第2話〜アールグレイ〜
起きると、ちょうど始発の時間が迫っていた。カーテンの隙間から朝焼けが差し込んでいる。淳は夜からの仕事だったか。七奈も大丈夫だろう。そっとベッドから抜け出して二人の頬にキスをする。七奈の方は穏やかに寝息を立てていて、淳はうっすらと目を開けてまた寝入ったようだった。財布と携帯と服を拾って身に着ける。中の空気は部屋いっぱいに満ちてどろどろに熱い。外は冷徹で、肺に残るどろどろを容赦なく追い出す。
まだ人がまばらの地下鉄に乗って二駅、歩いて三分のところに僕と淳のマンションがある。2LDKの角部屋は居心地がいい。二人で住むには申し分のない広さで、景色もいい。立地もいい。家主は淳だが家賃は折半にしてもらった。
時計をみて出勤までに余裕があることを確認して服を脱いだ。大きな鏡のある洗面台の前に立つと、首から胸のあたりに掛けていくつか、赤紫色をした虫刺されのような痕がくっきりと浮かび上がっていた。鎖骨近くに一つ大きいのがあって、周りに散らばるようについている。
「…………」
やられた。ひょっとしたら見えないだけで、首の後ろにもついているかもしれない。七奈は絶対に淳にはつけない。執拗に、僕だけにつけていく。
「……まあ、いいか」
熱いシャワーですっきりすると気分が切り替わる感じがする。見えそうな位置の痕も薄くなってるといいんだけど。身支度を整えてもう一度鏡と向き合う。いろんな向きから自分を確認して、とくに首周りをよく見て、これでいいかと妥協してマンションを後にした。
今度会ったら何度目なんだと注意をしてやらないと。
いつものように出勤して、いつものようにデスクで仕事をこなす。いつものように姦しく、いつものように時間が過ぎる。穏やかな忙しなさに包まれた雰囲気にほうと息をついた。
「高倉さん。コーヒー、要ります?」
後ろから声を掛けられて、僕は思わず首に手を掛けそうになる。振り返ると広報課の瀬戸さんが両手にコーヒーを持って、脇に書類のファイルを挟んで立っていた。おしゃれなシャツを、会社の制服に合わせて着ている。
人よりも華やかに見せるのが広報の仕事なの、と聞いたことがある。確かどこかの飲み会で聞いたから、酔って出た発言かもしれない。きっちりメイクを施して、ボタンを二つ開けたシャツに隙を開けて、きつすぎない香水の匂いにも余念がない。
「あ、ああ。瀬戸さん」
「コーヒーどうぞ。入り口にお客さんが来てますよ。なんでも、連絡しても返事が来ないから来た、って」
「僕に?」
誰だろう。マナーにしてかばんに突っ込んである携帯を取り出すと、不在着信が十七件も来ていた。相手は全部七奈。
「あー、うん。分かった、ありがとう」
パソコンをスリープ状態にして席を立つ。
「コーヒーは?」
きれいな色に染めた頬を膨らませて瀬戸さんは声を上げた。コーヒーはまだ熱そうな湯気が立っている。
「後でもらうよ。せっかく淹れてくれたのに、ごめんね」
玄関まで行くと七奈が立っていた。手持無沙汰に玄関わきの花瓶に生けられた花を見ている。立派に咲いたあじさいがみずみずしい青紫色で、上司たちには受けがいい。七奈は昨日と違って濃いグレーのスーツを着ていた。髪の毛もおとなしく後ろに流しているだけ。
「七奈」
呼ばれて振り返る七奈は昨日とは打って変わって、なんともこぎれいに仕上げていた。雰囲気だけ見れば就活生みたいな、そんな雰囲気。ご丁寧にかばんもビジネスバッグだった。
「ごめんね、気付かなくて」
「いいの。こっちこそ」
「お昼おごるよ。何か食べたいものはある?」
七奈は華やいだ笑顔を見せる。昨日のあれと一緒だ。見えないしっぽが揺れている。
「このあたりにできた新しいパンケーキが食べたくって。でも、ね?」
ああ、と僕は答える。淳は甘いのが苦手なのだ。
「いいよ。どこにあるの?」
「こっちよ」
連れられるままに行くと、店の中はすでに大学生やOLたちが数えるほど。付き添いらしい男も何人かいる。
何名様ですか? ふたりです。禁煙と喫煙どちらになさいますか? 禁煙で。かしこまりました、奥の席にどうぞ。
「七奈は何が食べたいの?」
ネクタイを緩めながら席に着くと、七奈はさっそくメニューを手に取って眺めだす。右から左へ、左から右へ。忙しなく視線が泳いでなんとも楽しそう。
「…………」
頬杖をついてその様子をじっと見つめる。辺りは賑やかにナイフとフォークが皿を切る。言葉が飛び交って場の高揚に合わせて早口になる。会話が通じなくなってもお構いなし。意味不明の羅列になって、ごうごうと洪水の音になる。動き回る店員は川魚。時折出入りする客は流れる葉。申し訳程度に掛けられているBGM。テンポがにわかに早くなって、心臓の鼓動がリンクする。
おいて行かれたお冷の氷がカランと音を立てた。
「あっ、ごめんね伊月。メニューどうぞ」
くるっとこちらに向けられる角が少しよれたメニュー表。カラフルでパステルなパンケーキがいっぱいで、生クリームもいっぱいで。
「いいよ。ゆっくり選びな」
「私は二つに絞ったの。キャラメルのにしようか、こっちのイチゴのやつにしようか。飲み物は、アイスティーがいいかな、って」
「じゃあ、僕はいちごのにしようかな。飲み物も同じで」
「もっとゆっくり見てもいいんだよ?」
「ううん。七奈に半分あげる」
手を上げて店員を呼ぶと、可愛い制服を着た子が飛んでくる。
「ご注文は?」
「これとこれ。飲み物はアイスティー二つ。それから、取り分ける皿があるとうれしいな」
「かしこまりました。焼くのにお時間戴きますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「はい。少々お待ちください」
すたすたと去って行くのを見送って、角の溶けた氷の浮かぶ水に口をつける。正面に座る七奈に視線をやると、彼女は「ずるいわ」と言った。
「ずるい? 僕が?」
「ええそうよ。伊月はいつもずるいわ」
さっきまでとは正反対、ぶすっとして店の内装を睨み始める。
「まるでバスのボタンでも押すみたいに、簡単にそういうことするんだから」
「注文したかったの? ごめん」
「違うったら」
七奈は運ばれてきたアイスティーに二人分のミルクとガムシロップを全部ぶち込んでかき混ぜた。ガシャガシャと音を立てて透明なあかちゃ色が濁ったクリーム色に変化する。中の氷が見えなくなって、僕はそれを静かに眺めることしかできなかった。
ひと口飲んで、七奈は嫌そうに顔をしかめた。
「あったかいのにしたらよかった」
脱いだジャケットを羽織りなおして、口を貝みたいに固く閉じてしまう。
「このお店、なんだか寒いんだもの」
なんとも陰鬱な表情を浮かべて、じっとアイスティーを睨み続ける。ひと口ほど減った彼女のと、まだ一口も飲んでいない僕の分。濁っているのと透明なのと。
「七奈」
声をかけると同時に、甘そうな紅茶と甘くない紅茶の前に「わたしはとっても甘いですよ!」と主張するパンケーキがおかれた。たっぷりのキャラメルを纏った生クリームにアイスが添えられたのと、キャラメルの代わりにイチゴが石ころみたいにごろごろと飾られたのと。
「ごゆっくりどうぞ」
店員は伝票を置いて去って行く。なに、と視線で彼女は語る。
「そんなに甘い紅茶だと、パンケーキも甘くないかもよ?」
「……じゃあ、伊月の紅茶を貰うわ」
どうぞ、とグラスを差し出すと、濁った紅茶がこっちにやってくる。
「アイスは僕が貰うね」
「ええ、どうぞ」
ちょっと溶けたアイスを取り皿に移して口に運ぶと、思った通り美味しかった。パンケーキはふわふわの焼きたてで、載ってる生クリームがちょっとずつ溶け始めている。
「ひと口」
「ん?」
「アイス、一口ちょうだい」
「あーん」
「あーん」
ぱくん、と差し出したアイスは一瞬で七奈の中に溶けていった。顔を見たらわかる。
「美味しい」
「ね」
数分で皿はきれいに空になった。ちょっと分厚めの安っぽい皿に、少しの生クリームが残っているだけ。
「ごちそうさま」
七奈はそういって、伝票を抜き取ってレジに向かう。忘れ物がないかだけ確認して、そのあとを追いかける。レジスターに表示された金額を盗み見て、少し離れたところで携帯をいじる。時間は昼休憩が終わるくらい。連絡は来てない。午後の天気は曇りのち晴れ。今夜は満月。
「お待たせ、伊月。もうお昼の時間終わりでしょ?」
「うん。七奈、今度映画行こうよ。三人で」
「私が選んでもいい?」
「もちろん。映画館でも、レンタルでも」
「わかったわ」
またね、と店を出て七奈は颯爽と去って行った。
夜更けのネイビー レクス @_rose_sakura_
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