夜咄
東雲 祈
第1夜
それを打ち明けるのは大変に苦労なことでした。
とは言いましても大抵の物事がそうであるように一度重い腰を上げて仕舞えばあとはすとん、すとんと進んでゆくものでしたが。
さてそれは大変に暑い(実際のところ例年と比べて何度も暑く死人が出るほどでした)夏が終わり、急に寒くなってきた九月の初め頃だったと記憶しています。
あいや、思い出が曖昧なものでずれているやもしれません。
兎も角寒く、ただそれが身には過ごしやすく感じる様な.....晩夏と申しましょうか初秋と申しましょうか、いったい微妙としか言いようのないえも云われぬ時節のある日でした。
私は学生だったのです。明日への希望よりも絶望(焦燥や切望と言った方が良いかもしれません)が大きくとも現実から目を背けられるだけの、また後先考えずに遊べるだけの胆力を、なんでもないことを何度でもくどくどと思い悩める活力を持っていた頃でした。元来学生とはそういうものです。
そして私は学級の中でもとりわけ気取り屋で自信家でかぶれやすく、(そしておそらく他から見れば鼻持ちならない)向こう見ずな生徒でした。
下らない悪戯を仕掛けることに情熱を傾けたり教師を圧倒してやろうというような不毛としか形容のしようがない何か一種の情熱、いや執念の様なものが常に肚の中で鎌首をもたげていたと、今はそう苦く思い出します。
はて悪友と親友とは何が違うのだろうか。
そもいったいぜんたい友人とは何ぞや。と、そういったことをよく考えていたとも思います。
根本に、愛に飢えていたとでも申しましょうか。
兎にも角にも粋がり屋で気取り屋の私にはそうした悪目立ちする生徒(の中でも学業に優秀であったり思想が深いもの)に共通の悪い所がありました。それも沢山です。
どれ一つ取っても思い出すとその場で顔をしかめ、鳩尾の辺りから喉元へ込み上げてくる切ない様な不快感を何とかしたいと思うようなものです。
これをノスタルジアですとか、或いはビタァな気分、メロンコリィとでも言うのでしょうか。
私にとってこれはそんなハイカラな文字に表せるようなヴィヴィッドなものとは思えません(何故ならそう思いたくないと思い込んでいるから)が。
———私は先程、愛に飢えていたと言いました。
確かにそうなのです。愛や信頼に飢えていたのだと思われます。教会の聖像や聖書の行間に救いを求めて没入したのも、友人と交友を失うことを過剰なまでに恐れていたのも、なによりも女性への恐怖——これが恐らく最も長く、激しく重苦しく私の心臓を、いえ臓腑の全てを握り、締め付けていたそのものの正体であります。これだけは私の青春に於いて確信を持って言えることです。
そんな中誰よりも信頼を求めつつも誰も信頼できない者をそれでもなお信じてくれる稀有な人々を私は友人だと信じ(この関係だけを信じていたのでもその各個人を信じていたのでもなくただ漠然と友人は信頼できるものだとしつつ、誰も信頼できず、かつ不信でもない模糊とした茫漠たる虚構でしたが)彼ら、彼女らと過ごす時間に安らぎを求めていました。
私は常に話し手であり聞き手ではありませんでした。
全く私の鼻持ちならない部分は人の話を巧く聞いてやるという能力に全くの適性を見せず、時としてそれがまた私を苦しめました。
誰よりも喋る口は最も軽く、その持ち主は軽んじられると——結局うまい聞き手がいなければ会話というものは成り立たないのだと——そう理解していたのだと思いましょう。幸運なことです。
私に男友達は少なく、女友達ばかりで私はつくづく碌な男ではありませんでした。
その数々の友人達にも不貞を働き、信頼に足る実績というものはない中でも不思議と慕う、或いは面白い奴だと思ってくれる者はいるようでしてそれがまた私には不思議でした。
そういった意味でもまた友人達が信じられなかったのです。勿論これは肯定的に!
愛への渇望はまた女性に対して益々一層の盛り上がりを見せるものです.....そうでしょう?
極々一般的な学生ですからそう単純に思い、そのまま単純に動いていたのです。恥ずべきことに。
つまりはガールフレンドといったもの、つまりは懸想人との関係が多くありました。
私はそこに非常にだらしがなく、堕落しきったと言ってもなんら問題のない程度のものでした。
後輩の女の子たちによく慕われる性質でしたがそういった素敵なお嬢さん方にも軽い言葉を投げかけ、時には酷く傷つけるようなことを
——傷付くことには臆病なのに他人を傷つけることに関しては私は全くに無頓着なのでした。しかしいつも後々ゴロゴロと音を立てて天地が私の満身にのしかかってくるような悔恨の痛苦を感じるのでした——
言い、また同級の女子にはへらへらと言いより酷く信用を損ないどんどんと堕落していきました。
先輩達は私をどう思っていたか?
さぁわかりません他人の事ですから。
ただまあ願わくば.....軽蔑はされていなかったと。そう信じたいとは思いますね。
慈愛ではなく憐憫の目で見られることの、そしてそれ以上に軽侮の目で見られることのなんと多かったことか!
全て自らの蒔いた種から育った荊棘です。
痛烈な自己責任です。
棘の中にも美しく芳しい花を持つ薔薇であればよかったのですが生憎と私に咲く花は極めて少なく、また日陰にぽつりと咲くような控え目なものでした。日陰者はそれ同士でくっついていろと、何かがそう言っているようでした。
そんな中また私は性懲りも無く何もかも放り出すくらい一人の女性に熱を上げていたのでした。
仮にOさんとしておきます。実際のところこのOという文字は彼女と何の関係もないわけではないのですが、決して深い意味を持っているわけでもないのです。本当ですよ!
夜というのは物を思う時間です。
毎夜毎夜尽きせぬ妄想を頭上に、脳裏に、瞼の裏に浮かべつ溶かしつしているうち夢を彷徨い、目が醒める時には朝日が一日を始めているのです。
そんな夢に落ちる前にアルコホルを舌に転がしながら本を読むのが私の楽しみでした。
読みながら色々なことを考えるのです。
実質手元の文章や事実を触媒に空想をしているようなものでした。
読書家を気取ってはいましたが果たして本当にそれは読書であったか?
最早わかりません。
考えても考えても仕様のないことをいつまでも考えているのが好きでした。父が禅の心得があり、そんな背中を見て育った影響かもしれません。
或いは手元から目線を通じてインドへと、憧れの地へと空想の翼を伸ばすことがあまりに頻繁であったためかもしれません。
私の空想は頻々とやってきます。
今こうしていますけれど、夜家に帰って酒を呑みながら、ベッドから見える四角く切り取られた宵闇に問い掛けるでしょう。何かを。
そんなとき最もよく頭に浮かぶのは色恋沙汰にまつわる諸事でした。
やはり青春を生きていたのでしょう。
人間、恋だ愛だ、惚れた腫れたと楽しく騒げるうちは若いのです。
私も若かった。
このあいだすれ違ったあの人、名前も知らないあの人は随分と可愛らしかった、あの人は素敵な髪色をしている(そしてそれに合う髪型をしているのでその亜麻色の髪はその少女の肩の動きに合わせて綺羅綺羅と、絢爛に陽射しに光るのでした)、それからあの人の眼はとても不思議な色をしていて.......
そんなことを考えているうち、はじめはすぐに止して寝てしまおうだとか、こんな気色悪い妄想をいつまでも続けるのは止そうだとか、はじめは思います。思いますが大海のような思考の深みに嵌ってしまうともう駄目です。抜け出せないままずるずると蛸のように時間は滑ってゆき、朝です。
夜休まず疲れ切った頭と体で学校の支度をするのです。また一日が否応なく始まります。
それもまたそうした夜のうち一つでした。
私は恋をしていたのです。
恋い焦がれていました。
一度もちゃんと話したことのない、声音も顔も朧気にしかわからない人に、ですよ。ああどうか笑わないでください!一目惚れというものだったんです。
その「一目」すらもきちんとくれておりませんでしたが。
その人は少し前懇意になった女の子(Sさんとしておきます)の友達でした。
友達というのではなく完全に親友、朋輩とでも言うべきかという、そんな仲の深い二人でした。
SさんはそのOさんがいかにかわいいか、優しいか、素晴らしいのかといったことをよく楽しげに話してくれましたがそれはその時の私にとっては全くどうでもいいことで、それは例えばその瞬間に隣町の婆さんが息を引き取ったとか、隣国で大商人が破産したとか聞かされても「はぁ、そう。」で済ましてしまうのと同程度にはあそうかと流してしまう程度の(今思うとあまりに惜しい)話聞きとしていたのですが、果たしてこれがいつこの様なはっきりとした慕情と変化するに至ったかと申しますと、つまりはSさんとの破局の後なのです。
愛に飢えているが故に、桜の樹の下には屍体が埋まっていると本当に信じてしまうほど純真な私の心はその屍体でありたいと強く願うようになったとでもいいましょうか、ひとつかなり強烈にマゾヒスティックなまでに献身的になりたい、一人の女性に持てる愛の全てを注いでみたいといつしか人を支えるものになりたいと出来もしないことを思っていたのです。
愛の分かれ目にあって自己に責任の一切を還元することで解決を図り、却ってその為に深く傷付くこととなっていた私の心は空洞のある地面のような、歩いていて不意にずぼりと落ち込んでしまうかもわからないような危なっかしいものでした。
そこを埋めるものが欲しかった、安心の基を積み立てたかった。こう言えば大分私の意図するところが伝わるでしょう。
もっと素直に言うことも出来るのです。
ただ単純にそれが出来ることと、それを実行に移すこととは別の問題です。
だから私はこれ以上素直に言うことはできないものと思ってご容赦ください。
眠れない夜は眠れないから考え事をするのでなくて考え事をするから眠れないものと思いませんか。
私は駄目なんです。丸ぎり根幹から駄目な人間ですからまた夜通し女の子のことなど考えていたのです。
気持ちは募る一方でした。
言葉も交わさないのに。
ある夜が明けた朝のこと、Sさんと会いました。
偶然たまたまです。
道を曲がった拍子に何処かから飛んできた蒲公英の綿毛と鉢合わせするような愛らしい偶然でした。
私はもう何故かわからませんがそこで堪え切れないような気持ちになってしまって、目に涙を湛えて(いたはずです。Sさんが滲んで二人も三人も見えましたから)、Oさんの話を始めてしまったのです。
何てことはない、もしかしたら僕はあの子が好きなのかもしれないと口にしたら、右頬が爆ぜました。
視界の底には白い星がチラチラしています。
強かに頬を張られたのでした。
こうして私は何もかも終わりました。
そのまま学校へ行きませんでした。
それぎりOさんのことは考えなくなりました。
Sさんと話すこともなくなりました。
女性と遊ぶことがなくなりました。
案外自分にも男の友人がいたものだと思いました。
そして夜の物思いもさっぱり止めたのかといいますと、これだけは違いました。
未だにこの悪癖奇習だけは治りませんで難儀しております。
不眠の気はなくなりましたがね。
打ち明けて仕舞えば終わってしまうのです。
これでお話は終わりです。
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