甘いさかな
詠井晴佳
第1話
釣りという趣味は、蜜漬けのカットフルーツみたいに甘いものではありませんでした。 第一、大岩の上に腰を下ろし、竿を片手に今宵の肴に思いをはせながら、スイーツを嗜むこと自体が、破綻も甚だしい食べ合わせだったのです。
スイーツ、落下。
澄んだ水。
河底に沈み着いた甘ったるいケーキは、表面から緩やかにその粒子を溶かしてゆく。スポンジの幾何学的な輪郭が徐々にほどけて、生クリームは一帯を濁し、甘美なまどろみが川下へと充満してゆく。
プランクトンが、青魚の群れが、甘やかな奇跡をぱくりと一口。
伝播するミラクル。倍々ゲームの様に加速するメルヘン。
甘さが足りない。甘さが足りない。
針糸の先の人間が、大海の白鯨が、奇跡の魚ぱくりと一口。
甘い。幸せ。快感。
たちまち奇跡に舌鼓した彼らは、夜が更けると、気ちがいのように歌い出すのです。
ああ、甘さが足りない。幸せが足りない。
甘い世界なら、いいのになあ。
ついには寝床を飛び出し、街の場末の小径で、夜もすがら踊り明かすのです。影色に浸かった街では、白昼夢のような憧憬が月明りを受けて地上に映写されています。
ああ、幸せが足りない。幸せが足りない。
甘い世界なら、いいのにねえ。
さて、この街の外れの一軒家には、お母さんと年の離れた姉と三人暮らしの、年の端もゆかぬ少年が住んでいます。
町に甘い香りが舞い込んでから数日。甘さを未だ知らない少年は、リビングのカーテンを少しだけ開けて、真夜中の街と、道端に溢れかえる人々を眺めていました。
「みんな、目玉がおかしくなっちゃったんだ」
目の前の光景を夢心地に見つめながら、少年はそう思いました。
だって、明るい時に歌を歌ったり、踊りを踊るのは普通のことだけれど、少年が寝る時間になっても道端で踊り狂っているのは、とても普通のこととは思えないからです。空にはとっくに星が瞬いているのに、大人たちはきっと、まだ夜になったことに気付いてないのでしょう。
少年のお母さんは引き戸一枚隔てた向こう側で、すやすや寝息を立てています。お姉ちゃんはというと、お母さんが寝床に着いた十一時過ぎを見計らって、めい一杯のおめかしをして、町灯りの元へと飛び出して行きました。そう、少年のお姉ちゃんも一昨日、甘さを知ってしまったのです。
ああ、幸せが足りない。幸せが足りない。
甘い世界なら、いいのにねえ。
真夜中を進むパレードのシュプレヒコールは段々と大きくなり、とうとう少年の家の前の角に差し掛かります。
ああ、幸せが足りない。幸せが足りない。
甘い世界なら、いいのにねえ。
少年の家の前で、真夜中のパレードはなぜか動きをピタリと止めました。その中に居た一人の少女がパレードから抜けたかと思うと、少年が目を張り付かせていたリビングの窓の方へと進んで来ます。
「ねえ」
目が合った瞬間、背筋を這うような焦燥と共に、気味の悪い浮遊感が少年を苛みました。身体に上手く力が入りません。
ガラスの薄壁一枚向こう側に立ち尽くすお姉ちゃんの姿は既に、繊細で臆病で優しさの過ぎるような、少年の知るお姉ちゃんではありませんでした。
甘いだけのとろけたお姉ちゃん。少年は、とても綺麗なものがぐしゃぐしゃに壊れる瞬間を見た気がしました。
お姉ちゃんは鍵の掛かった窓とカーテンを甘さですっかりとろかしてしまうと、外靴を履いたまま、のそのそと室内に上がり込んで来ました。
「甘く、なろうよ?」
お姉ちゃんが甘ったるい声で囁きます。
嫌だ。嫌だ。僕は甘くないままでいい。
「……ぼくは……、甘いのはいいや」
「どうして?」
「怖いんだ。甘い魚を食べちゃったら、今のみんなのように、色んな楽しいことや大事なことを忘れちゃう気がするんだ。テレビを見て笑うことも、趣味のサッカーも、掛け算のやり方も、友達を大切にする気持ちも。」
あはははっ。お姉ちゃんはとても愉快そうに笑います。屈託なく笑います。
「忘れちゃえばいいじゃない! お姉ちゃんも、たぶんもう、忘れちゃったよ。でもね、どうってことないの。だって、甘い魚は最高に気持ちいいもの。甘い気分でおかしくなる寸前なの。でもね、別に、危ない薬をしているのとは違うのよ。あんなちんけで表面的な快楽主義とは訳が違うんだから。甘い魚はね、私を本当に幸せにしてくれるのよ。本当にね。それも独りよがりな幸せじゃなくて、皆が私の幸せを認めてくれるの。あんたは幸せだ! って具合にね。はははっ。だから私も、街の誰かが甘い魚を食べた時にはこう言ってやるのよ。あんたは幸せだ! ってね。ほんと、今までとは大違いよ。充実感が段違い。今までいくら私が声張って主張したところで、私の幸せなんて、誰一人認めてくれやしなかったのにね。ははははっはははっ!」
甘いさかな 詠井晴佳 @kn_163
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