第6話 最後のcafe

 とある雑居ビルの最上階に、そのお店はあった。

 コロニアル風の柱、飾り窓、タイル貼りの床なども、とてもいい雰囲気をかもしていた。敷地の半分をレストランに、残りの半分を浅いプールにするという贅沢さもまた、現実離れしていて素敵だった。


 その店の一番イイ時間は、ディナーの開店前だ。


 時間でいうと、午後四時とか。


 まだ明るい時間帯がよかった。日差しが、中庭パティオのプールに注いで、水面みなもがキラキラと輝いている時間。


 客なんかちっとも来なくて、ただ、あたしと彼だけが、のんびりと夕暮れ前の食前酒をいただいている。


 よく冷えたチンザノドライをジンジャエールで割って。トールグラスにクラッシュアイス。

 淡い金色に輝くその飲み物で満たされたグラスを目の前にかざす。そこから透かして見るこの街は、悪くない眺めだったものだ。


 給仕長は糊のきいた白いシャツと黒いヴェストを着込み、黙々とディナータイムの開店準備をしている。厨房からはコック達が今夜の仕込みに追われる音がする。やがてマダムがやってきて、場の空気が締まり、店のテンションが上がる。


 わたしはそんな、いま目覚めんとするあの店の雰囲気が大好きだった。




 ●




 よく、あの店で狼藉ろうぜきをはたらいたことを思い出す。


 ボーイフレンドと口論をして、グラスの飲み物をかけるなどということは、日常茶飯事だった。


 怒りのあまり、持っていたグラスを床に叩きつけたこともあるし、大声で泣きじゃくったこともある。


 父親ほども年の離れたボーイフレンドや、わたしの当時の生活の全てを支えてくれていた恋人に罵詈雑言を浴びせかけ、彼らの顔色をなからしめたことも一度や二度ではない。


 しかしあの店は、そんな出鱈目なわたしを一度たりとも追い出したり、つまみ出したりはしなかった。あの店に集う客も、わたしのそんな激昂する様子を、ほほ笑んで見ていたものだった(もちろんわたしは見世物じゃないのだと、彼らにも激しくいきどおったものだが)。


 あの頃、多分にエキセントリックだったわたしは、周囲の大人たちの優しさに見守られて成長していたのだと思う。あの界隈の名の通った店では大概、無茶をしでかしていたけれど、それでもどの店のオウナーも給仕長も、わたしの味方をしてくれた。


 男に捨てられて涙をぼろぼろとこぼしながら店のドアをくぐった時、何も言わずに厨房の奥へ通し、折り畳みのパイプ椅子に座らせて温かいスープを飲ませてくれたシェフ。

 仕事で大きな賞を取った時、授賞式の会場で祝福の嵐を受けた後は、この界隈にタクシーで乗りつけ、ドレスのままあの店に行き、店の奥のアップライトピアノの上にクリスタルのトロフィーを置いて、何時間もピアノを弾いたこともある。


 あの時あのお店たちは、いわばわたしの住まいであり、マダムはママでありまた、給仕長やシェフはパパの代わりだった。



 ―――懐かしい。



 二度の戦争が終わり、この国は豊かになった。

 誰もがほどよく着飾れるようになって、誰もが賢くなった。

 だけど、多くの大人たちは子どもっぽくなり、文化の程度は下がった。わたしに言わせれば、この国は退廃したのだ、ということになるが。


 わたしももう、あの頃のように事あるごとに激昂するような小娘ではなく、むしろそういう子どもをあやすような、あのマダムと同じ年代になった。

 あの界隈はいつぞやの土地価格の狂乱高騰のあおりを受け、再開発された。スマートだけど味気ないガラスとステンレス張りの高層ビル群が立ち並び、多くのチャーミングな飲食店は大きな資本を持ったチェーン・レスランに取って代わられた。そしてラミネート貼りのメニューを出す、下品な店ばかりになった。

 そしてわたしもまた、あの頃はよかったなどと繰り言をいう、老いた年寄りのひとりになった。


 

 最後のカフェがしまって、あの頃のわたしのような娘たちは一体どこで何をしているのだろうかと時々心配になる。どこかでのびのびと激怒し、きちんと男たちをキリキリ舞いさせているだろうか? 周囲の大人たちをハラハラさせているだろうか?


 自分がその限りを尽くしてきた分、いまそのお返しができていないことが、あのお店にわたしが借りている、もっとも大きな負債だ。


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6つのカフェの物語 フカイ @fukai

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