halcyon days

ばこん

halcyon days

二年生になって間もない頃、紫苑は教室移動のために一人で廊下を歩いていた。

開け放たれた窓からは、春の匂いを含んだ心地よい風が吹き込んでくる。


花屋を営む母の手伝いをして、日頃から多彩な匂いに触れているからか、紫苑の嗅覚は人並み外れて鋭かった。普通の人なら気が付かないような匂いも敏感に感じ取る事ができる。コーヒーや紅茶の銘柄を匂いだけで当てることは容易いし、親しい友人なら、目隠ししていても誰が近くに居るかが分かる程だった。

鼻が効きすぎて困る人も中には居ると言うが、紫苑の場合はそうでは無い。その気になれば感じ取れる匂いも、意識しなければどうということは無い。少なくとも、これまではそうだった。


廊下の向こう側から、女子生徒が集団になって歩いてくる。

見慣れない顔は、恐らく新入生だろう。

そんな集団と、何気なくすれ違った、その時だった。

紫苑の鼻は、一つの匂いを捉えた。

甘く優しい、それでいてしっかりと存在感のある匂い。その匂いは、普段無意識にかけているフィルターをすり抜け、他のあらゆる感覚を押しのけて、紫苑の意識に真っ直ぐに突き刺さった。


「えっ……?」


思わず立ち止まって振り返る。四人の生徒が遠ざかって行くのが見えたが、今の匂いがその中の誰の物なのかは、見当もつかない。


紫苑は、自分の心の中にある匂いの辞書に、今感じた匂いを、しっかりと書き加える。名前も分からないその匂いが、後に"初恋の匂い"という特別な名前を持つことを、その時の紫苑は知る由も無かった。




件の匂いに触れた日から数日。紫苑はいつものように、単語帳を片手に店番をしていた。

紫苑の勉強が忙しくない週末は、母は店の奥で作業に専念し、店頭の簡単な仕事を紫苑がこなすのが常だった。店を開けてからしばらく経った頃、チリンとドアベルが鳴る。見れば、一風変わった黒いワンピースを着た小柄な少女が立っていた。


「いらっしゃいませ」


慣れた調子でにこやかに紫苑が言うと、その少女はおずおずと口を開いた。


「あ、あの、鈴村ですけど……母に頼まれて…」


「ああ、鈴村さん。退院のお祝い用の花ですよね?」


鈴村、という名前は、以前にも母から聞いたことがあった。近所の産婦人科のクリニックを営んでいて、退院する患者さんに渡すお祝いの花の注文が入るのだ。


紫苑は、カウンター横の棚から四つのアレンジメントが入った紙袋を取り出して手渡す。


「少し重いから、気をつけて下さいね」


「はい。ありがとうございます」


その少女はぎこちないながらも丁寧に頭を下げ、くるりと向きを変えて店を出て行く。


店の扉が開くと同時に、風が店の中に吹き込んでくる。その少女を通り過ぎた風が紫苑にぶつかった瞬間、"あの匂い"が、紫苑の鼻を刺激した。

あの時と同じ、感覚を直接揺さぶられるような、異様な感覚に包まれる。


「あっ...!」


思わず声が漏れるが、既に少女の姿は無い。


我に返って懸命に記憶の引き出しを漁り、数日前に感じたあの匂いと、今の匂いを照らし合わせる。二つは、紛れもなく同じ匂いだった。


「…見つけた」


確かな確信を胸に、一人つぶやく。


一度目は、偶然だと思っていた。しかしその匂いは、一度ならず二度も紫苑の無意識のフィルターをくぐり抜け、紫苑の心を揺さぶった。ここまでくると、日頃運命といった類の物はあまり信じない紫苑でさえも、その匂いに何か特別な意味感じずにはいられない。


きっと、また会える。根拠は何一つなくても、そんな気がしていた。






二度目にあの少女と会ってからしばらくの間は、変わり映えのしない日々が続いた。

毎日同じように学校へ行き、部活をして、家に帰る。あの少女が再び紫苑の前に現れることも無かった。

ひょっとすると、あれは全くの別人だったのかもしれないと思い始めた矢先の事だった。


その日は、一年生だけを集めた集会が行われるといことで、紫苑の活動するバレーボール部は、体育館を使うことができなかった。

普段ならば、グラウンドを使ってできる限りの練習をするのだが、天気は雨。結局部活は休みになり、紫苑は普段よりも随分と早く家路についた。まだ母が店にいる時間だったので、家には戻らず直接店へと向かった。


制服の上からエプロンをして、いつも休日にするように店番に立つ。ついさっきまでは穏やかだった雨はいつの間にか激しさを増し、雨樋を水がごうごうと流れる音が聞こえた。


紫苑は閉店時間になるまでカウンターの隅にノートを広げて課題をこなしていたが、結局客は一人も現れなかった。


閉店の時間を過ぎ、シャッターを閉めようと立ち上がる。その時、店先に慌てた様子で辺りを見回す一人の人影が見えた。

小柄な体に、黒く長い髪。その後ろ姿は、先日この店に来た"鈴村さん"、まさにその人だった。そして、彼女が身につけているのは、紫苑の通う学校の制服。やはり、自分の感覚に狂いは無かった。

遂に訪れた、三度目の出会い。

紫苑は期待に胸を膨らませながら、扉を開けて声をかけた。


「鈴村さん...だよね?」


彼女は驚いた様子で振り返ると、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべながら答えた。


「そ、そうです。覚えてもらってたんですね」


「まあね。ところで、お迎えを待ってるの?」


「いえ、実は、傘を忘れてしまって。雨が止むまで待とうかと思ったんですど...」


そう言って灰色の空を見上げる。

低くたれ込めた灰色の雲から降り注ぐ大粒の雨は、まるで止む気配がない。


「これじゃあいつ帰れるか分からないね。そうだ。傘貸してあげるよ」


「えっ?いいんですか?」


「もちろん。とりあえず中に入りなよ。そこだと濡れちゃうでしょ?」


店の軒先は、多少の雨なら凌げても、風が吹けば簡単に降り込んでずぶ濡れになってしまう。


紫苑は扉を大きく開いて手招きをした。


「は、はい」


その少女は小走りで扉をくぐる。


「そういえば、名前、聞いてなかったね。私、加藤紫苑。あなたは?鈴村さんっていう苗字は知ってるんだけど...」


紫苑は乾いたタオルを手渡しながら尋ねる。


「ごめんなさい。すっかり忘れてました。私、鈴村波瑠って言います。波に、瑠璃の瑠で、波瑠」


そう言って、空中に自分の名前を指で書いてみせる。


「なるほど。波瑠ちゃんっていうんだ。それにしてもびっくりだね。まさか同じ学校だったなんて」


紫苑はエプロンの下の制服を指して言う。


「私もびっくりです。駅でも同じ制服はみかけなかったから、てっきりこの辺りには私だけなのかと......」


「私は部活があるから、朝は早いし夕方は遅いからね。無理もないよ」


紫苑は店の裏から一本の傘を持ってくると、波瑠に手渡した。


「はい。これ。また暇なときに返しに来てくれればいいよ」


「すみません。とっても助かります。明日返しに来ますから......」


「明日......?うーん。別に構わないんだけど、できれば次の日曜がいいかな。日曜日なら、私もいるからさ」



「わかりました。じゃあ、日曜に来るようにします」


「うん。待ってるよ。気をつけて帰ってね」


波瑠は何度も振り返って頭を下げながら、雨に霞む景色に消えていった。


波瑠がいなくなって、再び静かになる店内。変わらず激しい雨音が響く。


明日返しに来ると言っている所を止めて、わざわざ自分が店に居る日曜を指定する。そんな事を無意識にした自分が、信じられなかった。


そもそも普段の紫苑は、あまり積極的に人と関わるタイプではない。日々の生活で不自由しない程度には人付き合いもするが、敢えてそれ以上の関係を築こうとはしてこなかった。仲のいい友達も、片手で収まるほどしかいない。


しかし、波瑠は違った。名前すら知ったばかりで、ほんの数分話をしただけ。まだ友達ですら無い。にもかかわらず、この子のことをもっと知りたい。もっと話がしたい。そんな感情が、心の奥からふつふつと湧き上がってくるのだ。

一体何がそうさせているのか、まだはっきりとは分からない。ただ一つだけ確かな事は、波瑠は紫苑の心に訴えかける他にはない特別な何かをもっているということだけだった。




そして、約束の日曜日がやってくる。あの日からの数日間はとても長く感じられた。

いつもより少し早く店のシャッターを開けて空を見上げると、あの日とは正反対の気持ちのいい青空。からりと乾いた心地よい風が肌を撫でる。


店を開けてから、何組かの客が訪れてひと段落し、時計の針が丁度頂上で重なろうとしていた時。


「ごめんください」


控えめなボリュームの声が聞こえ、店の入口を

見やる。


波瑠だった。

前に花を受け取りに来た時と同じ黒のワンピースを着て、手には紫苑が貸した花柄の傘を持っている。


「あ、波瑠ちゃん。来てくれたんだね」


紫苑は勢いよく立ち上がり、カウンターを出る。


「 傘、お返ししにきました」


そう言って傘を差し出す波瑠。初めて明るいところでじっくりと波瑠を見る。


華奢な身体に、深い艶のある黒髪と白く透き通った肌のコントラストが眩しい。整った目鼻立ちの中には、微かに幼さが残っていた。


「あの.....私の顔、何か付いてますか?」


まじまじと見つめる紫苑を不思議に思ったのか、波瑠が尋ねた。


「い、いや、綺麗な髪だなって。私は地毛が茶色いし、くせっ毛だから羨ましいや」


そう言って自分の髪を弄って見せる。


「そ、そんな事ないですよ。先輩も似合ってます」



「ありがとう。所で、学校には慣れてきた?」


「はい。やっと馴染んできました。まだ、物理室と化学室の場所が分からなくなっちゃったりだったりしますけど......」


「あー。あるある。私なんて今でもあやふやだよ」


「良かった。私だけじゃ無いんですね」


そう言ってころころと笑う波瑠。初めて聴く笑い声は、鈴の音のように優しかった。


「でも...」


「どうしたの?」


「明日から、テスト期間ですよね...?」


先ほどの明るい顔とは打って変わり、深刻な表情を浮かべる波瑠。


「そうだね...ひょっとして波瑠ちゃん、勉強苦手......?」


そう問いかけると、波瑠は悪戯が見つかった子供のような苦笑いを浮かべた。


「実はそうなんです......。高校受験もギリギリで、補欠合格から滑り込んだので......」


「へえー。真面目そうに見えるのに意外だね。私でよかったら何でも教えるから、困ったときはいつでも言ってね」


「はい。そのときはお願いします」


話の流れがちょうど良い方向に向いたのを見計らって、紫苑は一つの提案を口にした。


「あ、そうだ。私も明日から部活がなくなるから、朝一緒に行かない?」


「いいんですか?」


「もちろん。そうすれば、電車の中で色々教えてあげられるしね」


「ありがとうございます。じゃあ、何時の電車に乗ればいいですか?」


「うーん……七時半でどう?」


「わかりました。地元の先輩と二人で登校

なんて初めてなので、とっても楽しみです」


波瑠はにっこりと笑った。




波瑠が帰っていった後、紫苑の心はいつにも増して弾んでいた。

先週傘を返す日を約束した時は、全くの無意識だった。しかし、今日は違う。紫苑は、確かに自分の意思で、波瑠を誘った。

偶然テストの話題になったから都合が良かったが、仮にそれがなかったとしても、一緒に登校しようと誘うつもりだった。柄にも無いことをしているのは、自分でも分かっていた。しかし、顔を合わせる度に膨らんでいく気持ちを、抑えることはできそうもなかった。


翌日。紫苑は、普段より一時間以上も早く目を覚ました紫苑は、電車の時間も待ちきれずに家を出た。家から駅までは、ゆっくり歩いても10分とかからない。駅に着いてみれば、波瑠と約束した電車まではまだ20分以上も時間があった。

一本前の電車が行ったばかりで、ホームには人もまばらだ。四脚しかないベンチが運良く空いていたので、そこに腰を下ろして波瑠を待つ。

恋人と待ち合わせをする人の気持ちが、すこしわかったような気がした。

そわそわと足を組み替えながら、待つこと十分。遠くに波瑠の姿が見えた。紫苑を立ち上がって手を振ると、波瑠も手を振り返してくる。


「加藤先輩、おはようございます」


マネキンが着た見本のように着こなされた真新しい制服に、傷一つない鞄。真っ直ぐに背筋を伸ばしてこちらに歩いてくる姿は、清楚という字がそのまま服を着て歩いているようだ。


「おはよう波瑠ちゃん。さ、行こっか」


「はい」


波瑠を後に連れて改札を抜ける。小さな駅なので、改札を抜ければすぐにホームがある。最後尾はいつも混みあうので、先頭近くまで歩く。



間もなくやってきた電車に乗り込むと、すし詰めとまでは言わないまでも、車内はかなり混みあっていた。


「あちゃー。やっぱり混んでるね。波瑠ちゃんは毎朝これに乗ってるの?」


「そうですね。少しの間我慢するだけなんですけど、私は体も小さいし、ちょっと大変です」


手が届くぎりぎりの高さにある吊り革につかまりながら、苦笑いを浮かべる波瑠。


一駅、二駅と過ぎるうちに混雑は増していき、最後の停車駅を出る頃には文字通りすし詰めだった。


「波瑠ちゃん、ごめんね。ちょっとだけ詰めるよ」


「は、はい。大丈夫です」


そう言って紫苑は波瑠の方へ体を寄せる。

波瑠との距離が一層近くなり、その匂いが強く主張する。これだけ近づいてみても、その匂いがどこから来るものなのかは分からなかった。


乗り換えの駅に辿り着く。人の波に押し流されるようにしてホームに降り立った。

ふと見ると、波瑠の顔が少し赤いように見える。


「大丈夫?なんか顔赤くない?」


「え?そ、そうですか?電車が暑かったからかな......?」


どこか慌てた様子で恥ずかしそうに俯く波瑠。

その反応に僅かな違和感を感じはしたが、それ以上深く考えることはしなかった。


二人は階段を登り、別のホームへと移動する。ホームでは、各駅停車が急行の通過待ちをしていた。紫苑は迷わず普通電車に向かって歩く。


「あれ?急行、乗らないんですか?」


紫苑が普通電車に乗り込もうとしたのを見て、波瑠は不思議そうに尋ねた。


「あぁ、急行は混むからねー。こっちは各駅停車だけど空いてるし、確実に座れるからさ。ちょっと時間はかかるけど、始業時間にはちゃんと間に合うから心配しないで」


紫苑は電車に乗り込むと、適当な場所を見つけて腰を下ろした。波瑠も隣に座る。

しばらくして発車のベルが鳴り、電車はのんびりとしたスピードで走り出す。窓からは朝日がさんさんと差し込み、波瑠の艶やかな髪をより一層輝かせていた。

真剣な表情でノートを見る波瑠に話しかける訳にも行かず、紫苑も鞄から教科書を取り出す。テスト範囲のページを開いて目を通すが、内容は一向に頭に入っては来ない。それどころか、少しでも気を抜くと、隣に座る波瑠の方へと自然に視線が引き付けられそうになる。結局何一つ頭に入れる事は出来ないまま、学校の最寄り駅に着いてしまった。


駅から学校までは、1キロと少し。波瑠に合わせて、いつもより少し遅いペースで歩く。


「ねえ、波瑠ちゃん」


「はい?」


「帰りも、一緒にどうかな?」


紫苑は前を見つめたまま問いかける。


「是非。何時にしますか?」


波瑠は嬉しそうに答えた。


「じゃあ、4時に校門ね」


「了解です」




節電のために薄暗い階段を上って教室に着くと、既に半分くらいの生徒は登校していた。紫苑が自分の席について教科書を準備をしていると、背後から声が投げかけられる。


「紫苑、おはよ」


「おはよ。世理香」


豊田 世理香。紫苑の数少ない親友の一人だ。

彼女はつかつかと紫苑の席に歩み寄ると、悪戯っぽい顔をして紫苑の顔を覗き込んだ。


「紫苑、あんた、何か良いことでもあった?」


どきりと心臓が跳ねる。


「何よ突然」


平静を装い、敢えてぶっきらぼうに返す。


「いや、なんか嬉しそうな顔してたからさ。何かあったのかなと思って」


「いや、別に。何も無いよ」


「ふーん、そう」


世理香はそれ以上は追求せず、自分の席に戻っていった。


別に、取り立てて隠すほどの事ではないと言われればそうかもしれない。説明するなら、偶然近所に後輩ができて、一緒に登校しただけの事だ。しかし、どうしても紫苑は、今朝の事を誰かに話す気にはなれなかった。誰かに話してしまえば、あのふんわりとした特別な時間が、消えてなくなってしまうような気がした。


長い1日が終わり、放課後になった。教室の掃除当番を手早く片付けた紫苑は、足早に校門へと向かう。次々と流れ出ていく生徒の中、校門のそばには波瑠が待っていた。


手を振りながら駆け寄る。


「ごめんごめん。待たせちゃったかな?」


「いえ。大丈夫ですよ」


二人並んで駅へと向かって歩き出す。

その日の出来事や、自分たちの家の事。色々な事を話しながら歩く通学路は、わざと遠回りな道を通ってもあっという間だった。


電車に乗り込み、朝と同じように教科書を開く。朝ほど緊張することはなく、ようやくまともに勉強ができるようになってきたと感じ始めた時の事。

ふと、左肩に重みを感じた。見れば、波瑠が肩に寄りかかって、すうすうと寝息を立てている。制服越しにほんのりと波瑠の体温が伝わってくる。閉じられた瞼と、長い睫毛。優しい寝顔だった。


周りには浮いた話も少なくない中、あまり興味が持てずに恋愛のひとつもしてこなかった紫苑にとって、人の体温を肩で感じるこの感覚は初めてのものだった。

心臓は早鐘を打ち、えも言われぬ充実感が体を包む。恋愛ドラマの主人公達は、こんな気分だったのだろうか。そんなぼうっとした気分に呑まれかかっていた時、車内の放送が次の駅、紫苑たちが降りる駅の名前を告げる。はっと我に返った紫苑は、慌てて波瑠の肩を揺すった。


「波瑠ちゃん、起きて。もうすぐ着くよ」


「......ん?」


波瑠は寝惚けた顔で目を擦る。

そして数秒後に跳ね起きた。


「あれっ!?私、寝ちゃってました?」


「うん。乗ってまもなく撃沈だったよ」


「す、すみません。六限目が体育で疲れちゃって...」



「いいのいいの。それより、早く片付けないと降り遅れるよ?」




慌ただしく乗り換えをすませ、地元の駅へと辿り着く頃には、時計は6時前を指していた。すっかり日は落ちて、駅の前に立つ古びた街灯はぼんやりとした橙色の光で二人を照らす。


「じゃあ、またね。波瑠ちゃん」


「はい。今日はありがとうございました。先輩と一緒にいられて、すごく楽しかったです」


波瑠がぺこりと頭を下げる。


「ありがとう。私も楽しかったよ」


紫苑は微笑んだ。


「それじゃあ先輩、また明日」


「うん、バイバイ」


歩き去っていく波瑠。その姿が曲がり角に消えた時、言いようのない寂しさが紫苑を襲った。


これまで一人が寂しいと感じた事など一度もなく、むしろ一人が気楽で好きだった。それが今はどうだろうか。


肩に感じたあの重みが、体温が、あの笑顔が、恋しくて仕方ない。


「なんだろう、この気持ち......」


誰もいない街灯の下で呆然と立ち尽くし、ぽつりとつぶやいた。




翌日も、そのまた次の日も、紫苑と波瑠は同じ電車に乗って学校へ行き、同じ電車で帰ってくる事を続けた。何日それを続けてもその新鮮さは失われず、二人きりの時間は変わらず光のように早く過ぎ去っていく。

そんな日が四日目になった時のことだった。


「あの...先輩」


帰りの電車の中、困り顔の波瑠。


「ん?どうしたの?」


「実は、この数学の問題なんですけど、解説を読んでも良くわからなくて...」


ノートに記された複雑な数式を指で示す波瑠。


「あー、これね。私も最初は苦労したなぁ。教えてあげることはできるけど...」


その時、紫苑の頭の中で、一つのひらめきが起こった。このまま、勉強を教えることを口実に、波瑠を家に来るように誘えないだろうか。そうすれば、自然に二人きりのシチュエーションを作り出せる。

こうして二人で通学してはいるが、一つの部屋で二人きり、という状況はまだ無い。姑息なやり方ではあるが、この機会は見過ごしたくは無かった。


「......ねえ、波瑠ちゃん。良かったらこのあと、うちに来ない?そうすればゆっくり教えてあげられるけど...」


「えっ?いいんですか?」


ぱっと表情を明るくする波瑠。

その無垢な瞳に、かすかな罪悪感を覚える。


「お母さんはまだ仕事だし、1人で勉強するのも寂しいからね」


「じゃあ、お願いします」


最寄り駅で電車を降りると、紫苑は波瑠を連れて家へと向かう。平静を装ってこそいるが、心は弾んでいた。


「先輩の家、ここから近いんですか?」


「うん。すぐそこだよ」


閑静な住宅街に、2人の足音がコツコツと響く。公園では小学生達が駆け回っていた。


ほどなくして、紫苑の家の前に辿り着いた。

何の変哲もない、ごく普通の一軒家。玄関の傍の大きな花壇には、色とりどりの花が咲いている。


「どうぞ入って。狭くてごめんね」


ドアを開け、波瑠を招き入れる。


「お邪魔します」


波瑠はきょろきょろと辺りを見回す。


「こっちだよ。私の部屋は2階」


波瑠を連れて2階へと上がり、突き当たりの自分の部屋へ通した。

日当たりの良い南向きの部屋は、昼間の温かさが微かに残っている。


「飲み物持ってくるから、適当に座っててね。お茶でいいかな?」


「あ、はい。大丈夫です」


「了解。ちょっと待っててね」


紫苑は階段を駆け下りると、冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぐ。


自分でも感じられるほどに、紫苑の心は浮き足立っていた。しかし、うれしさのあまりヘマをしては元も子も無い。少しでも心を落ち着かせようと、目を閉じて深く深呼吸をする。

鼓動が少し落ち着いたのを確認してから、お盆を手に階段を上がった。



紫苑が自室の扉を開けると、波瑠は床に置いたクッションの上に正座して所在なさげにしていた。


「波瑠ちゃん、緊張してる?」


「ちょっとだけ。私、先輩の家に来るのなんて初めてで...」


ぎこちない苦笑いを浮かべる波瑠。


「あんまりそういうタイプじゃ無さそうだもんね」


紫苑は笑って言った。


「さて、どの問題だったっけ?」


もっと話をしていたいのは山々だが、建前はあくまで勉強会だ。鞄から筆箱を取り出す。



「これです。ここの式変形なんですけど...」



並んで座って勉強をしながらも、さりげなく隣に視線を走らせる。


その整った容姿もさることながら、やはり一番に感じるのは、その優しい匂いだった。


例えるなら、長年使い込んだ毛布のような。


無条件で優しく包み込んでくれるような感覚を、この匂いは確かに持っている。


「ねえ、波瑠ちゃん。ひとつ、変な事言ってもいい?」


「べ、別に構いませんけど...」


「波瑠ちゃんってさ、いい匂いするよね」


一歩間違えば気味悪がられてしまうかもしれない言葉。だとしても、波瑠の纏っている匂いが、自分にとって特別なものであることを伝えずにはいられなかった。


「えっ...?私の匂い、ですか?」


「そう。ほら、私って鼻が効くから、色んな匂いに気がつくんだけど、波瑠ちゃんの匂いは特別なの。なんて言うのかな......上手く説明出来ないけど、波瑠ちゃんの匂いは、他のどんな匂いとも違って、鼻を通してじゃなく、直接心に伝わってくるみたいな感じがするんだよね」



「そうですか......」



波瑠はこまったような表情で考え込む。


「ご、ごめんね。変な事言って。そんなに深い意味をこめて言ったつもりじゃ無かったんだけど」


紫苑が謝ると、波瑠は慌てた様子でそれを否定して言った。


「そんな事ないですよ。むしろ嬉しいです」


「嬉しい......?」


「私、今まで誰かに"特別"なんて言ってもらった事がないので……だから、もしも私が先輩の"特別"になれたなら、それってすごく嬉しいことだと思うんです」


屈託のない笑顔で笑う波瑠。


「そう言って貰えて良かった」


紫苑も笑い返した。




「じゃあ、また明日」


「うん、また明日ね。気をつけて帰るんだよ」


手を振りながら、遠ざかっていく波瑠を見送る。青黒い夜空高くに貼り付いた月が、その小さな背中をぼんやりと照らしていた。



玄関先で波瑠の姿が見えなくなるまで見送ったあと、紫苑は自分の部屋に戻った。部屋にはまだ微かに波瑠の匂いが残っている。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、紫苑はどさりとベッドに身を投げた。


思いを巡らせるのは、"特別"の意味。

波瑠が紫苑にとって特別な存在である事は、最早なんの疑いもない。ならば、その"特別"の正体は、一体何なのか。


特別な後輩?


特別な友達?


思い当たる候補を、外堀を埋めるように一つひとつ潰していく。


長い思索を経て、全ての中心に一つだけ残った物があった。


それは、心のどこかで気づいていながら、どうしても受け入れられずにいた、たった一つの答え。



「……好き」


ぽつりと、小さく、そして自然に、その言葉は紫苑の唇から漏れ出していた。


その言葉を口にした途端、気持ちを押しとどめていた心の壁は瞬く間に崩れ去り、溢れた感情が猛烈な勢いで心を満たしていく。


波瑠が隣にいる時に感じた、心の暖かさ。


波瑠が隣にいない時に感じた。不安や寂しさ。


もっと一緒にいたい。もっと波瑠を知りたい。


私だけの波瑠でいて欲しい。



そんな気持ちを端的に表現する言葉を、紫苑はただ一つだけ知っている。




これは、恋。





上の空で夕食を終え、入浴も済ませた紫苑は、自室のベッドにうずくまり、じっと考えていた。


電気は付けず、真っ暗な部屋。

開け放たれた窓からは夜風が吹き込み、月明かりを纏ったカーテンを揺らす。


いつかは、こんな自分でも恋をする時が来ると思っていた。そしてその相手は、当然異性だと思っていた。しかし、今ここに居るのは、同性の相手に思いを寄せる自分。


今になって思えば、波瑠と居る時の気持ちが、普通の友達に感じるそれとは全く異質なものである事には、とうの昔に気がついていた。しかし、それを恋と認めるのが怖かったのだ。全く経験のない紫苑とて、同性に本気で恋をした時にぶつかるいくつもの壁を想像出来ないほど無知ではない。


このままこの気持ちに身を任せて突き進んだとして、救われる道はあるのだろうか?

四方を霧に包まれ、一歩先の地面すら見えないような感覚に襲われる。じわりと嫌な汗が滲み、前髪が額に張り付いた。


「どうして、こうなっちゃったかな......」


ため息混じりに呟き、カーテンを開けて空を見上げる。


東から波瑠の背中を照らしていた月は南の空高くに上り、その明かりはひどく冷たかった。





翌日。

二限目と三限目の間、窓際の席に座った紫苑はぼうっと窓の外を眺めていた。

雲ひとつ無く晴れ渡った空。対照的に、心には分厚い雲が垂れこめている。


「紫苑」


呼びかけられて振り返ると、世理香が立っている。


「何?」


「今日の昼、購買の所でご飯食べない?」


「いいけど、なんで?」


「ちょっと話したい事がね」


「ふーん。了解。いつもの辺りでいい?」


「いいよ。じゃ、また後で」


そう言い残し、世理香はそそくさと去っていった。


昼休みになり、校内放送が賑やかな音楽を垂れ流す中、紫苑は弁当を片手に校舎の階段を下っていた。世理香が相談とは、何だろうか。思えばこれまで、彼女から改まって相談を受けたことなどない。


購買部は、校舎とは別の体育館の一階にある。購買部の前はホールになっていて、昼休みにはそこで弁当を食べることもできるのだ。紫苑の学校はやたらと自販機が充実していて、今日もプリンの自販機の前には新入生の人だかりが出来ている。プリンの自販機のある学校など滅多にないから、珍しいのだろう。

ホールの隅のテーブルに目をやると、既に世理香が陣取ってひらひらと手をふっていた。


「おまたせ」


「あぁ、いいよ。別に待ってないし」


もぐもぐと口を動かしながら返事をする世理香。確かに待ってはいない。完全にフライングだ。


「で、どうしたの。相談なんて」


自分の弁当を開きつつ尋ねる。

すると世理香は箸を動かす手を止め、食べていたものを飲み込むと、真剣な目をして言った。


「あんた、何があったの?」


「......は?」


全く予想外の展開に戸惑い、言葉が出ない。


「だから、あんたに最近何かあったのかって聞いてんのよ」


「ちょっと待って、私に話したいことがあるんじゃなかったの?」


「何のこと?私は、話したいことがあるとは言ったけど、自分の事を話したいなんて一言も言った覚えは無いけど。あんたの様子が変だったから、ちょっと連れ出したかっただけ」


悪びれた様子ひとつ見せず、ぺろりと舌を出す世理香。

また騙された。成績では学年ビリを争い、遅刻やサボりもお手の物の世理香だが、時折こんな風に策士な一面を見せる。


「気づいてたの?」


「当たり前。授業中の人間観察が趣味の私を舐めちゃいけない。で、何があったわけ?」


心の奥を見透かすような、鋭い目で迫る世理香。


「何って...そこまで言うなら、どうせ理由にも見当がついてるんでしょ?」


「まあ、大方予想はついてるし、それが当たってる自信もある。でも、あんたの口から直接聞きたいね。その方が面白そうだ」


目を輝かせて身を乗り出す。


「全く......」


これだから、世理香に隠し事はできない。

観念した紫苑は小さくため息をつくと、小声で言った。


「実はね、好きな人ができた」


「やっぱり」


世理香は納得したといった様子で頷く。そして二つめの問いを投げた。


「で、誰が好きなの?」


「それは...その...」


話の流れからして、当然の質問ではある。

しかし、本当の事を言うべきだろうか。


女である自分が、同じ女である波瑠を好きになる。どう考えても普通ではない。

世理香との付き合いは長く、彼女がそういった類の事に偏見を持った人間ではないとは分かっている。それでも、実際に口に出すには勇気が足りなかった。


「……」


口篭る紫苑を見て、世理香は呆れたようにため息をついて言う。


「あの娘でしょ。最近一緒に来てる、黒髪ロングで小柄な」


「えっ……何で知ってるの……?」


「さっき言ったでしょ?大体見当はついてるって」


「いや、まさかそこまでとは……」


「あんた達が一緒に登校してくるの、毎朝窓から見えてたんだよ。やたらと嬉しそうな顔しちゃってさ。あんたのあんな顔、あの子と一緒にいる時以外に見たことないね」


恥ずかしさに一気に顔が熱くなるのを感じた。

俯く紫苑をよそに、世理香は続ける。


「で、どうするの?」


「……どうするって?」


「決まってるでしょ。告るの?」


「……は?」


熱くなりかけていた頭が、一気に熱を失う。


「何?まさかこのまま何もせずズルズル行くつもり?」


「だって女同士だなんて……駄目だよ」


世間の常識から考えるならば、今の紫苑は普通ではない。普通ではないという事は、つまり良くない事。ならば当然、その気持ちは伝えるべきではない。なんの疑いもなく、そう思っていた。


「何が駄目な訳?」


世理香の放った言葉は、紫苑の中の固定観念を真正面から殴りつけた。


「……普通じゃないから」


すると世理香は、呆れたといった様子でかぶりを振って言った。


「普通……ねえ」


世理香は一瞬の逡巡あと、再び口を開いた。


「ねえ紫苑、普通の反対って、何だと思う?」


「普通の反対……異常……?」


「それが間違ってる」


世理香はきっぱりと言い切った。


「えっ……?」


「辞書引いてみればわかる。確かに、普通の反対に、異常って意味が無いわけじゃない。だけど、第一義は違う。普通の反対は"特別"。異常なんかじゃない


例えば、ある事についてAと考える人、Bと考える人、Cと考える人がいた。偶然Aと考える人が多かったから、Aが"普通"になった。でも、それだけでBやCの考え方がまるきり否定される訳じゃない。


BやCは偶然少数派になってしまったから、普通ではなくなってしまっただけ。だから、どれが優れてるとか、どれが劣ってるとか、そういう話じゃないのよ。AもBもCも、たとえZでも、同じように存在していいの。価値はどれも同じ。数が多いか少ないかの問題でしかない。


確かに、いまのあんたの気持ちは普通じゃない。でも、何一つ間違ってはいない」


世理香の瞳は、射抜くように真っ直ぐに紫苑を見つめる。


「そう……なのかな……?」


「もちろん、躊躇う気持ちも分かるよ。だから、どうしても告白しろとは言わない。でも、女を好きになるのは異常だからとか、そんな根拠の無いくだらない理屈で気持ちをしまい込むのは良くないと思う。それだけは分かっていてほしい。今まで誰にも恋をしてこなかったあんたが、初めて恋をしたんだから。折角の機会、このまま見て見ぬふりじゃ勿体無いでしょ?」


優しく諭すようで、それでいて力強い言葉。


暖かい掌で、背中を押されたような気がした。


「……うん。じゃあ、とりあえず今度テストが終わったら、遊びにでも誘ってみようかな?」



「それがいい。応援してるよ」


世理香は満足げに微笑んでいた。





テスト期間最終日。


あの日世理香に諭されてから、紫苑は一つの計画を胸の内で温めていた。計画とは言っても、その内容はただ波瑠と一緒に遊びに行くというだけの、ごく単純な物。

ガラガラの車内で、いつ切り出そうかと機会を伺っていると、不意に波瑠が口を開いた。


「今日で最後ですね...」


「そうだね。次のテスト期間まで、また寂しくなるなぁ。テスト期間が終わるのが悲しいなんて、初めてだよ」


「私もです」


そう言って窓の外へと目をやる波瑠。

車窓に寂しげな表情が反射する。



「ねえ、波瑠ちゃん」


勇気を振り絞り、一言目を切り出す。


「どうしました?」


波瑠は窓から視線を戻して、紫苑の目を見た。


「今週の日曜日、空いてる?」


「今週末ですか?空いてますけど...」


「テストも終わるし、一緒にどこか遊びに行かない?」


「えっ?いいんですか?行きたい、行きたいです!!」


寂しげだった表情が一気に華やかになり、紫苑にぶつかりそうな程に身を乗り出す波瑠。


珍しく食い気味の波瑠に驚きつつも、期待以上の反応に胸を撫で下ろす。


「良かった。この前家に来た時は勉強会だったから、ゆっくり話してみたかったんだ」


「私もです。楽しみだなぁ」


そう語る波瑠の横顔は、心なしか色づいて見えた。





どうにか無事に全てのテストを乗り切り、いよいよ約束の日曜日になった。


普段より1時間近く早く目を覚ました紫苑は、出かける準備に取り掛かる。


顔を洗い、いつも以上に念入りに髪を梳く。

前日に選んであった服に袖を通して時計を見ると、まだ約束の時間までは1時間近くあった。居てもたってもいられなくなった紫苑は、家を出ると、待ち合わせ場所の駅とは反対向きに歩き始めた。


すっきりと晴れた空に、暑すぎず寒くもない丁度良い気温。出かけるにはぴったりの気候だ。しばらく歩くと、広い公園に突き当たる。あまり歩き回って疲れても困るので、自販機で小さな缶の紅茶を買って、ベンチに腰を下ろした。最近設置された真新しい遊具の周りでは、子供たちが元気よく駆け回っている。


思えば、初めて波瑠と出会ってから、まだ2ヶ月も経っていない。ここまでの過程は、驚くほどにあっけなく、一瞬の出来事だった。

今までは、何かにつけてに恋の話をしたがる友人達を不思議に思う事も多かった。しかし、いざ自分がその立場に立ってみると、その気持ちも良く理解できる。実際、波瑠への恋心を自覚した今の紫苑は、瞼の裏にはいつも波瑠の姿が張り付いたままで、勉強も部活もまともに出来たものではない。


果たして波瑠は、こんな自分を受け入れてくれるのだろうか?


もし拒まれてしまったら?


考えれば考えるほど、この恋路に立ちはだかる壁は厚く高く思える。


思考がマイナスの方向に傾きかけた時、賑やかな携帯のアラームが鳴り響いた。


約束の時間三十分前。今から行けば、丁度十分前くらいに待ち合わせ場所に付ける。


紫苑は立ち上がり、空になった缶を側にあったゴミ箱に投げ込むと、再び歩き出した。



これ以上あれこれ考えても意味が無い。後はなるようになるだけだ。


そう自分に言い聞かせながら、駅へと続く道を無心に歩く。駅へ向かう最後の角を曲がると、駅の前で手を振る波瑠の姿が見え、慌てて駆け寄る。



「ごめんごめん!待たせちゃった?」


「大丈夫ですよ。私も今来た所です」


波瑠の私服を見るのは、店で会った時以来だ。

前は黒のワンピースだったが、今日はチュニックだ。色は同じく黒。いつもは下ろしている髪は、青いリボンでポニーテールにしている。


「よかった。じゃあ行こうか」


学校に行く時と同じように改札を抜ける。ホームには春の日差しが温かに降り注いでいた。


「天気良くて良かったです」


波瑠が眩しそうに空を見上げながら言う。


「そうだね。予報では曇りだったけど、晴れてよかったよ」


しばらく待つと、遮断機の音が鳴り響き、電車がホームに滑り込んできた。

休日だからか、同じ車内には紫苑達の他に、2組の家族連れしかいない。二人は、がら空きの席の真ん中に座った。

規則的なジョイント音が響く中、紫苑はふと思い立って言った。



「そうだ。連絡先、教えてくれる?」


「そういえば交換してませんでしたね」


そう言って波瑠は、鞄からスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。表示されたQRコードを紫苑が読み取ると、波瑠のアカウントが表示された。


「ん?この鳥、なんだっけ……?」


表示された波瑠のホーム画面。そのアイコンは、青とオレンジの鮮やかな色をした鳥の写真だった。


「カワセミですよ」


「そうそう。それ」


前にテレビで見たことがある。綺麗な川に住んでいる鳥だ。


「実は、この辺りの川にもいるんですよ」


「そうなんだ。この辺りの川は案外綺麗だもんね」


「また見に行けるといいですね」


波瑠は嬉しそうに笑った。


電車に揺られること三十分ほど。

目的地の駅に着いた二人が改札を出ると、直結したデパートは沢山の人で賑わっていた。


「わぁ、すごい人...」


波瑠が驚いた様子で呟く。


「あちゃー。セールと被っちゃったみたいだね。全然気にしてなかったよ」


壁にはセールの広告ポスターが大きく貼られている。同時に何かの催しも行われているのか、行列の最後尾を示す札を持った人が忙しく動き回っているのも見えた。


「うーん……これじゃあゆっくり見れないな……」


他の友達とセールを戦いに来たのなら気にする事はないが、今日は波瑠ゆっくり過ごしたかったのだ。あまりにも混みあっているのは都合が悪い。


紫苑が困り顔で思案していると、波瑠がおずおずと口を開いた。


「あの……先輩」


「ん?どこか行きたい所ある?」


「これだとゆっくり見て回るのは無理そうだし、服見に行きませんか?私のいつも行ってるお店が、ちょっと歩いた所にあるんですけど……」


「お、いいね。私もそんな可愛い服、どこで売ってるのか気になってたんだ。私に似合うかは別として……」


紫苑は波瑠の服をまじまじと見ながら言う。


「大丈夫。きっと先輩に似合うのもありますよ。さ、行きましょう」


波瑠はそう言って笑うと、店の出口に向かってずんずんと歩き始めた。


店から通りに出て、隣に並んで歩く。横目にそっと波瑠の様子を伺うが、特に変わった様子はない信号で立ち止まりふと隣を見ると、店のショーウインドーに、自分達の姿が映っていた。じっとその像を眺めていたその時。

ふわり、と、波瑠が紫苑の左手に抱きついた。

ぎょっとして波瑠の方を見ると、波瑠は可笑しそうに笑い、紫苑が今しがた眺めていたショーウインドーを指さして言った。


「こうすると、デートしてるカップルみたいに見えませんか?」


ショーウインドーに映る二人の姿。女性にしては背の高い紫苑と、小柄な波瑠。服装も対照的。波瑠が腕に抱きついている絵面は、確かに仲のいいカップルが寄り添っているようにも見える。


「そっ、そうだね……」


布一枚を隔てて密着した人肌の感覚にどぎまぎしながら、上擦った声で返す。


すると信号が変わり、人の波が動き出した。


「あ、信号変わりましたよ」


掴んでいた紫苑の腕をすっと解いて歩き出す波瑠。我に返った紫苑は慌てて後に続く。


分からなかった。

波瑠は一体何を考えているのだろうか。

女子同士ならあれくらいのスキンシップは珍しい事では無いが、波瑠からそれをされたのはこれが初めてだ。学校では控えているだけで、本来はあれが素なのか。或いは、何か意図があっての事なのか。何か意図があったとして、それは何なのか。どんなに考えても思考は乱れる一方だった。




「ここです」


「こんな所にこんなお店があったなんてね」


波瑠の行きつけの服屋は、駅から15分ほど歩いた所にあった。外見は少しお洒落な普通の一軒家のように見えるが、よく見ると玄関に看板がかかっている。


「母の知り合いがやってるお店なんですよ」


凝った造りのドアを開けると、家を改装したと思しき店内には、色も形も様々な服が所狭しと並んでいた。


「あら、波瑠ちゃん。いらっしゃい。今日はお友達もいるの?」


店の奥から出てきたのは、すらりとした細身の女性だった。歳は40代後半くらいに見える。


「こんにちは。世良さん。そうなんです、今日は学校の先輩と一緒で……」


世良さん、と呼ばれたその女性は紫苑に向かって微笑みかける。


「綺麗な方ね。これはお手伝いのし甲斐があるわ。何かあったらいつでも声をかけてね」


そう言い残すと、再び奥へと入っていった。


「波瑠ちゃんは、黒が好きなの?」


色々な服を手に取りながら、さり気なく波瑠に話しかける。


「そうですね。昔から母の趣味で黒の服が多くて、いつの間にか自分でも黒を選ぶようになってました」



「なるほどねえ。私は特にこだわりがないからなぁ。どんなのが似合うと思う?」


紫苑自身は、服にまるで気を使っていない訳ではないが、それほど熱心に選んだこともない。


「うーーん……難しいな……」


波瑠と2人で頭を悩ませていると、世良さんの声が聞こえた。


「これなんかどう?」


世良さんは店の奥から、1着の服を片手に現れた。


「あ、可愛い」


世良さんが持っていたのは、白に淡い青色の花柄が入った、丈の長いワンピース。

紫苑が普段着るタイプの服とは全く違った雰囲気だが、その模様がとても好みだった。


「一度着てみるといいわ」


服を手渡され、試着室に案内される。

袖を通してみると、その服はぴったりと体に馴染んだ。鏡に映った自分が、自分ではないように見える。


「どう...かな?」


着慣れない感覚に少し気恥ずかしさを感じつつ、おそるおそるカーテンを開ける。


「おー!いい感じ!」


ぱちぱちと手を叩いて目を輝かせる波瑠。


「似合ってるじゃない。貴女は背も高いし、割と骨格がしっかりしてるから、これくらいの丈が似合うのよ」


世良さんは満足げに頷いた。


「決めた。これにします」


「どうする?折角だしこのまま着ていったら?」


世良さんはポケットからハサミを取り出しながら尋ねる。


「じゃあそうします」




着ていた服を袋に入れてもらい、会計を済ませる。どんな値段になるかと身構えていたが、その値段は拍子抜けするほどに安かった。


「ありがとうございました。おかげでいい服が選べました」


「気に入って貰えてよかったわ。またいつでも来てね。それと...」


世良さんは、何やらレジの下の棚を漁っている。


「これ、持って行って」


手渡されたのは、小さな紙袋だった。


「いいんですか?」


「プレゼントよ」


「ありがとうございます」


そして、世良さんはちらりと辺りを見回し、波瑠が店の反対側にいる事を確認すると、紫苑にそっと耳打ちした。


「デート、楽しんでね」


「……っ!」


瞬く間に顔に血が上るのを感じる。

世良さんは、少女のように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。




小さな包みを鞄にしまって店を出ると、時間は既に12時を回っている。


「もうこんな時間だ。どこかでご飯食べようか」


「そうですね。どこにします?」


「うーん。駅の方にいくとどこも混んでるだろうから、この辺りで探そうか」


紫苑はそう言って、元きた方向とは逆方向に歩き出した。


しばらく歩いた時、風に乗って香ばしい香りが流れてくるのを感じた。その匂いのする方を見ると、小さなパン屋があった。食べるスペースも少しあるようで、店の中と、外のウッドデッキになった所に、椅子と机がいくつか並んでいた。波瑠と顔を見合わせる。


「ここにしない?」


「賛成です」


沢山の種類のパンの中から、紫苑は"焼きたて"の札がついていた2つを選び取った。会計と同時にアイスティーを注文し、ウッドデッキのスペースの1つに座る。


「ふう。やっとお昼が食べれるね」


「はい。私もお腹ぺこぺこです」


そう言ってお腹をさすってみせる波瑠。


そうしているうちにアイスティーが運ばれてきた。


「「いただきます」」


焼きたてと書かれていただけあって、パンを手に取るとまだほんのりと暖かい。

他愛ない会話を交えながらあっという間にひとつ目を食べ終え、ふたつ目のパンに手を伸ばしかけた時、不意に視線を感じた。顔を上げると、一瞬波瑠と目が合う。しかし波瑠はすぐに目をそらしてしまった。


波瑠の気持ちを何となく察した紫苑は、自分の食べようとしていたパンを波瑠の前に差し出した。


「……食べる?」


「へへ、バレちゃいました?じゃあちょっとだけ……」


波瑠は、差し出されたパンを少し千切ると、口に入れた。

嬉しそうにパンを頬張る波瑠を見ながら、ちらと考える。もし自分たちが恋人同士だったなら、こんな時、お互いに食べさせあったりするのだろうか。やってみたいのは山々だが、波瑠がどの程度紫苑に心を許しているかも分からない今、そんな事をする勇気は無かった。



一通り食べ終えて、アイスティーで一息ついていた時、紫苑はふと、さっき服屋で貰った包みのことを思い出した。


「そう言えば、さっき世良さんに渡されたやつ、何が入ってるのかな」


「何か貰ったんですか?」


波瑠が不思議そうに首を傾げる。


「うん。お会計のときにね」


紫苑は鞄から先程貰った小さな紙袋を取り出して覗く。


「ん?ブレスレット……?」


袋の中から出てきたのは、細いチェーンでできたブレスレットだった。それを見た波瑠が声を上げる。


「あ!それって……」


そう言うなり、波瑠は自分の左手を紫苑の前に突き出す。その手首には、全く同じブレスレットが光っていた。




パン屋を出て、駅へ向かってしばらく歩いた時、波瑠が不意に立ち止まった。


「どうしたの?」


立ち止まって振り返る。


「あの......あそこに行ってみたいんですけど......」


波瑠が指さした先にあるのは、大きなゲームセンターだった。


「波瑠ちゃん、行ったことないの?」


「何か面白い場所なのは知ってるんですけど、一人じゃなかなか入りづらくて……」


確かにあの雰囲気の場所に、いきなり一人で入るのは気が引けるかもしれない。


「あらー。それは勿体無いね。じゃあ今日は波瑠ちゃんに、面白い遊びを沢山教えてあげよう」


紫苑はにっと笑うと、波瑠を連れて自動ドアをくぐった。

さまざまなゲーム機の出す音が騒がしく響く中、UFOキャッチャーのコーナーを目指して歩く。やはり、ゲームセンターといえばまずはこれだろう。めぼしい景品を探して回っていると、波瑠が突然声をあげて、一台の筐体に駆け寄った。


「これかわいい!」


波瑠が目を輝かせて見つめているのは、アザラシのぬいぐるみ。しかしよく見ると、体はアザラシだが、顔は所謂キモカワ系だった。波瑠のセンスに一抹の不安を覚えつつ尋ねる。


「これにする?」


「はい!」


財布から百円玉を取り出して投入し、真剣な表情でボタンを押す波瑠。しかし、アームは景品にかすりもしない。


「ぬうう!悔しい!」


手をぶんぶんと振って悔しがる姿が可愛らしい。

ひとしきり悔しがった波瑠は、おもむろに両替機に行き千円札を崩すと、今度は大胆にも五百円を一気に投入した。一度に五百円入れると、1回余分にプレイできるのだ。


二回、三回と繰り返すうち、次第にいい線に行くようにはなってきた。しかし、あと一歩の所で、アームから滑り落ちてしまう。そして、最後の六回目。

慎重にボタンを押す波瑠を見守る。

すると、弱々しいアームは、六回目にしてついにそのぬいぐるみをとらえた。

しかしまだ油断はできない。取り出し口までに落ちてしまえば終わりだ。


二人が息を呑んで見守る中、無事にアームは取り出し口の上まで移動し、ぽとりとぬいぐるみを落とした。


「やったー!」


二人で歓声を上げ、ハイタッチを交わす。

取り出してみると、それはもっちりとした触感で触り心地が良かった。


その後も、太鼓のゲームをしたり、プリクラを撮ったりと色々なゲームを堪能し、ゲームセンターを出る頃にはかなり時間が経っていた。


「随分遊んじゃったね」


「そうですね。でも楽しかったです。初めての経験がいっぱいでした」


大きな袋入ったいくつもの景品を抱えた波瑠は、満足げに笑いながら言った。


「良かった。また一緒に来ようね」




最寄り駅に着くと、時間は四時。母に伝えてある帰宅の時間まではまだ少し時間があった。

このままだとここで別れることになってまうと、どうにか引き伸ばす術を考えていると、波瑠が切り出した。


「先輩。ちょっとお散歩しませんか?」


「いいね。暗くなるまでにはまだ時間があるし。で、どこへ?」


「今朝言ってたカワセミ、見に行きませんか?……って言っても、ちゃんと会えるかはわかりませんけど……」


「楽しそうじゃん。行ってみよう」


紫苑がそう返すと、波瑠は嬉しそうに笑って歩き出した。


最寄りの駅から歩くこと十五分ほど。二人は、優しいせせらぎの音が聞こえる川辺にいた。この辺りは丁度街と田舎の境目なので、少し歩けば多くの店があり、反対側に向かって歩けば綺麗な川にも行くことが出来る。

川の両岸に無数に植わった桜の木々は青々とした葉を茂らせ、透き通った流れには小魚が跳ねていた。


「あと少し早かったら、桜が見れたのにね」


すっかり葉桜になった桜の枝を眺めながら言う。


「この辺りは綺麗ですよねぇ。こんなにも沢山植わってるのにそんなに有名じゃないから、混むこともないし」


そうして歩くうち、一本の橋のそばに差し掛かった。


「確かあのあたりに……」


額に手を添えて日差しを遮りながら、土手の一角に目を凝らす波瑠。


「あ!あった!」


「え?どこ?」


「ほら。あの木の根元。穴が空いてるの、見えませんか?」


指さして伝える波瑠。


「あ!分かった」


土手の中腹に、横向きに掘られた穴があった。


「あれが巣なんですけど......お留守みたいですね」


がっかりした様子で肩を落とす波瑠。


「大丈夫だよ。少し待ってみよう。戻ってくるかもしれないし」


紫苑は、巣がよく見渡せるように橋の真ん中まで行き、橋の欄干に寄りかかる。波瑠も隣で同じようにしていた。


川の静かな水音と、時折木の葉を揺らす風の音の中、無言で待つこと数分。


唐突に、波瑠が口を開いた。


「あの......先輩」


「ん?どうかした?」


「カワセミって、英語でなんて言うか知ってますか?」


「英語で......?分かんないなぁ」


英語は苦手ではないが、流石にそんなマイナーな単語は覚えていない。


「カワセミは、普通"kingfisher"って言われるんですけど、別名があって」


「別名?」


「はい。それが、"halcyon"」


「ハルシオン……?」


ハルシオン。その単語を2つに区切ると、"ハル"と"シオン"、つまり、"波瑠"と"紫苑"になる。小学生のような単純な発想だが、どこか嬉しい気持ちになる。


「気づきました?なんか、なんだか私達みたいですよね。後で気になって調べてみたら、"halcyon"には、形容詞的に"穏やかな"って意味もあって」


ざぁ、と音がして、風が吹き抜ける。波瑠の髪が風に舞い、やさしい香りが鼻をくすぐる。

波瑠は一瞬間を置いてから言った。


「それで、思うんです。今日みたいな、先輩と二人きりで過ごす穏やかな時間が、いつまでもずっと続けばいいのになって……


いきなり変な事言ってごめんなさい。でも、ただの偶然だとしても、何だか嬉しくって」


眼下を流れる川面を見つめながら、苦笑いを浮かべる波瑠。



その言葉に言外に込められた意味を理解した時、紫苑は、目の前にあると思っていた壁が、霞のように散っていくのを感じた。


壁だと信じ込んでいた物は、思い込みが作り出した虚像。


初めから、壁などどこにも無かったのだ。



紫苑は覚悟を決め、大きく息を吸い込む。


そして、固い決意を込めて、その言葉を口にした。


「続くよ。いつまでも」


「えっ?」


波瑠の目が驚きに見開かれる。


「続くよ。いつまでも。絶対に終わったりなんかしない。私が終わらせない」


紫苑は波瑠に体を寄せると、欄干に添えられた波瑠の左手に、自分の右手をそっと重ねた。

それぞれの手首に輝くブレスレットが重なって、より一層の輝きを放つ。



「私ね、好きな人がいるんだ」



青とオレンジ。鮮烈なコントラストを纏った小さな鳥が、二人の側を駆け抜けていった。



〈了〉

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halcyon days ばこん @bakon

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