジマオオアリの飼育槽の中にゴキブリを落としてみる。最初おっかなびっくりで遠巻きにしていたアリたちが、何かに気付いたかのように触角をフリフリし始めた。

 ゴキブリの方は初めて見る蟻など眼中になかった。蟻用に置いておいた腐ったバナナに近づき、そっと口を付けるそぶりを見せていた。

 一匹のアリがいきなりゴキブリの足に噛みついた。驚いたゴキブリが暴れ始める。この時点で何がしかの警戒フェロモンがゴキブリから出ているはずだ。大木はガラスに顔を近づけた。


 ゴキブリに蹴られたイオウジマオオアリがすっくと立ち上がった(ように見えた)。顔が激怒している(ように見える)。仁王立ちになったアリがゴキブリをきっと睨んだ(ように見えた)。

 イオウジマオオアリが尖った尻を上下に振る。これはフェロモンをまき散らしている証拠だった。大木は息を止め、さらに目を凝らした。


 巣穴から次々アリが出てくる。皆最初はすっとぼけたように巣穴の周囲を歩き回っているが、やがてゴキブリの方に近づいて行った。ゴキブリはあっという間にイオウジマオオアリに取り囲まれてしまった。

 アリの方は明らかに興奮していた。まだ死んでもいないゴキブリの魂(たま)を取ったろうという意気込みが肩の辺りに漂っている。


「これはひょっとして……」

 感情同調フェロモンの場合と若干のタイムラグがある。それに蟻の様子も少し違う。それは首のかしげ方や足の運びなど、わずかな差異だった。しかし大木のように観察に命を懸けるタイプにはとてもあからさまにその違いが表れていたのだった。

「これは、戦闘フェロモンもしくは攻撃フェロモンかもしれない」

 おのれの気持ちを鼓舞して攻撃的にならしむるフェロモン。もしこれが抽出出来たら、意気消沈したうつ病患者に投与できるのではないだろうか。


 昆虫同士をぶつけ合うという非情な手段で大木は新しいフェロモンを手に入れた。たくさんのアリの尻の先をすりつぶして抽出したのだ。興奮性攻撃フェロモンと名付け、人工的に作り出す段階に入った。

 比較的初期にうつ病になった患者で、明らかに感情同調フェロモンを嗅いだ者に使ってみる。結果は上々だった。性同調フェロモンでは何も起こらなかった彼らが目を血走らせて夜の街に出かけて行ったのである。

 もちろん彼らは他人を傷つける度胸など無く、ただうろうろと歩き回るだけだったが、それでもうつの引きこもり状態から脱出出来たのだから上々だ。

「いい傾向だね。やる気が目の光に現れているよ」


 ただしこのフェロモンは攻撃性という少々危険な感情を刺激するフェロモンゆえ、慎重に扱わなければならない。取りあえず時の総理大臣だけがフェロモンを付け、一般人代表としては、助手二人と政党担当者と広告代理店の担当者が付けた。


(5)


 その広告代理店担当者が突然大木のもとにやって来た。

「やあ君か。久しぶりだが元気そうじゃないか」

「先生も相変わらずお元気そうで。ああ、今日は研究室の空気まで爽やかに感じます。すっかり回復したみたいです僕」

「ははは。微妙な変化に敏感になるのも、うつ病から復帰した証拠だろうな。今日は研究室の片づけをしたんだが、埃が凄いんで窓を開けてあるんだよ。秋の空気でこの部屋が浄化されとるわけだ」

「そうですか。どうりで」


 担当者の笑顔に大木はすっかり嬉しくなった。攻撃フェロモンではなく、別の良い名前を考えようなどと思う。

「ところで君は、今日何か用があって来たんじゃないのかね」

 手に資料を持っているところを見ると、単なる挨拶ではなさそうだ。

「はい。実は今度うちで、女の子のアイドルグループを大々的にデビューさせるんですよ。試しに彼女らに例のフェロモンを治験してみていいですか」


 大木は腕組みをした。しばし考え込んでいたが、ふと、治験(と言っても香りを身体にまとわせるだけだが)は成人男子にしかしていない事に気付いた。バランスを取るためにも、成人女子に使わせてみればいいのではないだろうか。アイドルグループなら管理も警固もしっかりしているだろうし、一般人が使うよりは反応が可視的だろう。


「いいだろう。ただし、これは危険物質なんだから、管理と警備はしっかりとお願いしよう。それが条件だな」

「では、早速警備会社と専属契約を結んできます」


 アイドルグループは可愛い女の子5人組だった。フェロモンのせいなのか元々のタレント性のせいなのか、瞬く間に大ブレイクし、社会現象とまで言われるようになった。大木は広告代理店の担当者を呼び寄せた。


「そろそろ治験をストップしようかと思うんだが」

「まだまだこれからですよ、先生!」

 広告代理店の営業担当は揉み手をして笑った。以前は歯を剥きだすようにして笑わないと思ったが、最近はこのスマイルが定番となっている。

「いや、これ以上は何が起こるか分からんからなあ」

 治験は常に危険である。その事を忘れてはならない。動物実験と人体実験は条件が大きく違う。博士は眉をひそめた。


 担当者の携帯が突然鳴った。耳に携帯を当てて応答を始めた彼の顔が見る見る深刻になった。

「何だって!? それは本当なのか! まさか!」

 電話から声が漏れ聞こえてきた。テレビを付けろと言う。大木がさっと立って、研究室備え付けテレビの電源を入れた。

 白い速報テロップが目に飛び込んできた。アイドルグループのメンバー全員が、大量の兵隊を勝手に引き連れて出国したというニュースだった。

 彼女らは秘密裏に作戦を進め、個人個人がインターネット等を通じて別航空会社のチケットを手に入れたため、出国まで気付かなかったという。


「ど、どういうことなんですこれは……」

 テレビ画面にかじりついて呆然とする担当者のつむじをぼんやり見ているうちに気付いた。

 慌ててイオウジマオオアリの飼育槽を覗き込む。ガラス越しでは分からず、脚立を持ち出して上から覗き込んだ。

「ややっ! やられた!」

「ど、どうしたんです先生!」

「コロニーの殆どが逃げ出してしまった……一体いつの間に」


 逃げ出さないようにプラスチックの蓋がかぶさっていたのだが、その端が凄まじい力で食いちぎられていた。壮健な働きアリはここからすたこら逃げ出してしまったらしい。

「ど、どうして急に……」

「新たな女王アリの誕生だよ……新天地に向かって逃げてしまったんだ。あーしまった……戦闘フェロモンで種の拡散欲が刺激されたんだろう」

 テレビでは女性アイドル5人の顔写真が映し出されていた。人類メス一人一人に何千人もの人類オスがくっついて出国したのだった。    -了-

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