第2夜

何回めとも知れず梶井基次郎を読んでいた。

ふとその短編集から目を上げると(ソファーに横たわっていたので都合)私の真上に窓があり、そこには目が醒めるほどべったりと青い、だが見つめれば見つめるほどにその底を極められそうな程深みを増していく青い空がかっちりと切り取られていた。

雲はなかったが公園の木がその全身で心地良い風に踊っていた。ああなんと心持ちのいい眺めだろう!今これが私の全世界なのだ。

その切なさに胸を掴まれなにか薄ぼんやりと勿体無くなってきた。


時計を見ると昼前だった。

「さて」 と一つ口に出して思ったことがある。

近所の八百屋に久しぶりに行こう。あそこに檸檬は売っていたかしら。


ぺたぺたと草履で舗道を歩くとなんとも言えない気分だ。ほんのついさっきまで楽しくやっていた読書が、あれ以上の楽しみはないとまで思われたものがちょうど目の前に落ちている犬の糞程度にどうでもよいものと思えてしまう。

見上げると空が悠々と横たわっておりその広さで胸が詰まるがいつまでも目が離せない。それでは危ないからと足元に目をやれば路傍の花や誰かの落し物が目を楽しませてくる。

ああ全くなんとも言えない気分だ!


あと角を一つ曲がれば八百屋である。


クリスマスにプレゼントを期待しながら起きるような、だがそこまでの確信はなくしかしそこには必ず目当てのものがあるはずだという気持ち。そんなものが心臓を動かしていた。

一度立ち止まり、しっかと目を瞑ってから足を踏み出し、庇の下へ入っていく。店の奥へ。


果たして檸檬はそこにあった。その痛快な黄色の爆弾はやはり絵の具を絞り出したような鮮やかな紡錘形であった。


「檸檬くださいな。袋はいらないよ」


たったこれだけだ。この一連だけで私の一週間の排水溝のような行き詰まりはまるきり綺麗に磨き上げられた。


きりっと冷えて...はいなかったが涼しい外気より更に確かに冷ややかな、私の右手の中の黄色はしっとりと手に吸い付く重み。

こうして見上げるとなるほど地平線は水平線と溶け合うものだと思う濃淡を持った青天井。


焼き鳥屋の前では野良猫があくび。

買い物帰りのおばさん達のお喋り。

道沿いのベランダには洗濯物がぱたぱたと。


やれやれ。

丸善は遠いしこの爆弾はどこに置こう。

持ち帰って食べるのもいいが別段食べたくて買ったレモンでもない。


しかし"なるほどこの重さなのだな"とはなるほどこのことか。

手に持っているだけでなんとなく気分が良い。

ひとつ鼻唄でもかましてやろうかという気分になってくる。

この快い一種の酩酊状態で私は町の底を回遊してきた。ここ、公園へ。

小さい頃よく父と遊んだ。

通ってきた道は昔よく母の買い物に連れ立っていき、荷物を持って通った道。


やはりそこには親子連れが何組か遊んでいた。


あまりにその眺めが幸せに満ちた、映画の切り取りのような完成されたシーンとして横たわっていたもので私は話し相手が欲しくなった。


「全く良い日じゃあないか、なぁ?」

気がつくと私は返事があるでもないのに手中の檸檬に話しかけていた。

その黄色は黙っている。

今はその沈黙も心地良かった。


決めた。


持ち帰ってしまおう。

そして部屋に積み上がった本の上にこの檸檬は置いておこう。


この爆弾は部屋に憂鬱が溜まった時、膿んだ空気を吹き飛ばしてくれるのだ。その為のものだ。


うんうんと頷いて私はあくまで上機嫌であった。

すっかり温くなったその果実を右と左の掌の間を行きつ戻りつさせながら家までゆっくりゆっくり帰って行った。

坂を二つ登り、角を四つ曲がり、公園を突き抜けて家の前まで戻ってきた。


ここでなんだか妙な気持ちがついてきた。


それは三つめの角の辺りで私に追いついてきた。

ふと曲がり角で私は立ち止まり、その時左手に収まっていた檸檬を注視した。

「果たしてこれが部屋にあると本当に気分が良くなるのか?今は確かに良いが今は今でしかないわけだ。となるとこいつは全く獺祭じみた部屋の彩りにもなりやしないじゃないか?持って帰ることなんかないのでは——持って帰ったとしても果物棚にぶち込んでおけば充分では——ないのか?私はどんなつもりでこれを買って持ってきた?」


首を傾げて一つ溜息を吐いたら私はまた歩き出した。

しかし玄関の前までやってきてその疑念はより強く激しく私に縋り付いてきた。

この檸檬の亡霊、残留思念はなかなか執念く語りかけてくるものだから家の鍵を開けるのに手間取った。

だがこんなものを家に持ち込みたくはなかった。


再び左手の檸檬を見遣る。


口の中でがりりとレモンイエロウが弾けた。

透明な黄色が飛び散る中に鮮烈な酸味とほのかな苦味がある。

口が慣れてくると甘みがくる。


きちんと洗ってからにすればよかったな.....

苦い後悔。


結局家の前で檸檬は私の胃に収まってしまった。


だから結局丸善には行かずじまいである。

母にもただ散歩に行ったと話しただけなので檸檬の行方は私と、当の檸檬のほか誰も知らない。


だからあの日の青や黄色や白や色とりどりの幸せは私しか知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜咄 東雲 祈 @thunderineast

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る