【完結】コーヒーと君

空廼紡

邂逅

「うわ、今日はわんたまないのかよ」




 くそゴルフめ、と忌々しく吐き捨てながら若い男は新聞をゴミ箱に捨てた。その新聞で今日の日付を確認し、少しばかり驚く。




「今日で十年か。早いものだ」




 感慨深く溜息をつくと、隣に少女がゴミを捨てるため背伸びをしていた。手伝ってあげたいが、私ではどうすることもできん。一仕事を終え、少女は母親の許に戻るため、私の身体を通り抜けた。




「この状況にも慣れたものだな」




 死んだ当初は違和感しかなかったが、今ではそよ風が通り過ぎたくらいにしか思えなくなった。




「いかんな……独り言が癖になっている」




 生前の私は無口だったが、誰も聞かれていないと思うとついつい口に出してしまう。


 空を仰ぐ。雲一つもない青い空が、透明な私を見下ろす。




「いや~……今日はいい天気だ」




 この公園で死んでから、今日で十年目になる。多くの人が散歩コースで立ち寄る場所だったのだが、私が死んだ直後は不気味がってか誰も訪れなかった。今は私が死んだことを忘れたのか、以前と同じ活気を取り戻している。当初は多少のお供え物はあったが、今では全くない。気にしてはいないが、誰もが私の存在を忘れていることに寂寞とした気持ちになる。




 誰も座っていないベンチに腰をかけ、行き交う人々を眺めるのが私の日課だ。


 どうやら私は、この公園の地縛霊になったらしく、公園から出ようにも出られなくなっていた。




 成仏したらここから解放される。天国か地獄か……私の場合は後者だろうが、いずれはそちらに逝かねばならない。思い残しはあるのだが、いかんせん。公園から出られないからそれも叶わない。悪循環だが、だからといって何が出来るものではない。この手の知識は全く持ち合わせていないのだ。




 そうなると必然的に何もすることがない。私が視える人などいないし、この狭い公園で一人寂しく過ごすしかない。動物には私が視えているようだが、話せないのであまり意味がない。




そんな私の暇潰しは、じっくりと人間観察して常連に渾名をつけることくらいだ。捨てられた新聞紙や置き忘れた本を見ると、生殺しにさせられている気分になる。物に触れないのは辛いものだと、実感させられる毎日だ。




 幽霊になったからといって、化けて出ることもなければ、死んだ恨みを訴えたこともない。そもそも私が死んだ原因は心臓発作だ。誰を恨めというのか。


 成仏することもなく、十年という節目であるが、何かをするわけでもなく淡々と今日も過ごす筈だった。




「よっ。おっさん、一人かい?」




 見覚えのない中年の男が私に話しかけてきた。


 男は身長が高く、体つきも悪くないように見えた。無精髭を生やし、髪はボサボサ。眼鏡をかけており、二本の缶コーヒーを持っていた。




 他の誰かに話しかけたのでは、と思った。だが、周りには私とこの男しかいない。それに男は、確かに私の目を見ているのだ。こんな事は初めてで戸惑っていると、男がさらに言葉を続けた。




「アンタのことだよ。分かってる?」




 痺れを切らしたのか、男が私に指を立てる。私は躊躇しながら頷いた。




「お前さん、私が視えるのか?」


「視えているさ。アンタが幽霊ってことも分かっている」




 男は嘆息混じりに言いながら、私の隣に座る。それとなく距離を置き、男を窺う。


 すると男はそっぽ向いたまま、私に缶コーヒーを差し出した。




「やるよ。微糖でいいかい?」


「私は飲めないのだが」


「死んでいるもんな」




 男がふっと笑う。




「まあ、仏壇のお供え物と同じだと思ってくれや。それとも微糖じゃなくてブラックが良かったかい?」


「そういうワケではないが……」




 むしろ微糖派だからホッとしたような、飲めないのが少し残念のような。


 子供の頃に比べたら苦いものが食べられるようになったが、いい歳した大人になっても、どうもコーヒーのブラックは好きになれなかった。




 私の横に缶コーヒーを置き、男は自分の分の缶コーヒーを飲み始める。


 なんとも不思議な間だった。気まずさはあるにはあるのだが、それでいてどことなく懐かしい気分にもなる。




「なあ、おっさん。せっかくだからよ、少しの間だけ話し相手になってくれないか?」


「は?」




 突拍子のない言葉に耳を疑う。会っても間のない幽霊である私に話し相手になれと。




「連れが用済ませて来るまで暇なんだよ。せっかくだから付き合ってくれよ」


「……いいだろう。私も暇だからな」




 渋々といった風に言ってしまったが、内心その申し出は嬉しかった。こうして人と話すのは十年ぶりだ。十年も独りでいるとさすがに人が恋しくなっていた。




「だが困ったぞ……久し振りすぎてどう切り出して良いか分からん……」


「おっさん、おっさん。口にでている」


「おっと……すまん」




 つい癖が出てしまい、顔が熱くなる。




「おっさんは独り言言っちゃうタイプ?」


「いや、死ぬ前はそうじゃなかった。どうも聞かれていないと思うと、気が抜けてしまうというか……」


「分かる分かる。俺も一人暮らしを始めた時、幽霊いないってのに独り言言ってた」


「家の中に幽霊だとか入り込まなかったのか?」


「最初からそこに住んでいた霊がいたけど、適当に構ったらいつの間にか成仏していた」


「思い残したことがなくなったんじゃないか?」


「さぁね……ああ、そういえばいなくなったの、ドラマ終わった後だったからそれかな」


「しょうもないな」


「同感」




 思わず苦笑いを零す。そんな小さなことでも成仏できないものなのか。いや、本人にとっては大問題だったかもしれないが。




「おっさんは、いつもここにいるのかい?」


「ああ。ここで死んだからか、公園から出られなくてな」


「おっさんって十年前、ここで死んだ人?」




 私を見ず男は問うてくる。




「そうだが……知っていたのか?」


「少しニュースになったからな。地元の新聞に載っていたよ。公園で孤独死、人通りが多いにも関わらず何故誰にも発見されなかったのか……ってな」




 そういえば私の死体が発見されたのは、倒れた翌日の昼頃だった。まだ人がいる夕方頃に倒れ、夜も何かと人が通るというのに発見されることはなかった。つくづく私は運の悪い男だな。




「やはり私の死はその程度だったか」


「おいおい。散歩していたら突然の心臓発作で倒れ、誰も発見されることもなく死んだだけだっていうのに、テレビに出ただけある意味すごいぞ」


「それもそうだな」




 苦笑して公園を眺める。


 人がまだらにいる中、私は彼がこちらを見ない理由が分かった。普通の人は私が視えない。彼がこちらを見るということは、周りからすればどこ見ているのか分からないし不審者らしくなってしまう。だが、こうしてあたかも、たまたま空いていたら座っただけ、という風を装えば周りに溶け込むことができる。昼頃とはいえ、人通りはあるのだから仕方ない。




「そういや、おっさん。なんで自分が死んだのが十年前って分かっているんだ? ずっと公園にいるのに日付なんて分かるのか?」


「毎日のように新聞紙を捨てる男がいる。その新聞紙を見て日付を確認しているんだ」


「勿体ないねぇ。その男は新聞紙の万能さを知らないのか? 実に勿体ない。大事なことだから二回言った」


「お前さんが普段から、新聞紙にお世話になっていることがよく分かった」




 男が小さく笑う。




「新聞紙ほど、リサイクルしやすいものはないと思っているぜぇ。おっさんは新聞紙にお世話になったことはないか?」


「新聞はとっていなかったが……たしかに新聞紙は万能だな。それは認める」




 荷物のクッションにするのもよし。スプレーなどと汚れる作業をする際に下に敷くのもよし。いくつも例をあげてもキリがない。




「お前さんはどうして私が視えるんだ?」


「昔からどうも視える才能……見鬼の才っていうんだっけか。それが優れているみたいでね。物心がついた時から視えていたよ」


「本当にそのような人がいるのか」


「視える奴なんて滅多にいないからなぁ。いても言わない奴が圧倒的に多い」


「そうだろうな……」


「テレビとか出ている霊媒師って、大体が偽物だぜ? テレビに映っている霊の様子で分かる」


「テレビ越しでも霊が視えるのか?」


「視える視える。心霊写真とかは、デタラメもあるけどマジもんもある。映っているのはそれほど思念が強いってことで、危ないものが多かったりする」


「ほう……そうだったのか」


「偽物でも本物でも、霊媒師がテレビに出ていると、本当に気分が悪くなる。お前、堂々してもいいのかって。俺はそのおかげさんで、周りには嘘つきと言われ続けたから尚更テレビに出る神経が分からん」




 嘘つき。その言葉が胸に鈍い痛みが襲う。




「そうか……あの子もそうだったのか」


「あの子?」


「息子が一人、いたんだ。君と同じくらいの」


「へぇ」




 少々上擦っている声を出す男。少し違和感を覚えたが、男はそれに科白を上乗せした。




「息子さんがいたのか」


「ああ。一人息子だ。お前さんには子供いないのか?」


「まだいないねぇ」


「そうか。まだ、か」




 この男に嫁がいるのか知らんが、作る気はあることに思わず笑みをこぼす。




「その息子さんも視える体質だったのかい?」


「ああ……私は怪奇現象を信じなかったからな。あの子があそこに血塗れの女の人がいる、顔がない人がいると言っても信じていなかった。構ってほしいだけだと思っていた」


「……」


「だが、こうして幽霊になってみた今なら信じることができる。あの子は嘘つきではない。正直な子だったと。まあ……それも手遅れだがな」




 男は黙したまま聞いている。


 死ぬ直前までは思い出すこともなかったが、死んだ今では毎日想い馳せている。


 あの子は今、どこで何をしているのだろうか。それを知る術は持っていない。




「……会いたいかい? 息子さんに」


「そう、だな……あの子なら私が視えるから会えるな」




 だが。




「あっちは私に会いたくないだろうな……」




 それは確信だった。あの子は優しい子だったが、こんな父親に会いたいと思うほど懐は広くないだろう。




「妻と息子を捨てた。むしろ憎まれているに違いない」


「つまりアンタ自身は会いたいと?」


「ああ……会わなくていいから、一目だけでも見たいと思う」


「行けばいいのに」


「さっき言っただろう? 私はこの公園から出られない。だから無理だ」




 簡単に言いのける男に、思わず苦笑をもらす。




「それに、息子と最後に会ってから二十年近く経っている。どこにいるのか分からないし正直、息子を見分ける自信がない。あっちも私の顔が分からないだろう」


「そうだな」




 男は強く言い切った。ざっくりと斬られたが、不思議なことにすぅっと心が軽くなる。




「捨てたって言っていたが、アンタは家族を愛せなかったのかい?」


「愛せなかった……というより、うんざりしていたな」


「うんざり?」


「嘘をつき続ける息子にそれを擁護する妻……それの繰り返しで冷めていったんだ」




 いい加減嘘をつくな、と叱っているのに嘘をつき続ける息子。殴っても息子は、嘘ついていないと言い張った。そんな息子を庇い、妻は必死で訴えた。




『お願い、あなた。この子は嘘をついていないの。嘘をつくなってあなたに言われているから、嘘をついていないだけ。信じてあげて。きっといつか、後悔しちゃうから』




 当時の私は、妻の言葉をあしらっていた。そして今、それを痛感している。


 妻よ。お前が正しかったよ。あの子は嘘をついていなかったし、私の言いつけをちゃんと守っていた。今の私に残っているのは後悔と懺悔だけ。謝りたいのに、お前たちの居場所を知らない。知る術もない。こんな夫ですまなかった。こんな父親ですまなかった。




 今でもはっきり覚えている。妻の絶望した顔を。そして、息子の泣き顔を。決して涙を流すまい、と唇を引き締めて耐えていたが流れ落ちたあの涙を。思い出すたびに、胸が悲鳴をあげるのだ。




「最初は二人を絶対に守ると、固く誓っていたのにな……」


「最初? 息子さんが生まれてくる前かい?」


「ああ……妻の中に子供がいると分かった時は、すごく嬉しかった。名前も捻り出して考えた。一ヶ月も悩んだな。考えすぎて、仕事に手がつかないほどに」


「ダメだろ、それ」




 男が苦笑する。




「それで、一ヶ月間悩みに悩んだ結果、なんていう名前にしたんだ?」


「さつき。左に月と書いて左月だ。戦国武将の鬼庭良直は知っているか?」


「いや」




 そうだろうな。戦国武将の名前なんて、調べない限り最低限しか知らないものだ。




「では伊達政宗は?」


「それは知っている。たしか昔、ドラマにもなっていたよな? 独眼竜政宗って」


「そうそう。その政宗だ。鬼庭は政宗の父の腹心だった。鬼庭良直が隠退した後、左月斎と名乗った。そこからとった」


「どうしてわざわざソイツから名を取ったんだい?」


「鬼庭はな、人取り橋の戦いで政宗が退却する際、殿を努めたんだ。その時、鬼庭は七十三歳だった」


「へぇ。そんな歳とっても、戦には参加できたんだな」


「死ねとは思っていない。だが、鬼庭のような子になってほしい。そう願って名付けた」




 語るほど、あの子の記憶が浮かんでくる。


 左月はよく笑う子だった。赤ん坊の頃はあまり夜泣きせず、くすぐりもあまりなかった。泣いてもオムツとミルクを要求していなければ、すぐに泣きやんで機嫌良く笑った。


 今にして思えば、その時左月は私たちではなくて何もないところを見て笑っていたな。




「なるほど、ね。なんで左に月なんだって思ってた」


「普通は五月のほうの皐月を連想するな」


「もう少し男っぽい名前はなかったのか?」


「ああ……そういえば、名前でイジられたと言っていたなぁ」




 女の子っぽい名前だとクラスメイトにからかわれた、と半泣きで訴えられたことがあったのを思い出す。そういえばあの時、名前の由来について話してやれなかったな。




「……アンタは息子のことがあるから、成仏できないのか?」


「そう、かもな……一番未練なのがそれだからな」


「奥さんのことは?」


「それも気がかりだ。離婚してから会っていないからな」




 慰謝料は払っていたが、私は二人に会おうとはしなかった。そしてそのまま連絡先が変わり、二人の消息は分からなくなった。




「だが、あれは強かだったから、元気でいてくれているだろうと信じている」


「ふーん……」


「今、なにをしているのか。幸せでいてくれているのか。そればかり、気にしているんだ」


「……今、息子に会ったらなんて言うんだ?」


「そうだなぁ……」




 あの子は聞いてくれるだろうか。こんな馬鹿でどうしようもない親の言葉を。


 聞いてくれても、信じてくれないかもしれない。だが。




「謝りたいなぁ……」




 嘘吐き呼ばわりしたこと。信じてやれなかったこと。殴ってしまったこと。心も体も傷つけてしまったこと。手を振り払ってしまったこと。他にもたくさんある。それらを全部含めて、謝りたい。土下座だってするし、拳も甘んじて受け入れよう。そもそも私は幽霊だから触れることはできないが、恨みが晴れてくれるのなら、この魂を粉々にされてもいい。




「伝えたいなぁ……」




 あの時は辟易してしまい見失っていたが、今ははっきりと見えている。たしかにお前を見捨ててしまったが、それでも忘れることはなかった。嫌ったことなどなかった。死んだ今でも、ちゃんと愛しているのだと。




「……アンタの息子は」




 沈黙が流れた中、男が口を開いた。




「元気でやっているさ」




 男を一瞥する。表情は見えなかったが、口元が笑っているように見えた。




「今頃、良い友人に恵まれて、可愛い嫁さんもらって……幸せに過ごしている…………そう、信じようぜ」


「お前さんは本当にそう思っているのか?」


「あぁ……経験者の俺が言うんだ。間違いない」


「根拠のない自信だな」




 だが、何故か信じたくなる強い言葉だ。きっと、同じ経験者だから説得力があるのだろう。


 今日、この男と会えて本当に良かった。


 その時、身体が軽くなった。ふわふわと浮いているような感覚に、わたしは察した。


 男にその事を伝えようとしたが、だんだんと気が遠くなっていく。


 言葉を出そうにも、ちゃんと声にできるかどうか分からない。それでも懸命に唇を動かした。




――ありがとう、すまなかった




 その直後、視界は真っ白になり、意識も深く沈んだ。








 それは突然だった。ふっと隣の気配が消え、振り向いてみるとさっきまでいたはずの人がいなくなっていた。




「おいおい……本当に成仏したのかよ」




 嘆息しながら、残りのコーヒーを飲み干した。コーヒーの苦さが胸に染みる。




「たく……相変わらず頑固で馬鹿な人だったな。最後まで気付かないとは」




 置いたままの缶コーヒーを取る。すっかり冷たくなくなったそれを握りしめてみた。




「赤の他人が、十年前のニュースをわざわざ覚えているかよ」




 空き缶を隣のゴミ箱に放り投げる。小気味の良い音がしたので、もう一本の缶コーヒーを開けようとした時。




「さっくん、いた!」




 振り返った途端、肝が冷えた。


 大きくなった腹を抱えながら、駆け寄ってくるのは確かに俺の妻で。




「こら! 走るなっ! 腹に響くだろっ!?」


「だーいじょうぶっい!」


「こっちが大丈夫じゃないわ!」




 慌てて妻の許に走る。すぐ傍まで行くと、心配性だなぁ、とふにゃけた顔で言うものだから、デコピンしてやった。痛い、とほざいているが手加減はしたつもりだし心配かけた罰だから謝ってやるものか。




「ていうか、終わるの早いな」




 妻は久しぶりに同級生とお茶するというから、まだ終わらないと思っていた。コイツの話は長い、そして女同士の会話というものはもっと長い。




「途中で仕事の電話が入ったから、お開きしたの。あの子、昔から仕事できるんだけど、すぐに解決しそうな問題でもすぐ連絡されるって、愚痴ってた」


「頼りにされているっていうのは、なかなかに忙しいな。ていうか、終わったんなら連絡しなさい」


「スマホの電池切れた」




 その証拠と、ボタンを押しても反応しないスマホを見せつけられた。あれほど外でスマホゲームするなと注意したのに、コイツは。


 呆れすぎて溜息しか出てこない。すると目敏く俺が持っている缶に気付いて、妻が目を輝かせた。




「コーヒーだ!」


「こら。妊婦がカフェイン摂取するな」


「う~……う~!」


「カフェイン中毒め」


「あれ? それ、微糖? 珍しいね」




 恨めしそうな表情から一転、妻が不思議そうに首を傾げる。




「供え物だからな」


「供え物? 例の人に会えたの?」


「……ん」


「そう。なら良かったね」


「ん」




 短く返事すると、妻は微笑んで俺の手を絡めた。




「それじゃ、帰ろうか」


「そうだな」




 その手をぎゅっと握り返して歩き出す。


 まだ小さかった頃、両親と一緒に歩いた道を自分の子を宿した妻と並んで歩いている。不思議な気持ちになると同時にむずがゆかった。




「そろそろ名前考えないとね」




 妻が腹を優しく撫でる。




「先生の話だと男の子らしいけど、やっぱり男の子らしい名前がいいかな?」


「そうだな……」




 一呼吸間を置いて応えた。




「キラキラネームと戦国武将の名前は却下だな」


「キラキラネームに関しては、激しく同感」


「いつも思うけど、それなんか日本語おかしくないか?」


「でもしっくりくる表現だと思う」


「あ、ちょっとだけ手離していいか?」


「その間に走っても?」


「走ったらチョップの刑」




 すかさず頭を庇う妻。笑声を喉奥で抑えながら微糖の缶コーヒーを開けて、一気に飲み干した。




「あー! カフェイン中毒者の目の前でなんていうことを!」


「このまま家に持ち帰ったら、我慢できなくなって飲むかもしれないからな」


「信用ないな!」


「しているしている」


「嘘おっしゃい! わざわざコーヒー隠しているくせに!」


「と、いうことは探したんだな」




 喚いていた妻が一瞬で静まり返る。図星か。これは家にあるコーヒーを処分する必要がある。勿体ないとか考えたら駄目だ。同じくカフェイン中毒の友人にあげるとするか。


 そう決意して、空き缶を揺らしてみる。




「しかし微糖っていっても、けっこう甘いな」


「メーカーにもよるよ。でも良いんじゃない? さっくん、超がつくほど甘党だし」




 缶コーヒーの原材料名の項目を眺めながら、そうだな、と頷いた。




「苦いのは過去だけで充分だな。今度から微糖飲んでみるか」

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【完結】コーヒーと君 空廼紡 @tumgi-sorano

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